Archive for category 複雑な幼稚性

Date: 3月 10th, 2010
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その6)

他者からの「承認」がえやすい音とは、いいかえれば「わかりやすい」音である。

なぜ、わかりやすい音のスピーカーが登場してきて、増えてきているのか。
それはオーディオ評論がもつ「曖昧さ」「恣意性」と関係しているし、
これらをなくそうとしようとすることから、生れてきたのかもしれない。

かたちのない音を、言葉で表現することの難しさは、だれもが痛感していることだろう。
この難しさがあるから、面白いといえるのだが、同時に誤解も生じている。
わりと多く使われる音の表現でも、表現する側はいい意味で使っていたとしても、
受けとり手によって、否定的な意味に捉えられることは、別に珍しくもない。

いわゆる「文学的表現」に近くなればなるほど、誤解の生じる可能性は高くなる、といってもいいだろう。

書き手の能力も読み手の能力も、より問われるからだ。

ならば、即物的な表現、そっけない表現の方が、誤解は少なくなるだろう。
さらに数量的な表現となれば、もうすこし詳細に伝えることもできるようになるだろう。

Date: 1月 14th, 2010
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その5)

他者からの「承認」をえやすい音のスピーカーが、あきらかにある。
しかも増えてきている。

そのことで失われつつある「もの」がある。
そして、オーディオ評論とも関係している。

Date: 12月 29th, 2009
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」(その4)

人は騙されやすい。
騙されることに、実は無抵抗なのかもしれない。

なのに理屈を並べ立て、騙されていないと思い込もうとしている。

Date: 9月 27th, 2009
Cate: ちいさな結論, 複雑な幼稚性
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ちいさな結論(その4)

「本物のエネルギーを注入してくれる」ものは、人によって違っていて当然である。

ひとと同じことなんて、なにひとつないのだから、
音楽から「本物のエネルギー」を受け取るのだって、
ある人はクラシック、またある人はジャズ、ロックからだという人だっているわけだ。

同じクラシックでも、フルトヴェングラーの演奏を大切にする人もいれば、
カラヤンでなければならない人がいてこそ、自然であるといえる。

マーラーの交響曲第5番にしてもそうだ。
長島先生と私は、バーンスタイン/ウィーン・フィルの演奏をとったが、
一方でインバルの演奏をとる人がいる。

どちらが音楽がよくわかっているとか、高尚だとか、そういう問題ではない。

生れも育ちもひとりひとり違うのだから、必要とするものだって違うというだけのはなしである。

ただし、あくまでも、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。

タンノイ・オートグラフでフルトヴェングラーをきき、
カラヤンのベートーヴェンには精神性がない、といってみたところで、
「ろくでなし」のささやきに翻弄されていることにすら気づかないのであれば、
五味先生の劣悪なマネにすらなっていない。

Date: 9月 27th, 2009
Cate: ちいさな結論, 複雑な幼稚性

ちいさな結論(その3)

「ろくでなし」を追いだせ、と言いたいのではない。
「ろくでなし」のささやくいいわけに耳を貸すな、と言いたいのである。

オーディオと向かい合い、音と向かい合い、音楽と向かい合っているときだけは、
ディスク1枚だけでいい、1曲だけでもいい、
そのあいだだけは「ろくでなし」を、しっかりと認識したい、それだけである。

「音楽においてのみ、首尾一貫し円満で調和がとれ」ていたフルトヴェングラーのようにありたい、のである。

先週、友人のYさんからのメールには、丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節があった。
     *
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。

Date: 9月 27th, 2009
Cate: ちいさな結論, 岩崎千明, 複雑な幼稚性

ちいさな結論(その2)

「矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、
卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、
また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった」のは、
ウィルヘルム・フルトヴェングラーのことである。

フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのある
グレゴール・ピアティゴルスキーが、「チェロとわたし」(白水社刊)のなかで語っている。

同じ書き出しで、1992年、ピーター・ガブリエルのことを書いた。
「ろくでなし」のことにふれた。

人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。

それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。

音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。

そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。

この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。

ピアティゴルスキーは、つけ加えている。
「音楽においてのみ、彼(フルトヴェングラー)は首尾一貫し円満で調和がとれ、非凡であった」

ちいさな結論(その1)

5年前だったはずだが、菅野先生に、「敵は己の裡(なか)にある。忘れるな」と、言われた。

胸に握りこぶしを当てながら、力強い口調で言われた。
この、もっともなことを、人はつい忘れてしまう。
この菅野先生の言葉を思い出したのは、岩崎先生がなぜ「対決」されていたのか、
なに(だれ)と対決されていたのか、について考えていたからだ。

「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」

岩崎先生の、この言葉にある「違った音(サウンド)」を求めるということは、どういうことなのか。

「複雑な幼稚性」(その3)で、「人は音なり」と書き、悪循環に陥ってしまうこともあると書いた。

悪循環というぬるま湯はつかっていると、案外気持ちよいものかもしれない。
けれど、人はなにかのきっかけで、そのぬるま湯が濁っていることに気がつく。
そのときが、岩崎先生の言われる「違った音(サウンド)」を求めるときである。

Date: 9月 17th, 2009
Cate: 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その3)

「音は人なり」という五味先生のことばは真実であり、そこだけにとどまっていないと思う。
「人は音なり」も、また真実のような気がする。

「音は人なり」が示すように、その人の生き様が、音に反映される。
だがそれだけ終ってしまうわけではなく、その人となりが顕在化した音に、
聴き手は知らず知らずに影響を受けている。

使っているオーディオ機器、そこで鳴っている音に、聴く音楽が左右される。
オーディオ機器を使っているつもりで、油断しているとオーディオ機器に使われている。
鳴っている音に、影響されていないと断言できる人が、はたしているだろうか。

生き様が音にあらわれ、その生き様が音として、もどってくる。

ぬるい生き方ならば、ぬるい音がもどってくる。

いびつな生き方をしていたら、いびつな音がもどってくる。
そして音に影響され、またそのことが音に反映される。悪循環ではないか。

真剣な生き様であれば、真剣な音が鳴ってくる。
熱い生き様であれば、熱い音が鳴ってくる。
そういう音が戻ってくる、影響される。そしてまた音に反映される。

「オーディオは趣味だから」という逃げを口にしたら、そのことが音としてあらわれる。

Date: 4月 18th, 2009
Cate: 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その2)

解答 (=Solution)の「解」は、
MACPOWER vol.3(2008年)に掲載されている、川崎先生の「ラディカリズム 喜怒哀楽」を読んで、
解体・解剖・分解だと思ってきた。

もうひとつあることに、気がついた。
解放があった。
オーディオは、複雑な幼稚性から解放されなければならない。

Date: 12月 12th, 2008
Cate: 川崎和男, 複雑な幼稚性, 言葉

「複雑な幼稚性」(その1)

「現代的な幼稚症! それはオネゲルにおいてすでに告知され、ショスタコーヴィッチにおいて全盛をきわめた。
まさにアルバン・ベルグやシェーンベルクなどの重荷を負った労苦とは正反対のものである。
幼稚症は、さらに無遠慮に、自己の心理的な状況を大衆のそれに優先させようとする。」

こう、フルトヴェングラーが「音楽ノート」で語っているのは1945年のときである。
60年以上前の言葉なのに、いまもそうじゃないか、と、
「現代的な幼稚症」という言葉が心にひっかかってくる。

いまは「複雑な幼稚性」が静かに蔓延っている時代のように思えてならない。
オーディオもそうだ。
複雑な幼稚性が、大事な本質を覆い尽くそうとしている、といったら言い過ぎだろうか。

具体的な例はあえて挙げない。

ただ「単純 (=Simple)」を、否定的、消極的な意味で捉えているようでは、
いつまでも答は見出せない。そう確信している。

そして「答には、3つある」
MACPOWER vol.3に掲載されている「ラディカリズム 喜怒哀楽」で、川崎先生は書かれている。
「応答 (=Reply)」、「回答 (=Answer)」、「解答 (=Solution)」の3つである。
バックナンバーは入手可能のようだから、ぜひお読みいただきたい。