Archive for category ジャーナリズム

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

9月2日は、ステレオサウンド 196号の発売日である。
あと一年(四冊)で、ステレオサウンドは200号(50年)を迎える。

「暮しの手帖」は、初代編集長の花森安治氏の「100号ごとに初心に立ち返る」のもと、
発行号数は100号ごとに「第n世紀」と区分けされている。

つまり来年冬(201号)からステレオサウンドの「第三世紀」が始まる。

ステレオサウンド編集部は200号(50年記念号)の特集を、
すでに企画していることだろう。
それがどんな企画で、どういう構成でまとめられるのか楽しである(期待はしていない)。

だが大事なのは、その次の号(201号)ではないのか。
201号から「第三世紀」が始まるのだから、
そこから始まるステレオサウンドの100冊のための大事な出発点となる。

だが残念なことに冬号の企画はすでに決っている。
ステレオサウンド・グランプリとベストバイである。
このふたつだけで相当なページが割かれる。

「第三世紀」が始まる号で、いきなりステレオサウンド・グランプリとベストバイ……。
ステレオサウンド編集部が真剣に考え取り組まなければならないのは、ここではないだろうか。

今回はステレオサウンド編集部は、何が間違っているのかについて話したい。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 27th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その9)

私がステレオサウンドにいたころ、編集顧問のYさんから聞いた話がある。
Yさんは中央公論やマガジンハウスの仕事も当時されていた。

正確な日付はおぼえていないが、1980年代の終りごろ聞いている。
マガジンハウスが新雑誌を創刊する際の話だった。

マガジンハウスとステレオサウンドでは出版社としての規模が大きく違う。
オーディオマニアでなければステレオサウンドの名前は知らない人の方が多いだろうが、
マガジンハウスの名前を知らない人はそう多くはないだろう。

話の中でもっとも驚いたのは、予算についてだった。
金額ははっきりとおぼえているけれど、ここで書くようなことではない。

1980年代後半はバブル期に入りはじめたころということもあっただろうが、
そんなに多いのか、と唖然とした。

その予算は新雑誌をつくるためだけでなく、新雑誌の広告にも使われるとのことだったけれど、
それだけの潤沢な予算があれば、新雑誌づくりにかかわる人たちもかなりの数なのだろう。

ステレオサウンドが創刊されたのは、その話の約20年前のことだ。
時代が違うとはいえ、ステレオサウンドの創刊には潤沢な予算はなかったことは聞いていた。

ステレオサウンドの創刊号(1号)の表紙は、2号以降の表紙とは趣が異る。
ロゴも違うけれど、写真が大きく、それ以降の写真とは異る雰囲気のものである。

ステレオサウンドの創刊は、ほんとうに大変だったと原田勲氏から聞いている。
表紙の件についても聞いたことがある。

ほんとうは、こんな表紙にはしたくなかった、そうだ。
けれど予算が尽きて、窮余の策としてとあるメーカーの写真を採用することになった、と。
つまり表紙を売らなければ、ステレオサウンド創刊号を世に送り出すことはできなかったそうだ。

すべての雑誌にとって、創刊号の表紙は大事である。
原田勲氏の頭の中では、まったく別の表紙のプランがあったはずだ。

けれど創刊号を出せるかどうかの瀬戸際では、そんなことはいってられない。
なんとしてでも創刊号を出す。

ステレオサウンド創刊号の表紙は、その顕れである。
もし別の選択をされていたら、ステレオサウンドは世に出なかったかもしれないのだから。

Date: 8月 25th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その8)

ステレオサウンドが創刊された昭和41年(1966年)はどうだったのか。
私は昭和38年生れだから、この時代のことを肌で知っているわけではない。

活字で、そしていろいろな人の話を聞いて知っているにすぎない。
1966年は、どうだったのか。
     *
 ぼくは、「ステレオサウンド」が創刊された昭和四十一年以前には、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかったと認識しているんです。もちろん、だからといってオーディオファンが存在しなかったわけではありません。ただ、その当時までのオーディオファンというのは、電気の知識をもっていて、自分でアンプを組み立て、スピーカーも組み立てる、というタイプが圧倒的に主流を占めていたわけですね。いいかえると、自分で作れないひとは、だれかそういうファンに再生装置一式を製作してもらわないことには、ロクな装置が手に入らないという時代だった。
 そして、そろそろメーカーが、今日でいうところのコンポーネント、むろん当時はまだコンポーネントという言葉がなかったわけだけれど、そういうパーツを製作しはじめていたんです。しかしそれにもかかわらず、自作できないレコード愛好家やオーディオ愛好家と、そうしたメーカーとの間を橋渡しする役目のジャーナリズムというはなかったと思います。たぶん世の中では、そういうものを欲しがっていた人たちが増えてきているということに、鋭敏な人間はすでに感じていたと思うんですけれどもね。
 いまふりかえってみると、この昭和四十一年という年は、たいへんおもしろい年だったと思います。たしかこの年に、雑誌「暮しの手帖」が卓上型ではあったけれども、はじめてステレオセットを取り上げてテストをしているんです。それからもうひとつ、なんと「科学朝日」がステレオの特集をやって、ぼくも原稿を書いているんですね。もちろんこの雑誌の性格から、ステレオの原理とかそういった方向での記事だったわけですけれど、ともかくステレオを特集して取り上げている。さらには「ステレオ芸術」誌の原型にあたるといえる雑誌が、「ラジオ技術」誌の増刊というかたちで、「これからのステレオ」というタイトルで発刊されているんです。つまり、いろいろな雑誌がオーディオを取り上げるようになった、さらにはオーディオ専門誌を作ろうという動きが具体化してきた、それがこの昭和四十一年という年に集中したわけですね。
 そうした動きのなかで、この「ステレオサウンド」誌が創刊されたということです。
     *
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会
《「ステレオサウンド」誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる》での、瀬川先生の発言だ。

瀬川先生の、ステレオサウンド以前に、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかった──、
この認識は正しい。
そしてもうひとつ言えることは、既存の出版社が既存の雑誌でオーディオ(ステレオ)を取り上げたり、
既存の出版社が、オーディオの別冊を出しているわけだが、
ステレオサウンドは、既存の出版社から創刊されたわけではないということだ。

ステレオサウンドを出版するために、ステレオサウンドという会社がつくられた。
その意味でステレオサウンドという《ほんとうの意味でのオーディオ専門誌》は、
出版社からの創刊ではなく、原田勲という出版者による創刊だった。

けれどいまは、株式会社ステレオサウンドという出版社からの出版物のひとつになってしまっている。

Date: 8月 24th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5への補足)

その5)に、
ステレオサウンドが出版している過去の記事をまとめたムックについて、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない、と書いた。

このムックは、いまのところ編集部の人が記事を選び編集している。
これをステレオサウンドの執筆者の責任編集としてみたら、どうだろうか。

柳沢功力氏、傅信幸氏、和田博巳氏、小野寺弘滋氏、三浦孝仁氏、
この人たちに、ひとり一冊のムックの責任編集を行ってもらう。

そのムックに載せる記事は、何も当人が書いた記事に限らない。
他の人の記事を選んでもいい。

とにかく、その人が考える「過去を大きな物語として語る」ために必要な記事を選んでもらう。
それだけでは過去を大きな物語として語ったことにはならないから、
選んだ記事をどう並べていき、
どこに物語として語るために必要なことを書いてもらう。

その文章をどこに挿入するのかも、その人の自由である。
記事と記事のあいだなのか、すべての記事をはさむように巻頭と巻末におくのか、
いくつかのやり方があり、ムックの構成を含めての責任編集である。

これは面白いムックになると思う。
責任編集をする人のバックグラウンドがはっきりしてくるはずだからだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その7)

季刊誌ステレオサウンドは、株式会社ステレオサウンドから出ている。
株式会社ステレオサウンドは、来年秋に創立50年を迎える出版社である。

私がステレオサウンドを読みはじめたころ、
株式会社ステレオサウンドは、季刊誌ステレオサウンドのほかは、
隔月刊誌のテープサウンド、それと半年に一度のHI-FI STEREO GUIDEだけが定期刊行物だった。
私が働きはじめたころは、月刊誌サウンドボーイが加わっていた。

現在の株式会社ステレオサウンドはもっと多くの定期刊行物を出している。
サウンドボーイはHiViになり、
テープサウンドはプロサウンドに変り、
管球王国、ビートサウンドなどいくつもの定期刊行物を創刊・発行している。

いまでは季刊誌ステレオサウンドは、
株式会社ステレオサウンドという出版社が発行している雑誌である。

こんなことを書くのは、私が読みはじめたころは違っていた。
少なくとも私の感じ方は違っていたからだ。

ステレオサウンドは、ひとつのブランドという認識だった。
だからテープサウンドもHI-FI STEREO GUIDE、サウンドボーイも、
ステレオサウンドというブランドが発行するオーディオ関係の雑誌・本という受けとめ方をしていた。

もちろん株式会社ステレオサウンドが出版社であることは、いまも昔も変らない。
それでもいまから40年ほど前、ステレオサウンドはブランドといえた。

私が書きたいのは、そのことではない。
もっと以前のこと、ステレオサウンド創刊のころである。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その6)

このブログは2008年9月に始めた。
その約一年後に、”the re:View (in the past)“を始めた。

このブログのために必要だと思い始めた。
川崎先生が書かれているように、《ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録》であり、
それはどんなに速報性が高かろうと、記録する時点で過去である。
ならば、過去の日々の記録も求められるのではないか。

始めたころは、いまのように時系列順に並べていたわけではなかった。
ブログは紙に印刷して読むものではない、
パソコンのディスプレイ、スマートフォンやタブレットで読む。
そのことを考えると、時系列に並べる必要性それほど感じなかったからである。

けれど、広告という日々の記録も”the re:View (in the past)”で公開しようと思い立ち、
時系列順に並び替えることにした。

ブログは日々の記録に向いている。
この「向いている」性質は、過去の日々の記録にもいえることだ。

ブログは公開日時を自由にできる。
10年前、20年前の日付でも簡単に設定できる。

ある程度つくったところで時系列順に並べ替えることはけっこうな手間だったけれど、
やってよかったと思っている。

今日の時点で”the re:View (in the past)”でオーディオの広告を、1600点以上公開している。

昨年から”JAZZ AD!!“で、
スイングジャーナルに掲載されたレコード会社の広告も公開しはじめた。

広告ページをスキャンするために、本をバラす。
そのままスキャンすると、昔の雑誌は紙が薄いこともあって反対側の印刷がすけて一緒にスキャンされる。
これを少しでも防ぐために黒い紙を用意する。
それでも完全に防げるわけではない。そして昔の本は紙が黄ばんでいることが多い。
それから傾いて印刷されているのも少なくない。

これらをレタッチで修整していく。
簡単に処理が終ることもあれば、意外に手間どることもけっこうある。
面倒だな、と感じることもないわけではない。

にも関わらず続けているのは、小さな発見があるからだ。
先日も、この項に関係する、小さな発見があった。

スイングジャーナル1972年2月号の、日本コロムビアの広告である。
ここに「注目のカルダン・レコード第一弾!」とある。

ジャズに詳しい人ならば知っていることなのだろうが、
私はピエール・カルダンがレコード・レーベルをもっていたことを、この広告で知った。

レコードも出版の形態のひとつと考えれば、
(その1)で紹介したWIREDの記事《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》の例といえよう。

この記事は本の出版に関してだが、レコードという種パンに関してもそういえるのではないか。
これについては、いずれ書いていきたい。

ここで書いていくのは、本の出版に関してであり,
ステレオサウンドという本は、出版社から始まったわけではない、ということだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5)

川崎先生のブログ《広報誌がまだジャーナリズムである》には、こう書いてある。
     *
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
     *
《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ステレオサウンドを見ていても強く感じている。
別にステレオサウンドだけではない、他のオーディオ雑誌も同じなのだが。

そんなことはないだろう、
ステレオサウンドは別冊として、過去の記事まとめたムックをけっこうな数出版しているんじゃないか、
そんな反論が返ってきそうだが、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない。

ただ思うのは、《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ジャーナリズム側だけの問題なのだろうか、という疑問だ。
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していたのは、
物語を読みとろうとする読者が消滅しつつあるからなのかもしれない、と思うからだ。

もっともこの問題は、鶏卵前後論争にも似て、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったから、読者もそうなっていったのかもしれないし、
読者がいつのまにか雑誌から物語を読みとろうとしなくなってきたから、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったのかもしれない。
オーディオの雑誌に関するかぎり、そのようにも感じてしまう。

そういうおまえはどうなんだ、と問われたら、
《過去を大きな物語として語れる編集者》としてはまだまだと答えるしかないが、
それでもこのブログを、私は自己表現とは考えていない。
別にこのブログだけではなく、文章を書くことが自己表現だとは考えていない。

私自身が読みとった・気づいた小さな物語をいくつも書いている。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その4)

雑誌の理想は、広告なしだ、という意見が昔からある。
私もそう思っていたことがある。
広告に頼らない雑誌をやっていくにはどうしたらいいんだろうか、と考えたこともある。

日本にも広告をいっさい掲載しない雑誌がいくつかある。
有名なところでは「暮しの手帖」がある。

「暮しの手帖」のジャーナリズムのありかたとして、広告なしで始まった。
だから「暮しの手帖」の影響が大きいのだろうと思う、
日本で広告なしの雑誌こそ理想のあり方だ、と受けとめられがちなのは。

けれど雑誌は、時代を反映しているモノである。
それは記事だけでなく、むしろ記事以上に時代を反映しているモノは広告ともいえる。

いい雑誌は、そして「時代を批評する鏡」でもある。
いい広告もまた「時代を批評する鏡」でもある、と思っている。

だから広告のない雑誌は、その心意気は素晴らしいと思うし、
同時代に読む雑誌としては広告なしもいいとは思う。

だが雑誌は振り返って読むモノでもある。
一年前、二年前の雑誌のバックナンバーを読めば、もっと古いバックナンバーを探しだして読む人もいる。

雑誌を読むということは、その雑誌とともに時代を歩むとともに、
その雑誌のバックナンバーを手に入れ読むことで、時代を溯っていくことを同時に体験できる。

ステレオサウンドで働けてよかったことのひとつは、
ステレオサウンドのバックナンバーをどれでもすぐに読めることがある。

編集部にいて最新のステレオサウンドをつくっていくと同時に、
私が読みはじめる前のバックナンバー(40号以前)を溯りながら読んでいけた。

これは他では体験することはできない。
この体験から、私は現在のステレオサウンド編集部の人たちに、
バックナンバーをもっともっとしっかりと読み込むべきだといいたいのである。

Date: 8月 22nd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その3)

どんな雑誌でもいい、書店に並んでいるさまざまな雑誌の中の一冊。
これを手に取ってページをめくっていく。

本の判型(大きさ)、厚さ(ページ数)、紙の質、
カラーページの量、広告の量と質……、そういった事柄を総合的に判断して、
このくらいの値段かな、というおおよその見当はつく。

記事の内容も大きく関係してくるが、広告も大きな目安である。
どんな広告が入っているのか。
その広告のクォリティはどはの程度なのかも判断材料だけれど、
むしろあまり程度のよくない広告がどれだけ入っているかも判断材料のひとつである。

雑誌の巻頭には見映えのする広告を集めていても、
巻末には、この雑誌にこの広告? といいたくなる類の広告をまとめている雑誌もある。

広告出稿の以来があれば原則としてことわらないという出版社もあれば、
その雑誌にそぐわない広告は拒否するという出版社もある。

そんなことを含めて本好きの人は、手に取った雑誌の値段の見当をつけている。
そして広告は、その雑誌の実情を間接的に語ってもいる。

たとえば中古オーディオを中心に扱っている販売店の場合。
昔はステレオサウンドに広告を毎号出していた。
けれどインターネットの普及、ウェブサイトをもつことで、広告を出さなくなったところもある。

なぜ出さなくなったからといえば、広告を出すことのメリットがなくなったからである。

中古オーディオの場合、広告を見て問合せの電話がある。
ステレオサウンドの○○号の広告に掲載されていたか○○はまだありますか、といったふうにである。

私も昔はよく広告を丹念に見ては問合せの電話をかけていたから、よくわかる。

こういう電話は、必ず、どの広告を見たのかを電話の主は販売店に伝える。
ところがある時期から、こういう電話の問合せがパタッとなくなった。
電話の問合せは、インターネットを見て、とか、ウェザサイトに掲載されている……、といったものに変っていった。

これは何も私の作り話ではない。
実際に以前は出していたけれど、いまはもう広告を止めてしまったオーディオ店の方から聞いた。
もっとも聞かなくとも、その販売店が広告を出さなくなった理由はわかっていたけれども。

そうやって広告の常連だったところが消えていく。
同時に新しいところの広告も入ってくる。
その入れ替りによって、その雑誌の印象もまた変ってしまう。

Date: 8月 20th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その2)

「考える人」をはじめて買ったのは、2005年春号だった。
特集は「クラシック音楽と本さえあれば」だった。

表紙にはそれだけでなく、「内田光子ロングインタビュー」の文字もあった。
これは買うしかない、と思い、レジに持っていった。

帰宅後、中を開けばすぐに気づいた。
広告が非常に少ないこと、それもユニクロの広告だけだったことに。

「考える人」2005年春号のページ数は256ページで、価格は1333円(税込み1400円)だった。
広告が極端に少ないから、256ページのうちほとんどが記事である。
カラーページもある。
新潮社が出していることもあって、執筆陣も多彩である。

広告がまったくない雑誌というのもないわけではない。
広告を載せない(とらない)ことで、理想の雑誌づくりを目指す──、
そういったことはほんとうに可能だろうか。

「考える人」をまったくの広告なしで、となったら、定価はいったいいくらになるのか。
定価が高くなれば買う人も少なくなる。
売れる部数が少なくなれば定価はさらに高くなる……。

ここが本・雑誌とレコードとの違いである。
レコードは、どんなに録音制作費がかかったものでも、
一枚のレコードの価格はほぼ決っている。レコードには広告がはいらない。

本はそうではない。
本好きの人ならば、書店でその本を手に取りパラパラめくれば、
その本のおおよその定価は見当がつくはずだ。

Date: 8月 19th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その1)

WIREDの先月の記事に《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》があった。

今月、川崎先生のブログに《広報誌がまだジャーナリズムである》があった。

このふたつを読んで共通して思い浮べたのは、「考える人」という、
新潮社が出している季刊誌のことだった。

「考える人」を手にしたことのある人は、気づいているかもしれない。
でも、私の周りで「考える人」を買ったことのある人で気づいていた人はいなかった。

「考える人」の広告は、すべてユニクロのものだけである。
そのことを指摘すると、ほんとだ! とびっくりされる。

数多くの雑誌が出版されているけれど、
「考える人」のような出版形態は他に例があるのだろうか。
少なくとも、私が書店で手にする雑誌に、こんな例はなかった。

「考える人」は新潮社が出している。
新潮社は出版社である。
けれど、これは《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》のひとつのカタチともいえる。

「考える人」に載る広告がユニクロだけということは、
ユニクロが新潮社につくらせている雑誌という見方もできなくはない。
この見方をあてはめれば、「考える人」はユニクロの広報誌でもある、といえるのか。

Date: 8月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その7)

ステレオサウンド 43号の特集はベストバイだった。
このころのステレオサウンドには毎号必ずアンケートハガキがついていた。
42号のアンケートハガキは、ベストバイ・コンポーネントの投票用紙だった。

スピーカーシステムから始まって、プリメインアンプ、コントロールアンプ、パワーアンプ、
チューナー、アナログプレーヤー、カートリッジ、ターンテーブル、トーンアーム、
カセットデッキ、オープンリールデッキ、
それぞれのベストバイと思う機種のブランドと型番を記入していくものだった。

ずいぶん考えていたことを思いだす。
まだオーディオに興味をもちはじめて数ヵ月だったから、
それほど多くの機種について知っているわけではない。

記入にあたって最も参考にしたのは「コンポーネントステレオの世界 ’77」だった。
スピーカーシステムは何にするか。
まずこれから考えた。

第一候補はJBLの4343だった。
このスピーカーシステムが、もっとも優れていることは感じていた。
ベストバイとはいえ、自分で買える機種を選ぶつもりはなかった。

それでも「JBL 4343」とは記入しなかった。
私が、どちらにするか最後まで迷ったのは、
キャバスのBrigantinかロジャースのLS3/5Aだった。

なぜこの二機種かといえば、「コンポーネントステレオの世界 ’77」の影響である。
井上先生の組合せを何度も読み返し、記入した。

43号には「読者の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント」というページがあった。
スピーカーシステムの一位は4343だった。505票集めていた。
発表されていたモノで票数が最も少なかったのは8票で、四機種がそうだった。

私が記入したスピーカーは8票以下だったようで、掲載されていなかった。

Date: 8月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その6)

雑誌の編集者であれば、関心・興味のない記事でも、場合によっては担当することもある。
けれど川崎先生の「アナログとデジタルの狭間で」の担当編集者は、そうではなかった。

彼は、金沢21世紀美術館で開催された川崎先生の個展に出かけている。
たしか連載が終ってからだったはずである。

押しつけられて担当していたわけではなかったはずだ。
強い関心・興味は、その時点までは少なくとも持っていたはずだ。

そのことを知っているから、どうしてもいいたくなる。
あれから約十年である。

人は生きていれば取捨選択を迫られるし、意識的無意識的に取捨選択をやっている。
十年のあいだにも、いくつもの取捨選択が、誰にでもある。
そこで何を選ぶのか。

現ステレオサウンド編集長が、十年のあいだに何を選んだのかは私にはまったくわからない。
でも、彼が何を捨て去ったのか……、
そのうちのひとつだけはわかる。

それがいまの間違った編集へとつながっていっているのではないのか。

Date: 8月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その5)

この項に関しては、(その3)までで、
言いたいことはいってしまっている。
その4)を書きながら、ここからは蛇足かもしれない、と思っていた。

受動的試聴と能動的試聴、そして川崎先生の「応答、回答、解答」のブログへのリンク。
編集を真剣に考えている人であれば、
これだけでステレオサウンドの編集の何が間違っているのかに気づくはずだから、
その先を書く必要はないといえば、そうである。

ステレオサウンド編集部が、194号の特集の何が間違っているのかに、
だから気づくのかといえば、そうではない、といわざるをえない。

なぜ気づかないのか。不思議でならない。
いまのステレオサウンド編集部には私より下の世代の人が中心のようだが、
私より少し年上の人もいる。
となれば世代の違いが原因ではないだろう。

私がここで指摘していることは、ステレオサウンドのバックナンバーをしっかりと読んでいれば、
そして川崎先生のブログを読んでいれば、自ずと気づくことである。
それが編集者であり、ジャーナリストと呼ばれる人である。

オーディオ雑誌の編集者であり、ジャーナリストであると自認するのであれば、
ステレオサウンドのバックナンバーはしっかりと読んでいて当然である。
ただ読んだ、というレベルでなく、読み込んでいなければならない。

読み込んでいれば、
いま自分たちがやっている組合せの記事と、
以前のステレオサウンドの組合せの記事の違いに、はっきりと何が違うかまではわからなくとも、
何かが違うことだけはわかるはずである。

何かが違うとわかれば、より深く考える。
なのに……、と思う。
結局、バックナンバーを読み込んでいない、としか思えない。

そして川崎先生のブログ。
現ステレオサウンドの編集長だけには、いっておきたい。
わずか五回で終了してしまった川崎先生の連載「アナログとデジタルの狭間で」、
この担当者が、いまのステレオサウンドの編集長であるからだ。

連載がなくなれば、関心も興味もなくしてしまうのか、と。

Date: 8月 10th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 組合せ

組合せという試聴(その4)

別項で、ステレオサウンド 99号での予算30万円の組合せについてすこしだけ触れた。

この記事を誰が書いたのかについてはあえて触れなかった。
書いた人について書きたいわけではなかったからだ。

いまステレオサウンドに書いている人の誰でもいい、
99号と同じ質問に対する回答として、どんな組合せを提示できるのかといえば、
ほとんど同じレベルであることが予測できるから、その人ひとりについて書こうとは思わない。

別項では、ステレオサウンド 56号での瀬川先生による予算30万円の組合せと比較した。

同じ予算30万円の組合せで、つくった人が違う(時代も違う)。
違うのは、それだけではない。
瀬川先生の56号での組合せは、回答としての組合せである。

99号での別の人の組合せは、表面的には回答としての組合せである。
読者からの質問に答えての組合せなのだから。

だが、私にはその組合せが回答としての組合せには思えない。
思えないからこそ、印象に残っていない(あまりにも印象に残らないから記憶していた)。

片方は回答としての組合せであり、もう片方はそうとはいえない組合せである。
すこし言い過ぎかなと思いつつも、それは応答としての組合せにすぎない。

同じことはステレオサウンド 194号の特集「黄金の組合せ」にも感じる。
あの誌面構成を含めて、応答としての組合せにすぎないものを「黄金の組合せ」と言い切っている。

最低でも「黄金の組合せ」は、回答としての組合せでなければならないのに。
だから(その1)で、間違っている、と書いた。
間違っている編集と言い切れる。

どうして、こうなってしまうのか。