Archive for category ジャーナリズム

Date: 8月 3rd, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その31)

ステレオサウンド 43号の表紙はセレッションのスピーカーシステムUL6とAGIのコントロールアンプ511。
UL6のウーファーも、31号、35号のJBL同様に白いコーンである。

43号の特集ベストバイでは、(その25)で書いているように、
ひとりしか票が入らなかった機種以外は、すべてに選者のコメント(140字程度)がついていた。

140字は400字詰め原稿用紙の半分にも満たない。
つまり短い。
それでも読み応えを感じていた。
だからこそ夢中になって43号を読んだ。

いまのやり方になってからのステレオサウンドのベストバイは、もう夢中になって読めない。
なぜなのか。
とにかく読み応えを感じない、ということがまず第一にある。

43号の次のベストバイの特集号であった47号。
ここでは一機種あたりのコメントは40字程度しかない。
誌面ではわずか一行。
それでも、いまのステレオサウンドのベストバイよりも読み応えを感じていた。

それはなぜかというと、コメントを書いている人がひとりではないからだ。
ステレオサウンドのベストバイは51号から変っていった。

あるスピーカーシステムをベストバイに選んだ人が五人いたとしても、
コメントを書くのはひとりになってしまった。

47号までは五人が選んだ機種は五人のコメントが読めた。
この違いは、文字数の違いよりもずっと大きい要素である。

Date: 7月 28th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その30)

ベストバイ特集のステレオサウンド 35号は売れた。
にも関わらず一年後のステレオサウンド 39号はベストバイの特集ではなく、カートリッジ123機種の総テスト。
ベストバイ特集の二回目は43号。丸二年経過している。

この43号が、私にとってははじめてのベストバイのステレオサウンドだった。
三回目のベストバイは47号、次は51号、55号、59号……、と定期的に行われていく。

47号から、星の数による点数がつくようになった。
51号から価格帯による区分けが始まった。

35号は1975年6月発売の号だから、すでに40年近く続いている企画なだけに、
ずっと同じやり方ということはなく、変化してきている。

こうやってベストバイという特集をふり返ると、
読み応えとは何だろう、と考える。

私個人にとってもっとも読み応えのあったベストバイは43号である。

いまは12月に発売される号で、ステレオサウンド・グランプリといっしょに掲載されているが、
読み応えは、私は感じない。

ここでいう読み応えとは、単なる文字の数の多さではない。

Date: 7月 27th, 2014
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その29)

ステレオサウンドは、最初にベストバイを特集した35号の一年前にも、
同じように試聴をしないでつくられるものを出している。
31号の特集「オーディオ機器の魅力をさぐる」である。

たまたまの一致だろうが、31号の表紙はJBLのスピーカーユニット、
35号の表紙はJBLの4350(白いコーン紙のウーファー2230がついている)、
どちらも白いコーン紙が印象に残る。

31号については知らないが、35号は売れた、ときいている。
定期購読者が多いステレオサウンド(少なくとも私が読者だったころ、編集者だったころはそうだった)でも、
号によって売行きは変動する。

意外に私が思ったのは、
表紙がアナログプレーヤー関連のものだと売行きが芳しくない、というジンクスがあったことだ。
カートリッジにしろ、プレーヤーにしろ、とにかくそうなっていたらしい。
私はアナログプレーヤーが表紙になっているほうが、いいと思うのにだ。

35号はアナログプレーヤーが表紙ではない。
ステレオサウンドにとってはじめてのベストバイ特集の号であり、
読者にとってもはじめてのベストバイ特集の一冊であったわけだ。

35号では、いまのベストバイのやり方とは違い、読み応えもあった。
一機種あたりの文字数は100字足らずであっても、選ばれている機種には選んだ人のコメントがあった。
ちなみに瀬川先生はスピーカーシステムを61機種選び、すべてについてコメントを書かれている。
もちろん他の人も同じである。

菅野先生は28機種のスピーカーシステム、岩崎先生は15機種のスピーカーシステムを選ばれている。

Date: 7月 12th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その5)

ステレオサウンドの創刊号は持っていない。
私が持っているステレオサウンドでいちばん古いのは2号だ。

この2号の表紙をめくる。
そこは表2(ひょうに)と呼ばれるページ。

表1、表2、表3、表4とは、本の表紙の呼び方で、
表1(ひょういち)が表表紙、表4(ひょうよん)が裏表紙、
表2は表1の裏、表3(ひょうさん)は表4の裏のことだ。

表1以外の表2、表3、表4は広告として使われる。
広告料金表を見ればわかるが、これらのページは高い。

ステレオサウンド 2号の表2は広告ではなく、目次でもなく、
こう書いてあるページだ。
     *
STEREO SOUNDは眼で聴く雑誌です
ジムランという文字が眼にはいったら
ジムランの艶やかな音を
シュアーと読んだら
力強いシュアーの響きを耳に描いてください
レコードの話は
ターンテーブルの静かな回転を思い浮べながら
テープの記事は リールに巻きとられてゆく
テープの流れを追いながら
わたくしたちと音楽のつながりは
とくに深いものがあるようです。
本誌が「聴」の世界をひらく
眼による水先案内となれば幸いです
     *
誰の文章なのかはどこにも書いてないが、
ステレオサウンドを創刊した原田勲氏によるものだろう。

Date: 7月 9th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その4)

別項(オーディオ評論家の「役割」、そして「役目」)でも書いているように、
私はステレオサウンドには、オーディオ評論の本という側面が、以前は確かにあった、と感じている読み手である。

私はステレオサウンドをいつのころからかそんなふうに読んできたし、
そう読んでおもしろいオーディオ雑誌であった時期がある。
だからこそ夢中になって読んできた。

だが、このことは私の勝手な読み方だったのであろう、と、
2013年の、ステレオサウンド編集長の新年の挨拶を読むと、改めて思ってしまう。

本だけに限らない。
何であれ、送り手の意図とは違う受けとめられ方をされることは、決して少なくない。
むしろ意図通りに受けとめられることのほうが少ないようにも思っている。

ステレオサウンドというオーディオ雑誌を、どう読もうと、
ステレオサウンドを手にした人の勝手が許されるともいえるし、
送り手側にしてみれば、できればそうでないことを望んでいる。

2013年の新年の挨拶は、私がステレオサウンドに期待していることは、
期待すべきことではなかった、ということをはっきりとさせてくれた。

私はいまでも、ステレオサウンドはオーディオ評論の本として読み応えのある本であってほしい、
と望んでいるけれど、2013年の新年の挨拶にあるように
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」こそが
ステレオサウンドの創刊以来変らぬ編集方針の柱であるのなら、望むのは筋違いでしかない。

そして考えたいのは、
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」には、
オーディオ評論家は読者の代表という意識があるのか、ということ、
ステレオサウンド編集部にもそういう意識があるのか、ということである。

Date: 7月 9th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その3)

ステレオサウンド編集長による2013年の新年の挨拶に、こう書いてあった。
     *
創刊以来、「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」との想いはただの一度も変ったことがありません。そして、これからもこの想いはけっして変ることがありません。
     *
茶化すつもりはまったくないのだが、
これを読んで、ステレオサウンドとはそういうオーディオ雑誌だったのか、と思った。

ステレオサウンド編集部に七年いた。
七年間で、「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」、
そうおもっていたことはなかったのではないか、とふり返ってみた。

この想いは創刊以来ただの一度も変ったことがありません、とあるから、
私がいた七年間(1982年〜1988年)もそうだったことになる。

つまり私は、その想いで本づくりをしていたわけではないことになる。
そうか、そうか、と妙に納得してしまった。

ステレオサウンドを読みはじめた中学二年のころは、
どのオーディオ機器がどういうふうにいいのだろうか、を知りたかったし、
それをステレオサウンドに求めて読んでいた。

そのころのステレオサウンドも
「素晴らしい音楽を理想の音で奏でたい、演奏家の魂が聴こえるオーディオ製品を世に広く知らせたい」
という想いでつくられていたとすれば、その想い通りに読んでいた読者になる。
それでもそんな読み方をずっと続けてきたわけでもない。

Date: 4月 14th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その2)

オーディオ評論家は読者の代表なのか──、
このテーマについては昨夜書こうと思い立っただけで、なにか自分なりの結論めいたものがあるわけではない。
何を書いていこうかとも思っている。

なにしろ私自身は、オーディオ評論家を読者の代表とこれまで考えたこともなかったのだから、
オーディオ評論家を読者の代表ととらえている人のことをあれこれ想像してみても、ピンと来ない。
なのに、昨夜も書いているように、オーディオ評論家を読者の代表ととらえている人がいる、
このことには確信がもてる(何の根拠もないけれど)。

オーディオ評論家を読者の代表と考える人とそうでない人の違いは、何に起因するのか。
そんなことを考えていた。

オーディオマニアはいい音を求めている──、
さがしている、といってもいい。

この点においてはすべてのオーディオマニアに共通していえることだと思っていた。
だが、もしかするとそうでもないのかもしれない、と昨夜から思いはじめてもいる。

つまり、いい音ではなくて、選択を求めているんじゃないのか、と。
選択というよりも選択肢といったほうがいいかもしれない。

選択と選択肢は違う。
選択肢を求めている人が、オーディオ評論家を読者の代表とするのではないだろうか。

Date: 4月 13th, 2014
Cate: オーディオ評論, ジャーナリズム

オーディオ評論家は読者の代表なのか(その1)

オーディオ評論家は読者の代表なのか、
ということはこれまで思ったことはなかった。

ステレオサウンドで本づくりに携わっていたときも、そういう考えはなかった。

いまも個人的には、オーディオ評論家が読者の代表とは思っていない。

それでもオーディオ好きの人と話したり、
インターネットであふれかえっている書き込みを読んでいると、
この人はオーディオ評論家を読者の代表と思っているんじゃないか──、
そう思えることがある。

オーディオ評論家を読者の代表とみている人とみていない人とがいる。
そう考えると納得のいくことがある。

オーディオ評論家を読者の代表と考えている人と考えていない人とでは、どちらが多いんだろうか。
そして次に考えるのは、オーディオ評論家にも、
オーディオ評論家を読者の代表と考えている人と考えていない人がいるはずだということ。

Date: 3月 29th, 2014
Cate: ジャーナリズム

想像つかないこともある、ということ(書いていて気づいたこと)

「コンポーネントステレオの世界 ’79」から架空の読者は登場しなくなった。
記事の構成も筆者ごととなり、組合せの予算がまず決められている。

「コンポーネントステレオの世界 ’79」は1978年暮にでた別冊だ。
このころステレオサウンドのベストバイは6月発売の夏号でやっていた。

1978年のベストバイを特集していた51号では、
それまでの47号、43号、35号のベストバイと異っている点がひとつあった。
価格帯の設定である。

それまでのベストバイは、スピーカーシステムのベストバイ、プリメインアンプのベストバイ……、といったように、
価格帯の設定はなかった。

たまたまの偶然なのかもしれない。
けれど1978年のステレオサウンドにおいて、価格(予算)ということが、
ベストバイと組合せの両方に登場しているのだ。

Date: 1月 24th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その11)

五味先生の本を読んだのか、と問えば、ほぼ間違いなく、読んだ、と返ってくるはず。
そこで、ただ読んだだけなのでは? と問えば、感動した、と返ってくるであろう。

だが感動とは、フルトヴェングラーの言葉が真理であるとすれば、
感動とは人と人の間にあるものであり、
同じ五味先生の本を読んでも、五味先生)(の本)と私の間にあるもの、
五味先生(の本)と別の人の間にあるものが、同じとは限らない。

同じところもあるだろうし、まったく違う感動なのかもしれない。
けれど、どう違っているのかははっきりとしない。

私と同じである必要はまったくない。
けれど、五味先生の本を読んで感動した、感銘を受けた──、
それがどの程度なのかは、「オーディスト」という言葉を誌面に載せてしまったあと、
ステレオサウンド編集部がどうしたのか(なにをしなかったのか)が、はっきりと語っている。

「オーディスト」は、ステレオサウンドに載せるべきではなかった。
けれど間違って載せてしまった。防ぐことはできたけれども、である。

その間違いそのものをいまさら否定しているわけではない。
その後のステレオサウンド編集部が、「オーディスト」を載せてしまったことに対し、黙りつづけていることに、
ステレオサウンド創刊から受け継がれてきた精神的支柱が喪失してしまっていることを指摘しているのである。

Date: 1月 20th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その10)

あと二年ほどでステレオサウンドは創刊50年を迎える。
これだけの期間本が出ているわけだし、五味先生が亡くなられてからもすでに30年以上が経っている。

いまではステレオサウンドの読者も五味康祐という名前を知らないか、
もしくは五味先生の音楽、オーディオについての文章を読んだこともない人がいるだろうし、
そういう人が増えてきているのは、時の流れなのだから、どうしようもできないことなのかもしれない。

そういう読者からすれば、私が山口孝氏の「オーディスト」について、
これほどこだわって書く理由は理解できないかもしれない。

読者でそうであるならば、ステレオサウンドの編集者もそうであっても不思議ではない。

五味先生の著作集「オーディオ巡礼」は復刊された。
ステレオサウンドの編集者なら、
ステレオサウンドに入社する前、もしくは復刊された時に一度は読んでいるのかもしれない。

おそらく、読んでいる、という答が返ってくるはずだ。

だが、彼らのいう「読んだ」は、どういうことなのだろうか。
ほんとうに「読んだ」のであるならば、
ステレオサウンドの特集記事に一回、広告に一回、
「オーディスト」という言葉が活字になってしまったことに、どうおもっているのか、
それを私は問いたい。

こんなことは書きたくはないが、
オーディスト(audist)は聴覚障碍者を差別する人・団体という意味をもつ。
つまりは、ステレオサウンドの読者を、そう呼ぶのであれば、
ステレオサウンドの読者は、五味先生を差別する人ということになるからだ。

だから、こうやって、傍からみればしつこいと思われようと、書く。

Date: 1月 19th, 2014
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その9)

編集部のシステムとしての問題については、
おそらくこうではないだろうか、という想像はつくし、
二、三、そのことに関することを耳にしている。

とはいえ、ここでいくらぼかして書いても、迷惑をかけてしまうだろうから、書かないでおこう。

編集部のシステムとしての問題は、外部からいくら指摘されたところで、
本人たちが自ら気がつかないことには解決されることはないのも事実だから。

それでも、なお「オーディスト」についてこうやって書いているのは、
ステレオサウンドで、「オーディスト」が使われたからである。
しかも記事と広告とで、二回もである。

山口孝氏の「オーディスト」はステレオサウンド以前に、無線と実験で使われていた(とのことだ)。
ステレオサウンド 179号で使われたあと、
ステレオサウンドの姉妹誌であるHiViでも、「オーディスト」は使われていた。

亀山氏だったと記憶しているが、
読者数人を集めての記事で、オーディオマニアの読者を「オーディスト」と呼ばれていた。

もしステレオサウンドで「オーディスト」が使われなかったなら、
他のオーディオ雑誌で使われようと、そしてオーディスト(audist)の意味を知ったあとでも、
ここに書くことはしなかっただろう。

ステレオサウンドで使われたから書いているのだ。
ステレオサウンドは創刊のときから、五味先生が精神的支柱となっている。
そのステレオサウンドで「オーディスト」を使うということは、私はどうしても無視できない。

Date: 11月 28th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集、本づくりとは・その4)

結局、「音は人なり」もそうではないのか、と思えてならない。

「編む音」と「織る音」があるからこそ「音は人なり」ではないのか。

Date: 11月 28th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集、本づくりとは・その3)

だからといって、ながく続いている雑誌が「織るもの」だとは限らないし、
短い期間しか続かなかった雑誌が「織るもの」でなかったともいえない。

途中までは「織るもの」だった雑誌もある。
あえてそれがどの雑誌かは書かないけれど。

いま、こういうことを書いているけれど、
私自身、ステレオサウンドの編集者だったころには、こういうことは考えもしなかった。

本づくりを経験して、そこから離れてけっこうな年月が経ち、
こういうことを考えるようになった。

いまの編集者が、本づくりをどう考えているのか、
それを直接聞いているわけではなく、
あくまでもでき上がって書店に並べられている本を手にとっての感想ではあるけれど、
やはり「編むもの」「織るもの」という考えはあると思えない。

ただ「編むもの」だけでは、いい本(雑誌)はつくれない、ということに気づいてほしいだけである。
なにも編集者だけに、そのことを求めているのではない。
その本(雑誌)に書いている人たちにも、である。

Date: 11月 27th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集、本づくりとは・その2)

編集とは、編むものなのか織るものなのか。

編むを辞書(大辞林)で引けば、
①糸・竹・髪の毛など細長い物を、結び合わせたりからみ合わせたりして、一つの形ある物を作り上げる
②文章を集めて本を作る。編集する
③いくつかの物をまとめて一つに組織化する
と書いてある。

文章を集めて本を作る。編集する、とあるし、
「論集を編む」ともあるから、本、それも雑誌は編むもの、となる。

織る、とは
①縦糸と横糸を一定の規則で交叉させ布を作る
②藺(い)・竹・わらなどを縦横に組んで布状のものを作る
③いろいろなものを組み合わせ、一つのものを作り上げる
とある。

「いろいろなものを組み合わせて、一つのものを作り上げる」ことは、
雑誌づくりにもあてはまる、といえよう。

編むの「論集を編む」に対して、「物語を織る」とある。

雑誌は一冊しか出さないものではない。
月刊誌は毎月一冊、隔月刊なら二ヵ月おきに一冊、
季刊誌ならば三ヵ月に一冊出していく。

創刊して割と早く休刊(廃刊)になる雑誌もあれば、
10年、20年、30年……と続いていっている雑誌もある。

一冊一冊は「編むもの」であっても、
継続して出していくことは「織るもの」なのではないだろうか。