Archive for category ショウ雑感

Date: 10月 26th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(余談)

今日明日とヘッドフォン祭りが開催されている。
かなり賑わっているようだ。

ヘッドフォン、イヤフォンでのみ音楽を聴く人たちが増えている、とはきいている。
実際にどのくらいの人がいるのかはわからないものの、
ヘッドフォン祭りが春と秋、二回開催されていてひじょうに賑わっているということ、
量販店のヘッドフォン・イヤフォンコーナーの充実ぶりを見ていると、
スピーカーで音楽を聴く人が少なくなっていることは、どうも事実のように思えてくる。

そしてヘッドフォン祭りに行った人たちの感想、
それもオーディオマニアで普段はスピーカーで音楽を聴いている人たちの感想を、
twitterや掲示板などでみかけると、
この中の人たちの何割かでもいいから、スピーカーで聴くことに目覚めてほしい、というのがある。

この感想は、毎回、よくみかける。
私もそう思わないわけではないが、そういえば、と思い出すことがある。
ステレオサウンドにはいったばかりのころ、聞いたことだ。

ほとんどの人が最初はプリメインアンプでスタートするわけだが、
セパレートアンプへ移行する人は早い時期にそうしている。
そうでない人は、プリメインアンプをグレードアップはするものの、セパレートアンプへは移行しない、と。

セパレートアンプへ移行しない人が音に関心がないわけではなく、
セパレートアンプへ移るのか、それともプリメインアンプのままいくのかは、
スタイルの違いなのだと思う。

アンプにおけるプリメインとセパレートという形態の違いと、
スピーカーとヘッドフォン(イヤフォン)の違いは同一には考えられないところもあるけれど、
これまでずっとヘッドフォンだけで聴いてきた人の多くは、これからもそうなのかもしれない。

スピーカーで音楽を聴くようになる人は、うながされることなく、
早い時期にスピーカーを導入しているのではないだろうか。

Date: 10月 19th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(その6)

オーディオショウ・オーディオフェア、メーカーのショールームに行こうと思う理由は同じこともあれば、
人によって微妙に違っているところもあるのが当然だろう。

ほとんどの人が、音を聴くため、というのがいちばんの理由になることだろう。
その音が、必ずしも万全の音で鳴っているとは限らない──、
どころか、むしろいい状態で鳴っていることが少なかったりするとすれば、
オーディオマニアにとって、ショウ(フェア)、ショールームに行く理由が薄れてしまう。

しかも、そこには多くの人が来ているのだから、
人気のあるブースでは人が集まり、万全でない状態の音はさらにそうでなくなっていく。

オーディオフェア時代でも、少しでもいい環境をということで、
晴海見本市会場近くのホテルを別に借りて、そこで試聴会を開いているメーカー、輸入商社もあった。
とはいえ、ここらのホテルの部屋はお世辞にも広いとはいえなかった。

この動きが、
のちの輸入オーディオショウ(現インターナショナルオーディオショウ)へとつながっていっているように思う。

輸入オーディオショウは最初のころは九段下のホテルだった。
そしていまは有楽町の国際フォーラムが会場となっている。

オーディオフェアのころからすれば、ずいぶんと条件は良くなっている。
それでもリスニングルームとして設計された部屋ではないし、
それぞれのブースには多くの人が入って、電源環境もいいとはいえないだろう。

まだまだ、というところは残しているものの、良くなっている。

Date: 10月 18th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(その5)

晴海で行われていたころのオーディオフェアは一週間ほどの期間だったし、
会場も広く人もほんとうに多かった。

来場者が多いのはあらかじめわかっていたことではあったけれど、
オーディオに関する催物で、これほど人が集まるのか、と、
数カ月前までの田舎では想像できない人出の多さに嬉しさを感じながらも、
人が半分くらいだったらいいのに……、とも思っていた。

とにかくはじめてのオーディオフェアだった。
それまではオーディオ雑誌の記事を読むだけだったオーディオフェアに来ている。
前年までステレオサウンドからは、オーディオフェアの増刊号を二回出していた。
二冊とも購入していた。
一冊まるごとオーディオフェアだから、オーディオ雑誌の記事よりもずっと写真も文章も多い。
一回のオーディオフェアで一冊の増刊ができていたのが、当時のオーディオフェアだった。

もしかすると元気になられて、
瀬川先生がオーデックスのブースでロジャースのPM510の試聴をやられるかもしれない──、
そんな期待ももって会場に着き、歩きまわっていた。

Date: 10月 14th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(その4)

1981年春から東京で暮すようになった。
とにかく楽しみにしていたのは、瀬川先生に会える機会が圧倒的に増えることであった。

けれど体調を崩されていた瀬川先生の、メーカーのショールームでの定期的なイベントはなかった。
だからこそオーディオフェアを、心待ちにしていた。

オーディオフェアが近づいてきたころに出たオーディオ雑誌には、
フェア期間中のイベント(試聴会)の案内が載っていた。
瀬川先生は、当時ロジャースの輸入元であったオーデックスのブースでやられる。
しかもPM510の試聴である。

これだけは万難を排してでも、と思って楽しみにしていた。
まだフェアまでは二ヵ月ほど待たなければならなかった。

フェアの直近に出たオーディオ雑誌を見た。
なぜかそこには先月号まではあった瀬川先生の名前がなかった。
どうしたんだろう……、また体調を崩されたのか……、とおもうとともに、
瀬川先生に会える機会がなくなったことにがっかりしていた。

瀬川先生に会えるはずだったオーディオフェアが、私にとってはじめてのオーディオフェアになった。

Date: 10月 13th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(その3)

オーディオフェアにも、メーカーのショールームにも足を運ばなかった、その人はこういう。
「人の多いところは苦手だ、極力そういう場所は避けたい」
「フェアやショールームで音を聴いたところで、満足に鳴っていた試しがない」

人の多いところが積極的に好き、という人の方がむしろ少ないのではないだろうか。
誰だって人いきれのするところにできれば行きたくない。私だってそうだ。

それでも、そこに行くことで会いたい人に会えるのならば、行くというものだ。
だから、熊本に住んでいた時、片道約一時間バスに揺られて熊本の中心地にまで出て、
それから20分ちかい距離を歩いて、瀬川先生が定期的に来られていたオーディオ店に行っていた。

中心部からオーディオ店までバスももちろんあったけれど、
高校生の小遣いは限られたものだから、少しでも節約したかったから歩けるところは歩いていた。

そういうところにいた私からすると、
東京はなんと交通の便のいいところだろう、と感じていた。

私が熊本にいたころの、そのときの移動距離にかかる時間も短く、
電車も頻繁に来るから時刻表を確かめておく必要もない。
それにかかる費用も、ずっと安い。

それでも行っていたのは、瀬川先生に会えるからである。

Date: 10月 13th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(その2)

現在のオーディオ・ホームシアター展がオーディオフェアと呼ばれていたころ、
オーディオ雑誌でオーディオフェア開催の記事を読むたびに、
東京および東京近郊に住んでいる人はいいなぁ、と思っていた。

熊本と東京では遠すぎる。
学生が小遣いを貯めてオーディオフェアに行ける距離ではない。

とにかく東京で暮らすようになったらオーディオフェアに行く、
10代のころ、そう思っていた。

それに東京はオーディオフェアだけではない。
メーカーのショールームもいくつもある。
そこでは定期的なイベント(試聴会)が行われていて、
このことも地方に住むオーディオマニアにとっては、羨ましいかぎりだった。

東京にずっと住んでいる人にとっては、それが当り前のことであって、
特にありがたいこととは思っていないのかもしれない。

たとえば瀬川先生のファンの人で、
東京生れ、東京育ちにも関わらず、
オーディオフェアにもメーカーのショールームにも行ったことがない、という。
それも、どこか誇らしげに、である。

そんなところには、私は行かない──、そんな人がいた。

行く行かないは、その人の勝手だから、私がとやかくいう筋合いのことではないのだが、
その人が不思議なのは、瀬川先生に会えなかったことを悔しがっていたことだ。

なぜなの? と私は思っていた。
オーディオフェアでも瀬川先生は講演を何度もやられていたし、
ショールームでもいくつかのところで定期的にイベント(試聴会)をやられていた。

その人が住む東京で、これらは開かれていたにも関わらず、
その人は一度も行かずに、瀬川先生が亡くなられてから、
会えなかった……、と悔しがる、その心境が正直理解できなかった。

その人は、簡単に会場まで行けば、そこで瀬川先生と会うことができたにも関わらず、
自分の意志で一度も行かなかったのだから。

Date: 10月 12th, 2013
Cate: ショウ雑感

2013年ショウ雑感(その1)

昨日(11日)から、ハイエンドショウが始まった。
18日からは、オーディオ・ホームシアター展が始まる。
ジャンルがヘッドフォンに限られるが、ヘッドフォン祭りが、26日から始まる。

そして11月にはいれば、2日からインターナショナルオーディオショウが始まる。

秋のオーディオショウの季節が到来した、といえる。

以前はハイエンドショウとインターナショナルオーディオショウは同じ日程で、
会場も交通会館と東京フォーラムと接近していたため、
両方に行く人は多かったはずだ。

いまは開催時期が違う。
そのためインターナショナルオーディオショウには行くけれど……、という人もいよう。
それにインターナショナルオーディオショウは行くけれど、
オーディオ・ホームシアター展は行かない、という人もいることだろう。

おそらく、このブログを読んでくださっている人の多くは、
インターナショナルオーディオショウには行くけれど(もしくは行きたい)……、という人だろう。

ハイエンドショウは、インターナショナルオーディオショウと比較すれば、
あれこれ言いたくなるのはわからないわけではない。
中には、行く価値はない、とまで決めつけている人もいる。

なにもこれはハイエンドショウだけに限らず、
インターナショナルオーディオショウに対しても、そんなふうに決めつけている人はいる。

所詮ショウなんだよ、とか、あんな環境では……、とか、
そんな人はあれこれ言う。

私にしてみれば、なぜ、行かない理由をあれこれ言う必要があるんだろうか、と思ってしまう。
行きたくなければ黙っていればいいじゃないか。

それに実際に行けば、会場に入れば、
何がしかの楽しさは、きっとあるし、何も見つけられないのであれば、
そこでのショウの内容が、その人のレベルよりも低いからなのではなく、
別のところに理由はある、と言いたい。

Date: 11月 9th, 2012
Cate: ショウ雑感

2012年ショウ雑感

2002年からわずかな時間ではあって、インターナショナルオーディオショウには行くようにしていたけれど、
今年は風邪気味(というよりも風邪気味っぽい、と軽い症状)だったので、
行こうかどうしようかと迷って、結局行かずに終ってしまった。

これまでは特に聴きたいモノがあって、それを聴くために行く、というよりも、
とにかく行って時間の許すかぎり、いくつものブースをまわって、
目を引く(耳を引く)モノと出合えたらいいな、という感じで行っていた。

今年はぜひ聴いておきたいモノがあった。
エレクトリが輸入しているファーストワットのSIT1である。

風邪気味っぽいくらいだったので出かけるのが苦になるというわけではなかった。
でも、すこし冷静に考えてみたら、ファーストワットのSIT1の音が聴ける可能性は低いように思えた。

SIT1の出力は、わずか10W。
エレクトリのブースは広い方で、スピーカーはおそらくマジコ。
マジコの、どのスピーカーが使われるのかはわからないけれど、
仮にQ3だとして出力音圧レベルは90dB、カタログには推奨パワー30Wとある。

SIT1のパワーで、人が大勢集まっているエレクトリのブースという環境では、
十分な音量が確保できない可能性が非常に高い。
だから、展示のみで鳴らさないのではないか、と考えたら、急に億劫になってしまった。

ショウに行った数人の方に話をきいてみたところ、やはりSIT1は鳴っていなかったようである。

行かなかったから、数人の人の話を興味深くきいた。
ひとりの人はAというスピーカーの音を褒め、Bというスピーカーの音にはまったく関心を示さなかった。
でも、別の人は反対でBのスピーカーを高く評価し、Aのスピーカーの評価はまったく低かった。

スピーカーにかぎらず、ブースの音に関しても、同じだった。
こうも違うんだな、と改めて思う。

音だけではない、ショウのお目当てがなにかということも違う。
それはオーディオ機器が対象の話ではなく、
ある人はオーディオ評論家の講演が目的、という人、
オーディオ評論家の講演よりも海外のメーカーのエンジニアの話がききたいから、という人もいる。

便宜上、オーディオ評論家の講演、と書いているけれど、
菅野先生不在の今、オーディオ評論家という言葉を使うことに抵抗を感じるようになっているし、
講演という言葉を使うのは、さらに抵抗を感じる。

とにかくショウに何を求めていくのかは、人によってさまざまであり、
ショウに実際に行ける人たちよりも行けない人たちのほうが圧倒的に多い。

だからオーディオ雑誌がショウの記事を掲載するのを毎年読んでいると、
ページ数の少なさも大きな制約になっていることはわかっているうえで、
行った人にも行けなかった人にも、読んで面白いという感じさせる記事づくりは充分可能なはず。

でも今年も、代り映えのしない記事を読むことになるのだろう……。

Date: 12月 7th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その10)

オーディオ機器の進歩は、「簇生する花の、花弁の一つひとつ、くっきり描いて」いく方向にある。
物理的・聴感上のS/N比の向上もそうだ。
S/N比の改善だけではない、これ以外の多くの要素が改善されることで、いわゆる情報量は増していくことになる。

情報量は少ないよりも多いほうがいい。
世の中では、そうなっている。
私も基本的にはそう考えている。
……いるけれども、ただただ情報量は多ければ、すべてにおいていいのか、という疑問もつねにもっている。

この項のタイトル・カテゴリーは「ショウ雑感」なので、
このことについてはこれ以上深く書かないが、これは家庭で音楽を聴く、という行為について考え、
オーディオとは家庭で音楽を聴くためのもの、という認識にたてば、さまざまな問題を含んでいる、といえる。

S/N比は音量と深く関わってくる。
情報量も音量と深く関わっている。
そして、これらのことはオーディオの再生における背景論・考に関係してくる。

これらのことについては、
「オーディオの背景論」もしくは「オーディオの背景考」というカテゴリーをつくって書いていくかもしれないし、
別項の「Noise Control/Noise Designという手法」で書いていくことになるかもしれない。
さらに背景について考えていくことは「境界線」について書いていくことにもなるはずだ。

Date: 12月 6th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その9)

MC3500とMC275は、どちらもマッキントッシュの管球式パワーアンプだが、
それ以外の共通点となるとあまりない。
出力管も違うし、つかっている本数も違う。
だから出力が、MC275は75Wなのに対しMC3500は350Wを誇っている。
この出力の差に見合うだけの規模の違いもある。
MC275はステレオ仕様、MC35000はモノーラル仕様で、コンストラクションもまったく異る。

性能的にもMC3500は管球式パワーアンプの限界に近いのでは、と思わせるだけのものをもっている。
MC3500をつくれるのは、いかにもアメリカのオーディオメーカーだけだろうし、
同じアメリカの、管球式アンプ全盛時代、両雄といわれたマランツでもModel 9はつくっても、
MC3500はつくれるだけの技術力を持っていたとしても、つくりはしなかっただろう、と思えるような、
この時代のアメリカの、マッキントッシュという会社だからつくりなし得たパワーアンプだと思う。

余談になるが、MC3500をはじめて見たのは、赤坂のクラブだった。
まだ18だったころ、アルバイトで行った先のステージの端にMC3500が数台置かれていた。
PA用のアンプとして使っていたのかもしれない。
アルバイトは、不調になったMC3500の引取作業だった。
初めて目にした日に初めて実物に触れることができた。
その大きさ、重さ──、ただただ「アメリカだなぁ」と感じていた。

音は、いまだ聴いたことはない。
聴いてみたいと思うし、もう聴かなくてもいいかなぁ、とも思う気持がある。
もし聴く機会がめぐってくるのなら、MC275といっしょに聴いてみたい。

MC275とMC3500、このふたつのパワーアンプのどちらを選ぶかは、分れると思う。
パワーアンプとして優秀なのは、MC275ではなくMC3500のほうだ。かなりの差がある、といってもいいだろう。

EMTの930stから927Dstに無理して換えたときの、まだ20代なかばだったころの私だったら、
MC275とMC3500を比較試聴したら、MC3500を選んだはずだ。

でも、いまはMC275を選ぶ──、そうすると思う。

Date: 12月 5th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その8)

つづいて登場するのは、マッキントッシュのMC3500だ。
     *
さて、期待して私は聴いた。聴いているうち、腹が立ってきた。でかいアンプで鳴らせば音がよくなるだろうと欲張った自分の助平根性にである。
理論的には、出力の大きいアンプを小出力で駆動するほど、音に無理がなく、歪も少ないことは私だって知っている。だが、音というのは、理屈通りになってくれないこともまた、私は知っていたはずなのである。ちょうどマスター・テープのハイやロウをいじらずカッティングしたほうが、音がのびのび鳴ると思い込んだ欲張り方と、同じあやまちを私はしていることに気がついた。
MC三五〇〇は、たしかに、たっぷりと鳴る。音のすみずみまで容赦なく音を響かせている、そんな感じである。絵で言えば、簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いている。もとのMC二七五は、必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、簇生の美しさを出すためにぼかしてある、そんな具合だ。
どちらを好むかは、絵の筆法の差によることで、各人の好みにまつほかはあるまい。ただ私の家の広さ、スピーカー・エンクロージァには無用の長物としか言いようのない音だった。自動車にたとえるなら、MC三五〇〇はちょうどレーサーのマシンに似ている。時速三百キロぐらいは出る。だからといって、制限速度はせいぜい百キロ前後のハイウェイや都市を、それで快適に走れるとは限らぬだろう。ハイウェイをとばすにしても、座席のゆったりした、クーラーでもほどよくきいた高級セダンのほうが乗心地はらくだ。そんなような感じがした。
別のエンクロージァで、大邸宅にでも暮らして聴くなら別である。タンノイ・オートグラフが手ごろな私の書斎では、アメリカ人好みのいかにも物量に物を言わせた三五〇ワットは、ふさわしくなかったし、知人に試聴してもらっても、その誰もが音はMC二七五のほうがよい、と言った。
     *
ノイマンのV69について書かれたところに出てくる奈良のN氏は、
ステレオサウンド 47号から再開になった「オーディオ巡礼」に登場する南口氏のことである。
そこで、パッと「五味オーディオ教室」のなかの、この文章に結びつけば、この項の(その6)で引用した
「マランツをマークレビンソンにかえねば出せないような音など、レコードには刻まれていない」
「レコードの特性ではなく音楽を再生する上でマランツ7はもう十分すぎるプリアンプだ」を読んで、
素直に首肯けたことだろう。

でも、当時15の私には、少し無理だった……。

Date: 12月 5th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その7)

「五味オーディオ教室」には、あまりオーディオ機器の型番は出てこない。
だから、「五味オーディオ教室」に登場してくるオーディオ機器への関心は高くなっていた。

パワーアンプに関しては、当然だけど、マッキントッシュのMC275のことが出てくる。
MC275の他に印象に強く残ったのが、2機種ある。
ひとつは型番が表記してないパワーアンプ。

「メインアンプの性能を向上させるだけでは、家庭で聴く音はかならずしもよくならない」
と題された章で冒頭に、つぎのようにある。
     *
世のオーディオ・マニアは、メインアンプの性能を向上させれば、音がよくなることを知悉している。事実、一九六二年ごろテレフンケンで出した、ノイマンのカッティング・マシンに使用するためのF2a11、EF804s、EZ12という、シロウトの私にはわけのわからぬ真空管を使ったアンプの音を、たまたま奈良のN氏宅で聴いて驚嘆した。
ふつう、ぼくらの知る限り、家庭で聴くメインアンプは(真空管)で最良の音質の得られるのは、マッキントッシュのMC二七五である。ずいぶんいろいろなアンプを私は聴き比べてみたが、従来のスピーカー・エンクロージァを鳴らす限りにおいては、どんな球やトランジスター・アンプよりも、このマッキントッシュMC二七五に、まろやかで深みのある音色、ズバ抜けた低域の自然な豊かさ、ダイナミック・レンジ、高音の繊細さを味わい得た。私だけがそう思うのではなくて、これはオーディオ界の通説だった。
ところがである。N氏宅にも、マッキントッシュMC二七五はあるが、メインを右のわけのわからぬ球のアンプに替えると(プリはマランツ7)、ちょうどラックス級のアンプをマッキントッシュに替えたほどの、すばらしい音色を得られた。たとえば、ジム・ランシングのSG五二〇のもつ音の解像力を、従来のマッキントッシュにプラスしたものと言えばいいだろうか。
     *
当時は、このパワーアンプがいったいなんなのかを知りたかった。
ノイマンのV69だとわかったのは、もうすこし先のことだったが、
五味先生のこの文章を読んだ時、型番もわからぬパワーアンプの姿を妄想していたものだ。

五味先生の文章はまだつづく。

Date: 12月 2nd, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その6)

ステレオサウンド 47号が出たとき、五味先生のオーディオ巡礼がカラーページに載っていた。
これは、うれしかった。

47号の約2年前に「五味オーディオ教室」を読みオーディオの世界にはいってきた。
それだけ五味先生の影響は大きくて、その五味先生の新しい文章が読める、ということでうれしかった。

しかも登場されている方は、南口重治氏。
そこに五味先生のこんな文章がある。
     *
マランツ7は私の知るかぎり、現在でも最高のプリアンプである。マランツをマークレビンソンにかえねば出せないような音など、レコードに刻まれてはいない。SN比、ボリューム操作に円滑さを欠く二点を除いては、7をLNPに変えて音が良くなるなら、それは、パワーアンプ以下のどこかで不備な点があるからだと私は思っている。それほど、レコードの特性ではなく音楽を再生する上でマランツ7はもう十分すぎるプリアンプだ。
     *
ステレオサウンド 47号は1978年6月に出ている。
私はまだ15歳だった。
いくら「五味オーディオ教室」からオーディオに入ってきたとはいうものの、
このことに関しては、すなおに首肯けなかった。

「五味オーディオ教室」を読んだ時からの約2年間の間に、瀬川先生の文章も読んできた。
このときはまだLNP2の音を聴いたことはなかったし、マランツModel7の音も、もちろん聴いていなかった。
とはいうものの、LNP2がどういうコントロールアンプで、どういう衝撃を登場した時にオーディオ界に与えたかは、
瀬川先生の、何度もくり返し読んだ文章で知っていた。

五味先生もマランツModel7よりもマークレビンソンLNP2のほうがS/N比は優れている、と認められている。
すくなくともS/N比が優れていれば、Model7では聴こえない、とは言わないまでも聴こえ難い微妙な音は、
LNP2ならば聴き取りやすくはなっているはず。
それによく音が良くなった時の表現として、「レコードにはこんな音まで入っていたのか」というのがある。

だから、いくらなんでもそんなことはないだろう……、と15の私は、五味先生のいわれることを信じながらも、
そんなふうにも思っていた。

けれど、これは、47号が出るまでに何度も読んできた「五味オーディオ教室」に書かれている、
あることへと関連しているのに、すぐには気がつかなかった。

Date: 11月 14th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その5)

S/N比が高い、ということは、それが物理的であれ聴感上であれ、
音楽のピアニッシモ、音楽の間における静寂感に秀でている、ということである。
音楽が消えてゆくとき、どこまでもどこまでも、
その消えてゆく音を耳で追いかけていけそうな気にさせてくれる。

このとき、消えてゆく音が、
心の奥底に、心のひだにしみこんでくるように音を聴かせてくれるオーディオ機器がある。
そうでないオーディオ機器もある。
どこまでこまかい音を聴かせながらも、それがこちらの心にまでしみこんでこない場合(機器)がある。

このふたつの違いは、もう物理的な、聴感上のS/N比とはすこし違うところに起因することだと思う。
これを、聴感上のS/N比よりも、さらに心理的なS/N比、とでもいおうか、
それとも心情的なS/N比とでもいおうか、とにかく、聴感上のS/N比という言葉が表すものよりも、
ずっとずっとパーソナルなところでのS/N比の良さ(ここまでくると高低ではないはずだ)、
そういった次元のものが存在しているように思えてくるし、そう思わせてくれるオーディオ機器がある。

そういうオーディオ機器は、昔からあった。
数は少ない。しかもそれは私がそう感じるオーディオ機器が、ほかの人もそう感じるのかはなんともいえないし、
そう感じてきたオーディオ機器が、必ずしも聴感上のS/N比において、
現在の優れたオーディオ機器よりも優れているわけではない。
にもかかわらず、現在の聴感上のS/N比の高いオーディオ機器よりも、
ずっと心理的・心情的なS/N比の良さをもつオーディオ機器が存在してきている。

すこし具体例をあげれば、スピーカーシステムでは、
イギリスのそれもBBCモニター系列のモノがすぐに頭に浮かぶ。
スペンドールのBCII、ロジャースのLS3/5A、PM510、KEFのModel 104などである。

このことがどういったことに関係しているのか、正直、いまのところはよくわからないところがまだまだある。
それでも、聴感上のS/N比ではなく、心理的・心情的、さらに情緒的とでもいったらいいのだろうか、
まだまだどういう表現をするのか決めかねているような段階ではあるけれど、
そういうS/N比の良さは、私にとってオーディオ機器を選択するうえで重要なことである。

Date: 11月 14th, 2011
Cate: ショウ雑感

2011年ショウ雑感(その4)

聴感上のS/N比ということを最初に使われたのは、おそらく井上先生だろう、ということは以前書いた。
1980年代、井上先生は、この聴感上のS/N比をよく口にされ、試聴の時にも重視されていた。

10年ぐらい前からだろうか、
聴感上のS/N比は頻繁に目にするし、聞くことが多くなった。
一般的な評価の基準として認められ広まってきたためであろう。
もっとも井上先生が定義されていた聴感上のS/N比とは、ややずれたところで使われているんじゃないか、
と思いたくなることも少なからずあるけれど、
聴感上のS/N比をどう定義するのかは、人によってどうも微妙に異るところがあるようで、
必ずしも物理的なS/N比のように、高低がはっきりするわけでもない面もある。
つまり人によって、聴感上のS/N比が高いと感じる音が別の人には、
それほど高くない、低いということもありうるわけだ。
また2つのオーディオ機器を聴き比べて、Aという機器を聴感上のS/N比が高い、という人もいれば、
いやBの方が高い、ということも起っている。

聴感上のS/N比は数値で示すことのできるものではないし、
何を持って聴感上のS/N比が高いのかは、まだまだ共通認識といえるところまではいっていないようだ。
おそらくこれからさきも、聴感上のS/N比に関しては、人によって違ったままだろう。

それはともかくとして、聴感上のS/N比は向上してきている、といえる。
そうでないオーディオ機器もあるにはあるけれど、全体的な傾向としては向上してきているし、
聴感上のS/N比は高いにこしたことはない。

いま聴感上のS/N比を確保する手法がかなり確立されてきている、といえるし、
聴感上のS/N比を向上させてきているメーカーは、
聴感上のS/N比を、どういうところに着目して聴いて判断すればいいのかを掴んでいるのではないだろうか。
そうなってくると聴感上のS/N比という、いわば感覚量が物理的な量に近づきつつあるような気もしなくもない。
少なくとも、つくり手側のなかには、聴感上のS/N比を、
そんな感じでとりあつかっているところがあるような気もする。

実は、こんなこともADAMのColuman Mk3を聴いた後で思っていた。
そして、聴感上のS/N比よりも、もっと感覚的な、
さらにいえばもっと個人的なS/N比の高さ(というよりも良さ)を感じさせてくれたような気がしている。