オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その8)
オーディオ評論家とは、いったい何の専門家なのだろうか。
とうぜん、「オーディオ」の専門家という答えが返ってくるだろうが、
では訊くが、オーディオの「何」についての専門家なのか?
オーディオ評論家とは、いったい何の専門家なのだろうか。
とうぜん、「オーディオ」の専門家という答えが返ってくるだろうが、
では訊くが、オーディオの「何」についての専門家なのか?
堂々巡りは、なにも悪い面ばかりではない。
同じところを何度も廻っているうちに、その「中心」がはっきりとしてくるからだ。
中心をはっきりと認識できれば、堂々巡りはきれいな円に近づいてくだろう。
そして円を小さくしていけばいいのではないだろうか。
「中心」に近づいていくのだから。
実は私も、堂々巡りしているのかもしれない。
だから、見据えていなければならない。
だが、堂々巡りしていることに気がつかないでいると、その軌道は円からはずれてしまい、
いびつな形になってしまうような気がする。
そうなるととうぜん「中心」は見えなくなる、というよりも、喪失してしまう。
なにも耳の悪い人が、オーディオ評論家と名のっている人の中に大勢いる、と言いたいではない。
オーディオ評論家を名のっているいるだけのような人のなかにも、
オーディオを仕事とはされていない、趣味として楽しまれている人のなかにも、
音の違いがわかるという意味での、「耳のいい」人は少なくない、と思っている。
言いかえれば、性能のいい耳の人、ということになるだろう。
音を詰めていく作業は、わずかな差を聴きわけ、どちらかの音を正しく選んでいくことを、
何十、何百どころか、それ以上の数を反復し積み重ねていく、ということでもある。
「使いこなしのこと」の項の(その28)に書いた「微差力」を、
たゆむことなく積み重ねていくしかない。
着実に積み重ねていくために必要なことは、その都度その都度において、
正しい判断を下せるかどうかである。これにつきる。
これが「聴く耳」の確かさ、である。
どこか一箇所、判断を間違えてしまうと、そしてそれにいつまでたっても気がつかないでいると、
堂々巡りからいつまでも抜け出せない。
楽しみ方は人それぞれだから、あれこれ言うつもりはない。
こういう人たちを、私は「複雑な幼稚性」なひとびと、と呼ぶ。
だから「耳のいい」人の言ったり書いたりしていることは、多少参考にはするけども、
とくに信用はしていない。
信用できる耳の持主は、信用できる感性の持主でもある。
「有機的な体系化」には、理性、感性、知性といったものが必要だろう。
それ以上に求められているのが「聴く耳」の確かさであることはいうまでもない。
科学を騙るオーディオ関係のウェブサイトに掲載されている文章や、
掲示板で、ケーブルや置き方で音は変化しない、と決めつけている人たちの根拠のひとつに、
あるひとつの要素だけを取りあげて、
その要素が音に与える影響は人間の検知領域よりも下のレベルだから、音の違いはわからない、というものがある。
人間の検知領域は、人によってそうとうに異っていても不思議ではない。
まず、そのことを無視して、平均的なレベルの話をもってきて、決めつける滑稽さがある。
そして、科学的に捉えようとしている人でも、
ひとつの要素単独の影響にしか触れようとしない不十分さがある。つまり徹底していない。
私と同年代、上の世代にとって有吉佐和子氏の「複合汚染」は衝撃的だった。
複数の毒性物質が、相加・相乗作用によって、単独の場合に人間に与える影響の質、
そしてその量が著しく変化するということを、この本によって知らされた。
それぞれの物質の安全基準は、あくまでも単独の場合であって、他の物質と結びつくことで、
ほんのわずかな量でも、思わぬ被害を及ぼす可能性があるわけだ。
オーディオも、複合要素、相加・相乗作用を考慮して当然であるべきなのに、
上述したように、単独の要素のみで語られる(騙られる)ことが多い。
これが「科学」だろうか。もし「科学」としたら、前時代の科学でしかない。
「オーディオの科学」というウェブサイトがある。
志賀氏の個人サイトで、オーディオの技術的な事柄について、多岐にわたって解説されている、このサイトを、
もちろん否定はしないけれども、だからといって、誰かにすすめるようなことはしない。
「オーディオの科学」に書かれていることをすべて暗記しても、
それだけでは、いつまでたっても「オーディオの知識」は身につかない。
「オーディオの科学」に書かれていることは、志賀氏にとっての事実、であるからだ。
なにも「オーディオの科学」だけではない。
オーディオの技術書をどれだけ読んで、頭に叩き込んでも同じことだ。
オーディオについて詳細にあらゆることを知っているだけでは、ダメだということに気がついてほしい。
「オーディオの知識」として成立させるためには、「有機的な体系化」を自分自身で行なう必要がある。
これができなければ、いつまでたっても、知っている事柄がただ増えるだけで、
「オーディオの知識」は欠如したままだ。
そして「知識」がなければ、見識はもちようがない。
仕事で、老人ホームに行ってきた。
ほとんどのところで、居室のテレビは液晶タイプになり、
食堂やホールの広いところに置いてあるテレビも、薄型のものに替えられている。
そういうところに行くたびに感じるのは、薄型テレビの音の悪さと、
入居者の人たちのテレビを見ているときの表情がなくなりつつあることの関係性である。
数年前まではほとんどのところで、ブラウン管タイプのテレビで、音は良くはないものの、
音声は、まあはっきりと聴きとれていた。
いまの薄型テレビは音量だけは出ていても、もう何を話しているのか、少し離れると、
とくに広い空間のところでは聴き取り難い。
こんな不明瞭な音で、高齢の入居者の人たちは、テレビの音声が聴きとれているのか。
だからだろう、テレビを見ている、というよりも、ただ眺めているだけ、という印象を受けてしまう。
以前は、テレビの内容に対して、もっと反応があったはず、と私は記憶している。
何を話しているのかわからなければ、テレビを見ていてもつまらない。
その音の悪い薄型テレビは、日本の大手企業がつくっているモノだ。
はじめて聞くようなブランドのものではない。
おそらく、それらの製品は、ホームシアター関係の雑誌では、そこそこの評価を得ているであろう、
そういうランクのものである。
ホームシアター関係の評論家は、そこそこ褒めているのだろう……。
施設を管理している側は、いいテレビを導入した、と思っているはず。
なのに……、である。
入居者の人たちに必要なのは、評判の薄型のものではなく、人の声がはっきりと聴きとれるテレビのはずだ。
そう、ごくごく一部のひとを除いて、オーディオ評論家の大半は、
メーカー、輸入代理店の代弁者(広報マン)でもなく、劣化した復唱者でしかないのではないか。
なぜ、そうなってしまったのか。
断言する、「オーディオの知識」の欠如だ。
「その発言はどこまでもメーカー、メディアの代弁者としてしか見られなくなってしまったことも、
活字離れの原因となっているように思えてならない。」
と早瀬さんは、オーディオ評論家について書かれている。
オーディオ評論家と名のって仕事をしている人、つまりお金を稼いでいる人たちは、
オーディオ雑誌を手に取って見れば、いったい何人いるのだろうか、と思う。
他に仕事をもちながら、オーディオ評論と、一般的には呼ばれている仕事をしている人もいるだろうし、
専業オーディオ評論家の人のほうが、実際に多いのかもしれない。
ホームシアターに軸足を置いている人たちは、どちらなのだろう?
資本主義というよりも、商業主義の世の中では、オーディオ評論家と呼ばれている人、名のっている人が、
メーカーや輸入代理店の代弁者──すこしきつい表現をすれば広報マン──としてしか機能しなくなっても、
それを全面的に否定する気は、じつはない。
言いたいのは、代弁者(広報マン)として、実は機能していないのではないか、という印象を、
私はもっているということ。