Archive for category 瀬川冬樹氏のこと

Date: 2月 17th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その27)

サプリーム3月号 No.144のタイトルは、「ひとつの時代が消えた 瀬川冬樹追悼号」だ。

目次を書き写しておく。
 池田 圭:瀬川冬樹の早年と晩年「写真の不思議」
 上杉佳郎:瀬川冬樹とオーディオ・アンプ「その影響、その功績」
 岡 俊雄:瀬川冬樹との出合い「”虚構世界の狩人”の論理」
 岡原 勝:瀬川冬樹との論争「音場の、音の皺」
 貝山知弘:瀬川冬樹の批評の精神「その論評は、常に”作品”と呼べるものだった」
 金井 稔:瀬川冬樹とラジオ技術の時代「いくたりものひとはさびしき」
 菅野沖彦:瀬川冬樹とその仕事「モノは人の表われ
 高橋三郎:瀬川冬樹とオーディオの美「音は人なり」
 長島達夫:瀬川冬樹と音楽「孤独と安らぎ」
 坂東清三:瀬川冬樹と虚構の美「器も味のうち」
 前橋 武:瀬川冬樹と熊本大学第二外科「昭和55年12月16日 午前8−午後5時」
 皆川達夫:瀬川冬樹とわたくし「瀬川冬樹氏のための”ラクリメ”」
 山田定邦:瀬川冬樹とエピソード「三つの印象」
 レイモンド・クック:「惜しみて余りあり」
 マーク・レヴィンソン:「出合いと啓示」

 弔詞:原田 勲/柳沢巧力/中野 雄

Date: 2月 17th, 2009
Cate: 傅信幸, 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その26)

サプリームと聞いて、トリオ(現ケンウッド)が、1966年に発表した、
コントロールアンプと6チャンネル分のパワーアンプ、それにチャンネルデバイダーを、
ひとつの筐体に内蔵した、マルチアンプ対応のプリメインアンプ、
Supreme 1を思い出す人のほうが多いかもしれないが、
サプリームは、そのトリオが毎月発行していたオーディオ誌の名前でもある。

サプリームの存在は学生のころから知っていた。
KEFのレイモンド・E・クックとマーク・レヴィンソンが、瀬川先生への追悼文を書いていたことも知っていた。
しかし、当時、書店に並んでいるオーディオ誌はひとつ残らず読んだつもりだったが、
クックとレヴィンソンの追悼文が載っている本は手にしたことがなかった。

サプリームに、どちらも載っていたのである。

「サプリームだったのか……」──、
日曜日の夜、傅さんからの電話で、やっと知ることが出来た。

Date: 2月 17th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その25)

「あの時と同じ気持ちだ」──
今日、届いた本を読んでいたら、そう想えた。

ちょうど27年前、ステレオサウンドで働きはじめたばかりの私に出来た仕事は、
原稿を取りに行ったり、試聴の手伝いをしたり、
そしていまごろ(2月の半ば過ぎ)は、写植の会社から上がってきた版下をコピーにとり、校正作業だった。

ステレオサウンド62号と63号には、瀬川先生の追悼特集が載っている。

版下のコピーで、読む。
校正作業なので、「読んで」いてはいけないのだが、読者となって読んでいた。

その時の気持ちだった。
読み耽っていた。
気がついたら正座して読んでいた。

44ページしかない、薄い、中とじの本は、「サプリーム」3月号 No.144。
瀬川冬樹追悼号だ。

Date: 1月 10th, 2009
Cate: 傅信幸, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その24)

1980年(だったと思う)のFM fanに、傅さんによる菅野先生と瀬川先生の記事が載っていた。

菅野先生のページには瀬川先生の、瀬川先生のページには菅野先生の、それぞれの囲み記事があり、
真に親しい間柄だからこそ出来る、軽い暴露的な話が載っていた。

瀬川先生は、「JBLの375とハチの巣は、菅野さんよりもぼくのほうが早く使いはじめた」と、
菅野先生は「彼は白髪を染めている」と書いてあったのを思い出す。

今日、1月10日は瀬川先生の生日だ。存命ならば74歳。
髪は真っ白になられていただろうか。
どんなふうになられていただろうか……。74歳の瀬川先生の風貌を想像するのはなかなか難しい。

つまり、それだけの時間が経っていること。
今年は、それをいつもよりも実感している。

あと20日もしないうちに、私も46歳になる。
瀬川先生と同じ歳になるからだ。

Date: 1月 5th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その23)

中音域から低音にかけて、ふっくらと豊かで、これほど低音の量感というものを確かに聴かせてくれた音は、
今回これを除いてほかに一機種もなかった。していえばその低音はいくぶんしまり不足。
その上で豊かに鳴るのだから、乱暴に聴けば中〜高音域がめり込んでしまったように聴こえかねないが、
しかし明らかにそうでないことが、聴き続けるうちにはっきりしてくる。
     ※
ステレオサウンド 55号のプレーヤーの比較試聴記事で、
瀬川先生のEMT 930stについて、上のように書かれている。

SAEのパワーアンプMark 2500についても、低音の豊かさの良さを指摘されていた。

瀬川先生がお好きだった女性ヴォーカルの、アン・バートンとバルバラ。
ふたりとも細身で透明で、ちょっと神経質だけど、どこかしっとりと語りかけるような歌い方をする。
体形の話をすれば、ふたりともグラマラスではなく、ほっそりと柳腰という印象。

ほっそりのアン・バートンとバルバラ、低音の量感豊かな930stとMark 2500。

どちらも、瀬川先生は好まれていた。
EMTについては、たびたび「惚れ込んでいる」と書かれていた。

瀬川先生の出されていた音、求められていた音を考える上で、見逃せないことのように思う。

Date: 1月 2nd, 2009
Cate: 4345, JBL, 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その22)

瀬川先生が愛用されていたJBLの4341を譲り受けられたMさん曰く
「新品のスピーカーだと、最初の音出しをスタート点として、多少良くなったり悪くなったりするけど、
全体的に見れば手間暇かけて愛情込めて鳴らしていけば、音がよくなってくる。
けれど瀬川先生の4341は、譲り受けて鳴らした最初の日の音がいちばん良くて、
徐々に音が悪くなる、というか、ふつうの音に鳴っていく」。

そんなバカなことがあるものか、気のせいだろうと思われる方もいて不思議ではない。

でも、瀬川先生の遺品となったJBLの4345も、そうなのだ。
瀬川先生が亡くなられて1年弱経ったころ、サンスイのNさんが編集部に来られたときに話された。
「瀬川さんの4345を引き取られたIさん(女性)から、すこし前に連絡があってね。
ある日、4345の音が急に悪くなった、と言うんだ。故障とかじゃなくて、
どこも悪くないようなんだけど、いままで鳴っていた音が、もう出なくなったらしい」。

これも、やはり瀬川先生が亡くなられて半年後のことだったらしい。

半年で、瀬川先生が愛用されていたスピーカーに込められていた神通力、
それがなくなったかのように、どちらもふつうの4341、4345に戻ってしまったようだ。

西新宿にあったサンスイのショールームで行なわれていた瀬川先生の試聴会、
それもJBLの4350を鳴らされたときに行った人の話を聞いたことがある。
「がさつなJBLのスピーカーが、瀬川さんが鳴らすと、なんともセンシティヴに鳴るんだよね」。

「音は人なり」と言われはじめて、ずいぶん、長い月日が経っている。
けれど、何がどう作用しているのかは、誰もほんとうのところはよくわからない。

真に愛して鳴らしたモノには、少なくとも何かが宿っているのかもしれない。

Date: 12月 27th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その21)

昨年11月7日の瀬川先生の27回忌に集まってくださった方みんなが知りたかったこと、
けれども誰ひとり知らなかったこと──、瀬川先生のお墓のことだった。

それから1カ月半、12月も終ろうとしていたある日、わかった。
なんとか年内のうちに墓参に行きたかったが、暮ということもあり、
どうしても都合がつかない人のほうが多く、年明けに行くことになった。

みなさんの都合から、今年の2月2日になった。
瀬川先生の妹・櫻井さんも来てくださった。

櫻井さんは、瀬川先生の著書「オーディオABC(共同通信社刊)」のイラストを描かれている方だ。

ステレオサウンドの原田勲会長も来られた。私も含めて7人。
寒い日だったが、晴天だった。東京は、翌日、朝から雪が降りはじめ、積もっていった。

ひとりひとり墓前で手を合わせ、心のなかで瀬川先生に語りかけられている。
みなさんのうしろ姿を見ていた。

私は、他の方たちとは違い、瀬川先生と仕事をしたわけでもないし、長いつきあいがあるわけでもなし、
熊本のオーディオ店で、何度かお会いしただけ(顔は憶えてくださっていた)だから、
語りかけることがあろうはずがない。

だから、瀬川先生の墓前で、私はあることをひとつ誓ってきた。

Date: 12月 25th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その20)

ラックスのアームレスプレーヤーのPD121をデザインされたのは瀬川先生だと、
一時期(4、5年ぐらい)、そう勘違いしていたことがある。

なにかの時に、「PD121は瀬川先生のデザインだ」という話が出て、それを信じていた。
瀬川先生のデザインと言われて、何の疑いも持たなかった。素直にそう思えた。
いまでも、そう信じてられる方もおられるが、
PD121のデザイナーは、47研究所の主宰者の木村準二さんである。

木村さんは、瀬川先生といっしょにユニクリエイツというデザイン事務所を興されている。
このときおふたりのもとで働いておられたのが、瀬川先生のデザインのお弟子さんのKさんだ。

木村さんから直接、Kさんからも、PD121は木村さんのデザインだと聞いている。

PD121のモーターは、テクニクスのSP10(最初のモデルの方)と同等品である。
同じモーターを使いながら、SP10の素っ気無く、暖かみを欠いている外観と較べると、
PD121の簡潔で大胆なデザインは、手もとに置いておきたくなる、愛着のわく雰囲気と仕上がりだ。

ステレオサウンド 38号を見ると、EMIの930stの他に、
瀬川先生は、PD121とオーディオクラフトのAC-300の組合せを使われていたのがわかる。
写真には、EMTのXSD15がついているのが写っている。

930stには、当然、TSD15がついてる。
なにも同じカートリッジを使われることはないのに、と思うとともに、
EMTに、そこまで惚れ込んでおられたのか、とEMTに惚れ込んだ一人として嬉しくなる。

エクスクルーシヴのP3とオーディオクラフトのAC-3000MCにつけられていたカートリッジは、
オルトフォンのMC30だったのかもしれないし、MC20MKIIだったのだろうか。
それとも、やはりEMTだったのか。

Date: 12月 24th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その19)

瀬川先生が、終の住み処となった中目黒のマンションで使われていたアナログプレーヤーは、
パイオニア/エクスクルーシヴのP3だ。

ステレオサウンド 55号のアナログプレーヤーの試聴記事において、P3について、
ひとつひとつの音にほどよい肉づきが感じられる、と書かれていたのを思い出す。
同時に試聴されたマイクロの糸ドライブ(RX5000 + RY5500)とEMTの930stと同じくらい高い評価をされていた。

だから瀬川先生にとっての最後のアナログプレーヤーがP3であることは、自然と納得できる。
ひとつ知りたいのは、トーンアームについてだ。

P3オリジナルのダイナミックバランス型で、オイルダンプ方式を採用している。
アームパイプは、ストレートとS字の2種類が付属している。
パイプの根元で締め付け固定するようになっている。
同様の機構をもったトーンアーム(針圧印加はスタティック型の違いはある)が、
オーディオクラフトのAC-4000MCだ。アームパイプは5種類用意されていた。

4端子のヘッドシェルが使えるS字型パイプの他に、
ストレートパイプのMC-S、テーパードストレートパイプのMC-S/T、
オルトフォンのSPU-Aシリーズ専用のS字パイプのMC-A、EMTのTSD15専用のS字パイプのMC-Eだ。
アームパイプはいずれも真鍮製だ。

この他にも、あらゆるカートリッジにきめ細かく対応するために、軽量カートリッジ用のウェイトAW-6、
リンやトーレンスのフローティングプレーヤーだと、
標準のロックナットスタビライザーではフローティングベースが傾くため、軽量のAL-6も用意されていた。

出力ケーブルも、標準はMCカートリッジ用に低抵抗のARR-T/Gで、
MM/MI型カートリッジ用に低容量のARC-T/Gがあった。

AC-3000MC専用というわけではないが、
SPUシリーズをストレートアームや通常のヘッドシェルにとりつけるための真鍮製スペーサーOF-1、
やはりオルトフォンのカートリッジMC20、30のプラスチックボディの弱さを補強するための
真鍮製の鉢巻きOF-2などもあり、実に心憎いラインナップだった。

AC-4000MC(AC-3000MC)の前身AC-300Cについて、
「調整が正しく行なわれれば、レコードの音溝に針先が吸いつくようなトレーシングで、
スクラッチノイズさえ減少し、共振のよくおさえられた滑らかな音質を楽しめる(中略)
私自身が最も信頼し愛用している主力アームの一本である」と、
ステレオサウンド 43号に、瀬川先生は書かれている。

AC-3000MC(AC-4000MC)になり、完成度はぐっと高まり、見た目も洗練された。
レコード愛好家のためのトーンアームといえる仕上がりだ。

お気づきだろう、AC-3000MC(AC-4000MC)のデサインは、瀬川先生が手がけられている。

オーディオクラフトからは、P3にAC-4000MCを取りつけるためのベースが出ていた。
おそらく瀬川先生はP3にAC-4000MCを組み合わされていたのだろう。

Date: 11月 7th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと, 菅野沖彦

瀬川冬樹氏のこと(その18)

瀬川先生への追悼文の中で、菅野先生は
「僕が高校生、彼は僕より三歳下だから中学生であったはずの頃、
われわれは互いの友人を介して知り会った。いわば幼友達である。」と書かれている。

菅野先生は1932年9月、瀬川先生は1935年1月生まれだから、学年は2つ違う。
ということは、菅野先生が高校一年か二年のときとなる。

けれど、去年の27回忌の集まりの時、菅野先生が、
「瀬川さんと出会ったのは、ぼくが中学生、彼が小学生のときだった」と話された。
みんな驚いていた。私も驚いた。

27回忌の集まりは、二次会、三次会……五次会まで、朝5時まで6人が残っていたが、
「さっき菅野先生の話、びっくりしたけど、そうだったの?」という言葉が、やっぱり出てきた。

それからしばらくして菅野先生とお会いしたときに、自然とそのことが話題になった。
やはり最初の出会いは、菅野先生が中学生、瀬川先生が小学生のときである。
「互いの友人」とは、佐藤信夫氏である。
「レトリックの記号論」「レトリック感覚」「レトリック事典」などの著者の、佐藤氏だ。

佐藤氏の家に菅野先生が遊びに行くと、部屋の片隅に、いつも小学生がちょこんと正座していた。
大村一郎少年だ。いつもだまって、菅野先生と佐藤氏の話をきいていたとのこと。

何度かそういうことがあって、菅野先生が佐藤氏にたずねると、紹介してくれて、
音楽の話をされたそうだ。いきおい表情が活き活きとしてきた大村少年。
けれど3人で集まることはなくなり、菅野先生は高校生に。
ある日、電車に乗っていると、「菅野さんですよね?」と声をかけてきた中学生がいた。
中学生になった大村少年だ。

「ひさしぶり」と挨拶を交わした後、
「今日、時間ありますか。もしよかったら、うちの音、聴きに来られませんか。」と菅野先生をさそわれた。

当時はモノーラル。アンプもスピーカーも自作が当然の時代だ。
お手製の紙ホーンから鳴ってきた音は、
「あのときからすでに、オームの音だったよ、瀬川冬樹の音だった」。

瀬川冬樹のペンネームを使われる前からつきあいのある方たち、
菅野先生、長島先生、山中先生、井上先生たちは、大村にひっかけて、
オームと、瀬川先生のことを呼ばれる。
瀬川先生自身、ラジオ技術誌の編集者時代、オームのペンネームを使われていた。

菅野先生と瀬川先生の出会い──、
人は出会うべくして出逢う、そういう不思議な縁があきらかに存在する。ほんとうにそう思えてならない。

Date: 11月 7th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その17)

今日で、瀬川先生が亡くなられて27年経つ。1年前は、27回忌だった。

26年という歳月は、
人が生れ、育ち、結婚し、子どもが生れ、家庭を築くにも十分な、そういう時間である。
当時、瀬川先生より若かった人も、いまでは瀬川先生の年齢をこえている。

熊本のオーディオ店での瀬川先生のイベントに毎回かかすことなく通っていただけでなく、
毎回一番乗りだったし、最初のころは学生服で行っていたこともあり、顔を覚えてくださっていた。

私がステレオサウンドに入ったとき、すでに亡くなられていた。瀬川先生と仕事をしたかった、
と、思っても仕方のないことを、いまでも思う。

そんな私が、27回忌の集まりの幹事をやっていいものだろうか、
私がやって、何人の方が集まってくださるのか、そんなことも思っていた。

おひとりおひとりにメールを出していく。
メールを受けとられた方が、他の方に声をかけてくださった。

オーディオ関係の仕事をされている方にとって、この時期はたいへん忙しい。
にもかかわらず、菅野先生、傅さん、早瀬さんをはじめ、
瀬川先生と親しかった輸入商社、国内メーカーの方たち、
ステレオサウンドで編集部で、瀬川先生と仕事をされた方たち、
サンスイのショールームの常連だった方たち、
みなさんに連絡するまでは、数人くらいの集まりかな……、と思っていたのに
多くの方が集まってくださった。

幹事の私でも、初対面の方がふたり、
約20年ぶりにお会いする方がふたり、数年ぶりという方がふたり。

「おっ、ひさしぶり」「ご無沙汰しております」という声、
「はじめまして」という声と名刺交換が行なわれてはじまった集まりが、
26年の歳月を感じさせず、盛り上がったのは、みんなが瀬川冬樹の熱心な読者だからであろう。

集まりの最後、菅野先生が仰った、
「みんなの中に瀬川冬樹は生きている」

みんなが、この言葉を実感していたはず。

Date: 10月 30th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その16)

27年前のいまごろ、瀬川先生が最期に口にされたお酒は、
ホワイト&マッケイの21年もの、だと、
当時、ロジャースの輸入元だったオーデックスに勤められていたYさんから聞いたことがある。

医師の許可をとられて、病室で口にされている。
これがどういうことか、瀬川先生ご本人がよくわかっておられたであろう。

ホワイト&マッケイの21年ものは、瀬川先生の希望だ。
しかも、21年ものは、お酒が寝ているから、それを起こすための水も必要だ、と言われ、
水(ミネラルウォーター)の指定も出されたそうだ。

ホワイト&マッケイはスコッチ・ウィスキー。スコットランドであり、
スコットランドにはLINNがある。
当時オーデックスはLINNも輸入していた。

Yさんは、LINNのアイバー・ティーフェンブルン氏に連絡したところ、
ホワイト&マッケイの21年ものと指定のミネラルウォーターを、送ってくれたのではなく、
持ってきてくれたと聞いている。

病室でのお酒──、
瀬川先生がどんなことを考えておられたのか、
どういう想いだったのか、は、わからない。

Date: 10月 18th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その15)

音楽之友社から1982年に出版された中野英男氏の「音楽 オーディオ 人びと」の
扉の写真は、瀬川先生が撮られたものだ。

巻末の『「あとがき」のあとに』を読むと、81年春の撮影で、
瀬川先生の愛機ライカSLIIで撮られたことがわかる。
瀬川先生は81年11月7日に亡くなられている。

中野氏がLPを両手で持たれている、その斜め後ろにEMTの927Dstが写っている。
いままでかけられていたLPをとりあげ、ジャケットにしまわれようとされているのだろう。
モノクロの、たった1枚の写真だが、瀬川先生が求められていた音を、
そこから感じとれる、と言ったらいいすぎだろうか。

Date: 10月 13th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その14)

瀬川先生は、定規やコンパスを使わずに、手書きでキレイな円を書かれていた、と
瀬川先生のデザインのお弟子さんだったKさんから聞いた。

訓練の賜物なのだろうが、そればかりでもないと思う。

紙に薄く下書きの線が引いてあったら、それをなぞっていけばいい。
そんな線がなくても、紙を見つめていると、円が浮んで見えてくるということはないのだろうか。

ナショナルジオグラフィックのカメラマンは、携帯電話についているカメラ機能でも、
驚くほど素晴らしい写真を撮ると聞く。
素晴らしいカメラマンは、ふつうのひとには見えない光を捉えているとも聞く。

卑近な例だが、友人の漫画家は、「うまいこと絵を描くなぁ」と私が感心していると、
「だって線が見えているから」と当り前のように言う。
イメージがあると、白い紙の上に線が見えてくるものらしい。

音も全く同じであろう。
聴きとれない音は出せない。

同じ音を聴いていても、経験や集中力、センス、音楽への愛情、理解などが関係して、
人によって聴きとれる音は同じではない。

そして見えない線が見えてくるように、いまはまだ出せない音、鳴っていない音を、
捉えることができなくては、まだまだである。
出てきた音に、ただ反応して一喜一憂しているだけでは、つまらない。

Date: 9月 28th, 2008
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その13)

瀬川先生の鳴らされていた音を聴くことは、もうできない。
けれど、瀬川先生の愛聴盤を聴くことは、その音をイメージするきっかけになるだろう。
廃盤になっていたものも、CDで復刻されている。
ヨッフムのレクイエムも出ている。
     ※
そのせいだろうか、もう何年も前たった一度だが、夢の中でとびきり美しいレクイエムを聴いたことがある。どこかの教会の聖堂の下で、柱の陰からミサに列席していた。「キリエ」からそれは異常な美しさに満ちていて、そのうちに私は、こんな美しい演奏ってあるだろうか、こんなに浄化された音楽があっていいのだろうかという気持になり、泪がとめどなく流れ始めたが、やがてラクリモサの終りで目がさめて、恥ずかしい話だが枕がぐっしょり濡れていた。現実の演奏で、あんなに美しい音はついに聴けないが、しかし夢の中でミサに参列したのは、おそらく、ウィーンの聖シュテファン教会でのミサの実況を収めたヨッフム盤の影響ではないかと、いまにして思う。一九五五年十二月二日の録音だからステレオではないが、モーツァルトを追悼してのミサであるだけにそれは厳粛をきわめ、冒頭の鐘の音からすでに身の凍るような思いのするすごいレコードだ。カラヤンとは別の意味で大切にしているレコードである(独アルヒーフARC3048/49)。
     ※
はじまりの鐘の音が収録されていないCDも出ているが、
ここはやはり鐘の音が収録されているほうで聴きたい。
グラモフォンから発売されている。

エリカ・ケートの歌曲集も昨年、CDになった。
     ※
エリカ・ケートというソプラノを私はとても好きで、中でもキング/セブン・シーズから出て、いまは廃盤になったドイツ・リート集を大切にしている。決してスケールの大きさや身ぶりや容姿の美しさで評判になる人ではなく、しかし近ごろ話題のエリー・アメリンクよりも洗練されている。清潔で、畑中良輔氏の評を借りれば、チラリと見せる色っぽさが何とも言えない魅惑である。どういうわけかドイツのオイロディスク原盤でもカタログから落ちてしまってこれ一枚しか手もとになく、もうすりきれてジャリジャリして、それでもときおりくりかえして聴く。彼女のレコードは、その後オイロディスク盤で何枚か入手したが、それでもこの一枚が抜群のできだと思う。
     ※
瀬川先生が書かれたものを読み返したり、
当時のステレオサウンドの試聴レコードのリストを参考にされれば、
どんなレコードを好んで聴かれていたかが、すこしだけだろうが、伝わってくる。

まだ手もとに届いていないが、バルバラのSACDも購入した。
バルバラの声が、SACDではどう響くのか、瀬川先生が聴かれたらなんと言われるか、
そんなことを想像して届くのを待つのも、じつに楽しい。