夜の質感(その5)
光は自分が何よりも速いと思っているが、それは違う。
光がどんなに速く進んでも、その向う先にはいつも暗闇がすでに到着して待ち構えているのだ。
テリー・プラチェットのことばだ。
マーラーの音楽には、このことを実感させるところがある。
闇が待ち構えている──、そんな感じを受けることがある。
光は自分が何よりも速いと思っているが、それは違う。
光がどんなに速く進んでも、その向う先にはいつも暗闇がすでに到着して待ち構えているのだ。
テリー・プラチェットのことばだ。
マーラーの音楽には、このことを実感させるところがある。
闇が待ち構えている──、そんな感じを受けることがある。
ステレオサウンド 47号、
58号の三年前に出た、この号には五味先生のオーディオ巡礼が再開されていた。
その冒頭に書かれている。
*
言う迄もなく、ダイレクト録音では、「戴冠式」のような場合、コーラスとオーケストラを別個に録音し、あとでミクシングするといった手はつかえない。それだけ、音響上のハーモニィにとどまらず、出演者一同の熱気といったものも、自ずと溶けこんだ音場空間がつくり出される。ボイデン氏の狙いもここにあるわけで、私が再生音で聴きたいと望むのも亦そういうハーモニィだった。どれほど細部は鮮明にきき分けられようと、マルチ・トラック録音には残響に人工性が感じられるし、音の位相(とりわけ倍音)が不自然だ。不自然な倍音からハーモニィの美が生まれるとは私にはおもえない。4ウェイスピーカーや、マルチ・アンプシステムを頑に却け2ウェイ・スピーカーに私の固執する理由も、申すならボイデン氏のマルチ・トラック毛嫌いと心情は似ていようか。もちろん、最新録音盤には4ウェイやマルチ・アンプ方式が、よりすぐれた再生音を聴かせることはわかりきっている。だがその場合にも、こんどは音像の定位が2ウェイほどハッキリしないという憾みを生じる。高・中・低域の分離がよくてトーン・クォリティもすぐれているのだが、例えばオペラを鳴らした場合、ステージの臨場感が2ウェイ大型エンクロージァで聴くほど、あざやかに浮きあがってこない。家庭でレコードを鑑賞する利点の最たるものは、寝ころがってバイロイト祝祭劇場やミラノ・スカラ座の棧敷に臨んだ心地を味わえる、という点にあるというのが私の持論だから、ぼう漠とした空間から正体のない(つまり舞台に立った歌手の実在感のない)美声が単に聴こえる装置など少しもいいとは思わないし、ステージ——その広がりの感じられぬ声や楽器の響きは、いかに音質的にすぐれていようと電気が作り出した化け物だと頑に私は思いこんでいる人間である。これは私の聴き方だから、他人さまに自説を強いる気は毛頭ないが、マルチ・アンプ・システムをたとえば他家で聴かせてもらって、実際にいいと思ったためしは一度もないのだから、まあ当分は自分流な鳴らせ方で満足するほかはあるまいと思っている。
*
もっともこのオーディオ巡礼では、奈良の南口氏を訪問されている。
このときの南口氏のスピーカーはタンノイのオートグラフ、それにJBLの4350である。
4350はバイアンプ駆動が前提のスピーカーシステム。
しかも4ウェイの大型システムで、ダブルウーファー仕様ということもあり、ユニットの数は五つ。
五味先生にとって、4350は、まさしく「頑に却け」るスピーカーということになる。
南口氏の音がどうであったのかは、くわしくは「オーディオ巡礼」を読んでもらうしかないのだが、
最終的にどうだったのか。
*
信じ難い程のそれはスケールの大きな、しかもディテールでどんな弱音ももやつかせぬ、澄みとおって音色に重厚さのある凄い迫力のソノリティに一変していた。私は感嘆し降参した。
ずいぶんこれまで、いろいろオーディオ愛好家の音を聴いてきたが、心底、参ったと思ったことはない。どこのオートグラフも拙宅のように鳴ったためしはない。併しテクニクスA1とスレッショールド800で鳴らされたJBL4350のフルメンバーのオケの迫力、気味わるい程な大音量を秘めたピアニシモはついに我が家で聞くことのかなわぬスリリングな迫真力を有っていた。ショルティ盤でマーラーの〝復活〟、アンセルメがスイスロマンドを振ったサンサーンスの第三番をつづけて聴いたが、とりわけ後者の、低音をブーストせず朗々とひびくオルガンペダルの重低音には、もう脱帽するほかはなかった。こんなオルガンはコンクリート・ホーンの高城重躬邸でも耳にしたことがない。
*
マルチアンプシステムの可能性の凄さ、とその大変な難しさを、
この五味先生の文章から感じとっていた。
HIGH-TECHNIC SERIES-1「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」から四年後、
ステレオサウンド 58号が出た。
新製品の紹介ページに、瀬川先生による4345が出ている。
そこにはこうある。
*
ひととおりの試聴ののち、次にバイアンプ・ドライヴにトライしてみた。ステイシス2を低域用、ML2L×2を中域以上。また、低域用としてML3Lにも代えてみた。エレクトロニック・クロスオーヴァーは、JBLの♯5234(♯4345用のカードを組み込んだもの)が用意された。ちなみに、昨年のサンプルでは、低音用と中〜高音用とのクロスオーヴァー周波数は、LCで320Hz、バイアンプときは275Hz/18dBoctとなっていたが、今回はそれが290Hzに変更されている。ただし、これはまあ誤差の範囲みたいなもので、一般のエレクトロニック・クロスオーヴァーを流用する際には、300Hz/18dBoctで全く差し支えないと思う。そこで、念のため、マーク・レヴィンソンのLNC2L(300Hz)と、シンメトリーのACS1も併せて用意した。
必ずしも十分の時間があったとはいえないが、それにしても、今回の試聴の時間内では、バイアンプ・ドライヴで内蔵ネットワーク以上音質に調整することが、残念ながらできなかった。第一に、ネットワークのレベルコントロールの最適ポジションを探すのが、とても難しい。その理由は、第一に、最近の内蔵LCネットワークは、レベルセッティングを、1dB以内の精度で合わせ込んであるのだから、一般のエレクトロニック・クロスオーヴァーに組み込まれたレベルコントロールでは、なかなかその精度まで追い込みにくいこと。また第二に、JBLのLCネットワークの設計技術は、L150あたりを境に、格段に向上したと思われ、システム全体として総合的な特性のコントロール、ことに位相特性の補整技術の見事さは、こんにちの世界のスピーカー設計の水準の中でもきめて高いレヴェルにあるといえ、おそらくその技術が♯4345にも活用されているはずで、ここまでよくコントロールされているLCネットワークに対して、バイアンプでその性能を越えるには、もっと高度の調整が必要になるのではないかと考えられる。
ともかくバイアンプによる試聴では、かえって、音像が大きくなりがちで、低音がかぶった感じになりやすく、LCのほうが音がすっきりして、永く聴き込みたくさせる。
ほんとうに良いスピーカー、あるいは十分に調整を追い込んだバイアンプでの状態での音質は、決して、大柄な迫力をひけらかすのでなく、むしろ、ひっそりと静けさを感じさせながら、その中に、たしかな手ごたえで豊かな音が息づいている、といった感じになるもで、今回の短時間の試聴の枠の中では、本来のLCネットワークのままの状態のほうが、はるかにそうした感じが得られやすかった。
*
私は、この瀬川先生の文章を読んだ時、
まだマルチアンプシステムの音をきちんと聴いたことはなかった。
オーディオ店で店頭で4350が鳴っているのは聴いたことはあっても、
それは決していい状態でなっているとはいえず、マルチアンプの可能性を感じとることはまったくできなかった。
とにかく「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」でも、
マルチアンプシステムの可能性は大きいけれど、
「相当にクレイジイな」マニアのためのものと書かれているし、
4345の試聴記でも、優れたLCネットワークをもつスピーカーシステムの場合、
そうたやすくバイアンプ(マルチアンプ)にしたからといって、トータルの音がよくなるとはいえない、
そのことがはっきりと伝わってくる。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIES-1「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」で、
瀬川先生はあえて次のようなことを書かれている。
*
ただお断りしておくが、何が何でもマルチアンプ化することをわたくしはおすすめしない。少なくとも、ふつうのLCネットワークによるシステムに音質の上ではっきりした不満または限界を感じるほどの高度な要求をするマニア、そして、後述のようなたいへんな手間とそのための時間や費用を惜しまないようなマニア、そしてまた、長期的な見通しに立って自分の再生装置の周到なグレイドアップの計画を立てているようなマニア……そう、この「マニア」ということばにあらわされるような、相当にクレイジイな、そしてそのことに喜びを感じる救いようのない、しかし幸せなマニアたちにしか、わたくしはこのシステムをおすすめしたくない。むしろこの小稿で、わたくしはアジテイターを務めるでなく、マルチアンプ化に水をさし、ブレーキをかける役割を引きうけたいとさえ、思っているほどだ。
*
「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」は文字通りマルチアンプシステムを推奨する本であるにもかかわらず、
瀬川先生は、書かれたわけである。
引用した瀬川先生の文章は、「バイアンプシステムの流れをたどってみると……」の章の締くくりである。
マルチアンプシステムはオーディオマニアのための手段である。
それも「相当にクレイジイな」マニアのためのもので本来あったにも関わらず、
日本のオーディオブームは、マルチアンプシステムまでも流行のひとつにしてしまっている。
私はこの時期のオーディオを体験しているわけではないから、
また瀬川先生の文章を引用しておく。
*
ところがこの時期になると、日本のオーディオメーカーが、過当競争のあまり、小型のブックシェルフスピーカーにマルチアンプ化用の端子を出すのはまだよいとしても当時の三点セパレートステレオ、こんにちでいえばシスコンのように一般家庭用の再生機までを、競ってマルチアンプ化するという気違いじみた方向に走りはじめる。そういう過熱状態が異常であることは目にみえていて、まもなく4チャンネルステレオの登場とともに望ましくないマルチブームは終りを告げた。前述したようにこの時期には、日本以外の国では、マルチアンプシステムは(時流に流されないごく一部の愛好家を除いては)殆ど話題にされていなかった。騒いだのは日本のマーケットだけだった。
*
「望ましくないマルチブーム」が1970年ごろの日本のオーディオマーケットにはあった。
真空管アンプの場合、それもパワーアンプの場合、
どういう真空管が何本使われているのか、トランスの数などから、おおよその回路は想像がつく。
まずモノーラルなのかステレオなのか、
出力管は一本なのか二本なのか、それとももっと多いのか。
電圧増幅管にはどの真空管が何本使われているか。
こういったことから、よほど変った独創的な回路やトランジスターとのハイブリッドでもないかぎり、
回路の推測が大きく外れることはあまりない。
そうなると真空管、トランスのレイアウトから、アンプ内部の配線はこんなふうになっているのではないか、
という想像ができる。
この想像が当ることもあればそうでないこともある。
プリント基板を使ったモノだと想像は外れる。
フックアップワイアーを使ったモノだと、うまく当るものもあればそうでないアンプもある。
この想像も、私の場合はあくまでも伊藤アンプがベースになっている。
だが人にはそれぞれ流儀のようなものがあり、
真空管アンプに関してもそうであり、フックアップワイアーによる配線であっても、
伊藤先生の配線の仕方とは異る流儀があって、
その流儀によってつくられているアンプだと想像が大きく外れてしまうのではなく、
そういう流儀の違いはあっても、アンプ配線の基本となるものがしっかりしているのであれば、
ディテールの違いはいくつもあったとしても、大きく外れはしない。
大きく外れてしまうのは、配線のベースとなる基本が異るアンプであり、
そういう異る基本をもつ人ということになる。
1977年秋にステレオサウンドからHIGH-TECHNIC SERIES-1として、
「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」というムックが出た。
ステレオサウンドからこれまでに何冊の別冊が出たのか数えたことはない。
かなりの数が出ている、としかいえない。
その数多い別冊の中でも、HIGH-TECHNIC SERIESの四冊は、
他の別冊になかなか感じとりにくいものがある。
「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」は最初のHIGH-TECHNIC SERIESということもあってだろう、
ステレオサウンドよりもずっと薄い本であっても、当時のステレオサウンドと同じくらいの読みごたえがあった。
マルチアンプシステムがどういうものであるのかについて、
「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」を読まなくても知ってはいた。
このころはまだ中学生。
いつかはマルチアンプシステムを、と夢見てもいた。
「マルチスピーカー・マルチアンプのすすめ」は単なる解説書にはとどまっていない。
巻頭に瀬川先生による「マルチスピーカー マルチアンプのすすめ」という記事がある。
五章からなる、この記事は、
マルチアンプシステムとはなにか
バイアンプシステムの流れをたどってみると……
マルチアンプシステムの魅力
あなたはマルチアンプに向くか向かないか
マルチアンプの実際
という項目がたてられ、それぞれに瀬川先生によるこれ以上ないという文章が載っている。
ケーブルの価格が高くなりすぎている。
すべてのケーブルがそうではなくて、ごく一部のケーブルの天井知らずの価格には、
わかっていたこととはいえ、実際に価格を調べてみると、こんなにするのか、と改めて思う。
2.4mのペアで400万円を超えているケーブルもある。
現実にこういう価格のスピーカーケーブルが売られているということは、
こういう価格のスピーカーケーブルを購入する人がいる、ということである。
私のまわりで、400万円を超えるスピーカーケーブルを使っている人はいない。
400万円のスピーカーケーブルに替えることで、どういう音の変化が得られるのかはわからない。
オーディオに関して、思いつくかぎりのことはすべてやってきた。
そういう人が400万円のスピーカーケーブルに手を出すのはわからないわけでもない。
それでほんとうに求めている音が得られるとは限らないけれど。
でも、そう言い切れる人が世の中にどれだけいるのだろうか。
ほんとうにやれることはすべてやった、と。
私などはスピーカーケーブルに400万円を支払うのであれば、
この400万円をパワーアンプの購入費用にあてる。
パワーアンプを買い替えるのではなく、もう一台、さらにはもう一台買い足していく。
つまりマルチアンプドライヴをやる。
オーディオが、もしパソコンの20年間と同じ速度で進歩していたら……、
そんなことを夢想しないわけでもないけれど、一緒くたに考えることではないことはわかっている。
とにかくパソコンの進歩は大きかった。
大きかったけれど、それでも20年前と変らぬことは、
パソコンに前に人がすわり、キーボードやマウスを操作してパソコンに対して、
なんらかの指示を出さなければ、
どんなに高性能なパソコンに、どんなに多機能なアプリケーションをどれだけインストールしていようと、
勝手に何かを、そのパソコンの所有者の代りにやってくれるわけではない。
毎日、こうやってブログを書いていて、
これまでにけっこうな文字数を入力していっているけれど、
だからといって私の代りにパソコンがこれまでの入力履歴をベースにして勝手に文章をつくり出してはくれない。
パソコンという様々な処理を可能にしてくれる計算器に、
ある目的、方向性を定めるのがアプリケーションであり、
ハードウェアとソフトウェアの組合せによって、道具たり得る、となる道具なのだろう。
それではオーディオにおけるソフトウェアは、
パソコンにおけるアプリケーション的な意味での道具的要素をまったくもたないのだろうか。
オーディオにもパソコンにも、ハードウェアとソフトウェアという括り方ができる存在がある。
オーディオもパソコンも、どんなに高価で高性能をモノを揃えたとしても、
ソフトウェアがなければ単なる飾りか、
デザインがよくなければ飾りにもならず、置物。もっとひどくなれば邪魔物になってしまう。
オーディオにはLP、CD、ミュージックテープといったプログラムソースと呼ばれるソフトウェア、
パソコンにはアプリケーションと呼ばれるソフトウェアがあって、
オーディオもパソコンも道具として機能するようになる共通するところをもつ。
とはいえ、ソフトウェアであっても、パソコンのアプリケーションもまた道具のひとつである。
パソコンが登場した時からしばらくは何度か目にしたことがあるのが、
パソコンという道具は、他の道具と異り、はっきりとした目的をもっていない、といったことがあった。
つまり包丁は食材を切ったり捌いたりするための道具である。
鍋は食材を煮るための道具であり、ペンは文字や絵を描くための道具。
そういった意味での目的をはっきりともたない道具がパソコンである、と。
パソコンは、ある意味何でも可能にしてくれる道具かもしれない。
とはいえ基本的には計算器である。
その計算器に、実に様々な計算を実行させるのがアプリケーションということになる。
どういう計算をさせるかによって画像処理が可能になるし、
音をいじることもできる。表計算もできるし、文字入力・変換もできる。
計算器の処理能力が高ければ高いほど、可能となる処理範囲は広くなっていく。
年々パソコンの計算器としての処理能力は高くなっていくし、
アプリケーションも多機能になっていく傾向がある。
私が最初に自分のMacとして使い始めたClassic IIから20年以上経つ。
この間の処理能力の向上と多機能化は目覚しいものがあって、
最近ではそのことが 当り前のことになりすぎてしまい、
この間の進歩を忘れてしまいがちにもなる。
ステレオサウンドでは、以前セパレートアンプの別冊を出していた。
1981年夏に出たのを最後に、いまのところは出ていない。
私がステレオサウンドで働き始めたのは1982年1月からだったけれど、
1981年のセパレートアンプの別冊の取材の大変さは聞いていた。
試聴室で行った試聴テストも大変だったわけだが、
それに加えて全アンプの測定は松下電器の協力を得て行っている。
そのためすべてのアンプを大阪まで運んでいる。
これがどのくらい大変なことなのかは、
実際にステレオサウンドで働くようになり、特集の試聴テストの準備をしていくとよくわかる。
特に総テストとつく特集のときは、
試聴そのものは楽しくても、しんどさはけっこうなものがある。
ステレオサウンドは総テストをひとつの売りにしていた。
いまは総テストはほとんど行われていない。
なぜ、こんなことを書いたかというと、
あるとき先輩編集者が話されたことがある。
なぜ、ステレオサウンドがベストバイという特集をやったのかについて、であった。
どうしてか、と思う、ときかれて、
いくつか私なりに考えて答えたけれど、私が考えた理由によるものではなく、
取材(つまり試聴テスト)をやらずにつくれる特集をやることで、
編集者の肉体的な負担を減らそう、体を休ませよう、という意図から企画されたものだ、と聞かされた。
これだけが理由ではないだろうし、どこまで信じていいものか、というところもあるけれど、
ベストバイの特集が最初に行われたステレオサウンド 35号、
このころは総テストが当り前のように行われていた時期である。
12月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。
時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
変換効率の高いスピーカーは、カタログスペックの出力音圧レベルの値が高い。
いまでは一般的とはいえなくなったが、
私がオーディオに興味を持ち始めたころ、
つまり1970年代後半の国産ブックシェルフ型スピーカーシステムの出力音圧レベルは92dB/W/m前後だった。
実はこの92dBという値は、アンプから入力された信号の1%が音に変換された、ということである。
残りの99%は熱になって消費されてしまう。
92dBを切っているスピーカーシステムは、1%以下の変換効率ということになるわけだ。
92dBよりも10dB低い82dB/W/mだと、10dBは約3.16倍であるから、1%を3.16で割ればいいし、
102dB/W/mだと10dB高いわけだから、1%の3.16倍の変換効率といえる。
100%は1%の100倍だから、dBでは40dBの差となる。
92dB+40dB=132dB、である。
JBLのD130のカタログに発表されている出力音圧レベルは103dB/W/mだから、
これで計算すれば、92dBのスピーカーの約3.54倍となる。
82dBのスピーカーと比較すれば、約11.22倍となる。
ちなみにJBLのコンプレッションドライバーの2440は、カタログには118dB/W/mと表記されている。
92dBとの差は26dBだから約19.95倍となる。
100dBを超えているスピーカーを、簡単に高能率といってしまっているけれど、
130dBのD130ですら、約3.54%しか音に変換できていないわけで、
dBではなく%でみると、D130ですら、高能率といっていいのかどうか考えてしまう。
こんな計算をしながら考えていたのは、
音圧と音量について、である。
つまりはこうである。
五味先生が書かれていた、マッキントッシュのMC275の音の描写、
「もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、
簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある」
こういう音の美をほんとうに理解できるようになるためには、
MC3500の音の描写、
「簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている」音をまず出せるようになってからではないのか。
そう考えるようになったからである。
若いうちから、この手の音を求めていく。
当時ステレオサウンドの連載記事スーパーマニアに登場されていた人たちは、
若い時分にそうとういろいろなことをされて、行き着く先に、
高能率のスピーカーシステムと真空管アンプという組合せにたどり着かれている、のを読んでいた。
シーメンスのオイロダインに伊藤先生のアンプを使われているスーパーマニアの方もいた。
最終的にこういう境地にたどりつくのであれば、
最初からこの世界に手をつけていれば──、という考えも少しはあった。
いいとこだけをやろうとしていた。
だが、オーディオはそんなことでうまくいくようなものではない。
シーメンスのコアキシャルと真空管アンプの組合せ、
これをあの時からずっと続けていれば、
20代前半のころよりもずっといい音で鳴らしている、とは思う。
だがシーメンス・コアキシャルの世界からあえて離れて、
いわゆるハイ・フィデリティと呼ばれるオーディオをやってきたからこそ、
もしいま当時と同じシステムを鳴らすことになったとしたら、
ずっと鳴らしつづけてきた音よりも、ずっといい音で鳴らせる。
私は20代前半のある時期、
シーメンスのコアキシャル(25cmウーファーとコーン型トゥイーターの同軸型)を平面バッフルで鳴らしていた。
平面バッフルのサイズは縦190×幅100cm、米松合板を使ったもの。
これにf0:65Hzという、古い設計のスピーカーユニットを取り付けていたわけだ。
同軸2ウェイとはいえ、トゥイーターも古い設計で、
しかも口径も大きいわけで高域がすーっと延びているわけでもない。
上も下も、そのくらいのレンジ幅である。
例えば口径はすこし小さくなるが、
JBLの20cm口径のLE8Tを適切なチューニングのなされたバスレフ型エンクロージュアにおさめたほうが、
低域に関してはずっと下まで延びている。
コアキシャルの出力音圧レベルは、98dB/W/m。
高能率といえるユニットだけに、このベクトルでの音の良さは確かにある。
けれど、コアキシャル+平面バッフルでは、再生が無理な音があるのも事実であり、
そんなことはこのスピーカーを導入する前からわかっていたことであり、それを承知で、
こういうシステムでしか聴けない音を求めての選択だった。
つまりは、ここでテーマとしている「減音」、
このときはそこまで意識したわけではないけれど、
それに若さゆえに粋がっていたゆえの選択でもあったけれど、
ようするに、この項の(続×二十九)で書いているMC275的音の描写を意識してのことだった。
けれど、このシステムはそうながくは続けなかった。
音が気に入らなかったわけではない。
街が機能するには、電気が必要であり、そのための電線が敷設される。
電力の供給だけでなく、上下水道もガスも電話線(いまでは光ファイバーか)も必要であり、
日本では電線、電話線は電柱を立てて地上に露出しているけれど、
地下にすべてを埋設もできる。
真空管アンプの内部、つまりワイアリングもそれらと同じである。
真空管のプレートにかかる高電圧の電源供給ライン、
ヒーター用の定電圧の電源供給ライン(交流であったり直流であったりする)、
それから信号ライン、アースラインなどワイアリングされている。
いつのころからか真空管アンプにもプリント基板が使われるようになり、
こういった見方をすることの無理なアンプも市販品には多い。
ワイアリングの巧拙、枝ぶりの美しさ、といったことをあれこれいう楽しみも、
いまどきの真空管アンプにはなくなりつつある。
伊藤先生のアンプには、あたりまえすぎることを書くが、
プリント基板はいっさい使われていない。
すべてベルデンのフックアップワイアーを使われている。
ラグ、ターミナルストリップを適所に配置して、部品を固定しながらひとつひとつワイアリングされている。