オーディオの想像力の欠如が生むもの(その17)
オーディオの想像力の欠如のままで、有機的な体系化をつくり出せるだろうか。
ゆえに浅陋なのか。
オーディオの想像力の欠如のままで、有機的な体系化をつくり出せるだろうか。
ゆえに浅陋なのか。
小学生高学年から中学にかけてのころ、スーパーカーブームがあった。
スーパーカーという言葉は、そのころから登場したのだろうか。
いまもスーパーカーと呼ばれている。
一方オーディオは、というと、スーパーオーディオとはあまり使われない。
SACDはSuper Audio Compact Discだから、
ここにはスーパーオーディオがある。
けれどスーパーカーと同じように使われるのは、
オーディオではハイエンドオーディオである。
ハイエンドカーというのだろうかと検索してみると、
上位に表示されるのはハイエンドカーオーディオである。
ハイエンドはオーディオにかかってくる言葉なのだろうか、と苦笑いしてしまった。
私がクルマに詳しくないためだろうか、
ハイエンドカーという言葉が一般に使われているとは感じられない。
価格の高さでいえば、スーパーカーもハイエンドである。
クルマの方が、よりハイエンドであっても、
やはりスーパーカーなのだ。
なぜオーディオはスーパーオーディオではなく、
ハイエンドオーディオなのだろうか。
このことが「オーディオがオーディオになくなるとき」にも、
そして岩崎先生のリスニングルームに憧れても、
どれだけの資産があれば、これだけのリスニングルームとオーディオ機器を揃えられるのか、
と考えてしまうリスニングルームには、憧れを抱くことがないことが多いのにも、
(その1)で書いた、その人はオーディオマニアだろうか、
ということにもつながっていく直感である。
このブログは、インターネットに接続して書くわけだから、
キーボードで入力している。
私の場合、親指シフトキーボードだから、
JISキーボードでのカナ入力、ローマ字入力とは違うタイプミスがある。
読み返すことをせずに公開しているから、
後で気づいて、こっそりタイプミスや変換ミスを直している。
それでもすべてを見直しているわけではないから、
まだまだ残っているはずだ。
昨夜公開した「オプティマムレンジ考(その11)」では変換ミスがあった。
音量が音良になっていたのを、facebookでの指摘があった。
そのコメントには、指摘だけでなく、
音良量、音良幅(レンジ)、というコメントもあった。
音量が音良になった変換ミスは偶然なのだが、
音良は、確かにオプティマムレンジにつながっていくところがあるのを、
コメントを読んで感じていた。
手書きでは起らない変換ミスには、
時々ではあるが、どきっとして、考えさせられることがある。
先日も変換ミスをしたわけではないが、
音場(おんじょうと読むかおんばと読むかについては以前書いている)について、
おんじょうの音場は、音の乗算、つまり音乗といえるかもしれない、と思っていた。
ダイナミックレンジのひろい録音を家庭で鳴らすことの難しさは、
40年ほど前から指摘されていることである。
周波数レンジもダイナミックレンジも広い方がいいに決っている。
生の演奏そのままを録音できるようになるのは、確かに技術の進歩である。
けれど、それは録音系の話であって、
再生系となると、必ずしもそうとはいえない。
再生系では音量設定の自由がある。
人に迷惑をかけないのであれば、どんな音量にも設定できる。
ダイナミックレンジが広すぎる録音に文句をいうのは、
満足な音量が出せないリスニングルームしかもてない者の言い分でしかない──、
という人もいるかもしれない。
でも、音量設定の自由があるから、家庭で人は音楽を聴く。
実際の演奏そのままの音量で聴ける環境であったとしても、
ひっそりとした音量で聴きたい人もいる。
広く響きの豊かな部屋で、ひっそりとした音量で鳴らすのもオーディオである。
実際の演奏よりもずっと大きな音で鳴らすのも、オーディオではあり、である。
ダイナミックレンジの広すぎる録音は、
その音量設定の自由を聴き手から奪ってしまうことにつながっていく。
その意味で、現在のプログラムソースは、バベルの塔に喩えられる。
ただし、録音と再生はわけて考える必要がある。
インサイドフォースキャンセラーがついているトーンアームでは、
取り扱い説明書にゼロバランスを取る時は、
キャンセル量をゼロにすること、と書かれている。
SMEのように重りを吊り下げているモデルでは、
重りを外してゼロバランスをとるように、と書かれている。
にも関わらず、ゼロバランスをとる際に、
インサイドフォースキャンセラーの重りをそのままにしている人を見かけたことがある。
ステレオサウンドで働いていたころは、
実は私もインサイドフォースキャンセラーの重りは、いちいち外してはいなかった。
試聴という環境で、カートリッジを頻繁に交換する場合、
インサイドフォースキャンセラーの重りを外して、またつける手間は、
塵も積もれば……で、けっこうな量になる。
だから重りを指で下から持ち上げてインサイドフォースキャンセラーがかからないようにして、
ゼロバランスを調整していた。
慣れれば、これできちんとゼロバランスはとれる。
念のため、この方法でゼロバランスをとって、針圧ウェイトを調整して印可した針圧を、
針圧計で確認したことがあるが、問題なかった。
でも私が見た例は、そうではなかった。
重りをそのまま吊り下げたままだった。
ということは、他のタイプのインサイドフォースキャンセラーでも、
目盛をゼロにすることなく、ゼロバランスをとっている人がいるとみていいだろう。
CDプレーヤーは、そんなことはない。
きちんとした設置をすれば、最低レベルの底上げを果していた。
それにCDプレーヤーは安価なモノであっても、非常に高価なモノであっても、
物理特性的にもほとんど差がない。
16ビットで44.1kHzという枠が決っているからである。
音はもちろん違うが、アナログプレーヤーと比較すれば差の違いは狭い。
つまり録音された音楽の共通体験という点だけでみれば、
アナログディスク、アナログプレーヤーよりも、
CD、CDプレーヤーのほうが優れている、ということになる。
このことをさらに一歩も二歩も押し進めたのが、iPodの登場であり、
デジタルの利点をCDプレーヤー以上に、この点で活かしたともいえる。
アナログディスク再生が、プログラムソースのメインであった時代は、
アナログプレーヤーに関する調整によっても、
アナログプレーヤー関連のオーディオ機器によっても、
同じレコードから得られる音は、大きく違っていた。
同じアナログプレーヤーであっても、
設置、調整する人が違えば、音はそうとうに変化する。
ベテランと自称する人ほど多いように感じるのは、
トーンアームのゼロバランスをうまくとれない人である。
私だけがそう感じているのではなく、
SNSを見ていると、同じように感じている人がいることがわかる。
カートリッジをトーンアームに装着して、まず何をするかといえば、
ゼロバランスの調整である。
ゼロバランスがきちんととれていなければ、そこから先は進めない、といえる。
にも関わらすゼロバランスがうまくとれない人が少なからずいるのは事実である。
ゼロバランスがうまくとれないことを自覚しているのであれば、
誰か確実な人に代りにとってもらえるが、
とれない人に限って、とれていると思っている節がある。
ゼロバランスが狂っていては、針圧が目盛通りには印可されない。
そういう人は針圧計を使っては、このトーンアームは針圧の目盛がおかしい、
うまく針圧がかからない、などと責任転嫁しがちである。
アナログプレーヤーに関する設置、調整については、ここではこれ以上細々したことは書かないが、
そのくらい使う人(設置、調整する人)によって、レベルが大きく違っている。
それにハードウェアも、性能に違いがある。
価格の安いモノ、高いモノ、新しいモノ、古いモノなど、実にさまざまであり、
それらが混在した状態のプレーヤーシステムもある。
そういうアナログディスク再生では、ひとりひとりが鳴らしている音の違いは、
千差万別であり、大きく違っていた。
それがデジタル(CD)の登場により、
ある最低ラインは保証されるようになった。
2017年は、iPhone登場10周年にあたる。
日本でiPhoneが売られる(使える)ようになったのは、iPhone 3Gからである。
すぐにでもiPhoneにしたかったけれど、しなかったのは、
扱っていたのがソフトバンクだったからだ。
それでも何度か乗り換えようか、と考えた。
iPhone 4が出たときは、かなり心が動いたけれど、それでもしなかった。
ソフトバンクが嫌だった、という気持が、
iPhoneを使いたい、という気持よりも強かったからだ。
2011年秋登場のiPhone 4Sから、auも扱うようになった。
やっとiPhoneに機種変更できる、いままで我慢してきてよかった、と思った。
それまでの携帯電話(いわゆるガラケー)とは、まるで異っていた。
同じiOSのiPadは2010年から使っていたが、これともiPhoneは違う。
もっと早くiPhoneにしておけば……、という気持を、
その時まったく感じなかったわけではないが、我慢してきてよかった、とも思っていた。
iPhone 4Sを手に入れた日(発売初日に買った)は、
ブログを書くことも忘れて触っていた。
何時間触っていただろうか、ブログを書かなければ……、ということで触るのをやめたほどだ。
初めてiPhoneを手にしたときの感じたものに比べれば、
その後登場した新しいiPhoneに触れたときに感じたものは、小さいし少ない、といえる。
それまでのガラケーからiPhoneへの変化と、
古いiPhoneから新しいiPhoneへの変化は同じには、当然だが感じるわけではない。
だからといってiPhoneの旬が終っている、とは私は思っていない。
10年前のiPhone登場のころといまとでは、
iPhoneをとりまく環境も大きく変化している。
この変化が、iPhoneの在り方を変化させていてもいるわけで、
2007年のiPhoneが、iPhone単体の環境であったのに対し、
いまのiPhoneは、iPhoneをハブとする環境へ変化している。
iPhone単体だけを見て、あれこれいう時代は終っているのだ。
「マルチアンプのすすめ(その27)」で書いたことを、
もういちどここでも書いておこう。
*
仏教学者の鈴木大拙氏は、「自由」の英訳を、
辞書に載っているfreedomやlibertyではなく、self relianceとした、ときいている。
*
ここでいっている聴き方にかかってくる自由とは、freedomではない。
self relianceであるからこそ、そのためにも正しい聴き方を身につけたいのだ。
オーディオの想像力の欠如の怖さは、楽な聴き方に安住してしまっていることを、
本人に気づかせないことにある。
好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人は、いわば好きな聴き方をしている。
私も好きな聴き方をするし、好きな聴き方よりも正しい聴き方を上位の聴き方とは考えていない。
むしろ好きな聴き方を、正しい聴き方よりも上位の聴き方だと考えている。
ここでの好きな聴き方は、
私が考える好きな聴き方と、
好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人の好きな聴き方は、同じとはいえない。
同じである場合もあるだろうが、
好きな音と嫌いな音があるだけだ、という人の好きな聴き方は、
手前勝手な、ひとりよがりな聴き方が多いように感じている。
私は、そんな聴き方を好きな聴き方とは考えていない。
好きな聴き方とは、正しい聴き方を身につけての聴き方であるからだ。
正しい聴き方を身につけずにの好きな聴き方と、
正しい聴き方を身につけての好きな聴き方を同じに捉える人はいないはずだ。
私ははっきりと分けている。
ふたつの好きな聴き方だとごっちゃに受けとめられやすい。
だから、正しい聴き方を身につけての好きな聴き方は、自由自在な聴き方としたい。
ここでのタイトルは「正しい聴き方」でもなく「正しい聴き方とは何か」でもなく、
「正しい音と正しい聴き方」にしている。
オーディオの想像力の欠如は、正しい音の存在の否定へと傾く。
そして正しい聴き方から遠ざかっていく。
オーディオにおけるチューニングとは、
正しい聴き方を身につけるための作業、といえる面をもつ。
一回の音出しで、そこまで踏み込めるかどうかはなんともいえない。
それでも2017年のaudio wednesdayでは、このことを一年を通してのテーマにしていきたい。
2017年最初のaudio wednesdayは、1月4日。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
正しい音と正確な音が同じとは考えていない。
間違っている音があると考えている。
正しい音があると考えている。
そう考えない人がいることは知っている。
好きな音と嫌いな音があるだけだ、と、そういう人はいう。
正しい聴き方がある。
正しい聴き方をしていなければ、正しい音は聴きわけられない。
正しい音を聴こうとしなければ、正しい聴き方は身につけられない。
正しい音と正しい聴き方。
常に考えていかなければならないことだと思っている。
二度目の「20年」が今年だ。
NHKで「3月のライオン」というアニメが放映されている。
毎週楽しみにしている。
先日の11話もよかった。
二回見た。
昭和の大晦日、昭和の正月が描かれている。
今年は一週間もない。
年末にも関わらず、あまり、そんな感じがしてこない。
「3月のライオン」11話を見て、
あっ、そうだ、もう今年も終りだ、
そんなあたりまえすぎることを感じていた。
毎回見ている。
だからオープニングとエンディングは、毎回見る必要はない。
そういえないことはない。
でも、毎回見ている。
エンディングの最後のシーンが見たいからかもしれない。
詳しいことは書かない。
二人の少年が描かれている。
私にもいる、と思う。毎回見ていて思っている。
「五味オーディオ教室」で出逢った13歳の少年だった私だ。
このときからオーディオ少年だった。
いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ。