オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」(その6)
なにも耳の悪い人が、オーディオ評論家と名のっている人の中に大勢いる、と言いたいではない。
オーディオ評論家を名のっているいるだけのような人のなかにも、
オーディオを仕事とはされていない、趣味として楽しまれている人のなかにも、
音の違いがわかるという意味での、「耳のいい」人は少なくない、と思っている。
言いかえれば、性能のいい耳の人、ということになるだろう。
音を詰めていく作業は、わずかな差を聴きわけ、どちらかの音を正しく選んでいくことを、
何十、何百どころか、それ以上の数を反復し積み重ねていく、ということでもある。
「使いこなしのこと」の項の(その28)に書いた「微差力」を、
たゆむことなく積み重ねていくしかない。
着実に積み重ねていくために必要なことは、その都度その都度において、
正しい判断を下せるかどうかである。これにつきる。
これが「聴く耳」の確かさ、である。
どこか一箇所、判断を間違えてしまうと、そしてそれにいつまでたっても気がつかないでいると、
堂々巡りからいつまでも抜け出せない。
堂々巡りしていることを、オーディオの泥沼だ、といって、
それだけを楽しんでいる人は、そこにとどまっていればいい。
それだけを楽しんでいる人は、そこにとどまっていればいい。
楽しみ方は人それぞれだから、あれこれ言うつもりはない。
こういう人たちを、私は「複雑な幼稚性」なひとびと、と呼ぶ。
だから「耳のいい」人の言ったり書いたりしていることは、多少参考にはするけども、
とくに信用はしていない。
信用できる耳の持主は、信用できる感性の持主でもある。