実現しなかったモノ・コト(その1)
黒田先生は、ヴェルディ「椿姫」における理想のヴィオレッタは、
全盛期のマリア・カラスであったと思われる、と何かか書かれていた。
そうだ、と多くの人が同意されると思う。私もそうだと思う。
でも、マリア・カラスがヴィオレッタを歌ったディスクは、いくつかの注文をつけたくなる。
それは録音も含めて問題があるように感じるからである。
いまもカルロス・クライバーの「椿姫」の評価は高い。
1976年から77年にかけての録音であるから、もう40年前のことになってしまう。
けれど、ヴィオレッタに起用されたコトルバスに心底満足している聴き手は、どのくらいいるのだろうか。
ケチをつける、というほどではないにしても、
マリア・カラスを最高のヴィオレッタと思っている聴き手は、
口にすることはないけれど、何か思うところがあるはずだ。
このカルロス・クライバーの「椿姫」は、
もしかするとカルロ・マリア・ジュリーニの指揮になっていたかもしれない。
以前のステレオサウンドには三浦淳史誌の連載があった。
57号掲載の「続・レコードのある部屋」の大見出しはこうだった。
ジュリーニをオペラに呼び戻した《リゴレット》の録音
ライラック/カルショーの遺言
書き出しのところを引用しておく。
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カルロ・マリア・ジュリーニは、十年間、オペラ録音のためのスタジオに入ったことがなかった。歌劇場も同様である。ジュターにがさいごにふったオペラ全曲盤は、EMIのために録音した《ドン・カルロ》だった。彼が盗用したプラシード・ドミンゴとルッジェーロ・ライモンディは、彼らのキャリアをはじめたばかりだった。その後、ジュリーニはオペラをふる気にならなかった。あわやふりそうな気配は二回ほど見せたが、実現しなかった。
七年前、EMIはジュリーニのために《トロヴァトーレ》を企画したが、ジュリーニは会社がそろえてきた。キャストのうち、一人の歌手をどうしてもアクセプトできなかった。EMIは歌手の入れ替えをしなかったのか、それとも、できなかったのか、ジュリーニの意向を迎えなかったので、ジュリーニは会釈して出ていった。二回目の機会は一九七六年に起こった。DGはカルロス・クライバーの指揮で《ラ・トラヴィアータ》(俗称「椿姫」)を録音する体制をととのえた。クライバーは急病のため指揮をとれないことになった。DGのプロデューサー、ギュンター・プレーストは、ミラノにジュリーニを訪ね、引き受けてくれるよう懇望した。ジュリーニは二十四時間考えたのち、ことわった。理由は、自分が望んでいるやり方で、このオペラを準備するには、時間がなさすぎるというのである。クライバーが回復して、録音は予定通り行なわれた。
ジュリーニの拒絶反応が反射的なものでないことを知ったプレーストは、ジュリーニにふさわしいオペラと、ジュリーニのアクセプトするキャストを揃えれば゛オペラ録音にカム・バックする可能性はあると、ふんだ。
次のプレースト談は『ザ・タイムズ』紙の特派員に語った言葉である。
「私は、カルロの夫人のマルチェッラが『主人はもう少しで《トラヴィアータ》の提案に同意するところだったですよ』と話してくれた事実によって、ひじょうに励まされたのです。私共にとってありがたいもう一つのファクターは、ジュリーニの新しい手兵であるロス・アンジェルス・フィルハーモニック(LAP)とオペラをやるという話し合いが出たことでした。ジュリーニはすでにLAPの総支配人アーネスト・フライシュマンと《ファルスタッフ》をふることを話し合っていたのです。
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まだまだ続くし、まだまだ引用しておきたいが、このへんにしておく。
ジュリーニが《ラ・トラヴィアータ》の録音をことわった理由のこまかなことはわからない。
ジュリーニはスカラ座を指揮して、マリア・カラスのヴィオレッタによるライヴ録音を残している。
もしジュリーニが録音していたら、クライバーの「椿姫」はなかった可能性が強い。
それでもジュリーニの録音が実現していたら……、と思ってしまう。