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Date: 11月 12th, 2012
Cate: オーディオ評論, 五味康祐, 言葉

オーディオ評論家の「役目」、そして「役割」(続・おもい、について)

五味先生はオーディオにおいて何者であったか──、
私は、オーディオ思想家だと思っている。

2年前、この項の(その13)で、そう書いた。

あえて書くまでもなく、思想ということばは、思う・想うと思い・想いからなる。

五味先生の、音楽、オーディオについてのことばは重たい。

そう感じない人もいよう。
それでも私には読みはじめたときから、ずっと、まちがいなく死ぬまで「おもい」。

(その13)の最後には、こう書いた。

五味先生の、そのオーディオの「思想」が、瀬川先生が生み出したオーディオ「評論」へと受け継がれている。

だから私には瀬川先生の文章も、また「おもい」と感じる。

Date: 11月 8th, 2012
Cate: audio wednesday, 瀬川冬樹

第22回audio sharing例会のお知らせ(11月7日のこと)

もうこんな時間(1時40分)なので、すでに昨夜のことになってしまったが、
毎月第一水曜日に四谷三丁目にある喫茶茶会記で行っているaudio sharing例会、
今回は11月7日、瀬川先生の命日ということだったので、前回お知らせしたように、
「瀬川冬樹を語る」がテーマだった。

途中からではあったが、サンスイに当時に勤務されていて、
瀬川先生とも親しくされていた西川さんが来てくださった。

始まりは7時、終ったのは11時をすこしまわっていた。

いろんな話が出た。
そして、ひとつ確認できたことがあった。
やっぱりそうだったんだ、と。

別項「岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと」の(その7)で、
瀬川先生と岩崎先生はライバル同士であり、お互いに意識されていたはず、だと、
瀬川先生の文章を読んでも、岩崎先生の文章を読んでも、そう感じるようになっていた、ということを書いているが、
西川さんの話で、瀬川先生は岩崎先生のことを、岩崎先生は瀬川先生のことを、
もっとも手強いライバルであり、オーディオの仲間同士として意識されていたことを確認できた。

間違いのないことだとは思っていたことが、確認できた。
私にとって、そういう11月7日だった。

来年の11月7日は、33回忌になる。

Date: 11月 5th, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その37)

ボリュウムのツマミや入力セレクターのツマミを廻したときの感触なんて、どうでもいい。
大事なのは音であって、音がよければ感触がざらざらしていようと、ガタついていようと関係ない。

こんなことをいう人もいる。
音さえ良ければ、それでいい、という考えであれば、そうなるのかもしれない。
けれど、私のこれまでの経験からいえば、ボリュウムのツマミを廻したときの感触に、
いやなものを感じたとき、そういうものは必ず音となって現れてくる。

もっといえば、コントロールアンプ、プリメインアンプのボリュウムの感触はひじょうに重要な要素であって、
おおまかにはボリュウムの感触と音の感触は、ほぼ一致する。
井上先生も、このことは指摘されていた。

滑らかな感触がツマミを通して感じられるアンプの音は、滑らかである。
ざらついた感触があるアンプの音は、どこかにそういうところが感じられる。
滑らかな感触のものでもツマミによって、その感触、質感は変化していくように、
ツマミの存在も、この感触には大きな要素となっている。

試しにツマミを外して音を聴いてみると、いい。

こんなことを書いていくと、ここでも、そんなことで音は変らない、
そんなことで音が変ると感じるのはプラシーボだとか、オカルトだとか、いいだす人がいる。

そういう人たちに、私はききたい。
水を飲むとき、同じ蛇口から汲んできた水であるならば、
紙カップで飲もうと、プラスチックのコップで飲もうと、
陶器のグラスで飲もうと、ガラスの素敵なコップで飲もうと、
どれも同じ味だと感じるのか、ということだ。

それぞれのコップ、グラスにはいっている水は同じ水、水温もまったく同じ。
異るのは容器だけである。

私は容器によって、水の味は変って感じられる、そういう人間である。

どんな容器で飲もうと、中にはいっている水が同じならば、水の味は同じである。
そういう人には、音の微妙な違いは、一生わからない。
わからない人にとって、わかる人が聴き取っている世界は理解できないものだ。

自分に理解できない世界のことを、プラシーボとかオカルトとか、と否定していてなんになろう。
なぜ、より精進して、自分の聴く能力を鍛えようとしないのか、と思う。

結局、どうでもいい理屈をひっぱり出して、そんなことでは音は変らない、というのは、
精進することを拒否している、あきらめている自分を認めたくないからではないだろうか。

Date: 11月 2nd, 2012
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(その36)

井上先生が、目の前にあるアンプ、
この場合はコントロールアンプかプリメインアンプのことが多いのだが、
それらのツマミを必ず触られるのには、もちろん理由がある。

ひとつは例えばクロストークを確かめられるためでもある。
一般にクロストークといえば、左右チャンネル間での信号のもれとなるが、
井上先生がツマミをいじって確認されているのは、各インプット間のクロストークである。

つまりアナログディスクに入力セレクターを合せている状態で、CDを再生する。
CDプレーヤーとコントロールアンプもしくはプリメインアンプ間はケーブルでつながっていて、
アナログディスクは何もしていない。音楽は鳴らしていない。

そのままボリュウムをあげていくとフォノイコライザーのノイズが徐々に大きくなっていくとともに、
クロストークの多いアンプでは、本来ノイズ以外は聴こえてこないはずなのに、
CDの音がもれ聴こえてくる。反対の場合もありうるし、ほかの入力端子間でも起きることだ。
そのクロストークの音の量と質をチェックされていた。

これらのチェックの時、各種ツマミの感触も同時に確認されている。
特にボリュウムの感触は、じっくりと。

ボリュウムの感触は、レベルコントロールに使われている部品によっても異ってくるし、
同じ部品を使っていてもツマミの形状、重さ、材質によっても変化してくる。
そして、おもしろいことにボリュウムの感触は音の印象と一致することが多い。

たとえばマークレビンソンのアンプでいえばLNP2とML7では、
ボリュウムのメーカーが前者はスペクトロール、後者はP&Gであり、
廻したときの感触は正反対である。

LNP2ではツマミの後に、ほんとうにレベルコントロールがついているのか、と思うほど、
軽く、キュッキュッという感じがある。
ML7ではツマミの径がやや大きくなっているものの、基本的な形状はほぼ同じ材質も同じだが、
感触は重く、粘るような感じが、指先に伝わってくる。

どちらのボリュウムの感触を、さわっていて心地よいと感じるのかは人それぞれだろうし、
とちらのマークレビンソンのコントロールアンプの音が気に入っているかによっても違うだろう。

私が好きなのはキュッキュッとした感触のスペクトロールであり、
この感触こそがLNP2の音(個性)と一致しているように、私は受けとめているから、
もしLNP2にP&Gの部品がついていたら、LNP2への印象も変化していたのではなかろうか。

Date: 10月 15th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その13)

不思議なもので、人は映像のズームに関しては不自然さを感じない。
映画、テレビにおけるズームを不自然と感じる人は、現代においていない、と思っていいだろう。

なのに音の世界となると、人は音のズームを不自然と感じてしまう。
菅野先生が山中先生との対談で例としてあげられている
カラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーの交響曲第四番。

スコア・フィデリティをコンサート・フィデリティよりも重視した結果、
オーケストラが手前に張り出してきたり、奥にひっこんだりするのを、
左右のふたつのスピーカーを前にした聴き手は、不自然と感じる。

なぜなのだろうか。

考えるに、映像は平面の世界である。
映画のスクリーンにしてもテレビの画面にしても、そこに奥行きはない。
スクリーンという平面上の上での表現だから、人は映像のズームには不自然さを感じないのかもしれない。

ところが音、
それもモノーラル再生(ここでのモノーラル再生はスピーカー1本での再生)ではなくステレオ再生となると、
音像定位が前後に移動することになる。

奥行き再現に関しては、スピーカーシステムによっても、
スピーカーのセッティング、アンプやその他の要因によっても変化してくるため、
ひどく平面的な、左右の拡がりだけのステレオ再生もあれば、
奥行きのあるステレオ再生もあるわけだが、奥行き感を聴き手は感じているわけだから、
ある音がズームされることによって、その音を発している音源(音像)の定位が移動することになる。

こう考えていったときに、(その9)に書いたカラヤンの録音に存在する枠とは、
映画におけるスクリーンという枠と同じ存在ではないか、という結論に行き着く。

こういう「枠」はバーンスタインのベートーヴェンには、ない。

Date: 10月 10th, 2012
Cate: 録音, 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その12)

グレン・グールドの、シベリウスのソナチネの録音における試みは、
グールドが自身がのちに語っているように、けっして成功とはいえないものである。

アナログディスクで聴いても、1986年にCD化されたものをで聴いても、
グールド贔屓の聴き手が聴いても、やはり成功とは思えないものではあった。

それでもグールドがシベリウスの録音でやろう、としていたことは興味深いものであるし、
1976年からそうとうに変化・進歩している録音技術・テクニックを用いれば、
また違う成果が得られるような気もする。

グールドが狙っていたのは、音のズームである。
そのためにグールドは、4組のマイクロフォンを用意して、
4つのポジションにそれぞれのマイクロフォンを設置している。
ひとつはピアノにもっとも近い、いわばオンマイクといえる位置、
それよりもやや離れた位置、さらに離れた位置、そしてかなり離れた位置、というふうにである。

これら4組のマイクロフォンが拾う音と響きをそれぞれ録音し、
マスタリングの段階で曲の旋律によって、オンマイクに近い位置の録音を使ったり、
やや離れた位置の録音であったり、さらにもっとも離れた位置の録音にしたりしている。

ピアノの音量自体はマスタリング時に調整されているため、
マイクロフォンの位置による音量の違いは生じないけれど、
ピアノにもっとも近いマイクロフォンが拾う直接音と響き、
離れていくマイクロフォンが拾う直接音と響きは違ってくるし、その比率も違ってくる。

だからピアノにもっとも近い位置のマイクロフォンが捉えた音でスピーカーから鳴ってくるピアノの印象と、
もっとも遠くの位置のマイクロフォンが捉えた音で鳴るピアノの印象は異ってくる。

同じ音大きさで鳴るように調整してあっても、
響きの比率が多くなる、ピアノのマイクロフォンの距離が開くほどに、
ピアノは遠くで鳴っている、という印象につながっていく──、
これをグールドは、音のズームと言っていた。

Date: 10月 9th, 2012
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その11)

菅野先生が例としてあげられているカラヤン/ベルリンフィルハーモニーのチャイコフスキーのレコードは、
実をいうと聴いたことがない。
CDを買ってきて聴いてみようか、とも考えたが、
いま購入できるCDで、チャイコフスキーの第四番がおさめられているのは、
五番、六番との2枚組であり、1997年に発売されたものである。

もしかすると、リマスターによって、菅野先生が指摘されているところは
多少補整されている可能性もないわけではない。
なので、結局CDは購入しなかった(チャイコフスキーをあまり熱心に聴かないのも理由のひとつ)。

このカラヤン/ベルリンフィルハーモニーにチャイコフスキーの四番の録音が、
どう問題なのか、は、71号の菅野先生の発言を引用しておく。
     *
カラヤンとベルリン・フィルによる、チャイコフスキーの『交響曲四番』を、たまたま聴いていたら突如としてオーケストラが、ステージごとせり出して来ちゃって、びっくりしたわけね。
おそらくあれはね、オフ・セッティングでオーケストラのバランスのとれる一組のマイクロフォン、もっとオンでマルチにした一組のマイクロフォンがあり、それぞれにサブ・マスターがありまして、それがマスターへ入ってくる。
そして、その音楽のパッセージによって、そのオフ・セッティングを生かしあるいはオンも生かすというようなかっこうでいっているんだろうと、思うんです。
僕の記憶によると、ピアニッシモで、わりあいに歌うパッセージではオフが生きるんですな。そして、フォルテになってきますとオンのほうが生きてくる。
たしかに、それは明瞭度の問題からいっても、わからなくはない。
しかし、オーケストラのフォルテッシモは、大きく広がった豊かなフォルテッシモになってほしいのが、オンになってきますと、むしろその豊かさじゃなくて、強さ、刺戟ということで迫ってくる。
セッティングがそういうオン・マイクロフォンですから、それにすーっとクロスしていくと、オーケストラがぐわーっと出てくるんですね。
たぶん録音している人は十分わかっていると思うんですよ。ところが、カラヤンさんは恐らくそれを要求している。
そのとき、カラヤンさんに、
「いや、これはレコードにしちゃまずいですよ、オーケストラが向こうへいったり、こっちにきたりしますよ」
ということをたとえば言ったとしても、カラヤンさんは、
「いや、ここではこの音色が欲しいんだ。近い、遠い、そんなことはどうでもいい」
と言ったかどうかはわからないけれども、そして、
「ちょっと聴かせてくれ」
と、ミキサーに言う。ミキサーは
(じゃ、オフマイクの音のことを言っているのかな)
と勘を働かせて聴かせますね。
「これだ! これはこれでいい。じゃ、この部分はこの音で録ってくれ、ここの部分はこの音で録ってくれ……」
それでミキサーはそれに忠実に従って録ったと思う。
カラヤンさんはそれを聴いて、おそらく音楽的にきわめて満足をしたでしょう。
ところがわれわれが聴くと、これはほんとうに……近くなったり、遠くなったり、定位が悪くなったり……。
     *
これはあくまでも菅野先生の推測による発言ではあるものの、
かなり確度の高い発言だと思える。

このカラヤンのチャイコフスキーは1976年12月にベルリンで録音されている。
単なる偶然なのだろうか、1976年12月のトロントでも、同じようなコンセプトによる録音が行われている。
グレン・グールドによるシベリウスのソナチネである。

Date: 10月 8th, 2012
Cate: 黒田恭一

バーンスタインのベートーヴェン全集(その10)

ここでとりあげているバーンスタインのベートーヴェン全集は1980年に、
カラヤンのベートーヴェン全集は1977年に、
どちらもドイツ・グラモフォンから発売されている。

録音された時期は両者で2、3年の違いが存在しており、
その数年のあいだにも技術は進歩しているし、録音テクニックも変化していっている。

けれど、この両者のベートーヴェン全集のレコードの違いは、
そういう技術、テクニックの、時間の推移による違いから来ているものというよりも、
録音のコンセプト自体の違いが、それ以前にはっきりとした違いとしてあるように考えられる。

それはバーンスタインのベートーヴェンが、いわゆるライヴ録音であるということ、
カラヤンのベートーヴェンが、綿密なスタジオ録音であるということとも関係してくることとして、
録音のフィデリティの追求として、
バーンスタインにおいては、コンサート・フィデリティ、
カラヤンにおいてはスコア・フィデリティ、ということが他方よりも重視されている、といえよう。

このコンサート・フィデリティとスコア・フィデリティについては、
ステレオサウンド 71号(1984年6月発行)の、菅野先生と山中先生の巻頭対談の中に、
菅野先生の発言として出てきた言葉である。

ステレオサウンド 71号の菅野先生の発番を引用しておく。
     *
録音というものの基本的なコンセプトには二つあると思うんです。
一つは、コンサートの雰囲気を、そのまま録音しようという、コンサート・フィデリティ型、もう一つ、これはクラシックの場合に限られるけれども、スコアに対するフィデリティ型です。
スコアに対してのフィデリティを追求した録音は、生のコンサートの雰囲気をスピーカーから聴きたいという人には「顕微鏡拡大的である」とか「聴こえるべき音じゃないものが聴こえる」として嫌われます。
再生の側から言えば、いつもコンサート・フィデリティ派が主流になっています。
ところが、困ったことに、そういうコンサート・フィデリティ的なプレゼンス、あるいはオーケストラ・ホールに行ったかのごとき疑似現実体験、距離感が遠いとか近いとか、定位が悪いとか、音像が小っちゃいとか大きいとか、そんなことは音楽を表現する側にとっては、まったくナンセンスなんだ。
     *
この対談で、菅野先生はコンサート・フィデリティの録音として、
発売になったばかりのアバド指揮シカゴ交響楽団によるベルリオーズの「幻想交響曲」を、
スコア・フィデリティの録音として、
カラヤン指揮ベルリンフィルハーモニーによるチャイコフスキーの第四交響曲をあげられている。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その47)

LNP2のブロックダイアグラムを見ればすぐにわかることだが、REC OUTをパワーアンプの入力に接続しても、
VUメーターの両脇にあるINPUT LEVELのツマミによってボリュウム操作はできる。
こうすることによって3バンドのトーンコントロール機能をもつ最終段のモジュールをパスできる。
モジュールだけでなくOUTPUT LEVELのポテンショメーターや接点もパスできる。

中学生のころ、こうした使い方のほうが、
ボリュウム操作のため左右チャンネルで独立しているINPUT LEVELを動かす面倒はあるものの、
音の透明感ということでいえば、この使い方がいいはず、と短絡的にもそう思ったことがある。

短絡的、とあえて書いたのは、こういう使い方、そしてこういう使い方をされている方を否定するためではない。
あくまでも私にとってのLNP2というコントロールアンプの存在、
つまり、それは瀬川先生の存在と決して切り離すことのできないモノである、
ということを忘れてしまっていた己に対しての、短絡的という意味である。

まあ、それでも、したり顔で「LNP2はこうやって使った方が音が圧倒的にいい」などと面と向っていわれると、
「あなたにLNP2の魅力の何がわかっているのか」と、口にこそ出さないものの、そう思ってしまう。
そんなことをいう人と私が感じているLNP2の良さとは、実はまったく違うのかしれない。

こんなことを書いても、信号経路は単純化した方が絶対いい、と主張する人にとって、
LNP2にバッファーアンプを搭載することは、わざわざ余分なお金を費やして音を悪くしてしまうことでしかない。

理屈は、確かにそうだ。でも理屈はあくまでも理屈である。
音の世界において、理屈は時として実際に出てくる音の前では意味をなさなくなることもある。
それに理由付けなんて、後からいくらでもできるものだ。

理屈は、あくまでも、いま現在判明していることを説明しているにすぎない。
まだまだオーディオには判明していないことが無数にある。

だから、短絡的、と私は言う。
それに、そういう使い方をするのであれば、LNP2でなくて、他のアンプにした方がいい。

LNP2にあえてバッファーアンプを搭載することは、どうことなのだろうか。
過剰さ・過敏さ・過激さを研ぎ澄ますことであり、
そして、この3つの要素こそ、ジョン・カールと組んでいたマーク・レヴィンソンの「音」だと思う。

Date: 7月 30th, 2012
Cate: 五味康祐

続・長生きする才能(その3・また別の映画のこと)

あるテーマの映画を、これまで公開されてきたすべてを観てきたわけではないけれど、
DVDでの鑑賞を含めると、意外と見ているジャンルのなかに、いわゆるゾンビものがある。

アメリカのドラマ「ウォーキング・デッド」も視ている。

だからゾンビものの映画が好きといわれれば、そうなるのかもしれない。
でも、好きという感情を特に意識したこともなく、それでもわりとみているという事実を、
この項を書いていて、ふと思い出していた。

なかば強引なこじつけということにもなろうが、
ゾンビも、自殺できない人(すでに人ではないわけだが)ということになる。

ゾンビの設定としては、ゾンビに噛まれたり、ゾンビの血液によって感染する。
感染してある一定の時間が過ぎれば、人は死ぬ。そして肉体のみが復活してゾンビとなる。
いちどゾンビになってしまうと、生前の人としての記憶はなくなっており、
ただひたすら食糧を求めてさまよい歩く。

感染したことがわかった上で頭をぶち抜いて自殺、
もしくは誰かに殺されればをすればゾンビになることはない。
けれど自殺できぬまま、誰かに自らの死を依頼することができぬまま死に、ゾンビと化す。

ゾンビとなってしまうと、頭を破壊されない限り、ゾンビのままである。
死ねない(生きてもいない)、人の姿をした者となってしまう。

ゾンビはゾンビを襲わない設定になっている。
ゾンビが襲うのは生きた人間であり、食糧とするためである。
ゾンビとなっても動き回るにはなんらかのエネルギー源が必要であり、
そのための本能だけはいちど死んでしまっても残っている、というべきなのか、
新たにゾンビとしての本能が発生したのかは、はっきりしない。

そういうゾンビだから、ほとんどの映画では醜きものである。
おぞましい存在としてスクリーンに登場する。

あんなゾンビにはなりたくない、と誰しもが思うように描かれている。
にも関わらず、感染したとわかっていても自殺を選択しない人も登場するのは、
そこにはキリスト教が底流にあるからだろう。
自殺が禁じられていれば、ゾンビとなっていくしかない。

自殺のできない男が登場する五味先生の「喪神」。
ゾンビというジャンルの映画が描く「喪神」の世界。

人としての生命活動がとまりゾンビと化すまでわずかな間は、
ほんとうに「死」なのか、とも思ってしまう。
喪神の世界に死はあるのか、と。

Date: 6月 18th, 2012
Cate: 40万の法則, D130, JBL, 岩崎千明

40万の法則が導くスピーカーの在り方(D130と岩崎千明氏・続余談)

RiceとKelloggによるコーン型スピーカーユニットがどういうものであったのか、
少しでも、その詳細を知りたいと思っていたら、
ステレオサウンド別冊[窮極の愉しみ]スピーカーユニットにこだわる-1に、高津修氏が書かれているのを見つけた。

高津氏の文章を読みまず驚くのは、アンプの凄さである。
1920年代に出力250Wのハイパワーアンプを実現させている。
この時代であれば25Wでもけっこうな大出力であったはずなのに、一桁多い250Wである。
高津氏も書かれているように、おそらく送信管を使った回路構成だろう。

このアンプでライスとケロッグのふたりは、当時入手できるあらゆるスピーカーを試した、とある。
3ウェイのオール・ホーン型、コンデンサー型、アルミ平面ダイアフラムのインダクション型、
振動板のないトーキング・アーク(一種のイオン型とのこと)などである。

これらのスピーカーを250Wのハイパワーアンプで駆動しての実験で、
ライスとケロッグが解決すべき問題としてはっきりしてきたことは、
どの発音原理によるスピーカーでも低音が不足していることであり、
その不足を解決するにはそうとうに大規模になってしまうということ。

どういう実験が行われたのか、その詳細については省かれているが、
ライスとケロッグが到達した結論として、こう書かれている。
「振動系の共振を動作帯域の下限に設定し、音を直接放射するホーンレス・ムーヴィングコイル型スピーカー」
 
ライスとケロッグによるコーン型スピーカーの口径(6インチ)は、
高域特性から決定された値、とある。エッジにはゴムが使われている。
しかも実験の早い段階でバッフルに取り付けることが低音再生に関して有効なことをライスが発見していた、らしい。
磁気回路は励磁型。
再生周波数帯域は100Hzから5kHzほどであったらしい。

実用化された世界初の、このコーン型スピーカーはよく知られるように、
GE社から発売されるだけでなく、ブラウンズウィックの世界初の電気蓄音器パナトロープに搭載されている。

以上のことを高津氏の文章によって知ることができた。
高津氏はもっと細かいところまで調べられていると思うけれど、これだけの情報が得られれば充分である。
Rice & Kelloggの6インチのスピーカーの周波数特性が、やはり40万の法則に近いことがわかったのだから。

Date: 5月 9th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(1977年3月24日)

その日のことを、岩崎綾さんがご自身のブログに書かれている。
タイトルは「昭和52年3月24日」。

Date: 5月 8th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(2012年5月2日・その8)

この項の終りとして、多くの人が気になっていることについて少しだけ書いておこう。
岩崎先生のオーディオ機器について、である。

現在岩崎先生のお宅にあるのはJBLのハークネスとエレクトロボイスのエアリーズである。
ハークネスの上に、2440と2397の組合せはのっていない。
このことは1987年発行のスイングジャーナルの掲載の岩崎千明・没後10年の記事にも出ている。

アメリカ建国200周年のときに手に入れられたエレクトロボイスのパトリシアンは、
小学館のレコパル編集部が引き取られた、ときいた。
しばらくはレコパルの試聴室に置いてあった、とのこと。
岩崎先生は、このパトリシアンでトスカニーニ指揮のドヴォルザークの「新世界より」を聴かれたのだろうか。
アメリカの星条旗とチェロの国旗が描かれたジャケットのトスカニーニの「新世界より」を見つけ出されたのか。
レコパルの編集部は、試聴室に運びこまれたパトリシアンで「新世界より」を鳴らされたのではないか、と思う。

そう思うのは、The Music誌1976年11月号の「パトリシアンIVがないている」を読めばわかる。

5月2日に知り得たこと、そこから感じたこと、考えていることは、
これから先、このブログの複数の別項にて書いていくことになろう。

──5月2日、もう午前0時近い電車の中でひとりおもっていたのは、
ステレオサウンドを離れて、ほんとうに良かった、ということである。

ステレオサウンドにずっといたら、audio sharingはやっていない。
このブログも始めていない──。
岩崎綾さん、岩崎宰守さんと会うことも話をすることもなかった。
岩崎先生の万年筆が、いま目の前にあるということも、ない。

離れたことによって大変なことがけっこうあった。
いまも大変ではあるけれど、それでも離れたからこそ、といえることがいくつもある。
ここで、そのひとつひとつをあげていくことはしないけれど、
それらのこともあわせて思い出して、
「ステレオサウンドを離れて、ほんとうに良かった」というのが実感があり、本音である。

Date: 5月 8th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明氏のこと(2012年5月2日・その7)

スイングジャーナルの1972年11月号の録音評のところに、こんなことを書かれている。
     *
オレ自身では44年から49年にわたって録音された「バード・オン・サヴォイ」をベストにと思うのだが読者の誤解、あいつかぶれてるなとか、演奏評にまで口を出すな、とかいわれそうなので、一応ロルフ&ヨアヒムの「変容」にすべきか結論は編集者まかせにした。
     *
スイングジャーナルの古いバックナンバーを提供してくださった方のおかげで、
昨年から岩崎先生の文章の入力を頻繁に行っている。
作業しながらいつも思っていることは、なぜ、当時のスイングジャーナルの編集者はジャズのレコードについて、
岩崎先生に書かせなかったのか、ということ。
スイングジャーナル後半のオーディオのページでは活躍されていても、
レコードについては毎月の短い録音評と、ときどき(ほんとうにときどき)単発で書かれているぐらい。

当時のスイングジャーナルには書き手が揃っていた、ということも関係しているとは思っていたが、
もしかすると上で引用した文章からうかがえることも関係していたのかもしれないと思う。

岩崎先生がジャズについて語られているものを読みたい、と思っている。
スイングジャーナルでは無理でも、他の雑誌、ジャズやジャズランドにもこれから先、目を通していきたい。

岩崎先生が亡くなられたとき所有されていたレコードの枚数は1万枚ほどあった、と今回きいた。
いまでこそこのくらいの枚数を所有されている方は多いとはいわないまでも、珍しくはない。
でも、1977年当時にこの枚数は、やはりすごいと思う。
それだけレコードで音楽を聴いてこられた岩崎千明の音楽についての文章を読んでいきたい。
なにもジャズだけに限らない、音楽について書かれているものを読みたい。

どのくらいあるのかはまだわからない。
とにかく岩崎先生の文章を、これからも探していくつもりである。

Date: 5月 8th, 2012
Cate: 岩崎千明

岩崎千明のこと(2012年5月2日・その6)

五味先生、岩崎先生、ベートーヴェンについて書いていこうと思ったとき、
ひとつ、どうしてやってくれなかったんだろう……と思っていることがある。
五味先生のオーディオ巡礼に関することだ。

ステレオサウンド 16号で五味先生は山中先生、菅野先生、瀬川先生のリスニングルームを訪問されている。
その後に上杉先生のところにも行かれている。
岩崎先生のところには行かれていない。

16号は1970年発行の号だから、私が実際に読んだのはステレオサウンドで働くようになってからだ。
そのときは、この人選について不満はなかった。
でも、いまは違う。

五味先生はクラシック、岩崎先生はジャズ……だからというのは理由にはならない、と思う。
なにか別の理由があったのだろうか。

元編集者として言わせてもらうと、岩崎先生のところに行かれていたら、
どちらにどうころぶか予想はできないけれど、どちらに行ったとしても非常に面白いことになったはずだ。

このことを5月2日に話したところ、当日来てくださった方から、
スイングジャーナルの別冊で五味先生がジャズ喫茶めぐりをされている記事がある、という情報をいただいた。
そこで岩崎先生のジャズオーディオにも行かれた、らしい。
近々図書館に行って、調べるつもりである。
どういう内容の記事なのか、まったく想像できない。それにしても、すごい企画だな、と思う。