老いとオーディオ(齢を実感するとき・その8)
11月7日に、おもうことに、
8月7日に、おもうことが加わったのは、歳をとったからだ。
岡先生の文章を読んでいると、
8月7日の時点で救急車を呼んでいてもおかしくなかったように思う。
翌朝にしても、そうである。
瀬川先生は独り暮しだった。
8月7日の夜、どんなに長かったろうか、とおもう。
まんじりともせず夜が明けるのを俟たれたのではないのか。
11月7日に、おもうことに、
8月7日に、おもうことが加わったのは、歳をとったからだ。
岡先生の文章を読んでいると、
8月7日の時点で救急車を呼んでいてもおかしくなかったように思う。
翌朝にしても、そうである。
瀬川先生は独り暮しだった。
8月7日の夜、どんなに長かったろうか、とおもう。
まんじりともせず夜が明けるのを俟たれたのではないのか。
四年前の「続・モーツァルトの言葉(その3)」で、
ネクラ重厚、ネアカ重厚、ネクラ執拗、ネアカ執拗といったことを書いた。
ネアカ重厚、ネアカ執拗で、オーディオ(音)に取り組んでいるつもりだが、
ネクラ重厚ではなく、ネクラ軽薄もあるように、
別項の「時代の軽量化」を書き始めて、思うようになった。
このネクラ軽薄が、(その2)でふれた「深刻ぶっているね」にも関係しているような気がする。
ウエスギ・アンプのU·BROS3とマイケルソン&オースチンのTVA1。
ふたつのKT88のプッシュプルアンプの対比というより、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」では、二人の女性の対比である。
歌い出しの「抱きしめて」。
その後に続く歌詞。
一人は「抱きしめて」といいながら、
こちらとの距離をぐっと縮めてくる。
「抱きしめて」の歌詞のあとは、すぐそこにいるような錯覚すら起す。
もう一人の「抱きしめて」は、そこに込められている心情は同じであっても、
ずっと控えめだ。奥ゆかしいともいえよう。
実際にこんなシチュエーションがあったなら、
そのあとにとる行動は、男ならみな一緒であろう。
それでも控えめな「抱きしめて」のあとには、
こちらから近づいていく必要はある。
(その6)で上杉先生の、ステレオサウンド 60号での発言を引用している。
ここでは、もう引用しないが、つまりはそういうことだ。
控えめな「抱きしめて」でも、そういうことである。
肝心なところは同じであり、そういう違いをTVA1とU·BROS3には感じる。
若いころならTVA1を迷うことなく選ぶ、と(その7)で書いている。
そのころから30年が経っている。
どちらの「抱きしめて」も、いい。
聴き手のこちらの心情も、いつも同じなわけではない。
TVA1の「抱きしめて」でなければならない時もある。
U·BROS3の「抱きしめて」こそ、と思うときもある。
歌っているのはグラシェラ・スサーナである。
一人の歌手なのに、アンプというシステムの内面が変ることで、
「抱きしめて」も、それに続く歌詞も、
込められている心情は変らずとも表現はまるで違ってくる。
アンプの違いが、心情の違いになってしまっては困る。
なんともつまらない「抱きしめて」になってしまうアンプもある。
そんなアンプなら、「抱きしめて」を誰かと一緒であっても聴けよう。
けれど、心情をきちんと歌にのせてくれるアンプであるなら、
TVA1にしてもU·BROS3にしても、これはやはり独りで聴くしかない。
誰かと一緒でも聴ける、という人は、
「抱きしめて」に込められている心情がわかっていない。
それだけだ。
私はそれほど多くのオーディオマニアを知っている(会っている)わけではない。
私より、ずっと多くのオーディオマニアを知っている人は、多い、と思う。
そんな経験のなかでの話だが、
オーディオマニアのなかには、深刻ぶっている人がいる。
「深刻ぶっているね」と、本人に向って言うわけではないが、
そういうオーディオマニアといっしょにいると、
真剣と深刻の違いについて考えたくなる。
私が勝手に「深刻ぶっているね」と感じているだけで、
本人にしてみれば、真剣にやっているんだろうな、とは頭では理解できる。
それでも、やっぱり「深刻ぶっているね」と感じてしまうことがある。
その人が不真面目にオーディオに取り組んでいるから、
「深刻ぶっているね」と感じるわけではない。
真剣と深刻を取り違えている──、
そう感じるのだ。
その人は、真剣と深刻を取り違えるのは、何かが欠けているからなのか。
若いころは、余裕がない人が深刻ぶるのかな、と思ったことがある。
そうかもしれない。
そうだとすると何故余裕がないのか(持てないのか)。
戯れること、戯れ心が欠けているから、のような気がする。
病院では多くの人が働いている。
大学病院と呼ばれる規模のところでは、
いったいどれだけの人が働いているのだろうか。
医師、看護師、検査技師、事務関係に就く人たちは、
病院が雇っている人たちである。
この人たちの他に、
調理・配膳、掃除、ゴミ回収、リネン関係、ヘルパー、補修関係、警備などの人たちがいる。
これらの仕事に就く人たちを、病院側は外部の業者に委託していることが多い。
病院での掃除、ゴミ回収、補修関係を引き受けている会社の人から聞いた話では、
高齢化が進んでいる、ということだった。
若い人も積極的に採用している。
18歳の人もいるけれど、ある大学病院で働いている、
その会社の人たちの平均年齢は50代後半である。
若い人がいても、その数は少なく、
70をすぎても働いている人が少なくないから、である。
若い人が集まらない、らしい。
だから高齢の人たちに頼るしかない。
この会社だけではなく、リネン関係でも同じような状況らしい。
若い人がまったくいない。
ある年齢以上の人たちしか集まらない。
リネンを請け負っている会社の人たちの平均年齢も高い、とのこと。
この人たちがいなければ、病院は機能しなくなる。
汚れ物やゴミはすぐに溜ってしまうし、
病室も汚れたままになってしまう。
通院、入院している人たちは、そういう人たちの存在にあまり気が向かない、と思う。
病気、けがを治したくて通院、入院しているだから、
医師、看護師といった人たちには注意がいっても、
そうでない人たちのことは特に意識することはなくても不思議ではない。
だから気づきにくいのかもしれない。
このまま、いまの状況が進んでいくと、どうなるんだろうか。
改善される、とは思えない。
同じようなことは、実は他の業種・業界でも起っていて、進んでいるのかもしれない。
オーディオ業界も例外ではない──、そんな気がする。
いつどこで、といったことを書くと、
その場にいた人ならば、もしかして……、と気づくかもしれないし、
それに特定の誰か何かを批判したいわけでもないから、
そういったことはすべて省くが、
とあるところで、とある日に、アナログディスクをかけるイベントがあった。
たまたま近くにいたこともあって入ってみた。
すぐ目につくところにアナログプレーヤーが置かれていた。
けれど不安定そうなテーブルの上に置かれていて、
プレーヤーから3mほど離れていても、明らかにプレーヤーが傾いているのがわかる。
なのに、かまわずアナログディスクが次々とかけられていく。
いわゆるオリジナル盤だったりするアナログディスクがかけられている。
そのイベントを主宰している人たちは、私よりも年輩の方たち。
なのに……、と思う。
こんなにいいかげんなセッティングのままで鳴らすのか、と。
セッティングのいいかげんさは、ハウリングにもあらわれていた。
アナログプレーヤーは持ち込まれたようだった。
それゆえに完璧といえるレベルでのセッティングに無理にしても、
プレーヤーの傾きぐらいはきちんとしておくべきである。
しかも不思議なのは、プレーヤーの前後方向の傾きについては、
ある方法で確かめていた。
その方法を書くと、どこでのイベントだったのかバレそうなので書かないで、
その方法で左右方向の傾きをチェックすればいいのに……、と思う。
もっともそんな方法でチェックしなくても、目で見て傾いているのだから、
それ以前の問題なのだが。
アナログディスク復権などといわれているようだし、
そのイベントも、その一貫のひとつなのだとしたら、
なんとも哀しいアナログディスク復権である。
と同時に、これもひとつの老い(劣化)なのかもしれない。
川崎先生の
《人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》は、
仏教でいうところの五濁(ごじょく)につながっていくのだろう。
劫濁
煩悩濁
衆生濁
見濁
命濁
そうなのかもしれない。
川崎先生が、2010年5月にTwitterに書かれていた
*
人間が「劣化」します。高齢による劣化、精神性での劣化、人格の劣化、欲望の劣化、この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!
*
誰だって毎年、歳をとっていく。
30になり、40になり、その十年後には50をこえる。
50からは60、70……とつづく。
《高齢による劣化》がおとずれる(まっている)。
にしても、老いるほどに、人はこれほどまでに違ってくるのか、とおもうことが、
私自身も50も半ばになったこともあって、増えてきた。
川崎先生は
《この哀しみを存分に受け止められる人間は劣化から解放されるという幻想もあり!》
と書かれている。
そのとおりなのかもしれない。
哀しみを存分に受け止められなかった人と、受け止められる人とがいて、
劣化から解放されない人と解放される人とがいる。
解放された人こそが、瑞々しさを得るのだろう。
つい先日も、川崎先生のこの言葉を思い出すことに出合った。
具体的なことは書かない。
何かが特定されるかもしれないことは書かない。
こんなにも人は「劣化」するのかと考え込むことがあった。
本人は、そんなことまったく思っていないのかもしれないが、
傍からみるこちらが辛くなるほどに「劣化」を感じてしまった。
本人がなにも感じてなければ、シアワセなんだろう。
むき出しの才能、
むき出しの情熱、
むき出しの感情、
これらをひとつにしたむき出しの勢いを、
audio wednesdayでの音で出しているのだろうか。
出せているのだろうか、それとも出せなくなったのか。
死は賜(し)であるならば、
自殺をしてはならぬわけが、ようやくわかる。
死は賜(し)なのか、とふと思う。
ポリーニは平均律クラヴィーア曲集の録音は、2008年9月、2009年2月となっている。
ポリーニは1942年1月5日生れだから、66歳、67歳の録音ということになる。
70を目の前にしてのバッハの演奏ということでは、
内田光子も、70でバッハを、とインタヴューで語っている。
内田光子は1948年12月20日生れ。
来年の12月で70になる。
ここ数年のコンサートで、断片的ではあるがバッハを弾いているのは知っていた。
自宅ではよくバッハを弾いている、とも別のインタヴューで答えている。
ピアノでバッハを弾くことは好きだし、問題ないと思っている、とも。
「考える人」2005年春号では、こんなことを語っている。
*
音楽にとって心と体は本当に大事。曲によっては演奏する私の体の使い方も違ってきます。ベートーヴェンのように私とは根本的に肉体の種類が違う人の曲をのめり込んで弾いていくと、私の体がどんどん変わって行くのがわかります。体が変わっていかないと、また逆に弾けない。変わったほうがましになるとは限らないんだけど、弾いているほうとしては変わっていくのは面白いです。
*
一人の作曲家の曲をのめり込んで弾いていくことでも体は変っていくし、
齢とともに体は変る。
内田光子の、70でバッハを、にはそんなことも意味しているのだろうか。
そう遠くないうちに、内田光子のバッハは聴けるようになるであろう。
けれど人はいつ死ぬのか、わからない。
まだまだ生き続けるつもりの私だって、いつくたばるのかはわからない。
まだまだ先のことと油断していると……、となるかもしれないが、
この人の平均律クラヴィーアを私は聴きたいし、
聴けるようになるまではしっかり(しぶとく)生きのびたい。
ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアは、もう聴くことはないだろう。
誰かのリスニングルームで聴くこと(かけられること)はあるかもしれないが、
自分のシステムでかけることはない、といえる。
ポリーニのバッハの平均律クラヴィーアにがっかりした。
がっかりするとともに、アルゲリッチはなぜ、バッハを積極的に演奏しないのか、と思う。
アルゲリッチのバッハは、ドイツ・グラモフォンから出ている。
トッカータ ハ短調BWV911、パルティータ 第二番、イギリス組曲 第二番。
ハタチになったばかりのころ聴いた。
そのあとも思い出しては、ひっぱり出して聴く。
パルティータは素晴らしい、と三十年ほど経っても、そう思う。
何に書かれていたのか、正確に思い出せないが、
五味先生はアルゲリッチ(アルヘリッチと表記されていた)の音色に、
少しばか否定的なことを書かれていた。
そういうところはあると感じても、アルゲリッチの演奏には、
他のピアニストの演奏からは感じとりにくい輝きがあって、
バッハのパルティータは、まさにそうである。
アルゲリッチのバッハを聴いた時から、
いつかはバッハをもっと録音してくれる、と信じていた。
全集の完成にはあまり関心はないようだが、それでもいつの日か……、と。
平均律クラヴィーアを残してほしい、と思い続けてきた。
可能性は少ない。
それでもポリーニの平均律クラヴィーアを聴いて、ますます切望するようになった。
アルゲリッチの平均律クラヴィーアが聴ける日は来るのだろうか。
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」を聴いたのは、中学生のころだった。
スサーナが情感をこめて「抱きしめて」と歌い出す。
この最初の「抱きしめて」を聴いて、どきりとしたことは、いまも憶えている。
とはいえ、ここでの「抱きしめて」に込められた意味を正しく理解していたとはいえない。
なにせ中学生。そんな経験はないのだから、あくまでも想像での理解にすぎなかった。
それから月日が経ち、久しぶりに聴いたスサーナの「抱きしめて」は、
自分の経験を自然とそこに重ねていて、初めて聴いたときよりも、
もっともっとどきりとした。
思い出して後悔もした。
そのスサーナの「抱きしめて」を、
マイケルソン&オースチンのTVA1は、情感たっぷりに鳴らす。
「抱きしめて」は日本語の歌であっても、歌っているグラシェラ・スサーナはアルゼンチンの人。
日本人にはない濃密さのようなものがそこにはあって、
そのことをTVA1の音は、より濃く表現してくれる。
それに対してウエスギ・アンプのU·BROS3は淡泊に鳴らす。
若いころは、そこが不満に感じた。
私は真空管アンプでプリント基板を使っているのは、基本的に認めていない。
TVA1はプリント基板を使った配線、U·BROS3はプリント基板を使わずに配線し組み立てられている。
アンプとしての信頼性の高さはU·BROS3は上といえる。
それでもスピーカーから鳴ってくる音だけで判断すれば、
グラシェラ・スサーナの「抱きしめて」だけで判断しても、
TVA1を若いころの私は、何の迷いもなく選んだ。
けれどさらに歳を重ねていき、40を越えたころからU·BROS3の表現も、TVA1の表現も、
どちらも魅力的に感じられるように変ってきたことに、
どちらの「抱きしめて」も等しく受け入れられるように変っていることに気づいたわけだ。
本は書店で買うようにしているのに、
CDはなぜかインターネット通販で買うことが圧倒的に多い。
今日ひさしぶりに新宿にあるタワーレコードに行った。
タワーレコードは独自に、廃盤になってしまった録音を復刻しているのはご存知のとおり。
バーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」のその中に入っていたことを、
店舗に行って気づいた。
「この曲の新境地を示したバーンスタイン唯一のワーグナーのオペラ全曲盤が、国内盤で約23年振りに復活!」
と帯にある。
なぜか、ずっと廃盤のままだった。
ハイライト盤はあったけれど。
数ある「トリスタンとイゾルデ」のディスクで、屈指の名演かといえば、そうとは思っていないけれど、
このバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」は執拗さという点で、
異質といえるのかもしれない。
この執拗さは、老いからくるものだろうか。
そうだろうと思う。
だからだろう、40をすぎたあたりから、無性に聴きたくなった。
けれど廃盤のままでかなわなかった。
発売になってすぐに買って聴いていたバーンスタインの「トリスタンとイゾルデ」だったが、
当時私は20代、最後まで聴き通すことがしんどく感じられた。
二、三回にわけて全曲を聴いたが、一回で最後まで聴き通したことはなかった。
そんなこともあって、他の事情もあって、手離していた。
いまなら、最後まで聴き通せるはずである。