Archive for category ジャーナリズム

Date: 11月 26th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(再生音とは……)

別項で「再生音とは……」を書いている。
書きながら、再生音の正体について、以前よりも考えている時間が増えてきた。

生音と再生音はべつもの。
ずいぶん昔からいわれてきていることだし、
私も以前からそう思ってきていた。

だからといって、再生音について深く考えていたとはいえなかった。

オーディオとは、再生音の世界である。
なのに、その再生音について、これまでしっかりと語られてきたことがあっただろうか。
少なくとも私が読んできた範囲ではなかった。

けれど、オーディオ機器の性能が向上していくのであれば、
再生音とは……、について深く考えていく必要はある。

私はそう考えているけれど、いまあるオーディオ雑誌はそうではないようだ。

Date: 11月 5th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ステレオサウンド 24号より・その2)

Lo-DのHS500の変更点は、他にもある。
HS500はホーン型トゥイーターをもつ。
このトゥイーターの前面にはディフューザーがついている。
最初のころは金属製だったのが、いつのころからか樹脂製へと変更されている。

材質の変更は、形状が同じであれば特性上の変化としては表れない。
だが材質の変更は音には、はっきりと表れる。

吸音材の材質に関しても同じだ。
特性的にはなんら変化はなくとも、音にははっりきとした変化がある。
グラスウールから粗毛フェルトに変更になっているのだから、まったく同じ音になると考えることに無理がある。

ユニットの端子位置の変更に関してもそうだ。
これくらいで音は変らないと思う人もいるかもしれない。
けれど端子位置はかなり音に影響する。

別項で書いている喫茶茶会記のスピーカーの調整に関しても、
807-8Aドライバーの端子が、通常では上にある。
これを下側にもってくるようにホーンごと反転させた。
807-8Aの後にある銘板が逆さまになってしまうけれど、これによる音の変化は決して小さくない。

そんなことで音が変るわけはない、という人はホーン型のシステムに取り組んだことのない人であろう。
ホーン型だけでなく、どんな方式のユニットであれ、端子位置は音に影響してくる。

優秀なユニットであれば、その音の変化ははっきりと聴き取れる。

なのに日立製作所の人たちは、音もなんら変わることがないことを確認した、と回答している。
いまから40年ほど前にしても、この回答はおかしい、と言わざるを得ないし。
Lo-Dというブランド名が、この会社をよく表しているともいえよう。

Date: 11月 4th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ステレオサウンド 24号より・その1)

別項を書くためにステレオサウンド 24号をすぐ手が届くところに置いている。
24号の巻末に、一ページだけの記事がある。
354ページに、その記事はある。
けれど、これは記事なのか、とも思うところがある。

そう思って目次を見ても、この記事は載っていない。
となると、この記事は広告となるのか。

この記事のことは、ステレオサウンドで働いていたころから知っていた。
それを、いま改めて読むと、この記事について何かを書きたくなった。

この記事のタイトルは、「本誌23号の質問に対する(株)日立製作所の回答」とある。
本誌23号の特集は「最新ブックシェルフスピーカー総まくり」、
ここでLo-D(日立製作所)のHS500が取り上げられている。

この記事の冒頭に、こう書いてある。
     *
 本誌では23号のブックシェルフ・スピーカー特集の記事中に、日立HSー500に関するテストリポート(245頁)のなかで次のような一節を掲載しました。
 ──このHSー500は発売された当時にくらべて最近のものは明らかに音質が変わってきている。この辺をメーカーに質問したいですね。──
 このリポートの質問事項に対して、株式会社日立製作所からこのほど次のような回答が寄せられましたので以下に掲載いたします。
     *
23号の245ページには、確かにある。瀬川先生の発言だ。
これに対しての回答は次の通りだ。
     *
 当社がHSー500を開発したのは5年前ですが、当初のものと現在の製品に音質上のちがいはまったくないと確信しております。変えたことと言えば、市販はしていませんがプロトタイプの時にバッフルボード前面にベニア合板を張り合わせておりましたのを外したことと、吸音材にグラスウールを使っていたのを途中で粗毛フェルトにしたこと、スピーカーユニットの端子を普通のスピーカーのように片側に置いていたのを経年変化を防ぐ意味で両サイドにしたことぐらいです。これらの変更は特性上も聴感上もなんら変わることがないことを確認した上で行っております。
     *
プロトタイプと市販品との違い以外に、
市販品でも吸音材の変更とスピーカーユニットの端子位置が変更になっている。
これは日立製作所も認めている。

日立製作所のいうように、吸音材と端子位置の変更は特性上はなんら変わらない、であろう。
だが聴感上となると、そうではない。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その3)

KK塾での濱口秀司氏の話を聞いていると、
世界は広い、という当り前のことを実感するし、
オーディオの世界は、目の前におかれたコップ一杯の水くらいであることも実感していた。

だから会場となったDNPホールに、オーディオ関係者がまったくいなくても不思議でもない。
もう七年以上の前のことだ。
川崎先生の講演をききたい、という人がいた(ひとりではない)。
オーディオの仕事をしている人だ。

二度ほど東京で川崎先生の講演があることを伝えた。
けれど来なかった。

人それぞれいろんな事情があるから……、ということはわからないわけではないが、
その程度なのか、と思い、それ以降伝えることはやらなくなった。

直接オーディオに関係する話が出てこないのならば、
オーディオ関係者として行く必要はないと考えているのかどうかは私にはなんともいえない。

それでも、なぜ来ないのか、とは川崎先生の講演の度に思うことだ。

二年前の三月、川崎先生の最終講義をききにいったことを書いている。
大阪大学に行われたにもかかわらず、オーディオ関係者がふたり来られていた。
今回のKK塾でも、このオーディオ関係者のふたりは来られていた。
(もしかすると他にも来られていたオーディオ関係者がおられたかもしれないが)

世界の広さからすれば、オーディオの世界はコップ一杯の水くらいなのだから、
KK塾にオーディオ関係者がまったくゼロであっても、対比からすればそうかもしれない。

でも来る人は来る。
来ない人は来ない。

そのことも実感していた。

Date: 10月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その2)

オーディオの世界は、世界の大きさからすれば、まさしく目の前におかれたコップ一杯の水くらいである。
けれど、そのコップ一杯の水は、渇きをいやす水でもある。

だから、その水は濁っていてはいけない。
澄んでいなければならない。

なのに、その水は知らぬ間に濁っていく。
なぜ、その水はそうなっていくのか。

そうなっていく水をどうすれば、澄んだ水に、渇きをいやせる水に戻せるのか。
もう戻せないのだろうか、たったコップ一杯の水も戻せないのか。

過去は変えられないが、過去のもつ意味は変えられる。
そのためには検証していかなければならない。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その1)

ステレオサウンドで働くようになってすぐに編集部の先輩からいわれたことがある。

「ステレオサウンドという本はオーディオ界で誰もが知っていてメジャーな存在だけど、
 オーディオそのものがマイナーな存在だからね」

確かにそうだと思って聞いていた。
私が働くようになったのは1982年からだから、すでにオーディオブームというものは終熄していた。

10年以上前のことになるが、菅野先生からいわれたことがある。

「世の中で起っているさまざまなこと、世界の広さからすれば、
 オーディオは、このコップ一杯の水くらいのことなんだよ」

その通りだとは思って、このときも聞いていた。

編集部の先輩も菅野先生も、そういわれたあとに特に何もいわれなかった。
だからその先にあることを、いわんとされることを、聞いた者としては考えていく。

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

今月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

明日(9月2日)、ステレオサウンド 196号が書店に並ぶ。
ステレオサウンドのウェブサイトに196号の告知が公開されている。

特集1は《ハイエンド・デジタル》。
これよりも私が、おやっ、と思ったのは、特集2の方である。
タイトルは《DIG 聴いて解く「注目機の魅力」》。

「聴いて解く」とある。
ここに興味を持った。

いま別項で、ステレオサウンド編集部は間違っている、ということについて書いているところだ。
川崎先生がブログで書かれている「応答・回答・解答」、
それから川崎先生が以前からいわれている「機能・性能・効能」、
これらに受動的試聴、能動的試聴を加えれば、ステレオサウンド編集部について語れる。

私がステレオサウンドがつまらなくなったと感じている理由のひとつには、
記事の大半が応答記事になってしまったことにある。
そのことについて、これから書くつもりのところに、
今回の《DIG 聴いて解く「注目機の魅力」》というタイトルである。

編集部がどういう意図で、このタイトルにしたのか、
つまりタイトルに「解く」をいれたのか、
まだ記事を読んでいないし、読んでも伝わってくるのかどうかもなんともいえない。

だが、タイトルに「解く」とある。
この「解く」を編集部は理解しているのか、とも思う。
応答記事ばかりをつくってきて、いきなり「解く」である。

川崎先生は8月26日のブログ『デザインは解である』で、
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solution
と書かれている。

196号の特集2のタイトルは、聴いて解くのあとに「注目機の魅力」と続いている。

注目機とは、いわば話題であり、そこにステレオサウンド編集部は「解」を当てている。
しかもDIGが頭についている。

仮に充分に理解しているとしよう。
特集2は、傅信幸氏、三浦孝仁氏、小野寺弘滋氏が書かれている。
この三人に、編集部の「聴いて解く」の意図は伝わっているのか、
書き手は「聴いて解く」をどう解釈しているのか。

これまでのような書き方であっては、「聴いて解く」には到底ならない。
「聴いて解く」とつけられた記事を書くのであれば、
かなりの覚悟が書き手には必要だし、いうまでもなく能力も求められる。

ほんとうに「聴いて解く」なのか、
読み手は「読んで解く」ことができるわけだ。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

ステレオサウンドの「第一世紀」の始まりとなった創刊号。
「第二世紀」の始まりとなった101号。

この二冊のステレオサウンドは、そこから始まる「次の世紀」の100冊を見据えての存在だったのか。

創刊号は、日本ではじめてのオーディオ専門誌としての登場ということもあって、
原田勲編集長の方針は、かなりはっきりしていたように感じる。

このことはステレオサウンド 50号の巻頭座談会で岡先生も述べられている。
     *
 いま創刊号を見直してみると、原田編集長は初めからかなりはっきりした方針をたてて、この雑誌を創刊されたように思います。それは、コンポーネント志向ということですね。もちろん創刊号では、当時の主力製品だった、いわゆるセパレートステレオみたいなものを、総括的に紹介するなど、かなり雑然としたところは見受けられるけれども、中心的な性格としてはコンポーネントを主力としている。こういう打ち出し方をした雑誌は、当時はほとんどなかったといってもいいわけで、だからほくはひじょうに新鮮な印象を受けたのです。
     *
101号はどうだろうか。
101号は24年前(1991年12月)に出ている。
特集はコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー(現在のステレオサウンド・グランプリの前身)とベストバイ。
残念だが、101号に「第二世紀」の始まりとなる内容は見受けられない。

ならば来年冬に出る201号も、101号同様でいいのではないか。
なぜ201号に、「第三世紀」の始まりにふさわしい内容を求めるのか。

101号のころはバブル期真っ只中だった。
インターネットも普及していなかった。
雑誌はそれまでの時代と違うモノへと変っていた時代でもある。
広告収入と本が売れることによる利益との差が拡大していった。

いまはどうだろう。
インターネットが驚くほどのスピードで普及していった。
10年前までは、インターネットは自宅か会社でパソコンの前に坐り利用するものだった。
それがいまではスマートフォンの登場で、いつでもどこでも快適に利用できる。

ウェブサイトの数も大きく増え、SNSの登場と普及、
それに雑誌の売行きの変化、書店数の減少、広告の減少(101号と最新号を比較してみれば一目瞭然だ)など、
雑誌の周囲は、「第一世紀」と「第二世紀」との違いとは比較ならないほど、
「第二世紀」と「第三世紀」と違ってきている。

だからこそ201号はステレオサウンド「第三世紀」の始まりであることを、
創刊号、101号よりももっともっと深く考えていかなければならない、と思うのだ。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
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第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

9月2日は、ステレオサウンド 196号の発売日である。
あと一年(四冊)で、ステレオサウンドは200号(50年)を迎える。

「暮しの手帖」は、初代編集長の花森安治氏の「100号ごとに初心に立ち返る」のもと、
発行号数は100号ごとに「第n世紀」と区分けされている。

つまり来年冬(201号)からステレオサウンドの「第三世紀」が始まる。

ステレオサウンド編集部は200号(50年記念号)の特集を、
すでに企画していることだろう。
それがどんな企画で、どういう構成でまとめられるのか楽しである(期待はしていない)。

だが大事なのは、その次の号(201号)ではないのか。
201号から「第三世紀」が始まるのだから、
そこから始まるステレオサウンドの100冊のための大事な出発点となる。

だが残念なことに冬号の企画はすでに決っている。
ステレオサウンド・グランプリとベストバイである。
このふたつだけで相当なページが割かれる。

「第三世紀」が始まる号で、いきなりステレオサウンド・グランプリとベストバイ……。
ステレオサウンド編集部が真剣に考え取り組まなければならないのは、ここではないだろうか。

今回はステレオサウンド編集部は、何が間違っているのかについて話したい。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
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Date: 8月 27th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その9)

私がステレオサウンドにいたころ、編集顧問のYさんから聞いた話がある。
Yさんは中央公論やマガジンハウスの仕事も当時されていた。

正確な日付はおぼえていないが、1980年代の終りごろ聞いている。
マガジンハウスが新雑誌を創刊する際の話だった。

マガジンハウスとステレオサウンドでは出版社としての規模が大きく違う。
オーディオマニアでなければステレオサウンドの名前は知らない人の方が多いだろうが、
マガジンハウスの名前を知らない人はそう多くはないだろう。

話の中でもっとも驚いたのは、予算についてだった。
金額ははっきりとおぼえているけれど、ここで書くようなことではない。

1980年代後半はバブル期に入りはじめたころということもあっただろうが、
そんなに多いのか、と唖然とした。

その予算は新雑誌をつくるためだけでなく、新雑誌の広告にも使われるとのことだったけれど、
それだけの潤沢な予算があれば、新雑誌づくりにかかわる人たちもかなりの数なのだろう。

ステレオサウンドが創刊されたのは、その話の約20年前のことだ。
時代が違うとはいえ、ステレオサウンドの創刊には潤沢な予算はなかったことは聞いていた。

ステレオサウンドの創刊号(1号)の表紙は、2号以降の表紙とは趣が異る。
ロゴも違うけれど、写真が大きく、それ以降の写真とは異る雰囲気のものである。

ステレオサウンドの創刊は、ほんとうに大変だったと原田勲氏から聞いている。
表紙の件についても聞いたことがある。

ほんとうは、こんな表紙にはしたくなかった、そうだ。
けれど予算が尽きて、窮余の策としてとあるメーカーの写真を採用することになった、と。
つまり表紙を売らなければ、ステレオサウンド創刊号を世に送り出すことはできなかったそうだ。

すべての雑誌にとって、創刊号の表紙は大事である。
原田勲氏の頭の中では、まったく別の表紙のプランがあったはずだ。

けれど創刊号を出せるかどうかの瀬戸際では、そんなことはいってられない。
なんとしてでも創刊号を出す。

ステレオサウンド創刊号の表紙は、その顕れである。
もし別の選択をされていたら、ステレオサウンドは世に出なかったかもしれないのだから。

Date: 8月 25th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その8)

ステレオサウンドが創刊された昭和41年(1966年)はどうだったのか。
私は昭和38年生れだから、この時代のことを肌で知っているわけではない。

活字で、そしていろいろな人の話を聞いて知っているにすぎない。
1966年は、どうだったのか。
     *
 ぼくは、「ステレオサウンド」が創刊された昭和四十一年以前には、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかったと認識しているんです。もちろん、だからといってオーディオファンが存在しなかったわけではありません。ただ、その当時までのオーディオファンというのは、電気の知識をもっていて、自分でアンプを組み立て、スピーカーも組み立てる、というタイプが圧倒的に主流を占めていたわけですね。いいかえると、自分で作れないひとは、だれかそういうファンに再生装置一式を製作してもらわないことには、ロクな装置が手に入らないという時代だった。
 そして、そろそろメーカーが、今日でいうところのコンポーネント、むろん当時はまだコンポーネントという言葉がなかったわけだけれど、そういうパーツを製作しはじめていたんです。しかしそれにもかかわらず、自作できないレコード愛好家やオーディオ愛好家と、そうしたメーカーとの間を橋渡しする役目のジャーナリズムというはなかったと思います。たぶん世の中では、そういうものを欲しがっていた人たちが増えてきているということに、鋭敏な人間はすでに感じていたと思うんですけれどもね。
 いまふりかえってみると、この昭和四十一年という年は、たいへんおもしろい年だったと思います。たしかこの年に、雑誌「暮しの手帖」が卓上型ではあったけれども、はじめてステレオセットを取り上げてテストをしているんです。それからもうひとつ、なんと「科学朝日」がステレオの特集をやって、ぼくも原稿を書いているんですね。もちろんこの雑誌の性格から、ステレオの原理とかそういった方向での記事だったわけですけれど、ともかくステレオを特集して取り上げている。さらには「ステレオ芸術」誌の原型にあたるといえる雑誌が、「ラジオ技術」誌の増刊というかたちで、「これからのステレオ」というタイトルで発刊されているんです。つまり、いろいろな雑誌がオーディオを取り上げるようになった、さらにはオーディオ専門誌を作ろうという動きが具体化してきた、それがこの昭和四十一年という年に集中したわけですね。
 そうした動きのなかで、この「ステレオサウンド」誌が創刊されたということです。
     *
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会
《「ステレオサウンド」誌50号の歩みからオーディオの世界をふりかえる》での、瀬川先生の発言だ。

瀬川先生の、ステレオサウンド以前に、ほんとうの意味でのオーディオ専門誌というのは、存在しなかった──、
この認識は正しい。
そしてもうひとつ言えることは、既存の出版社が既存の雑誌でオーディオ(ステレオ)を取り上げたり、
既存の出版社が、オーディオの別冊を出しているわけだが、
ステレオサウンドは、既存の出版社から創刊されたわけではないということだ。

ステレオサウンドを出版するために、ステレオサウンドという会社がつくられた。
その意味でステレオサウンドという《ほんとうの意味でのオーディオ専門誌》は、
出版社からの創刊ではなく、原田勲という出版者による創刊だった。

けれどいまは、株式会社ステレオサウンドという出版社からの出版物のひとつになってしまっている。

Date: 8月 24th, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5への補足)

その5)に、
ステレオサウンドが出版している過去の記事をまとめたムックについて、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない、と書いた。

このムックは、いまのところ編集部の人が記事を選び編集している。
これをステレオサウンドの執筆者の責任編集としてみたら、どうだろうか。

柳沢功力氏、傅信幸氏、和田博巳氏、小野寺弘滋氏、三浦孝仁氏、
この人たちに、ひとり一冊のムックの責任編集を行ってもらう。

そのムックに載せる記事は、何も当人が書いた記事に限らない。
他の人の記事を選んでもいい。

とにかく、その人が考える「過去を大きな物語として語る」ために必要な記事を選んでもらう。
それだけでは過去を大きな物語として語ったことにはならないから、
選んだ記事をどう並べていき、
どこに物語として語るために必要なことを書いてもらう。

その文章をどこに挿入するのかも、その人の自由である。
記事と記事のあいだなのか、すべての記事をはさむように巻頭と巻末におくのか、
いくつかのやり方があり、ムックの構成を含めての責任編集である。

これは面白いムックになると思う。
責任編集をする人のバックグラウンドがはっきりしてくるはずだからだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その7)

季刊誌ステレオサウンドは、株式会社ステレオサウンドから出ている。
株式会社ステレオサウンドは、来年秋に創立50年を迎える出版社である。

私がステレオサウンドを読みはじめたころ、
株式会社ステレオサウンドは、季刊誌ステレオサウンドのほかは、
隔月刊誌のテープサウンド、それと半年に一度のHI-FI STEREO GUIDEだけが定期刊行物だった。
私が働きはじめたころは、月刊誌サウンドボーイが加わっていた。

現在の株式会社ステレオサウンドはもっと多くの定期刊行物を出している。
サウンドボーイはHiViになり、
テープサウンドはプロサウンドに変り、
管球王国、ビートサウンドなどいくつもの定期刊行物を創刊・発行している。

いまでは季刊誌ステレオサウンドは、
株式会社ステレオサウンドという出版社が発行している雑誌である。

こんなことを書くのは、私が読みはじめたころは違っていた。
少なくとも私の感じ方は違っていたからだ。

ステレオサウンドは、ひとつのブランドという認識だった。
だからテープサウンドもHI-FI STEREO GUIDE、サウンドボーイも、
ステレオサウンドというブランドが発行するオーディオ関係の雑誌・本という受けとめ方をしていた。

もちろん株式会社ステレオサウンドが出版社であることは、いまも昔も変らない。
それでもいまから40年ほど前、ステレオサウンドはブランドといえた。

私が書きたいのは、そのことではない。
もっと以前のこと、ステレオサウンド創刊のころである。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その6)

このブログは2008年9月に始めた。
その約一年後に、”the re:View (in the past)“を始めた。

このブログのために必要だと思い始めた。
川崎先生が書かれているように、《ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録》であり、
それはどんなに速報性が高かろうと、記録する時点で過去である。
ならば、過去の日々の記録も求められるのではないか。

始めたころは、いまのように時系列順に並べていたわけではなかった。
ブログは紙に印刷して読むものではない、
パソコンのディスプレイ、スマートフォンやタブレットで読む。
そのことを考えると、時系列に並べる必要性それほど感じなかったからである。

けれど、広告という日々の記録も”the re:View (in the past)”で公開しようと思い立ち、
時系列順に並び替えることにした。

ブログは日々の記録に向いている。
この「向いている」性質は、過去の日々の記録にもいえることだ。

ブログは公開日時を自由にできる。
10年前、20年前の日付でも簡単に設定できる。

ある程度つくったところで時系列順に並べ替えることはけっこうな手間だったけれど、
やってよかったと思っている。

今日の時点で”the re:View (in the past)”でオーディオの広告を、1600点以上公開している。

昨年から”JAZZ AD!!“で、
スイングジャーナルに掲載されたレコード会社の広告も公開しはじめた。

広告ページをスキャンするために、本をバラす。
そのままスキャンすると、昔の雑誌は紙が薄いこともあって反対側の印刷がすけて一緒にスキャンされる。
これを少しでも防ぐために黒い紙を用意する。
それでも完全に防げるわけではない。そして昔の本は紙が黄ばんでいることが多い。
それから傾いて印刷されているのも少なくない。

これらをレタッチで修整していく。
簡単に処理が終ることもあれば、意外に手間どることもけっこうある。
面倒だな、と感じることもないわけではない。

にも関わらず続けているのは、小さな発見があるからだ。
先日も、この項に関係する、小さな発見があった。

スイングジャーナル1972年2月号の、日本コロムビアの広告である。
ここに「注目のカルダン・レコード第一弾!」とある。

ジャズに詳しい人ならば知っていることなのだろうが、
私はピエール・カルダンがレコード・レーベルをもっていたことを、この広告で知った。

レコードも出版の形態のひとつと考えれば、
(その1)で紹介したWIREDの記事《出版の未来は「出版社」ではなく「ブランド」にある》の例といえよう。

この記事は本の出版に関してだが、レコードという種パンに関してもそういえるのではないか。
これについては、いずれ書いていきたい。

ここで書いていくのは、本の出版に関してであり,
ステレオサウンドという本は、出版社から始まったわけではない、ということだ。

Date: 8月 23rd, 2015
Cate: 「本」, ジャーナリズム

オーディオの「本」(考える人・その5)

川崎先生のブログ《広報誌がまだジャーナリズムである》には、こう書いてある。
     *
ジャーナリズムというのは、基本は日々の記録であり、
それはナラシオンから離脱した大きな物語から小さな物語が、
出版そのものの革新性が求められているという重大な事に、
いわゆる雑誌というメディアはHP辺りでうろうろしていることです。
まず、過去を大きな物語として語れる編集者は消滅しました。
     *
《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ステレオサウンドを見ていても強く感じている。
別にステレオサウンドだけではない、他のオーディオ雑誌も同じなのだが。

そんなことはないだろう、
ステレオサウンドは別冊として、過去の記事まとめたムックをけっこうな数出版しているんじゃないか、
そんな反論が返ってきそうだが、
過去の記事を一冊の本にまとめることが、過去を大きな物語として語ることではない。

ただ思うのは、《過去を大きな物語として語れる編集者》の消滅は、
ジャーナリズム側だけの問題なのだろうか、という疑問だ。
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していたのは、
物語を読みとろうとする読者が消滅しつつあるからなのかもしれない、と思うからだ。

もっともこの問題は、鶏卵前後論争にも似て、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったから、読者もそうなっていったのかもしれないし、
読者がいつのまにか雑誌から物語を読みとろうとしなくなってきたから、
《過去を大きな物語として語れる編集者》が消滅していったのかもしれない。
オーディオの雑誌に関するかぎり、そのようにも感じてしまう。

そういうおまえはどうなんだ、と問われたら、
《過去を大きな物語として語れる編集者》としてはまだまだと答えるしかないが、
それでもこのブログを、私は自己表現とは考えていない。
別にこのブログだけではなく、文章を書くことが自己表現だとは考えていない。

私自身が読みとった・気づいた小さな物語をいくつも書いている。