オーディオの想像力の欠如が生むもの(その43)
オーディオの想像力の欠如した耳に、インプレッショニズムの音は響かないし、届かないだろう。
オーディオの想像力の欠如した耳に、インプレッショニズムの音は響かないし、届かないだろう。
ステレオ時代 vol.12が書店に並んでいる。
特集は「デジタルとアナログの間で ステレオ時代的 PCMプロセッサー特集」であり、
表紙にはソニーのPCM-F1が取り上げられている。
その下に「追悼特集第二弾 ありがとう中島平太郎先生」とある。
今回も、これが目に留った。
前号が第一弾で、今号が第二弾。
第一弾が好評だったから──、という安易な気持でつくられた記事ではない。
それにステレオ時代 vol.12を手にとればわかるが、
誰の目にも第一特集は「ありがとう中島平太郎先生」なのは明らかである。
しかも前号よりも力の入った記事だ。
編集者のおもいがしっかりと伝わってくる。
「ありがとう中島平太郎先生」、
こういう記事は、広告にはほとんど、というかまったく結びつかない。
売れていない雑誌だからやれる記事──、
そんな言い方をする人はいるだろうが、ほんとうにそうだろうか。
売れている雑誌にはやれない記事なのか。
売れている雑誌(そんなオーディオ雑誌があるのか?)こそ、やるべき記事ではないのか。
いまから十年以上前のインターナショナルオーディオショウの会場で聞いたことを、
個人サイトからのデータを、オーディオ雑誌がひとことのことわりもなしに、
誌面に使っている件に関連して思い出していた。
人を待っていたので、会場のB1Fにある喫茶店にいた。
近くのテーブルから、はっきりと聞き取れる声で、
ショウに出展していたオーディオ関係者の会話が聞こえてきた。
誰なのかは、どこのブースの人なのかは伏せるが、
この二人は、インターネットはクズだね、ということを話していた。
オーディオ雑誌には志があるけれど、インターネットのオーディオ関係のサイトには志がない、
そんな趣旨の会話だった。
そこにはインターネットのオーディオ関連のサイトに対しての、
はっきりとした嫌悪感があった、と私は感じていた。
なぜ、そこまで嫌悪するのか、その理由は二人の会話からは掴めなかった。
確かにインターネットの世界には、クズだとしか思えない部分がある。
だからといってインターネット全体を十把一絡げに捉えてしまうのには、異を唱えたくなる。
それにオーディオ雑誌に志があった、という過去形の表現ならまだ同意できるけど、
志がある、にも異を唱えたくなったけれど、今回の件を、
この二人のオーディオ関係者はどう思うのか。
インターネットなんてクズだから、そんなこと問題にするほうがおかしい、とか、
オーディオ雑誌のやることに文句をいうな、とか、いうのではないだろうか。
あれから十年以上経っているとはいえ、
あの二人の年齢と、それにあの時の内容とその口調から、いまも変っていないのではないか。
オーディオ関係者のすべての人が、この二人のようだとは思っていない。
けれど、こんな二人がかなり上の地位にいた、ということもまた事実である。
雑誌が上で、インターネットはずっと下。
雑誌には志があり、インターネットには志はない。
この二人のオーディオ関係者の認識は、そうである。
今回のデジタルデータの流用が、私のサイトからだけでなく、
別の人のサイトからでも行われてしまっている。これだけではない可能性もある。
この二人のような認識の人にとっては、問題にするようなことではないのだろう。
そういう認識の人たちが、オーディオ雑誌の編集者にもいる、ということなのか。
十年以上経っている。
その十年間のインターネットの変化は大きく、
オーディオ雑誌・出版社がまったく影響を受けていない、とでも思っているのですか、と、
その二人のオーディオ関係者に問いたい。
別項で指摘したように、ステレオサウンドの試聴記のtwitter的なものへの変化、
そういうことにも、この二人のオーディオ関係者は気づいていないのかもしれない。
オーディオ雑誌には志があると、二人のオーディオ関係者は思い込んでいるのかもしれない。
いまも、そう思い込めているとしたら、シアワセな人たち、としかいいようがない。
スイングジャーナルの1980年3月号に、
「質の時代に入るか! オーディオ界」という菅野先生と瀬川先生の対談が載っている。
*
瀬川 また、話しは前後してしまいますが、こうした技術とセンスのバランスがあたり前のような世の中になっても、まだ聴いても測定しても相当おかしなスピーカーが新製品として平気で出てくること自体が分らない(笑)。
菅野 それは、何と言っても組織のもたらす影響が大きいんですよ。組織がなければ、現代企業の発展はないのだけれど、起業、組織といったものは必ずしもプラスばかりに働かない。特に、こうしたオーディオ機器と作るというものは、非常に組織化しにくいものなんですね。特に編集部なんぞは管理しきれない(笑)。
*
編集部というくらいだから、ひとつの、それほど大きくない組織である。
いろんな雑誌があって、いろんな編集部があるわけだが、
とりわけオーディオ雑誌の編集部は管理しきれないのだったのだろう、
この対談が行われた40年ほど前は。
管理しきれないからこそ、マネージャーではなく、リーダーが必要なのだろう。
けれど、これは40年ほど前の話である。
いまのオーディオ雑誌の編集部がそうだ、とは私はまったく思っていない。
オーディオの想像力の欠如が生む時代の軽量化を感じている。
貧すれば鈍する、という。
出版不況といわれて、もう何年目なのか。
あとどのくらい続くのか。
オーディオ雑誌も、そんなに売れていないのは書店に行けばわかる。
電車に乗っていてもわかる。
私が東京に出て来たばかりのころ、
電車でステレオサウンドや、オーディオ雑誌を読んでいる人はいた。
いまではまったく見かけなくなった。
まだ読者だったころ、電車に乗ったら買ったばかりのステレオサウンドをすぐさま開いて読んでいた。
ステレオサウンドだけではなかった、他のオーディオ雑誌もそうだった。
いまはそういう人をまったく見かけなくなった。
売れていないのは事実だ。
売れないから貧する。
貧するから鈍する。
だから個人サイトにあるカタログや広告のデータをそのままいただいて、記事に使う。
これこそ鈍する、だ。
ならば好況へと向いていけば、そんなこともなくなるのか。
どうだろうか……、と正直思う。
結局、鈍すれば貧する、なのだ、と思うからだ。
そして二年前に書いた『オーディオと「ネットワーク」(SNS = SESか・その3)』を思い出した。
いまではカタログも広告も、パソコンで制作されるのだから、
紙の状態で保管しておく必要はなく、デジタルデータのまま保存しておけばよく、
保管場所の問題も発生しないのだから、どのメーカーも輸入商社も持っていることだろう。
でも、それはいつごろからなのか。
早いところでは2000年前後からかもしれないし、
遅いところは数年遅れてなのかもしれない。
どちらにしろ、それ以前のカタログ、広告に関しては、
実際のカタログや広告をスキャンしてデジタルデータにしないかぎり、
紙のままでの保管となり、それを見たい人がいても叶わないだろうし、
保管されたままでは資料としての価値も、ほとんどない。
パソコンで制作される以前のカタログや広告のデジタルデータ化は、
個人がやることなのだろうか。
メーカーや輸入商社、もしくはオーディオ協会などの団体が旗振り役を買って出て、
オーディオ業界に従事している人たちがやることではないのか。
お金にならないことは、どうもやりそうにない。
誰もやらないから、結局個人がやるしかない。
カタログ、広告の資料価値に気づいた人が、やるしかない。
カタログを公開されているHideさん、広告を公開している私にしても、
つまりはそういうおもいでやっている。
Hideさんがどういう方なのかまったく知らないが、そうだと思っている。
目の前の利益しか見ていていのか(見えていないのか)と、
オーディオ雑誌の編集者、その出版社に悪態をつきたくなる気持がないわけではない。
それでいて、平気で無断流用する。
本来ならば、その広告が載っているオーディオ雑誌のバックナンバーを探し購入して、
スキャン、レタッチ作業などを編集部でやっての雑誌掲載のところを、
ひとことのことわりもなしに、バレないと思ってやっている(としか思えない)。
今回と同じデジタルデータの流用は、
オーディオ雑誌だけに限ったことではない。
facebookやtwitterといったSNSに、事件や事故、その他の写真や動画が公開される。
その場にいた人がスマートフォンで撮影したものである。
それをテレビ局が無断で放送してしまうことが、以前度々あって、
そのことでSNSで炎上したこともあって、最近では使用許諾をとっているようである。
テレビとオーディオ雑誌とでは、見る(読む)人の数が大きく違う。
テレビ局がいまもそんなことをやっていたら、SNSで叩かれる(炎上する)。
今回の件は、それとはちょっと違うところがある。
スマートフォンで撮影した写真や動画と、オーディオのカタログや広告とは同じには語れない。
カタログ、広告の著作権はどこにあるのかといえば、
広告制作会社、カタログ制作会社なのか、それともメーカー、輸入商社なのか。
私がthe re:View (in the past)で、
そういった古い広告を公開しているのは、だからグレーゾーンだということは認識している。
それでも、こうやってスキャンしてデジタルデータとしておかないと、いずれ消失してしまう。
広告が掲載されている雑誌そのものが処分されてしまうだろうし、
広告の原版が、メーカーや輸入商社に、いまも保管されているかといえば、
必ずしもそうではない。
(その1)で書いている、ある会を主宰される人が問い合せされたオーディオメーカーは、
オーディオだけのメーカーではなく、大企業である。
でも、そこにも40年前の広告に関するものは残っていないわけだ。
カタログも同じなことを知っている。
すべてを保管しているメーカーはどのくらいあるだろうか。
それに残っていたとしても、ただ保管されているだけでは死蔵でしかない。
カタログも広告も、貴重な資料ということを、
メーカー、輸入商社の人たちは理解しているのだろうか。
(その1)を書いたとき、
タイトルに(その1)とはつけていなかった。
(その2)(その3)……、と続きを書く気はなかった。
もっといいたいことはあったが、ここで留めておこう、と思っていた。
今日、(その1)にコメントがあった。
Hide様からのコメントを読んで、(その2)を書くことにした。
(その1)は二つ前の記事だけど、こう書いていてもコメントを読む人は、
そう多くないのがわかっているから、ここでも引用しておく。
*
あるサイトを運営していますが、同じ事を経験しました。
私の場合は広告ではなくカタログでしたが、雑に文字消しをした際の跡がそのまま載っていて気づきました。
今のオーディオ雑誌の編集者のレベルはその程度なんだと思います。
*
あるサイトとは、オーディオ関係のサイトなのは、読めばわかる。
そこで公開されているカタログを、どこかのオーディオ雑誌に無断で掲載されたわけだ。
Hideさんもそうだが、自分でレタッチした画像は、すぐに気づくものである。
無断拝借のオーディオ雑誌の編集者は、自分でそういう作業もやらないのだろう。
やっていれば、こんなことをやっていたら、すぐにバレる、ということに気づくはずだ。
とにかく私だけではなかった。
他の人も、イヤな思いをされている。
だから、こうやって(その2)を書いている。
the re:View (in the past)で、オーディオ雑誌に掲載された広告を公開している。
国内メーカー、輸入商社の広告を、
昔のオーディオ雑誌をバラして、一枚一枚スキャンして、
見開きの広告であれば左右ページを合成してレタッチして公開している。
300dpiでスキャンしているから、雑誌の記事にも使えるクォリティはある(はずだ)。
だからといって、ひとことのことわりもなしに、
オーディオ雑誌の記事に、それらの広告の画像が使われていることがある。
今日もあった。
少し前にもあった。
数年前には、audio sharingで公開しているウェスターン・エレクトリックのアンプの回路図、
これもあるオーディオ雑誌で公開されていた。
回路図などは、他でも公開されているのに、
なぜaudio sharingで公開している画像だとわかったのかといえば、
レタッチでやり残しているところがあって、それがそのまま残っていたからだ。
公開しているからといって、私になんらかの権利があるわけではない。
the re:View (in the past)には、引用についてなにかを書いているわけでもない。
それにサイト全体の名称がaudio sharingだから、
共有について、こまかなことはいいたくない。
それでもこんなことを書いているのは、
先月、見知らぬ方からメールがあった。
ある会で、the re:View (in the past)で公開している広告画像を使いたい、ということだった。
私の前に、そのメーカーにも問い合せされたけれど、
メーカーにも何もデータが残っていない、ということだった。
もちろん、お使いください、と返信した。
その数ヵ月前に、あるオーディオ店からも、同じようなメールが届いた。
そのオーディオ店のブログに、あるオーディオメーカーの広告の画像を使いたい、ということだった。
こちらに対しても、お使いください、と返信した。
そうやって何かの役に立てれば、やはり嬉しい。
けれど一方で、何の連絡もなしに、記事中にも何の注釈もなしに、
オーディオ雑誌の編集者は、使う。
バレない、と思っているのだろうか。
別項で、「音は人なり」は、思考の可視化と書いた。
思考の可視化ということでいえば、
組合せはまさに、思考の可視化である。
思考は(しこう)であり、
(しこう)は、志向、指向、嗜好でもある。
まさに組合せは、志向、指向、嗜好の可視化ともいえる。
このことに気づけば、組合せの記事こそがオーディオ雑誌の記事で、
もっとも興味深く面白い、といえる。
けれど実際は、編集者も組合せを考えるオーディオ評論家(商売屋)も、
組合せを思考の可視化とは、おそらく考えていない、はずだ。
スピーカーを決めて、それに合いそうなアンプを数機種見繕って、順に聴いていく。
その中から一機種選ぶ。
次はCDプレーヤーを数機種選んで……、
そんな試聴(受動的試聴)をやっていても、
オーディオ評論家にやらせても、
思考の可視化になるはずがない。
おもしろくなるはずがない。
株式会社ファーストリテイリングの単独スポンサーによって「考える人」は、
新潮社から出ていた。
単独スポンサーゆえに、その会社が降りてしまえば、
そして次のスポンサーが見つからなければ、それで終りとなる面ももつが、
「考える人」のオーディオ版は、やはり無理なのか、とずっと思っていた。
「考える人」だから単独スポンサーがついた、ともいえる。
オーディオ雑誌に、単独スポンサーがつくだろうか。
オーディオメーカーが単独スポンサーについたのでは、意味がない。
オーディオと関係のない会社で、オーディオ雑誌の単独スポンサーになるところ、
そんな会社、あるわけがない──、と思い込んでいた。
先月のKK適塾が終って、数日後、ふと思いついた。
もう完全に妄想の領域であるし、可能性としてはゼロではないだろうが、
限りなく近いこともわかっている。
わかったうえで書いている。
川崎先生が編集人・発行人としてのオーディオとデザインの雑誌ならば、
DNPが単独スポンサーになることだって、可能性としてはまったくゼロではないはずだ。
ステレオ時代というオーディオ雑誌がある。
1970年代、1980年代にオーディオに夢中になっていた世代をターゲットにしている、といえる。
だから、私もターゲットのひとりなのだが、
私は、ステレオ時代を面白いとは思っていなかったし、
記事の内容についても、なにかいいたくなることのほうが多い。
もう書店でみかけても手にとることもなくなっていた。
でも今日は違った。
いま書店に並んでいるステレオ時代 vol.11の表紙に「ありがとう中島平太郎先生」とあったからだ。
雑誌も人も、すべてが変っていく──、
そのことはわかっていても、
どうもそれはネガティヴな方向へ変っていくことが多過ぎるためか、
なかなかポジティヴな方向へ変っていくとは思いにくい──、
そうおもっているのは私だけなのか。
「ありがとう中島平太郎先生」という記事のタイトルは、ストレートすぎるな、と感じる。
でも、妙に凝りすぎたタイトルよりは、好感がもてる。
他のオーディオ雑誌は、どこもやらなかった。
ステレオ時代だけが「ありがとう中島平太郎先生」をやった。
広告にはまったく結びつかない内容の記事をつくっている。
「ありがとう中島平太郎先生」で、私はステレオ時代への認識を少し改めた。
オーディオの面白さは、組合せにある。
システム全体という組合せ、
スピーカーシステムという組合せもある。
そう捉えているから「スピーカーシステムという組合せ」も同時に書いている。
別項「オーディオの楽しみ方(つくる)」での自作スピーカーもまた組合せ、
それゆえに音をつめて作業に求められるのは、
この項で何度が書いているように、受動的聴き方ではなく、能動的聴き方である。
受動的聴き方が求められていないわけではないが、
受動的聴き方だけでは無難なスピーカーシステムにしか仕上がらないのではないか。
能動的聴き方をして、「いいスピーカー」へと近づいていくのではないだろうか。
組合せ(component)は、いわば組織である。
スピーカーシステムという組織、システム全体という組織にしても、
受動的聴き方によってまとめられた組織というものは、どこかが弱いとでもいおうか、
構造的強さをもっていない、とでもいおうか、そんな印象がある。
組織という意味では編集部もそうだ。
組織は入社試験、面接によって人を選ぶ。
その選び方が受動的なのか能動的なのか。
受動的な視点で集められた組織というものの弱さを感じる。
オーディオの想像力の欠如は、音で遊ぶことしかできず、アクセサリーに拘泥する。