いい音、よい音(その1)
いい音と書いている。
よい音とは書いていない。
よい音と書くべきか、と迷っているところがある。
よい音だと、
良い音
佳い音
善い音
好い音
いい音だと、
良い音
善い音
好い音
宜い音
まだしばらくは、いい音と書いていく……。
いい音と書いている。
よい音とは書いていない。
よい音と書くべきか、と迷っているところがある。
よい音だと、
良い音
佳い音
善い音
好い音
いい音だと、
良い音
善い音
好い音
宜い音
まだしばらくは、いい音と書いていく……。
1955年に電波新聞社から「電波とオーディオ」が創刊されている。
「電波とオーディオ」の創刊メンバーのひとりが、若き日の菅野先生である。
そのころのことを「僕のオーディオ人生」に書かれている。
*
新しい雑誌のタイトルは、僕達の間では「オーディオ」と決まっていた。とはいうものの、この「オーディオ」という言葉は当時全く知られていない言葉であって、専門家ならいざ知らず、一般には通用するはずもなかった。この頃、アマチュアの間で使われていた、レコードとオーディオに関する言葉は「ハイ・フィ」というもので、どういうわけか、「ハイ・ファイ」とは発音されなかった。
こんな状態だったから、平山社長や、その他会社の幹部の意見では、ハイ・フィかハイ・ファイのほうがよいだろうということだったが、これには僕達が頑強に反対した。ハイ・フィやハイ・ファイは俗語であって、オーディオこそ、我々が真面目に取組もうとしている世界の正しい呼称であると突っぱったのである。もちろん、ハイ・フィやハイ・ファイは当時の辞書には出ていなかったが、オーディオは出ていた。当り前である。しかし、今だったら、雑誌のタイトルとして、辞書に出ている言葉はボツにして、出ていないほうを採るだろうに、当時は、やはり世の中、コンサーバティブであった。結局、タイトルは『電波とオーディオ』と決まったのである。この「電波」がつくことには我々は抵抗したが、電波新聞社の刊行物だからということで押し切られてしまった。しかし「電波」という字はごく小さく、ほとんど「オーディオ」が全面に目立つ題字が選ばれることになったのである。
*
「電波とオーディオ」の編集を約三年やられて、菅野先生は離れられている。
そのころには電波の文字が大きく、オーディオは小さくなっていたそうだ。
「電波とオーディオ」の書名がいいとは思っていないが、
いまの時代からみれば、時代の先取りともいえそうである。
決して好きな表現ではないが、一周まわって新しい、ということになる。
電波とはテレビ、ラジオ、アマチュア無線などを、ここでは指しているが、
無線という意味で捉えれば、
「電波とオーディオ」はケーブルレス(ワイヤレス)・オーディオということにもなる。
「電波とオーディオ」のころの無線と、いまの時代の無線は技術的には進歩があり違ってきている。
けれど電波を使うことは同じで、機器間の接続をケーブルに頼らずに、という点は同じといえる。
「電波とオーディオ」のころの電波は長い距離の伝搬手段であり、
いまの時代の家庭内での電波は至近距離の伝搬手段である違いはあっても、
「電波とオーディオ」や「無線と実験」といった書名は、
かなり長いこと古くさい印象があったが、いまは必ずしもそうではなくなっている。
オーディオ信号の伝送において、ケーブルなのかワイヤレスなのか。
一刀両断で、どちらかが劣るとは、いまのところいえない。
ワイヤレスなんて……、という人がオーディオマニアに少なくないことは知っている。
なぜ、そんなふうに決めつけてしまうのか。
決めつけてしまうことで、自分を誰かにアピールしたいのか。
すべての技術にメリットとデメリットがあり、
ケーブルにしても無線にしても、どういう規格でどう使っていくのかので、
判断していくものであって、いえるのはどちらが好きか嫌い程度である。
ケーブル伝送は一見簡単そう(単純そう)にえるが、
部品点数においては複雑な構成の増幅よりも、
実のところ難しい面を持っているようにも思えることがある。
いまラックスの本社は横浜市にある。
1984年に本社を大田区に移転後、関東にある。
それ以前は大阪に本社はあった。
大阪と関東では電源の周波数が違う。
60Hzと50Hzの違いがある。
大阪本社時代は、製品開発は大阪で行っていたはず。
つまり60Hzの電源の元で行われていたわけだ。
私がはじめて聴いたラックスのアンプはLX38だった。
大阪本社時代のアンプである。
熊本のオーディオ店で聴いているから、60Hzである。
オーディオ雑誌の出版社はすべて東京にある。
50Hzである。
大阪本社時代のラックスのアンプは、50Hzで試聴されていた。
オーディオ評論家によっては、大阪本社に行って試聴している人もいようが、
大阪と東京、どちらで聴く機会が多かったかといえば、東京のはずだ。
50Hzと60Hzによる音の違いは大きい。
アメリカ製アンプで、まだ日本仕様(100V対応)になっていないアンプの場合、
昇圧トランスを使った方がいいのか、とときどききかれる。
どういう昇圧トランスを使うかにもよるし、
アンプにもよって結果は違ってくる。
ここでもオリジナル至上主義者は、アメリカと同じ電圧でなければ、という。
ならば、そういうオリジナル至上主義者は、60Hzで聴いているのだろうか。
厳密な試聴をしての印象ではないが、
60Hzのアメリカ製アンプは、電源電圧よりも電源周波数のほうが影響が大きいように感じている。
大阪本社時代のラックスのアンプも、そうだったのではないだろうか。
トランス式直列型デヴァイダーの回路図は、頭のなかで描けるほど簡単なものだ。
実験的につくってみても、簡単にできる。
とはいえ使うトランスの品種によって音は大きく違ってくる。
それに同じトランスであっても、トランスの使いこなしは意外に見落しがある。
それに気づかずにやってしまうと、いわゆるトランス臭い音がつきまとうであろう。
まだ試していないのでなんともいえないが、
この方式ならば、低域用と高域用でトランスの品種を変えることもできる。
最初は同じ品種のトランスを使って、それでいい結果が得られるのであれば、
次のステップとして鳴らしたいスピーカーに応じて、
トランスの使い分けもできる。
もっともいいトランスはそれほど安価ではないから、
そう簡単にトランスを交換するというわけにはいかないだろうが、可能性としてはおもしろい。
このトランス式直列型デヴァイダーは、プリミティヴな方式である。
デジタル信号処理で可能なことは、このデヴァイダーではできない。
けれど、どちらも興味がある。
私にとって、このふたつがデヴァイダーの両極ということになる。
前回(その35)の時点では、
LCネットワークの直列型の音を、自分で試してはいなかった。
それから約一年のあいだに、
喫茶茶会記で毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会で試している。
6cBのスロープで、2ウェイのシステムに限っていえば、
直列型ネットワークのメリットは、確かにある。
3ウェイ、4ウェイとなっていくと、そのへんどうなのかはこれから試してみたいことであるし、
高次のスロープではどうなっていくのか。
システムとしてスピーカーをどうまとめていくのか、
その方向性によってもネットワークを並列型か直列型かは変ってくるとはいえ、
直列型ネットワークの音を、自分で出してみて得られたものはけっこうあった。
それで思ったのは、マルチアンプにおける直列型はあり得るのか、だ。
トゥイーターとウーファーを直列に接続して、
それぞれのユニットにアンプをあてがうという接続は、まず無理である。
ならばパワーアンプの手前、
つまりデヴァイディングネットワーク(いわゆるチャンネルデヴァイダー)を、
並列型ではなく直列型にできないものだろうか。
ここを直列型にすることで、LCネットワークにおける直列型とイコールになるわけではないにしても、
共通する良さがあるのではないだろうか。
具体的にどうやるのか。
スピーカーユニットのところをトランスに置き換えればいい、とすぐに気づいた。
2ウェイならばライントランスをふたつ直列接続にする。
それぞれのトランスに対してコイル、コンデンサーを並列接続する。
直列型LCネットワークの回路図のスピーカーユニットを、
そのままトランスに置き換えただけの回路である。
12月のaudio sharing例会は、7日(水曜日)です。
今回は12月、忘年会のシーズンなので、
あえてテーマを決めずに、忘年会的な音出しをしていきたいと考えている。
今年聴いたCDの中で、
誰かに聴いてもらいたいと思っているディスクを持参していただき、
あれこれ語ろうという趣旨の音出しである。
なにも今年の新譜でなくていい、旧譜であっても、今年初めて聴いて感動し、
誰かに聴いてもらいたいと思う一枚があれば、それをもってきてほしい。
喫茶茶会記でのアンプは、マッキントッシュの管球式プリメインアンプMA2275である。
夏に行ったマークレビンソンLNP2の比較試聴のときも、MA2275を使った。
MA2275はコントロール機能をすべてパスできるパワーアンプ入力を備えている。
LNP2の比較試聴の際には、この入力で、パワーアンプ部のちを使った。
そうやって聴くと、MA2275のパワーアンプ部の素姓はいい、と感じた。
それにくらべるとコントロールアンプ部の出来は、やや劣るような印象がある。
今回は実験的な意味を含めて、パワーアンプ部のみの使用で、
コントロールアンプ部も別のコントロールアンプも用意せずの音出しを考えている。
もちろんポテンショメーターを使うわけだが、配線に少し実験的要素を加えての音出しである。
12月なので、最後にはベートーヴェンの「第九」をかけたい。
四楽章のみになると思う。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
死の間際、「悔いのない人生だった」といえるような生き方はしていない。
実際に、その瞬間を迎えないことにはなんともいえないが、
さまざまな悔いを思い出すかもしれない。
忘れてしまっているような悔いまで思い出すかもしれない。
これから悔いのない人生を送ったとしても、
すでに53年間生きているのだから、悔いはある。
だからオーディオマニアとしての悔いだけは残さないようにしている。
それが覚悟だと思っている。
悔いとは、あることから逃げたり避けたり、ズルしたりの記憶でもあるはずだ。
他にも悔いといえることはあろうが、
とにかくオーディオマニアとして、
オーディオに関することから逃げたり、ズルしたりの記憶を持つようなことはしないようにすることが、
オーディオマニアとしての悔いを残さない道であるし、
オーディオと対決する、ということのはずだ。
昔のソニーの広告にあったように、
マイクロフォンがオーディオの出発点とすれば、
スピーカー、ヘッドフォン、イヤフォンが終着点ということになる。
出発点と終着点の対称性ということでは、
マイクロフォンとスピーカーシステムよりも、
マイクロフォンとヘッドフォン(イヤフォン)が、はるかに対称性を保っている。
たとえばゼンハイザーのマイクロフォンでの録音を、
ゼンハイザーのヘッドフォンもしくはイヤフォンで聴く。
マイクロフォンとヘッドフォンを同じメーカーで揃えることで、
出発点と終着点の対称性は、さらに高くなる──、といえるのだろうか。
オーディオの想像力の欠如が生むのものひとつに、「物分りのいい人」がいる。
「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」である。
オーディオの想像力の欠如が、音を所有できると錯覚させるのだろう。
オーディオの想像力の欠如が生れるのは、飽和点に達してしまうからかもしれない。
その飽和点に直ちに達してしまうほど、夢、そして理想(ロマン)をみる能力が低いのかもしれない。
アメリカの三大スピーカーメーカーとして、
1970年代まではJBL、アルテック、エレクトロボイスを挙げることができた。
アルテックとエレクトロボイスはスピーカーとともにマイクロフォンも手がけていた、
JBLは違っていたことは、前回書いた。
JBL、アルテック、エレクトロボイスの音はそれぞれ個性があり違う。
それでもマイクロフォンを手がけてきたアルテックとエレクトロボイスは、
JBLとはあきらかに違う、といえる。
もちろんアルテックとエレクトロボイスの音は違う。
それでもJBLの音と比較した場合、
アルテックとエレクトロボイスの音には共通するところがあるともいえる。
その理由はいくつかあるのだろうが、意外にもマイクロフォンを手がけてきたメーカーと、
そうでないメーカーの違いが、音として顕れているのかもしれない。
偶然の一致なのだろうが、そうだろうか、とも思えてしまう。
いまスピーカーとマイクロフォン、
どちらも手がけているメーカーはいくつあるのか──、とすぐには思い浮ばないが、
これがヘッドフォンとマイクロフォンということになると、海外にはいまもいくつかある。
AKG、ベイヤー、ゼンハイザー、シュアー、などがある。
ヘッドフォンでも、マイクロフォンと手がけているメーカーとそうでないメーカー、
何か共通することがあるのだろうか。
オーディオの想像力の欠如が生むのは、「耳」の想像力の欠如であろう。
「耳の」の想像力の欠如が生むものは……。
ヤマハの型番について、facebookでコメントがあったし、メールもいただいた。
CA、CT、CRのCはコンポーネント(component)を意味しているのではないか、とあった。
コンポーネント説は私もそう思ったことがある。
そうだとしたら、スピーカーやアナログプレーヤーもコンポーネントのひとつであるわけだから、
スピーカーならばCS、アナログプレーヤーならばCPとつくはずだから、違うようにも思いながらも、
メールにあったように、CAの型番を使うようになった当時は、
まだまだセパレートステレオが主流だった。
ゆえにコンポーネントを強調していたのかもしれない。
正確なところはわからない。
スピーカーユニットのJAに関しては、ほんとうに?である。
ヤマハはもとは日本楽器だった。
直訳すれば、Japan Instrument、
その流れで日本音響の直訳でJapan Audioだとして略すればJAという可能性、
もしくは部品番号が、そのまま製品の型番に使われたのではないか、という指摘があった。
スピーカーユニットは、ある意味、部品といえなくもない。
部品番号から来ているのだろうか。
型番の意味がわかったところで、
何か得るものがあるかといえば、何もない。
型番の意味を知らなくても、特に困ることはない。
それでも型番には、なんらかの意味がある。
私が中学生だったころ、
マーク・レヴィンソンが目標だった。
LNP2をこえるアンプをつくる、と思っていた。
回路の勉強をする前に、パネルデザインのスケッチ(落書きレベルだった)とともに、
型番もあれこれ考えていた。
かっこいい型番とそうでもない型番がある。
かっこいいアンプをつくりかった。
デザインだけでなく、型番も、である。
なので、型番について知りたいと思う気持は、人よりも強いのかもしれない。
カートリッジの取りつけネジに関係することで思い出したことがある。
十年くらい前になるか、
ある個人サイトの掲示板にあった書き込みを思い出していた。
その掲示板はにぎわっていた。
当時もっともアクセスの多かったオーディオの個人サイトだったのではないだろうか。
サイト名をいえば、多くの人が知っているはずだ。
それだけ有名になるといろんな人が書き込みにくるんだな、と思って眺めていた。
サイトを公開している人も、管理が大変だろうな、と思っていた。
ある人が、ヴィシェイの抵抗はバラツキがけっこうある、
そんなことを書き込みされていた。
ヴィシェイの抵抗にもいろいあるが、その人が指摘していた抵抗は、
ヴィシェイのラインナップのなかで最高精度のモノである。
価格もかなり高価である。
ヴィシェイの抵抗の音に関してはあえて書かないけれど、
少なくとも信頼性の高さを誇っている抵抗であり、
バラツキもおそらく最も少ない抵抗のひとつのはずだ。
そのヴィシェイの抵抗に、けっこうバラツキがある──、
ということは、非常に耳のいい人とともに、
わずかなバラツキを音の差として鳴らし分けるだけのシステムをもっているということでもあるし、
それだけのチューニングがしっかりとなされている、ということでもある。
どんな人なのかはすぐにはわからなかったが、
何度目かの書き込みの際に、
ヴィシェイの抵抗を使った自作アッテネーターの写真が公開されていた。
驚いた。
あまりにおそまつなつくりに驚いた。
ハンダ付けもお世辞にも上手とはいえない。
その他にも気づいたことはある。
ヴィシェイの高価な抵抗を、これだけの本数購入する前に、
ハンダ付けの練習を徹底的にやるべき、といいたくなるレベルだった。
これでは音の違いが出るであろう。
つくりのおそまつさが音として出て、
ハンダ付けの未熟さを自覚していないご本人は、
ヴィシェイの抵抗がバラついている、と思ってしまったのだろう。
こんな例は、他にもあるはずだ。
オーディオ雑誌に掲載されている真空管アンプの内部写真をみると、
この人はアンプ自作歴数十年のはずなのに、みっともない配線をしている。
そういうアンプにかぎって、高価な、そして貴重な部品が使われている。
あれだけの自作歴があれば、アンプづくりの腕は上達しよう。
人によって上達の度合に差はあっても、だ。