オーディオの想像力の欠如が生むもの(その45)
オーディオの想像力の欠如した耳は、耳に近い音だけに敏感なのかもしれない。
心に近い音には、えてして鈍感だ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、耳に近い音だけに敏感なのかもしれない。
心に近い音には、えてして鈍感だ。
オーディオの想像力の欠如した耳は、無機的な音だけを喜ぶ。
黒田先生の「レコード・トライアングル」は、本である。
magazineではなく、bookとしての単行本であるが、
そこに収められている文章は、すべてなんらかの雑誌に書かれたものをである。
「レコード・トライアングル」のあとがきにあるように、
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》ともいえる。
つまり書き下しではない。
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》は、
どこかで読んだことのある文章が、いくつも載っていたりする。
読み手にとって、初めての書き手の文章ならば、そうではないけれど、
興味・関心をもって読んできている書き手の文章ならば、
けっこうな数は、いつかどこかで読んできた文章でもある。
「レコード・トライアングル」のような本は、
いわば雑誌と本の中間にあるような存在なのか、といえそうだし、
そう受け止める人もいるんだろうけれど、
私にとっては、一冊の単行本である。
書き下しであろうがなかろうが、まったく関係ない。
それにすべての文章をすでになんらかの雑誌に掲載されていた時に読んでいたとしても、
一冊の本としてまとめられ、一気に読める(読む)ことの楽しさ、
それにともなう発見は、雑誌掲載時にはなかなかできないことでもある。
雑誌に掲載されているときは、他の書き手の文章といっしょに、である。
そして、つねに掲載時の「いま」を同時に読んでいる、ともいえよう。
《最近はあちこちに書きちらしたものをまとめただけの本》におさめられている文章は、
比較的最近に書かれたもの、数年前の文章、もっと以前の文章でもある。
一冊に本にまとめられるときに、手直しがまたくないわけではないが、
掲載時と大きく変っていたりはしない。
なにがいいたいかのだが、結局私にとって、雑誌も単行本も、
本として受け止めている。
私にとって書店で売られているのは、本であり。
雑誌には広告が入っているから信用できない、とか、
書き下しの本が、格上だとか、そんなことは考えたこともない。
そのうえで、ステレオサウンドは、
以前は確かにオーディオ評論の本だっことについて書いていきたい。
アナログプレーヤーのプラッターの駆動方式は、
アイドラードライヴ、ベルトドライヴ、ダイレクトドライヴがある。
このなかで、アイドラードライヴをリムドライヴという人がいる。
リムドライヴといえば、この日本ではアイドラードライヴのことを指す、といっていい。
それで通用する。
私もリムドライヴを使わないわけではない。
けれどリムとはrimである。
rimは、周縁である。
周縁とはその漢字が示しているように、もののまわりである。
つまりアナログプレーヤーでいえばプラッターの縁のことである。
この縁をなんらかの方式で駆動することが、リムドライヴなのである。
昔のプレーヤーでは、この部分を駆動するものといえばアイドラードライヴだった。
ベルトドライヴはインナープラッター(サブプラッター)にベルトをかけるタイプが、
昔はほとんどだった。
アマチュアによる糸ドライヴ、それを製品化したといえるマイクロのRX5000+RY5500、
トーレンスのREferenceは、メインプラッターの外周にベルトをかけているから、
これらもリムドライヴということになる。
現在のベルトドライヴの大半は、リムドライヴということになる。
なのに、いまでもリムドライヴを、
アイドラードライヴに限定して使っている(書いている)人がいる。
それをそのまま誌面に載せるところもある。
通じればいい──、
そういう考えなのだろう、おそらく。
仲間内の会話ではないのだから、しっかりしてほしい。
このブログの書き始めは、2008年9月3日の19時7分に公開している。
十年前の予定では、この「言いたいこと(十年後)」が10,000本目となるはずだったが、
現実は8,763本目である。1,200本以上足りずに十年目を迎えている。
一本目は「言いたいこと」だった。
十年経った。
書きたいことは減ってくるのか、と当初は思っていた。
けれど、逆に増えている。
これは嬉しいことではない。
もう書く必要はないな、とほんとうは思いたかった。
オーディオの想像力の欠如した耳に、インプレッショニズムの音は響かないし、届かないだろう。
ステレオ時代 vol.12が書店に並んでいる。
特集は「デジタルとアナログの間で ステレオ時代的 PCMプロセッサー特集」であり、
表紙にはソニーのPCM-F1が取り上げられている。
その下に「追悼特集第二弾 ありがとう中島平太郎先生」とある。
今回も、これが目に留った。
前号が第一弾で、今号が第二弾。
第一弾が好評だったから──、という安易な気持でつくられた記事ではない。
それにステレオ時代 vol.12を手にとればわかるが、
誰の目にも第一特集は「ありがとう中島平太郎先生」なのは明らかである。
しかも前号よりも力の入った記事だ。
編集者のおもいがしっかりと伝わってくる。
「ありがとう中島平太郎先生」、
こういう記事は、広告にはほとんど、というかまったく結びつかない。
売れていない雑誌だからやれる記事──、
そんな言い方をする人はいるだろうが、ほんとうにそうだろうか。
売れている雑誌にはやれない記事なのか。
売れている雑誌(そんなオーディオ雑誌があるのか?)こそ、やるべき記事ではないのか。
いまから十年以上前のインターナショナルオーディオショウの会場で聞いたことを、
個人サイトからのデータを、オーディオ雑誌がひとことのことわりもなしに、
誌面に使っている件に関連して思い出していた。
人を待っていたので、会場のB1Fにある喫茶店にいた。
近くのテーブルから、はっきりと聞き取れる声で、
ショウに出展していたオーディオ関係者の会話が聞こえてきた。
誰なのかは、どこのブースの人なのかは伏せるが、
この二人は、インターネットはクズだね、ということを話していた。
オーディオ雑誌には志があるけれど、インターネットのオーディオ関係のサイトには志がない、
そんな趣旨の会話だった。
そこにはインターネットのオーディオ関連のサイトに対しての、
はっきりとした嫌悪感があった、と私は感じていた。
なぜ、そこまで嫌悪するのか、その理由は二人の会話からは掴めなかった。
確かにインターネットの世界には、クズだとしか思えない部分がある。
だからといってインターネット全体を十把一絡げに捉えてしまうのには、異を唱えたくなる。
それにオーディオ雑誌に志があった、という過去形の表現ならまだ同意できるけど、
志がある、にも異を唱えたくなったけれど、今回の件を、
この二人のオーディオ関係者はどう思うのか。
インターネットなんてクズだから、そんなこと問題にするほうがおかしい、とか、
オーディオ雑誌のやることに文句をいうな、とか、いうのではないだろうか。
あれから十年以上経っているとはいえ、
あの二人の年齢と、それにあの時の内容とその口調から、いまも変っていないのではないか。
オーディオ関係者のすべての人が、この二人のようだとは思っていない。
けれど、こんな二人がかなり上の地位にいた、ということもまた事実である。
雑誌が上で、インターネットはずっと下。
雑誌には志があり、インターネットには志はない。
この二人のオーディオ関係者の認識は、そうである。
今回のデジタルデータの流用が、私のサイトからだけでなく、
別の人のサイトからでも行われてしまっている。これだけではない可能性もある。
この二人のような認識の人にとっては、問題にするようなことではないのだろう。
そういう認識の人たちが、オーディオ雑誌の編集者にもいる、ということなのか。
十年以上経っている。
その十年間のインターネットの変化は大きく、
オーディオ雑誌・出版社がまったく影響を受けていない、とでも思っているのですか、と、
その二人のオーディオ関係者に問いたい。
別項で指摘したように、ステレオサウンドの試聴記のtwitter的なものへの変化、
そういうことにも、この二人のオーディオ関係者は気づいていないのかもしれない。
オーディオ雑誌には志があると、二人のオーディオ関係者は思い込んでいるのかもしれない。
いまも、そう思い込めているとしたら、シアワセな人たち、としかいいようがない。
スイングジャーナルの1980年3月号に、
「質の時代に入るか! オーディオ界」という菅野先生と瀬川先生の対談が載っている。
*
瀬川 また、話しは前後してしまいますが、こうした技術とセンスのバランスがあたり前のような世の中になっても、まだ聴いても測定しても相当おかしなスピーカーが新製品として平気で出てくること自体が分らない(笑)。
菅野 それは、何と言っても組織のもたらす影響が大きいんですよ。組織がなければ、現代企業の発展はないのだけれど、起業、組織といったものは必ずしもプラスばかりに働かない。特に、こうしたオーディオ機器と作るというものは、非常に組織化しにくいものなんですね。特に編集部なんぞは管理しきれない(笑)。
*
編集部というくらいだから、ひとつの、それほど大きくない組織である。
いろんな雑誌があって、いろんな編集部があるわけだが、
とりわけオーディオ雑誌の編集部は管理しきれないのだったのだろう、
この対談が行われた40年ほど前は。
管理しきれないからこそ、マネージャーではなく、リーダーが必要なのだろう。
けれど、これは40年ほど前の話である。
いまのオーディオ雑誌の編集部がそうだ、とは私はまったく思っていない。
オーディオの想像力の欠如が生む時代の軽量化を感じている。
貧すれば鈍する、という。
出版不況といわれて、もう何年目なのか。
あとどのくらい続くのか。
オーディオ雑誌も、そんなに売れていないのは書店に行けばわかる。
電車に乗っていてもわかる。
私が東京に出て来たばかりのころ、
電車でステレオサウンドや、オーディオ雑誌を読んでいる人はいた。
いまではまったく見かけなくなった。
まだ読者だったころ、電車に乗ったら買ったばかりのステレオサウンドをすぐさま開いて読んでいた。
ステレオサウンドだけではなかった、他のオーディオ雑誌もそうだった。
いまはそういう人をまったく見かけなくなった。
売れていないのは事実だ。
売れないから貧する。
貧するから鈍する。
だから個人サイトにあるカタログや広告のデータをそのままいただいて、記事に使う。
これこそ鈍する、だ。
ならば好況へと向いていけば、そんなこともなくなるのか。
どうだろうか……、と正直思う。
結局、鈍すれば貧する、なのだ、と思うからだ。
そして二年前に書いた『オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その3)』を思い出した。
いまではカタログも広告も、パソコンで制作されるのだから、
紙の状態で保管しておく必要はなく、デジタルデータのまま保存しておけばよく、
保管場所の問題も発生しないのだから、どのメーカーも輸入商社も持っていることだろう。
でも、それはいつごろからなのか。
早いところでは2000年前後からかもしれないし、
遅いところは数年遅れてなのかもしれない。
どちらにしろ、それ以前のカタログ、広告に関しては、
実際のカタログや広告をスキャンしてデジタルデータにしないかぎり、
紙のままでの保管となり、それを見たい人がいても叶わないだろうし、
保管されたままでは資料としての価値も、ほとんどない。
パソコンで制作される以前のカタログや広告のデジタルデータ化は、
個人がやることなのだろうか。
メーカーや輸入商社、もしくはオーディオ協会などの団体が旗振り役を買って出て、
オーディオ業界に従事している人たちがやることではないのか。
お金にならないことは、どうもやりそうにない。
誰もやらないから、結局個人がやるしかない。
カタログ、広告の資料価値に気づいた人が、やるしかない。
カタログを公開されているHideさん、広告を公開している私にしても、
つまりはそういうおもいでやっている。
Hideさんがどういう方なのかまったく知らないが、そうだと思っている。
目の前の利益しか見ていていのか(見えていないのか)と、
オーディオ雑誌の編集者、その出版社に悪態をつきたくなる気持がないわけではない。
それでいて、平気で無断流用する。
本来ならば、その広告が載っているオーディオ雑誌のバックナンバーを探し購入して、
スキャン、レタッチ作業などを編集部でやっての雑誌掲載のところを、
ひとことのことわりもなしに、バレないと思ってやっている(としか思えない)。
今回と同じデジタルデータの流用は、
オーディオ雑誌だけに限ったことではない。
facebookやtwitterといったSNSに、事件や事故、その他の写真や動画が公開される。
その場にいた人がスマートフォンで撮影したものである。
それをテレビ局が無断で放送してしまうことが、以前度々あって、
そのことでSNSで炎上したこともあって、最近では使用許諾をとっているようである。
テレビとオーディオ雑誌とでは、見る(読む)人の数が大きく違う。
テレビ局がいまもそんなことをやっていたら、SNSで叩かれる(炎上する)。
今回の件は、それとはちょっと違うところがある。
スマートフォンで撮影した写真や動画と、オーディオのカタログや広告とは同じには語れない。
カタログ、広告の著作権はどこにあるのかといえば、
広告制作会社、カタログ制作会社なのか、それともメーカー、輸入商社なのか。
私がthe re:View (in the past)で、
そういった古い広告を公開しているのは、だからグレーゾーンだということは認識している。
それでも、こうやってスキャンしてデジタルデータとしておかないと、いずれ消失してしまう。
広告が掲載されている雑誌そのものが処分されてしまうだろうし、
広告の原版が、メーカーや輸入商社に、いまも保管されているかといえば、
必ずしもそうではない。
(その1)で書いている、ある会を主宰される人が問い合せされたオーディオメーカーは、
オーディオだけのメーカーではなく、大企業である。
でも、そこにも40年前の広告に関するものは残っていないわけだ。
カタログも同じなことを知っている。
すべてを保管しているメーカーはどのくらいあるだろうか。
それに残っていたとしても、ただ保管されているだけでは死蔵でしかない。
カタログも広告も、貴重な資料ということを、
メーカー、輸入商社の人たちは理解しているのだろうか。
(その1)を書いたとき、
タイトルに(その1)とはつけていなかった。
(その2)(その3)……、と続きを書く気はなかった。
もっといいたいことはあったが、ここで留めておこう、と思っていた。
今日、(その1)にコメントがあった。
Hide様からのコメントを読んで、(その2)を書くことにした。
(その1)は二つ前の記事だけど、こう書いていてもコメントを読む人は、
そう多くないのがわかっているから、ここでも引用しておく。
*
あるサイトを運営していますが、同じ事を経験しました。
私の場合は広告ではなくカタログでしたが、雑に文字消しをした際の跡がそのまま載っていて気づきました。
今のオーディオ雑誌の編集者のレベルはその程度なんだと思います。
*
あるサイトとは、オーディオ関係のサイトなのは、読めばわかる。
そこで公開されているカタログを、どこかのオーディオ雑誌に無断で掲載されたわけだ。
Hideさんもそうだが、自分でレタッチした画像は、すぐに気づくものである。
無断拝借のオーディオ雑誌の編集者は、自分でそういう作業もやらないのだろう。
やっていれば、こんなことをやっていたら、すぐにバレる、ということに気づくはずだ。
とにかく私だけではなかった。
他の人も、イヤな思いをされている。
だから、こうやって(その2)を書いている。
the re:View (in the past)で、オーディオ雑誌に掲載された広告を公開している。
国内メーカー、輸入商社の広告を、
昔のオーディオ雑誌をバラして、一枚一枚スキャンして、
見開きの広告であれば左右ページを合成してレタッチして公開している。
300dpiでスキャンしているから、雑誌の記事にも使えるクォリティはある(はずだ)。
だからといって、ひとことのことわりもなしに、
オーディオ雑誌の記事に、それらの広告の画像が使われていることがある。
今日もあった。
少し前にもあった。
数年前には、audio sharingで公開しているウェスターン・エレクトリックのアンプの回路図、
これもあるオーディオ雑誌で公開されていた。
回路図などは、他でも公開されているのに、
なぜaudio sharingで公開している画像だとわかったのかといえば、
レタッチでやり残しているところがあって、それがそのまま残っていたからだ。
公開しているからといって、私になんらかの権利があるわけではない。
the re:View (in the past)には、引用についてなにかを書いているわけでもない。
それにサイト全体の名称がaudio sharingだから、
共有について、こまかなことはいいたくない。
それでもこんなことを書いているのは、
先月、見知らぬ方からメールがあった。
ある会で、the re:View (in the past)で公開している広告画像を使いたい、ということだった。
私の前に、そのメーカーにも問い合せされたけれど、
メーカーにも何もデータが残っていない、ということだった。
もちろん、お使いください、と返信した。
その数ヵ月前に、あるオーディオ店からも、同じようなメールが届いた。
そのオーディオ店のブログに、あるオーディオメーカーの広告の画像を使いたい、ということだった。
こちらに対しても、お使いください、と返信した。
そうやって何かの役に立てれば、やはり嬉しい。
けれど一方で、何の連絡もなしに、記事中にも何の注釈もなしに、
オーディオ雑誌の編集者は、使う。
バレない、と思っているのだろうか。