Archive for category 終のスピーカー

Date: 8月 27th, 2016
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その5)

フルトヴェングラーのモーツァルトのレクィエムは、
死ぬまでに聴きたい、と思う。
けれど、いまのところLPでもCDでも出ていない(はずだ)。

五味先生が書かれていた。
     *
 フルトヴェングラーが、ウィーンで『レクィエム』を指揮した古い写真がある。『レクィエム』とは、こうして聴くものか、そう沁々思って見入らずにおられぬいい写真だ。フルトヴェングラーがいいからこの写真も一そうよく見えるにきまっているが、しかしワルターでもトスカニーニでもこの写真の雰囲気は出ないように思う。私はこんなレコードがほしい。(「死と音楽」より)
     *
これを読んでいるから、どうしても聴きたい、と思う。
録音が残っていないのか。

調べるとフルトヴェングラーがレクィエムを指揮したのは、1941年が最後である。
第二次大戦後は一度もレクィエムを指揮していない。

その理由はわからない。

Date: 10月 2nd, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その4)

続きを書くにあたって、迷っていた。
確認しておきたいことがあったけれど、
それが何に、いつごろ載っていたのかうろおぼえで、どうやってその本をさがしたらいいのか。
しかも、それは購入していた本ではない。
どこかで目にしたことのある本だった。

国会図書館に行き、じっくり腰を据えてさがしていけばいつかはみつかるだろうが、
それでは時間がどのくらいかかるのかわからない。

うろおぼえの記憶に頼って書くしかない……、と思っていたところに、
その本そのものではないが、
私が確認しておきたかった(読みたかった)記事が再掲されたムックが出ていた。

河出書房新社の「フルトヴェングラー 最大最高の指揮者」に載っていた。
7月に出たこの本の最後のほうに、「対談 フルトヴェングラーを再評価する」がある。
音楽評論家の宇野功芳氏と指揮者の福永陽一郎氏による、1975年の対談である。

この対談の福永氏の発言を、どうしても引用しておきたかったのだ。
     *
福永 ぼくがこのごろ思っていることは、フルトヴェングラーはいわゆる過去の大家ではないということです。つまりほかの大家、大指揮者というのは、みんな自分たちの大きな仕事を終わって、レコードにも録音して死んじゃったんですけれども、フルトヴェングラーというのは、そうではなくて、いまレコードで演奏している。つまり生物的には存在しない人間なんだけれども、いまなお、そのレコードを通して演奏している演奏家で、だから新しいレコードが発見されれば、ちょうどいま生きている演奏家の新しい演奏会を聴きに行くように聴きたくなる。そういう意味で、つまり死んでいないという考え方なんです。
 過去の演奏会ではない、いまだに生き続けている。あのレコードによって毎日、毎日鳴り続けている指揮者であると、そういう指揮者はほかにいないというふうに、ぼくは考えるわけです。だから、ほかの指揮者は過去の業績であり、あの人は立派だった、こういうのを残したという形で評価されているけれども、フルトヴェングラーの場合は、レコードが鳴るたびに、もう一ぺんそこで生きて鳴っているという、そういうものがあの人の演奏の中にあると思うんです。それがいまの若い人でも初めて聴いたときにびっくりさせる。
 つまり、過去の大家の名演奏だと教えられて、はあそんなものかなと聴くんじゃなくて、直接自分のこころに何か訴えてくるものがあって、自分の心がそれで動いちゃうということが起こって、それでびっくりしちゃって、これは並みのレコードとは違うというふうに感じるんじゃないか。そうするともう一枚聴きたくなるという現象が起きるんじゃないかという気がするわけですね。
     *
福永氏が語られていることをいま読み返していると、
フルトヴェングラーは、演奏家側のレコード演奏家だということをつよく感じる。

Date: 8月 11th, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その3)

黒田先生の著書「音楽への礼状」からの引用だ。
     *
 かつて、クラシック音楽は、天空を突き刺してそそりたつアルプスの山々のように、クラシック音楽ならではの尊厳を誇り、その人間愛にみちたメッセージでききてを感動させていました。まだ幼かったぼくは、あなたが、一九五二年に録音された「英雄」交響曲をきいて、クラシック音楽の、そのような尊厳に、はじめて気づきました。コンパクトディスクにおさまった、その演奏に耳を傾けているうちに、ぼくは、高校時代に味わった、あの胸が熱くなるような思いを味わい、クラシック音楽をききつづけてきた自分のしあわせを考えないではいられませんでした。
 なにごとにつけ、軽薄短小がよしとされるこの時代の嗜好と真向から対立するのが、あなたのきかせて下さる重くて大きい音楽です。音楽もまた、すぐれた音楽にかぎってのことではありますが、時代を批評する鏡として機能するようです。
 今ではもう誰も、「英雄」交響曲の冒頭の変ホ長調の主和音を、あなたのように堂々と威厳をもってひびかせるようなことはしなくなりました。クラシック音楽は、あなたがご存命の頃と較べると、よくもわるくも、スマートになりました。だからといって、あなたの演奏が、押し入れの奥からでてきた祖父の背広のような古さを感じさせるか、というと、そうではありません。あなたの残された演奏をきくひとはすべて、単に過ぎた時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます。
     *
黒田先生が書かれている「あなた」とは、フルトヴェングラーのことである。
黒田先生は書かれている、
フルトヴェングラーが残した音楽を、
《きくひとはすべて、単に過ぎだ時代をふりかえるだけではなく、時代の忘れ物に気づき、同時に、この頃ではあまり目にすることも耳にすることもなくなった、尊厳とか、あるいは志とかいったことを考えます》と。

フルトヴェングラー以降、多くの指揮者が誕生し、多くの録音がなされてきたし、
これからももっと多くの録音がなされていく。

フルトヴェングラーが亡くなって50年以上が過ぎている。
その間に出たレコードの枚数(オーケストラものにかぎっても)、いったいどれだけなのだろうか。
フルトヴェングラーが残したものは、その中に埋没することがなく、
いまも輝きを保っている、というよりも、輝きをましているところもある。

それは黒田先生が書かれているように、
フルトヴェングラーの演奏をきくことで、時代の忘れ物に気づき、
尊厳とか志といったことを考えるからであるからだ。

そして黒田先生は、すぐれた音楽は《時代を批評する鏡として機能するようです》とも書かれている。
フルトヴェングラーの演奏は、すぐれた演奏である。
つまり《時代を批評する鏡として機能》している。

そういう音楽だから、フルトヴェングラーの演奏をきく、といっても、
それが第二次大戦中の演奏なのか、第二次大戦後の演奏なのかは、
同じフルトヴェングラーの音楽であることに違いはないけれども、
同じには聴けないところがあるのをどこかで感じている。

だから第二次大戦中のフルトヴェングラーはシーメンスのオイロダインで、
第二次大戦後のフルトヴェングラーはタンノイのオートグラフで、ということに、
私の場合になっていく。

Date: 8月 7th, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)

フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。

何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。

私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。

けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。

私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。

Date: 8月 6th, 2015
Cate: 終のスピーカー

最後の晩餐に選ぶモノの意味(その1)

死ぬ日がはっきりと決っていて、しかもそれがいつなのか本人が知っている。
それがどういう状況での死になるのかはここでは書かない。

とにかくいつ死ぬのかがわかっている。
そして最後の晩餐として、何を求めるか、ときかれたとしよう。

私はオーディオマニアだから、ここでの最後の晩餐とは食事ではなく、
最後に聴きたい音(組合せ)をかなえてくれるとしたら、どういうシステムを選ぶだろうか。

部屋も用意してくれる。
オーディオ機器も、どんなに古いモノであっても、最高のコンディションのモノを探して出して用意してくれる。
わがままな要望をすべてかなえてくれる、いわば音の最後の晩餐に何を望むのか。

現実にはこんなことは、ほぼありえない。
だからこそ考えていると楽しい。

最後に何を聴きたいのかは、どのレコードを聴きたいのかによって、ほぼすべてが決る。

私はシーメンスのオイロダインを聴きたい、と思う。
そう思うのは、最後に聴きたいのはフルトヴェングラーなのか。

グレン・グールドのどれかを最後に聴きたいのであれば、オイロダインとは思わない。
別のスピーカーを思い浮べ、それを鳴らすにふさわしいと思えるアンプを選択する。
カスリーン・フェリアーの歌であれば、また別のスピーカー(というよりもデッカ・デコラ)にする。

オイロダインということは、グールドでもフェリアーでもないということだ。
オイロダインを選ぶということは、少なくとも今の私は最後に聴きたいと思っているのは、
フルトヴェングラーのなにかということになる……。

そんな急拵えのシステムで聴くよりも、
それまでつきあってきた自分のシステムで好きなレコードを聴ければ、それで充分だし、
だいたいこんなことを考えることに何の意味があるのか、と思う人も少なくないだろう。
私だって、そんな気持を持っている。
それでもこんなことを考えてみるのも、まるっきり無意味とは決して思えない。

少なくともいまの私はフルトヴェングラーのなにかを聴きたいのだ、ということを意識できたからだ。

Date: 5月 30th, 2015
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その5)

岩崎先生の2397の使い方(置き方)に惹かれる理由を考えていた。
2397が浮いている感じにしたいと思うのは、なぜなのか。

2397は扇状のホーンであり、短いスロートアダプターがつき、コンプレッションドライバーがある。
これらが形成するカタチを正面、それもやや下側から眺めていると、
U.S.S. ENTERPRISE NCC-1701を思わせることに気づく。

U.S.S. ENTERPRISE NCC-1701は円盤部と推進部から成る。
円盤部にはメインブリッジのほか居住区、医療室などの施設があり、
三つの円筒状から構成される推進部とが、いわゆる首といえる部分によってドッキングしている。

円盤部は正面から見れば浮いているかのようでもある。
この感じに2397を浮かして設置すると似ているのだ。

Date: 5月 20th, 2015
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その4)

岩崎先生はHarknessの上に2397ホーンを置かれていた。
ドライバーは2440か375。

この、ドライバーとホーンの組合せを設置してみるとわかるのだが、
2440(375)とホーンとの重量バランスが極端に悪い。
2397の下に、なにかスペーサーをいれなければホーンが前下りになる。

かといって適当なスペーサーをいれてホーンが水平になるようにすると、
2397とHarknessの天板とのスキマが広くなりすぎて、
見た目の印象が、やや不安定にも感じてしまう。

ステレオサウンド 38号の写真を見ているだけでは、
このスキマがそれほどないように感じる。
けれど写真が小さすぎて詳細がわからなかった。

岩崎先生はスペーサーをどうされていたのだろうか。

「コンポーネントステレオの世界 ’76」をぴっぱり出してきて、ナゾがとけた。
101ページに、その写真がある。
2397の下にスペーサーしらきものは見当たらない。
それに2397と天板との間隔も、わずかに狭いように感じる。

おそらく岩崎先生はドライバーを天板の上には設置されていなかったのではないか。
Harknessの後側にドライバーははみ出た恰好になっているはずだ。
つまりホーンとドライバーを支えているのは、
スロートアダプターとホーンの根元の接合部だけとなる。

他の人にとってはどうでもいいことだろうが、私にとっては小さな発見である。

Date: 1月 13th, 2014
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(続々・番外)

瀬川先生のModel 7は井上先生のところに行っている。
そのことは井上先生から直接きいていたし、
管球王国のVol.1にもはっきりと書かれている。

ステレオサウンド 38号に載った瀬川先生のリスニングルームの写真をみると、マランツ Model 7が写っている。
ただし一台だけである。
JBLのSG520は二台写っている。

38号の他にも、いくつかの瀬川先生のリスニングルームの写真をみても、
マランツのModel 7が二台写っているものは見つけられなかった。

瀬川先生はModel 7を二台以上所有されていたのだろうか。

こんなことを書くのは、以前、あるオーディオ店から瀬川先生が使われていたModel 7を買った、
という話を読んでいるからだ。
そのときは、井上先生のことを忘れてしまっていた。

いまは違う。
瀬川先生のModel 7を一台だけであったならば、
そのオーディオ店が売ったModel 7は誰が使っていたのか、ということになる。

二台所有されていた可能性がないわけではないし、
井上先生にはステレオサウンド 38号以前に譲られていたことだって考えられるから、
そのModel 7についてははっきりとしたことは、まだいえない。

とにかく、あの人が使っていた、というモノには怪しいものがあることは確かである。
私は、この手のモノはまったく信用しないわけではないが、疑ってかかるほうである。

Date: 1月 13th, 2014
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(続・番外)

facebookをみていたら、インターネットのオークションにあるオーディオ機器が出品されていて、
その製品説明に、あるオーディオ評論家が使っていたもの、と書いてある。

そこにははっきりと誰とは書いてなく、イニシャルだけだった。
それでもながくオーディオをやってきた人であれば、すぐにあの人だとわかる。

オーディオ店でもそうだが、ときどきこうやって、
オーディオ界で名の知られた人が使っていたモノが出てくる。

売る方としては、オーディオ評論家の名前を出すことで高く売りたいわけだ。
買う方としては、あの人が使っていたモノであれば、という思い入れがあって、手を出す。

ほんとうに、そこで名前の出ている人が使っていたモノであれば、
他の人にはそのことはなんら価値がなくても、
ある特定の人には、そのことがなによりもうれしいことであるから、まわりがそのことにあれこれいうことでもない。

でも、世の中にこれまで出廻った、そういうオーディオ機器のうちに、
ほんとうにそうだったモノはどれだけあるのだろうか。
ほとんどの場合が、なんらかの保証があるわけではない。

昨日伺ったオーディオマニアのところで、管球王国のVol.1を見ていた。
それで、あっそうだった、と思い出したことがある。
瀬川先生のマランツのModel 7のことだ。

Date: 1月 13th, 2014
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(番外)

昔欲しかったオーディオ機器は、誰にでもあろう。
予算が足りずに買えなかった……、
買いにいったらすでに誰かに買われていた……、
すでに製造中止になっていた……、
などの理由であきらめたモノを、どうしても欲しいというおもいを捨て切れずに、
ずっとあとになって手に入れることがある。

となると中古品ということになる。
思い入れのあるモノだけに、程度のいいモノを手に入れたいと誰もがおもう。
だが、なかなか程度のいいモノがうまいぐあいに目の前にあらわれてくれるとは限らない。

それに一見程度の良さそうに見えるモノでも、
自分のリスニングルームに持ち帰ってみるとそうではなかった、ということだってある。

中古品の入手にはいくつかの方法がある。
中古品を扱っているオーディオ店からの購入。
友人・知人からの購入。いまならインターネットのオークションでの購入もある。

友人・知人から譲ってもらうのであれば、誰が使っていたのかがわかる。
それ以外の入手だと、どんな人が使っていたのかはまったくか、ほとんどわからない。

わからないほうがいいことだってある。
知っていることがいいこともある。

Date: 1月 9th, 2014
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(Saxophone Colossus・その6)

だが、まだビリー・ホリデイのLady Dayはかけずに(かけられずに)いる。
理由は特にない。
ただ、まだ鳴らすには早いような気がしているだけだ。

Date: 12月 9th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(その13)

あと三週間ほどで2013年も終る。
一月の終り生れの私は、2013年のほとんどを50歳という区切りのいい年齢で過ごした。

そんなことと世の中での生活とはまったく関係などありはしないことはわかっている。
それでも、今年は不思議な縁があった、と感じている。

6月のはじめに以前の仕事で関係のあった人の引越しを手伝ったときに、
QAUDの405をお礼にということでもらってきた。
そのこととともに、405が登場したころまだ44が登場してなくて、
AGIの511と組み合わされることが多かった、といったことをtwitterに書いたら、
511をある方が、聴いてみますか、ということで送ってくださった。

そして6月の終りには岩崎先生のハークネスがやって来た。
トーレンスのTD224もいっしょに、である。
7月には、岩崎先生が使われていたパイオニアのExclusive F3がやって来た。

これだけでもすごいことだと思っていたら、
つい先日、JBLの2441と2397を、ある方からいただいてきた。
ステレオサウンドの古いバックナンバー(創刊号はなかったけれど、2号からあった)と、
ステレオサウンドの別冊がいくつか、それにHI-FI STEREO GUIDEのバックナンバーもいっしょに、である。

これらすべていただいたモノである。
「終のスピーカー(JBL 2397+2441)」でも書いているように、
縁があったから、私のところにやって来た、と私は思っている。

縁をただ坐って待っていたわけではない。
とはいえ積極的に縁をつくろうとしてきたわけではない。

ふり返れば、これらのオーディオが私のところにやって来た縁は、
audio sharingをやってきたから、続けてきたから、そこから生れてきた縁のおかげである。

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その3)

私にとってのJBLといえば、1970年代までのJBLが、まず第一にくる。
パラゴンやハークネス、ハーツフィールドといったコンシューマー用のスピーカーシステム、
4300シリーズのスタジオモニター、
そして数々のユニット群、その中でも四桁ナンバーであらわされるプロフェッショナル用ユニット、
とにかく、JBLといえばこれらのことが、なんといってもJBLである。

このときまでが、JBLのピークのひとつだったように感じている。
だから、この時代のJBLと縁がなく人生をおくってきた私は、
少なくとも、現代のJBLとは縁があるかもしれないけれど、
私にとってのJBL、といえる時代のJBLとは縁がないものだ、と思うようになっていた。

それでもD130への想いは、
40をすぎたころから芽生えはじめ、「異相の木」として意識しはじめたことで、
D130だけは、いつかは自分のモノとしたい、そう思うようになっていた。

とはいえD130もとっくに製造中止になっているユニット。
未使用品が手に入る可能性はないわけでもないだろうが、
そういうものはいまどきではかなりの値がつく。

想いはつのっていっても、手にすることはたぶんないだろう、ともなかば諦めの気持もつのっていた。

そんなときに「Harkness」が私のところに来た。
D130が入っている、岩崎先生が鳴らされていたハークネスである。

今日、私のところに2397と2441が来たのは、
「Harkness」が呼んできたようにも感じている。
私のところに、JBLのモノが何ひとつなかったら、
今日、ここに2397と2441はやって来なかった気がする。

JBLがJBLを呼んだ。
こういう縁は、ほんとうに趣味の醍醐味のひとつであるはずだ。

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その2)

2397にコンプレッションドライバーを取り付けるには、
スロートアダプターが必要になる。
2397だけでなく、ラジアルホーンの2350、2355もスロートアダプターが必要である。

スロート径が2インチの2440、375であれば2328というスロートアダプター、
スロート径が1インチの2420、LE175、LE85を取り付けたいのであれば、
2328に2327というスロートアダプターを取り付けることになる。
スロートアダプターがコンプレッションドライバーとホーン間にふたつ入ることになる。

仮に2397を手に入れたとしても、
LE175を取り付けるには2328と2327を手に入れなければならない。
なんとなくではあるけれど、スロートアダプターの二段使用は積極的にやりたいと思わない。
2397ならば、やはり2インチ・スロート径の2440か375ということになる。

どちらもいまでは製造していない。
中古を探してくるしかない。
そんなこともあって、2397にはそれほどの強い思い入れはなかった。

なかった──けれど、縁というのは不思議なものだと、いまは思っている。

「Harkness」の上に2397がのっている。
まだコンプレッションドライバーは取り付けていないが、
コンプレッションドライバーもある。

2440ではなく2441がある。
スロートアダプター2328もある。
さらには2397に2440、375を二発取り付け可能にする2329もある。

2441は未使用品である。

これまでJBLのスピーカーとは、個人的には縁がなかった。
ステレオサウンドにいたころは、試聴室ではよくJBLのスピーカーシステムを鳴らすことはあったし、
周りにJBLのスピーカーを使っている人は多かった。
けれど、私自身は、イギリス系のスピーカーが好きなこともあって、
別に遠ざけてきたわけではないけれど、縁はなかった。

Date: 12月 7th, 2013
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(JBL 2397+2441・その1)

ステレオサウンド 38号の84〜85ページの見開き、
岩崎先生のリスニングルームが載っている。
中央にパラゴンがある。
パラゴンの両翼にはアルテックの620Aが置かれている。
こう書けば、いちどでも、この写真を見ている人ならば、
ああ、あの写真(リスニングルーム)か、と思い出されることだろう。

この岩崎先生のリスニングルームの写真をよくみると、
ハークネスが写っているのがわかる。
パラゴンの両脇に、隠れるようにハークネスがいる。

このハークネスが、いまは私のところにある「Harkness」である。

岩崎先生のリスニングルームでは、ハークネスの上にJBLのホーン、2397が載っている。
ハークネスの上に2397。
様になるコンビだ、と思って写真を見ていた。

「Harkness」が来てから、いつかは2397を手に入れるときがきたらいいなぁ、
そんなことを夢想していた。

別にいま「Harkness」についている175DLHに不満があるわけではないし、
むしろ175DLHは、家庭で近距離で聴く場合において、
あれこれ文句をつけることはできるのはわかっていてもなお、良くできたホーンシステムである。

だから、どうしても2397が欲しい、というわけでもなかった。
それに2397を手に入れれば、コンプレッションドライバーも、ということになる。