最後の晩餐に選ぶモノの意味(その2)
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、ということにつながっていくスピーカーとして、
私にとってはタンノイのオートグラフもそうである。
何度も書いているように五味先生の文章にみちびかれてオーディオの世界に入ってしまった私には、
五味康祐といえばベートーヴェンが思い浮ぶし、
そのベートーヴェンとはフルトヴェングラーの演奏によるものであり、
フルトヴェングラーのベートーヴェンを五味先生はオートグラフで聴かれていたからである。
私にとって、シーメンスのオイロダインとタンノイのオートグラフが、
フルトヴェングラーのなにかを聴きたい、というスピーカーということになる。
けれどオイロダインで聴きたいフルトヴェングラーのなにかと、
オートグラフで聴きたいフルトヴェングラーのなにかは同じではないことを感じている。
私がオイロダインで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、第二次大戦中のライヴ録音であり、
オートグラフで聴こうとしているフルトヴェングラーのなにかとは、戦後の録音である。
そのことに気づいた。