瀬川冬樹というリアル(その5)
あと十日で11月7日がやってくる。
今年の11月7日で四十年である。
四十年経っても、というよりも、
四十年経ったからこその「瀬川冬樹というリアル」を感じている。
あと十日で11月7日がやってくる。
今年の11月7日で四十年である。
四十年経っても、というよりも、
四十年経ったからこその「瀬川冬樹というリアル」を感じている。
別項「アレクシス・ワイセンベルク」を書いていて、
この項を思い出し、そういえば4343でワイセンベルクを聴いたことはないことに気づいた。
JBLの4343を、マークレビンソンのLNP2とSAEのMark 2500のペアで鳴らす。
あの時代、この組合せそのまま、もくしはこれに近い組合せで、
ワイセンベルクを聴いていた人は少なからずいるはずだ。
どんなだったのだろうか。
(その10)から半年。
タンノイのコーネッタは喫茶茶会記で六回鳴らしている。
なのに、コーネッタでブルックナーをかけてはいない。
コーネッタは、ブルックナーをどう鳴らすのか。
興味がないわけではない。
それでも、ブルックナーの交響曲よりもコーネッタでとにかく聴きたい曲があった。
それらを優先して聴いた(鳴らした)ので、ブルックナーはまだである。
(その9)で、五味先生は、山中先生の鳴らすアルテックを聴いて、
《さすがはアルテック》と感心されている。
ブルックナーの音楽にまじっている水を、見事に酒にしてしまう響き、だからだ。
さすがはアルテックなのだが、
アルテックということはもちろん無視できないが、
山中先生が鳴らされているアルテックだから、ということも大きい。
山中先生の音は何度か聴いている。
けれどブルックナーは聴いたことがない。
アルテックも聴いたことがない。
JBLはどうなのか。
4343はどうなのか。
4343は、ブルックナーの音楽にまじっている水を、どう鳴らすのか。
アルテックのように見事に酒にしてしまうのか、
それともタンノイのように水は水っ気のまま出してくるのか。
ふりかえってみると、4343でブルックナーを聴いたことがない。
4343の後継機、4344では数回聴いているが、印象は薄い。
4344で聴いたブルックナーは、やっぱり長いと感じていた。
ということは、ブルックナーの音楽にまじっている水を、
4344は酒にはしなかったのだろう。
ここで聴いてみたい、と思うのは、ヴァイタヴォックスである。
ヴァイタヴォックスは、ブルックナーの音楽にまじっている水をどう鳴らすのか。
すんなりと見事に酒にしてしまうのではないだろうか。
1月10日に、ヤフオク!にスチューダーのA68が出ているのを見つけた。
A68については何度か書いている。
それでも もう一度書きたい。
A68は、私がステレオサウンドで働き始めたころ、
1982年1月に、試聴室隣の倉庫に置かれていた。
瀬川先生の遺品だった。
他にマークレビンソンのLNP2とKEFのLS5/1Aがあった。
すべて自分のモノにしたい、と思ったけれど、
そんなお金はどうやっても工面できなかった。
この時ほど、お金が欲しい、と思ったことはない。
しばらくして、それらのオーディオ機器は去ってしまった。
LNP2は、その後も聴く機会はあった。
LS5/1Aは、LS5/1を自分のモノとして鳴らしたこともある。
A68だけが、その後、何の接点もない。
それもあってか、いまではA68がいちばん欲しい、と思うようになった。
そのA68が、久々にヤフオク!に出ている。
私が見逃していただけで、出品されていたのかもしれないが、
私の目に留まったのは、ほんとうにひさしぶりである。
程度は良さそうである。
天板に小さなキズがあるものの、四十年以上前のアンプであるわけだから、
その程度のことは気にならない。
欲しい! とあらためて思った。
しかも、今回は瀬川先生の誕生日にA68が、ヤフオク!に表示された。
何かの縁なのかもしれないが、
その縁をたぐり寄せることはできない。
一年前だったら、即購入していた(できていた)。
けれど、今年は厳しいだけに、数少ない機会をまた見逃すことになる。
コーネッタをA68で鳴らして、
バッハの無伴奏チェロ組曲を聴ける日が訪れるのだろうか。
後継者とは、なんだろうか。
松尾芭蕉のことばをかりれば、
《古人の跡を求めず、古人の求めたる所を求めよ》であり、
ゲーテのことばをかりれば、
《古人が既に持っていた不充分な真理を探し出して、
それをより以上に進めることは、学問において、極めて功多いものである》と考えている。
先人・先達たちが積み重ねてきた実績の上に、
さらに積み重ねることができる人が後継者であり、
模倣するだけの人は後継者とはなりえない。
「青は藍より出でて藍より青し」であってこそ、後継者ともいえよう。
私がステレオサウンド 214号掲載の五月女 実氏の文章を読んで感じたことは、
こういうことであり、五月女 実氏を五味先生の後継者とはまったく感じられなかったし、
五月女 実氏は、五味康祐たらんとされているように感じたところでもある。
ステレオサウンドの冬号(ベストバイの号)が書店に並んでいるのをみかけると、
59号のことを思い出してしまう。
昔は夏号がベストバイの号だった。
59号は、ベストバイに瀬川先生が登場された最後の号である。
*
ステレオレコードの市販された1958年以来だから、もう23年も前の製品で、たいていなら多少古めかしくなるはずだが、パラゴンに限っては、外観も音も、決して古くない。さすがはJBLの力作で、少しオーディオ道楽した人が、一度は我家に入れてみたいと考える。目の前に置いて眺めているだけで、惚れ惚れと、しかも豊かな気分になれるという、そのことだけでも素晴らしい。まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。
*
59号で、パラゴンについて書かれたものだ。
もう何度も引用している。
この文章を思い出すのだ。
特に「まして、鳴らし込んだ音の良さ、欲しいなあ。」を何度も何度も思い出しては、
反芻してしまっている。
59号の時点で、23年も前の製品だったパラゴンは、
いまでは60年以上前の製品である。
瀬川先生の「欲しいなぁ」は、つぶやきである。
そのつぶやきが、いまも私の心をしっかりととらえている。
Bunkamuraミュージアムで、「ベルナール・ブュフェ回顧展 私が生きた時代」が開催されている。
2021年1月24日まで、である。
私がベルナール・ブュフェの作品を強く意識したのは、
瀬川先生のリスニングルームの壁にかかっていた写真をみた時からだった。
世田谷・砧に建てられたリスニングルームの漆喰の壁にかかっていた。
瀬川先生にとって、あのリスニングルームが、どういう存在だったのかを考えれば、
そこに、誰でもいいから、なにか絵(版画)をかけておこう、ということにはならないはず。
ベルナール・ブュフェのリトグラフを気に入ってことだったのだろう、
といまもおもっているが、はっきりしたことはわからない。
誰かからの贈り物だったのかもしれないし、
瀬川先生が購入されたものなのかも、よくは知らない。
でも気に入らない作品を、音楽を聴く空間に、
視界に入るところにかけられはしないはずだ。
ベルナール・ブュフェの作品と瀬川先生の音との共通するところ。
そういうものがあるのかはなんともいえないのだが、
それでも線による描写というところに、共通するところを感じてもいる。
ステレオサウンド別冊「HIGH-TECHNIC SERIES-3」の巻頭鼎談で、
井上先生、黒田先生とともに、JBLの4343のトゥイーターを交換しての試聴について語られている。
JBLの2405、ピラミッドのT1。
この二つのトゥイーターの評価で、瀬川先生の音の好みがはっきりと語られている。
そこのところを読むと、ベルナール・ブュフェとのつながりを、なんとなく感じられる。
別項「原音に……(コメントを読んで・その5)」で、
スピーカーのあがり的存在について、ちょっとだけ触れている。
瀬川先生にとってのスピーカーのあがりがあったとすれば、
それはAXIOM 80だったのかもしれない。
それが「我にかえる」ということにつながっていくのではないだろうか。
そういう気がしてきた。
スピーカーのあがり。
といっても、YGアコースティクスでスピーカーはあがり、
マジコでスピーカーはあがり、といっている人たちと、
瀬川先生のあがりは、決して同じなわけではない。
今日は、11月7日。
1981年の11月7日は、土曜日だった。
今日も、土曜日だ。
曜日は一日ずつズレていくし、うるう年であれば二日ズレるのだから、
ほぼ順番に、曜日は変っていく。
それでも、11月7日が土曜日だと、土曜日の11月7日か……、とおもってしまう。
そういえば、と思い出す。
2009年の11月7日のことだ。
2009年も、土曜日だった。
その日、六本木の国際文化会館で行なわれた「新渡戸塾 公開シンポジウム」に行っていた。
ここで、私のとなりに座っていた女性の方の名前が、瀬川さんだった。
「瀬川冬樹」はペンネームだから、瀬川先生とはまったく縁のない人とはわかっていても、
不思議な偶然があるものだ、と思ったことがあった。
そのことをおもい出していた。
後継者たらん、とこころがけている人がいる。
本人がそう思っているのか、そうでないのかは、
本心のところでは他者にはわからないことだろうし、
本人すら、曖昧なところを残しているのかもしれない。
それでも、第三者の目に、
あの人は、○○さんの後継者たらん、としているとうつることがある。
たとえばステレオサウンド 214号に、
「五味康祐先生 没後40年に寄せて」という記事が載った。
五月女 実氏の文章である。
五月女 実氏は、ずっと以前にも五味先生について書かれた文章が、
ステレオサウンドに載っている。
その時にも感じたことだし、214号の文章ではさらに強く感じたことが、
五月女 実氏は、五味先生の後継者たらん、としている、ということだ。
本人は、そんなことはない、といわれるかもしれないし、
そうだ、といわれるかもしれない。
面識はないので、どちらなのかはわからないが、そんなことはどうでもいいわけで、
五月女 実氏の文章を読んでいると、こちらはそう感じた、ということだ。
けれど、しばらくしておもったのは、後継者たらん、ではなく、
五味康祐たらん、ではないのか、だった。
五月女 実氏の本心がどうなのかは、私にはまったくわからない。
でも、五味先生の後継者たらんと五味康祐たらん、とでは、
同じようではあっても、違う。
スチューダーのパワーアンプ、A68は、昔から欲しいと思い続けている。
A68のコンシューマー用といえるルボックスのA740もいいけれど、私はA68を手にいれたい。
けれど、なかなか出てこない。
1982年1月、ステレオサウンドの試聴室となりの倉庫に保管してあったA68、
瀬川先生が使われていた、そのA68を見たのが最後で、
それ以降、どこのオーディオ店でもみかけることがないまま、ほぼ四十年。
ヤフオク!にも、以前出品されていたけれど、手持ちがまったくなく入札すらできなかった。
それから十数年、ほんとうにみかけない。
海外ではみかけることがある。
eBayでは、時々みかける。いまもある。
ほかのところでもみかける。
でも、写真をながめてみると、けっこうくたびれている感じがする。
四十年ほど前のアンプなのだから、新品同様を求めたいわけではないが、
どうなんだろう……、この個体は? とおもう。
いまさらA68でもないだろう、という気持は、私にもある。
それでもコーネッタを自分のモノとして、バッハの無伴奏を聴いてしまったら、
A68で鳴らしたら、どんなチェロの音色と響きが聴けるだろうか、と想ってしまう。
コーネッタが、A68へのおもいを強めてしまった。
孤独な聴き手と孤立した聴き手は、まるで違う。
音楽は独りで聴くものだ。
私は、ずっとそう思っている。
家族といっしょに楽しむ音楽もいいとは思うけれど、
私には他人事のように感じてしまう。
そんな私が、audio wednesdayでは、
来てくれる人は少ないとはいうものの、同じ空間で同じ音楽を聴いていることを、
四年ほど続けている。
瀬川先生は、孤独な聴き手だった、と思っている。
どんなに広い空間を得られたとしても、
それがリビングルームで家族と一緒に聴くのであれば、
狭くてもいいから独りで聴ける空関をもつべきであり、
その理由として「音楽に感動して涙をながしているところを家族にみられてたまるか」、
という気持があるからである。
その瀬川先生は、オーディオ店での試聴会では、
来場者といっしょに音楽を聴くことになる。
そういう時は真剣に音楽を聴かれていない──、
人によっては、そんな見方をするだろうが、そうだろうか。
熊本のオーディオ店に定期的に来られていた瀬川先生をみてきた。
そんな感じは一度もなかった。
(その9)を書いたのは、7月1日。
audio wednesday当日の昼間に書いている。
書いたあとに、喫茶茶会記でコーネッタを鳴らしたわけだ。
鳴らして、その音を聴いて感じたこと、感じたことなどを書いている途中であり、
書いていて気づいたことがある。
ここでのテーマ「カラヤンと4343と日本人」は、
私にとって非常に興味深いテーマであるだけでなく、
なにがしかの結論がまったく見えていない状態で書き始めた。
たいていのテーマは、ぼんやりとだったり、
はっきりとだったりという違いはあるにしても、結論が見えていたり感じられていたりする。
つまり、その結論に向って書きながら筋道を立てている感じでもある。
けれど、ここもそうだが、いくつかのテーマは、書きながら結論を感じよう、見つけようとしている。
だから、手がかり、鍵となることを見つけようともしているところがある。
コーネッタについて、ここまで書いてきていて、ふと気づいた。
「カラヤンと4343と日本人」の、
いわば裏テーマ(裏タイトル)を考えてみる、ということである。
「○○とタンノイと日本人」というテーマ(タイトル)である。
○○のところに、どの演奏家をもってくるのか。
フルトヴェングラーの名前がまっさきに浮んだ。
「フルトヴェングラーとタンノイと日本人」である。
ただ「カラヤンと4343と日本人」では、
4343は、ブランドではなくスピーカーシステムの型番である。
ならば「フルトヴェングラーとオートグラフと日本人」とすべきなのか。
4343とオートグラフでは時代が違う。
同時代のタンノイといえば、アーデンとなるが、
4343とアーデンでは……、と思うところもあるし、
アーデンとなるとフルトヴェングラーではなく、ほかの演奏家か……、とも思う。
まだ考えているところであるが、
裏テーマ(裏タイトル)といえるものが、びしっと決れば、
結論へと一歩近づける予感だけはしている。
タイトルとはほとんど関係ないことなのだが、
フルニエといえば,グルダとのベートーヴェンのチェロ・ソナタと変奏曲がある。
1959年の録音で、フルニエは六年後に、ケンプとのライヴ録音を行っている。
どちらもドイツ・グラモフォンである。
いま日本ではどちらのほうが評価が高いのだろうか。
レコード雑誌も読まなくなってけっこう経つ。
名曲・名盤の企画では、ベートーヴェンのチェロ・ソナタは、
誰の、どんな演奏が選ばれるのか、まったく知らない。
1980年代のなかばごろだったと記憶している。
黒田先生が、フルニエとグルダのベートーヴェンは素晴らしい演奏が聴けるのに、
忘れられかけられていて、残念なことである、と書かれていた。
フルニエのベートーヴェンが発売になった当時のことを知っているわけではないが、
ケンプとのライヴ録音は、その年のレコードアカデミー賞を受賞している。
そのことでグルダとのベートーヴェンのほうは、日本では影が薄くなったのだろうか。
フルニエとグルダのベートーヴェンは、CD+Blu-Ray Audioで出ている。
MQA(192kHz、24ビット)もある。
フルニエとケンプは、SACDが出ていた。
DSF(2.8MHz)とMQA、flac(96kHz、24ビット)がある。
少なくともいまは忘れられているわけではない、といえる。
瀬川先生は、ベートーヴェンのチェロ・ソナタは、誰の演奏を好まれていたのだろうか。
ステレオサウンド 16号の富士フイルムの広告(モノクロ見開き二ページ)、
左上に、
オーディオ評論家リスニングルーム深訪シリーズ(2)
瀬川冬樹氏
とある。
右側には、広告のコピーがある。
*
音楽とは、ずっと
蓄音機時代から……。
うーん……〈太公トリオ〉が
ぼくの初恋。
あまりの感激に
床にしゃがみこんじゃったな。
衝撃的なフィーリング
だったんですよ……。
*
瀬川先生(というよりも大村少年)の音楽の初恋は、
ベートーヴェンの大公トリオなのだ。
カザルス・トリオのだ。
こんなことを書いていると、瀬川先生の愛聴盤リストがないのだろうか、とおもう。
「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(その10)」でも書いているが、
岩崎先生の「オーディオ彷徨」には愛聴盤リストがある。
瀬川先生の「良い音とは 良いスピーカーとは?」には、ない。
「良い音とは 良いスピーカーとは 良い聴き手とは?」
瀬川先生が、もっとながく生きておられたなら、
こんなテーマで何かを書かれていたのではないか──、
そんなことを(その2)で書いた。
「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」、
こんなふうなタイトルになったのかもしれないと考えつつも、
「良い鳴らし手とは 良い聴き手とは?」なのか、どちらなのか。
「良い聴き手」が先にくるのか、「良い鳴らし手」が先にくるのか。
どちらでも大差ない、とは思えないのだ。
「良い音とは 良いスピーカーとは?」に続くのであれば、
やはり「良い聴き手とは 良い鳴らし手とは?」なのだろうか。