確信していること(その21)
(その20)を書いたのが、2011年11月。
さすがに間を空けすぎた。
(その20)の続きとして書こうと思ったが、
別項「音を表現するということ(間違っている音)」で、
そこで、「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」といった知人のことを書いているから、
瀬川先生の音について、書きたい。
私も瀬川先生のリスニングルームでの音は聴いていない。
熊本のオーディオ店に来られたときに鳴らされていた音を、何度か聴いているだけである。
あとは、ほとんどの人と同じで、瀬川先生の書かれた文章を読んでの想像である。
よく瀬川先生音は、細身で柳腰、
そんなふうに語られることがある。
「瀬川先生の音を彷彿させる音が出せた」といって、間違った音を出していた知人も、
そう思っていた。
けれど、彼の場合、瀬川先生の文章をほんとうに読んでいたのか、
甚だ疑問である。
知人は「読んでいた」という。
けれど、彼の頭の中には、何が残っていたのか。
たとえば細身の音にしても、知人の認識は、
ただ一般的な意味での細身の音でしかない。
瀬川先生の書かれたものを丹念に読んでいれば、そうでないことはわかっているはすである。
何も瀬川先生が、ずっと以前に書かれていたことを持ち出そうとするわけではない。
知人も、何度も読み返した、といっていて、
その原稿のコピーを、彼はリスニングルームに飾っていた。
そこに書かれていることですら、彼の頭の中にはなかった。
ステレオサウンド別冊「’81世界のセパレートアンプ総テスト」の巻頭、
「いま、いい音のアンプがほしい」に書いてあることだ。