Archive for category 瀬川冬樹

Date: 12月 12th, 2020
Cate: D44000 Paragon, JBL, 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その31)

ステレオサウンドの冬号(ベストバイの号)が書店に並んでいるのをみかけると、
59号のことを思い出してしまう。

昔は夏号がベストバイの号だった。
59号は、ベストバイに瀬川先生が登場された最後の号である。
     *
 ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
     *
59号で、パラゴンについて書かれたものだ。
もう何度も引用している。

この文章を思い出すのだ。
特に「まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。」を何度も何度も思い出しては、
反芻してしまっている。

59号の時点で、23年も前の製品だったパラゴンは、
いまでは60年以上前の製品である。

瀬川先生の「欲しいなぁ」は、つぶやきである。
そのつぶやきが、いまも私の心をしっかりととらえている。

Date: 11月 25th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

ベルナール・ブュフェ回顧展 私が生きた時代

Bunkamuraミュージアムで、「ベルナール・ブュフェ回顧展 私が生きた時代」が開催されている。
2021年1月24日まで、である。

私がベルナール・ブュフェの作品を強く意識したのは、
瀬川先生のリスニングルームの壁にかかっていた写真をみた時からだった。

世田谷・砧に建てられたリスニングルームの漆喰の壁にかかっていた。
瀬川先生にとって、あのリスニングルームが、どういう存在だったのかを考えれば、
そこに、誰でもいいから、なにか絵(版画)をかけておこう、ということにはならないはず。

ベルナール・ブュフェのリトグラフを気に入ってことだったのだろう、
といまもおもっているが、はっきりしたことはわからない。

誰かからの贈り物だったのかもしれないし、
瀬川先生が購入されたものなのかも、よくは知らない。

でも気に入らない作品を、音楽を聴く空間に、
視界に入るところにかけられはしないはずだ。

ベルナール・ブュフェの作品と瀬川先生の音との共通するところ。
そういうものがあるのかはなんともいえないのだが、
それでも線による描写というところに、共通するところを感じてもいる。

ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES-3」の巻頭鼎談で、
井上先生、黒田先生とともに、JBLの4343のトゥイーターを交換しての試聴について語られている。

JBLの2405、ピラミッドのT1。
この二つのトゥイーターの評価で、瀬川先生の音の好みがはっきりと語られている。
そこのところを読むと、ベルナール・ブュフェとのつながりを、なんとなく感じられる。

Date: 11月 21st, 2020
Cate: 瀬川冬樹

AXIOM 80について書いておきたい(その18)

別項「原音に……(コメントを読んで・その5)」で、
スピーカーのあがり的存在について、ちょっとだけ触れている。

瀬川先生にとってのスピーカーのあがりがあったとすれば、
それはAXIOM 80だったのかもしれない。

それが「我にかえる」ということにつながっていくのではないだろうか。
そういう気がしてきた。

スピーカーのあがり。
といっても、YGアコースティクスでスピーカーはあがり、
マジコでスピーカーはあがり、といっている人たちと、
瀬川先生のあがりは、決して同じなわけではない。

Date: 11月 7th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

11月7日 土曜日

今日は、11月7日。
1981年の11月7日は、土曜日だった。
今日も、土曜日だ。

曜日は一日ずつズレていくし、うるう年であれば二日ズレるのだから、
ほぼ順番に、曜日は変っていく。

それでも、11月7日が土曜日だと、土曜日の11月7日か……、とおもってしまう。

そういえば、と思い出す。
2009年の11月7日のことだ。
2009年も、土曜日だった。

その日、六本木の国際文化会館で行なわれた「新渡戸塾 公開シンポジウム」に行っていた。
ここで、私のとなりに座っていた女性の方の名前が、瀬川さんだった。

「瀬川冬樹」はペンネームだから、瀬川先生とはまったく縁のない人とはわかっていても、
不思議な偶然があるものだ、と思ったことがあった。

そのことをおもい出していた。

Date: 10月 24th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

虚構を継ぐ者(その3)

後継者たらん、とこころがけている人がいる。
本人がそう思っているのか、そうでないのかは、
本心のところでは他者にはわからないことだろうし、
本人すら、曖昧なところを残しているのかもしれない。

それでも、第三者の目に、
あの人は、○○さんの後継者たらん、としているとうつることがある。

たとえばステレオサウンド 214号に、
「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。
五月女 実氏の文章である。

五月女 実氏は、ずっと以前にも五味先生について書かれた文章が、
ステレオサウンドに載っている。

その時にも感じたことだし、214号の文章ではさらに強く感じたことが、
五月女 実氏は、五味先生の後継者たらん、としている、ということだ。

本人は、そんなことはない、といわれるかもしれないし、
そうだ、といわれるかもしれない。
面識はないので、どちらなのかはわからないが、そんなことはどうでもいいわけで、
五月女 実氏の文章を読んでいると、こちらはそう感じた、ということだ。

けれど、しばらくしておもったのは、後継者たらん、ではなく、
五味康祐たらん、ではないのか、だった。

五月女 実氏の本心がどうなのかは、私にはまったくわからない。
でも、五味先生の後継者たらんと五味康祐たらん、とでは、
同じようではあっても、違う。

Date: 10月 23rd, 2020
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その5)

スチューダーのパワーアンプ、A68は、昔から欲しいと思い続けている。
A68のコンシューマー用といえるルボックスのA740もいいけれど、私はA68を手にいれたい。

けれど、なかなか出てこない。
1982年1月、ステレオサウンドの試聴室となりの倉庫に保管してあったA68、
瀬川先生が使われていた、そのA68を見たのが最後で、
それ以降、どこのオーディオ店でもみかけることがないまま、ほぼ四十年。

ヤフオク!にも、以前出品されていたけれど、手持ちがまったくなく入札すらできなかった。
それから十数年、ほんとうにみかけない。

海外ではみかけることがある。
eBayでは、時々みかける。いまもある。

ほかのところでもみかける。
でも、写真をながめてみると、けっこうくたびれている感じがする。
四十年ほど前のアンプなのだから、新品同様を求めたいわけではないが、
どうなんだろう……、この個体は? とおもう。

いまさらA68でもないだろう、という気持は、私にもある。
それでもコーネッタを自分のモノとして、バッハの無伴奏を聴いてしまったら、
A68で鳴らしたら、どんなチェロの音色と響きが聴けるだろうか、と想ってしまう。

コーネッタが、A68へのおもいを強めてしまった。

Date: 10月 3rd, 2020
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その4)

孤独な聴き手と孤立した聴き手は、まるで違う。
音楽は独りで聴くものだ。
私は、ずっとそう思っている。

家族といっしょに楽しむ音楽もいいとは思うけれど、
私には他人事のように感じてしまう。

そんな私が、audio wednesdayでは、
来てくれる人は少ないとはいうものの、同じ空間で同じ音楽を聴いていることを、
四年ほど続けている。

瀬川先生は、孤独な聴き手だった、と思っている。

どんなに広い空間を得られたとしても、
それがリビングルームで家族と一緒に聴くのであれば、
狭くてもいいから独りで聴ける空関をもつべきであり、
その理由として「音楽に感動して涙をながしているところを家族にみられてたまるか」、
という気持があるからである。

その瀬川先生は、オーディオ店での試聴会では、
来場者といっしょに音楽を聴くことになる。

そういう時は真剣に音楽を聴かれていない──、
人によっては、そんな見方をするだろうが、そうだろうか。

熊本のオーディオ店に定期的に来られていた瀬川先生をみてきた。
そんな感じは一度もなかった。

Date: 7月 16th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その10)

その9)を書いたのは、7月1日。
audio wednesday当日の昼間に書いている。
書いたあとに、喫茶茶会記でコーネッタを鳴らしたわけだ。

鳴らして、その音を聴いて感じたこと、感じたことなどを書いている途中であり、
書いていて気づいたことがある。

ここでのテーマ「カラヤンと4343と日本人」は、
私にとって非常に興味深いテーマであるだけでなく、
なにがしかの結論がまったく見えていない状態で書き始めた。

たいていのテーマは、ぼんやりとだったり、
はっきりとだったりという違いはあるにしても、結論が見えていたり感じられていたりする。
つまり、その結論に向って書きながら筋道を立てている感じでもある。

けれど、ここもそうだが、いくつかのテーマは、書きながら結論を感じよう、見つけようとしている。
だから、手がかり、鍵となることを見つけようともしているところがある。

コーネッタについて、ここまで書いてきていて、ふと気づいた。
「カラヤンと4343と日本人」の、
いわば裏テーマ(裏タイトル)を考えてみる、ということである。

「○○とタンノイと日本人」というテーマ(タイトル)である。
○○のところに、どの演奏家をもってくるのか。

フルトヴェングラーの名前がまっさきに浮んだ。
「フルトヴェングラーとタンノイと日本人」である。

ただ「カラヤンと4343と日本人」では、
4343は、ブランドではなくスピーカーシステムの型番である。

ならば「フルトヴェングラーとオートグラフと日本人」とすべきなのか。
4343とオートグラフでは時代が違う。
同時代のタンノイといえば、アーデンとなるが、
4343とアーデンでは……、と思うところもあるし、
アーデンとなるとフルトヴェングラーではなく、ほかの演奏家か……、とも思う。

まだ考えているところであるが、
裏テーマ(裏タイトル)といえるものが、びしっと決れば、
結論へと一歩近づける予感だけはしている。

Date: 7月 15th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その4)

タイトルとはほとんど関係ないことなのだが、
フルニエといえば,グルダとのベートーヴェンのチェロ・ソナタと変奏曲がある。
1959年の録音で、フルニエは六年後に、ケンプとのライヴ録音を行っている。

どちらもドイツ・グラモフォンである。
いま日本ではどちらのほうが評価が高いのだろうか。
レコード雑誌も読まなくなってけっこう経つ。

名曲・名盤の企画では、ベートーヴェンのチェロ・ソナタは、
誰の、どんな演奏が選ばれるのか、まったく知らない。

1980年代のなかばごろだったと記憶している。
黒田先生が、フルニエとグルダのベートーヴェンは素晴らしい演奏が聴けるのに、
忘れられかけられていて、残念なことである、と書かれていた。

フルニエのベートーヴェンが発売になった当時のことを知っているわけではないが、
ケンプとのライヴ録音は、その年のレコードアカデミー賞を受賞している。

そのことでグルダとのベートーヴェンのほうは、日本では影が薄くなったのだろうか。

フルニエとグルダのベートーヴェンは、CD+Blu-Ray Audioで出ている。
MQA(192kHz、24ビット)もある。
フルニエとケンプは、SACDが出ていた。
DSF(2.8MHz)とMQA、flac(96kHz、24ビット)がある。

少なくともいまは忘れられているわけではない、といえる。
瀬川先生は、ベートーヴェンのチェロ・ソナタは、誰の演奏を好まれていたのだろうか。

ステレオサウンド 16号の富士フイルムの広告(モノクロ見開き二ページ)、
左上に、
オーディオ評論家リスニングルーム深訪シリーズ(2)
瀬川冬樹氏
とある。

右側には、広告のコピーがある。
     *
音楽とは、ずっと
蓄音機時代から……。
うーん……〈太公トリオ〉が
ぼくの初恋。
あまりの感激に
床にしゃがみこんじゃったな。
衝撃的なフィーリング
だったんですよ……。
     *
瀬川先生(というよりも大村少年)の音楽の初恋は、
ベートーヴェンの大公トリオなのだ。
カザルス・トリオのだ。

こんなことを書いていると、瀬川先生の愛聴盤リストがないのだろうか、とおもう。
岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その10)」でも書いているが、
岩崎先生の「オーディオ彷徨」には愛聴盤リストがある。
瀬川先生の「良い音とは 良いスピーカーとは?」には、ない。

Date: 7月 13th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹というリアル(その3)

「良い音とは 良いスピーカーとは 良い聴き手とは?」
瀬川先生が、もっとながく生きておられたなら、
こんなテーマで何かを書かれていたのではないか──、
そんなことを(その2)で書いた。

「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」、
こんなふうなタイトルになったのかもしれないと考えつつも、
「良い鳴らし手とは 良い聴き手とは?」なのか、どちらなのか。

「良い聴き手」が先にくるのか、「良い鳴らし手」が先にくるのか。
どちらでも大差ない、とは思えないのだ。

「良い音とは 良いスピーカーとは?」に続くのであれば、
やはり「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」なのだろうか。

Date: 7月 13th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その3)

その2)へのコメントがfacebookにあった。
瀬川先生のリスニングルームに何度も行かれたことのあるFさんからのコメントだった。

瀬川先生はフルニエのアルヒーフ盤を持っておられた、とのこと。
さらにフィリップスから出ていたのは、フランスのfestival盤であって、
日本だけフィリップス(日本フォノグラム)からの発売だった、ともあった。

そうなのか、それで、フルニエのCDボックスに収録されていなかったか、と納得がいった。
ドイツ・グラモフォン、アルヒーフ、フィリップス録音の全集と謳っているのに、
なぜかフィリップス盤の無伴奏が含まれていなかった。

だからといって、ステレオサウンド 56号でのバッハの「無伴奏」が、
フルニエのアルヒーフ盤のことだと断定できるわけではないのはわかっていても、
やっぱりフルニエだったのか、と勝手に思い込んでいるところだ。

(その2)を書いたあとに、思ったことがある。
56号では、ロジャースのPM510を、
RMTの927Dst、マークレビンソンのLNP2、スチューダーのA68の組合せで、
一応のまとまりをみせた、とあった。

927Dstがトーレンスのリファレンス、A68がルボックスのA740であったならば、
フィリップス盤のフルニエかもしれないが、
ここでは927DstとA68だから、やっぱりアルヒーフ盤なのかも……、と迷っていた。

そのへんのことを(その3)、つまり今回書こうかな、と思っていたところに、
Fさんからのコメントだった。

そうか、アルヒーフ盤か……、と思いながら考えていたのは、
フィリップス盤(便宜上こう表記する)のフルニエは、
1976、77年の録音である。

いまフルニエによるバッハの無伴奏は、アルヒーフ盤以外に、
東京での公演を録音したものが出ている。
1972年の録音が、SACDでキングインターナショナルから出ている。

アルヒーフ盤は1960年の録音。
東京公演のライヴ録音は、フィリップス盤に年代的に近い。

スタジオ録音とライヴ録音の違いもあるのはわかっている。
それでも、この東京公演のフルニエも聴いてみたい、と思うようになった。

Date: 7月 12th, 2020
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹氏のこと(バッハ 無伴奏チェロ組曲・その2)

フルニエのバッハの無伴奏チェロ組曲は、LPで聴いていた。
アルヒーフの輸入盤で持っていた。
カザルスも、もちろん聴いていた。

CDになったのはいつなのか記憶にない。
CDでは、LPよりも多くのバッハの無伴奏チェロ組曲をもっていた。
カザルスはCDでも聴いていた。

なのにフルニエはCDでは買わなかった。
LPでも聴くことがなかったからだ。

フルニエの演奏が、つまらない、とか、聴くにたえない、とか、
そんなふうに感じていたわけでもなかったのに、いつしか聴かなくなっていた。

いま思うと、なぜなのか、われながら不思議でしかないのだが、
20代のころの私はそうだった。

その1)を書いた四年前、もういちどフルニエを聴いてみようか、と思った。
瀬川先生の、ステレオサウンド 56号でPM510の記事中に出てくるバッハの無伴奏は誰だったか。
フルニエかもしれない、と思いつつも、
フルニエならば、アルヒーフ盤だったのか、それともフィリップス盤(こちらが新しい)なのか。

なんとなくフィリップス盤のような気がした。
フィリップス盤のフルニエは聴いていない。
聴いていないのに、何となくそんな気がしたから、探してみた。

アルヒーフ盤は、いまでも買える。
SACDも出ていたし、CD+Blu-Ray Audioでも出ている。
e-onkyoではMQAでも出ている(192kHz、24ビット)。

なのにフィリップス盤は、デッカ盤としても出ていなかった。
そんなに熱心に探したわけではなかったので、見つけられなかった。

先日のaudio wednesdayで、フルニエの無伴奏をかけた。
アルヒーフ盤(盤といっても、MQAなのだが)のほうだ。

コーネッタで聴いてみたかったから、当日の午前中に購入した。
聴いていて、フルニエだとしたらフィリップス盤だったのか、とおもっていた。

Date: 7月 9th, 2020
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その11)

都内の大きな書店に行くと、
いまでもオーディオコーナーの書棚に「良い音とは 良いスピーカーとは?」が並んでいる。
たしか2013年に出ているから、それでも売れているわけなのだろう。
けっこうなことだと思う。

思うとともに、「続・良い音とは 良いスピーカーとは?」は出ないのか、と思う。

「良い音とは 良いスピーカーとは?」には、
「コンポーネントステレオの世界 ’75」の鼎談が載っている。
岡俊雄、黒田恭一、瀬川冬樹の三氏で、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」というテーマで語られたものだ。

この鼎談について、岡先生がステレオサウンド 61号に書かれている。
     *
 白状すると、瀬川さんとぼくとは音楽の好みも音の好みも全くちがっている。お互いにそれを承知しながら相手を理解しあっていたといえる。だから、あえて、挑発的な発言をすると、瀬川さんはにやりと笑って、「お言葉をかえすようですが……」と反論をはじめる。それで、ひと頃、〝お言葉をかえす〟が大はやりしたことがあった。
 瀬川さんとそういう議論をはじめると、平行線をたどって、いつまでたってもケリがつかない。しかし、喧嘩と論争はちがうということを読みとっていただけない読者の方には、二人はまったく仲が悪い、と思われてしまうようだ。
 とくに一九七五年の「コンポーネントステレオの世界」で黒田恭一さんを交えた座談会では、徹底的に意見が合わなかった。近来あんなおもしろい座談会はなかったといってくれた人が何人かいたけれど、そういうのは、瀬川冬樹と岡俊雄をよく知っているひとたちだった。
     *
この鼎談がいまも読めるわけだから、これもけっこうなことだと思っている。
けれど、この鼎談を読んだ上で、読んでほしいと思う記事は、ステレオサウンドにはいくつもある。

たとえばステレオサウンド 44号と45号のスピーカーシステムの総テスト。
この試聴は、単独試聴であり、一人一人が試聴記を書かれている。
それぞれの試聴記を比較しながら読んでいく、という行為。

私は44号、45号の試聴記を読んで数年後に、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」を読んでいる。
順序が逆になってしまったけれど、ここでもう一度試聴記を読み返す面白さがあった。

それからHIGH-TECHNIC SERIES-3のトゥイーターの総試聴。
ここでは井上、黒田、瀬川の三氏による合同試聴で、
書き原稿による試聴記ではなく鼎談による試聴記になっている。

これが、まためっぽうおもしろい。
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」を読んでいれば、
ここでも、そのおもしろさは増してくる。

それだけではない、
「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」のおもしろさも増す。
「続・良い音とは 良いスピーカーとは?」は出ないのか。

Date: 7月 1st, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その9)

アルテックというスピーカーの音の魅力とは──、
そのことで思い出すのは、ステレオサウンド 16号でのオーディオ巡礼である。
五味先生が、瀬川先生、山中先生と菅野先生のリスニングルームを訪問されている。

このころの山中先生はアルテックのA5に、
プレーヤーはEMTの930st、アンプはマッキントッシュのMC275を組み合わされていた。
     *
そこで私はマーラーの交響曲を聴かせてほしいといった。挫折感や痛哭を劇場向けにアレンジすればどうなるのか、そんな意味でも聴いてみたかったのである。ショルティの〝二番〟だった所為もあろうが、私の知っているマーラーのあの厭世感、仏教的諦念はついにきこえてはこなかった。はじめから〝復活〟している音楽になっていた。そのかわり、同じスケールの巨きさでもオイゲン・ヨッフムのブルックナーは私の聴いたブルックナーの交響曲での圧巻だった。ブルックナーは芳醇な美酒であるが時々、水がまじっている。その水っ気をこれほど見事に酒にしてしまった響きを私は他に知らない。拙宅のオートグラフではこうはいかない。水は水っ気のまま出てくる。さすがはアルテックである。
     *
《さすがはアルテック》とある。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。

五味先生のオートグラフでは《水は水っ気のまま出てくる》。

これは五味先生の聴き方である。
ブルックナーの音楽を熱心な聴き手は、
ブルックナーの音楽に水なんてまじっていない、というかもしれない。

そういうブルックナーの聴き手からみれば、
アルテックこそブルックナーの音楽をきちんと鳴らしてくれるスピーカーであって、
タンノイは酒なのに、時々水にしてしまう──、
そういう捉え方になるかもしれない。

Date: 6月 29th, 2020
Cate: 五味康祐, 瀬川冬樹

カラヤンと4343と日本人(その8)

JBLが積極的に、
それも振幅特性のみのワイドレンジではなく、
多方面からみてもワイドレンジ指向をすすめていたのに対して、
同時代のアルテックは、2ウェイという枠組みのなかでのワイドレンジ化にとどまっていた。

それがアルテックらしい、といえばそうともいえたわけだが、
そのことによってプロフェッショナル、コンシューマーの両方の市場でシェアを失っていった──、
ともいえるわけだ。

JBLは、常に、その時点での技術の粋をきわめようとする姿勢だった。
スピーカーシステムに求められる物理特性を、できるかぎりすべてをベストに整えることを目指していた。
だが、このやり方は、常に前身を続けていくことでもある。

もっともそれが科学技術の産物といえるオーディオ機器なのだから、当然ともいえる。

終点がない。
つまりいつかは古くなる、ということだ。
技術は進歩していく。
必ずしも、すべての面で進歩していくとはいえないところもある。
合理性という面では進歩していても、
性能的にはなんらかわりなくても、音を聴いてみると……、というのは実際にある。

それがオーディオだ、といえるわけだが、それでも技術は進歩していくのだから、
古くなっていくことからは逃れられない。

アルテックは、どうだろうか。
4343の成功に刺戟され,6041という4ウェイ・システムを出してからは、
マルチウェイ化に積極的(濫造)になっていったが、それ以前は、あくまでも2ウェイが基本だった。

2ウェイという枠組みのなかで、個性をつくりあげていた、ともいえる。
だからとおもうのは、(その7)で書いた三人のオーディオマニアは、
若いころアルテックを聴いていたら、はたしてアルテックの魅力に気づいていただろうか、だ。