フィガロの結婚(クライバー・その4)
モーツァルトが天才なことを疑う人は、まずいないだろう。
そのモーツァルトの天才性がもっともつよく感じられるのは、
やっぱりオペラだろうと、
エーリッヒ・クライバーによる「フィガロの結婚」を聴き終って、そうおもっていた。
モーツァルトが天才なことを疑う人は、まずいないだろう。
そのモーツァルトの天才性がもっともつよく感じられるのは、
やっぱりオペラだろうと、
エーリッヒ・クライバーによる「フィガロの結婚」を聴き終って、そうおもっていた。
エーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」を聴くたびに感じていることがある。
この録音、序曲はあまり冴えないような感じを受ける。
特に悪いというわけではないが、曲がすすむにつれて、
音の冴えが増してくるように感じるものだから、相対的に序曲が冴えないと感じてしまう。
エーリッヒ・クライバーの「フィガロの結婚」の録音時、
デッカの録音スタッフもステレオ録音について、まだ手さぐりの段階だったのかもしれない。
だからこそ、序曲よりも第一幕、第二幕……、と音が良くなっていっているのではないのか。
ここでいう音のよさとは、音の美しさでもあるし、
モーツァルトの音楽としての美しさともいいたくなる。
とにかく曲の進行とともに、なんて美しい音楽だ、とおもう気持が強くなっていく。
特にMQAで聴いていると、そのことをより強く感じる。
「“盤鬼”西条卓夫随想録」のクラウドファンディングは達成して、
2月には手元に届くはずだったが、結局届かず──、と二ヵ月前に書いた。
4月にも届かなかった。5月、あと半分あるけれど無理であろう。
かなりぐちゃぐちゃになっている模様だからだ。
ラジオ技術の進行具合からみても、
年内に出ればいいかな、ぐらいの気持でいるしかないようだ。
TIDALで日本人の歌手を検索するひとつの方法として使っているのが、
“golden best”である。
ベスト盤はいろんな国でだされているけれど、
“golden best”とつけるのは日本と韓国ぐらいのようで、
“golden best”の検索結果には、かなりの日本人の歌手が表示される。
そうやって一週間ほど前に見つけたのが、
ピーターの「夜と朝のあいだに」だった。
小学生だったころにテレビやラジオから流れてくる「夜と朝のあいだに」は、
けっこうな回数きいた記憶がある。
歌詞も半分ほどは憶えていた。
それでも今回改めて聴くと、ピーターの歌唱に少しばかり驚き。
ジャケットの写真は、かなり若い。
けれど歌の印象と写真とが一致しない。
「夜と朝のあいだに」はいつごろのヒット曲で、
その当時ピーターいくつだったのか調べてみると、まだ十代である。
ジャケットの写真が若いのは、当然だ。
TIDALではMQAで聴ける。
昨晩のaudio wednesdayでは、トゥイーターの位置を含めての調整に、
「夜と朝のあいだに」を何度もかけた。
Codex Glúteo。
日本盤には、
「臀上の音楽 〜 スペイン・ルネッサンス時代のシリアスな尻作春歌集」というタイトルがつけられていた。
帯には、黒田先生の「このスペインの音楽家たちの悪戯は女の人にはきかせられない。」
というコピーがあった。
これだけで、おおよその想像がつくと思う。
1978年ごろのアルバムである。
ちょっと聴いてみたい、と思っても、高校生にとって、
ちょっと聴いてみたいアルバムにこづかいを使えはしなかった。
他にも聴きたい(買いたい)レコードが数多くあったからだ。
いつか聴ける日が来るだろう──、と思いつつも、
この手のレコードは積極的に聴こうとしない限り、
いつかそうなるということはほとんどない、といまでは思っている。
どこかで偶然耳にすることはあったとしても、
それが「臀上の音楽」とは知らずに通りすぎてしまうだけだ。
「臀上の音楽」のことはすっかり忘れていた。
それをたまたまTIDALで見つけた。
MQAで聴ける。
TIDALがなかったら、おそらく一生聴く機会はなかっただろう。
4月3日にかけた音楽で、どの曲がいちばん心に響いたかは、
人によって違って当然である。
この日、アバドとシカゴ交響楽団によるマーラーの交響曲第一番をかけた。
1981年の録音。
私が、このマーラーの一番を聴いたのは、ステレオサウンドの試聴室だったことは、
(その1)で書いている。
試聴では冒頭の三分くらいを聴く。
だから、音量の設定は低くない。
けれど4月3日は、一楽章を最後まで鳴らすつもりだったので、
鳴り始めた音を聴いて、あれっ、音量が低め、と思われただろう。
アバド/シカゴ交響楽団による第一番の第一楽章を最後まで聴いている人ならば、
クライマックスでどれほど音量が増すのかはわかっているはずだ。
このくらいの音量でも、後半はかなりの音量となる。
といってクライマックスで音量をあわせてしまうと、出だしはかなり小さくなってしまう。
当日の音量ぐらいがぴったりだと思っている。
それゆえに出だしのピーンとはりつめた弦の音は、よりいっそう緊張感を増していた。
マーラーの一番の一楽章を聴いて、何をおもい浮べるか。
私はヨーロッパの森、それも夜明け少し前の風景が浮ぶ。
その朝の空気がどんな感じなのか。
カラカラに乾いた空気なのか、澱んでいるのか、
曇っているのか、晴れているのか、雨なのか、
その森は人里離れたところに位置するのか、まわりに人がいるのかいないのか、
気温はどうなのか、暖かいのか、すこしひんやりしているのか、などなど。
そんなことが再生する装置によっても、鳴らし方によっても、違ってくる。
どれが正解なのかは、人それぞれなのかもしれない。
アバド/シカゴ交響楽団による演奏(録音)をどれだけ聴いてきたか、
どんな音で聴いてきたかによっても影響を受け、違うことだろう。
ステレオサウンド 84号に
「シェフィールドの生みの親 ダグラス・サックスと語る」が載っている。
岡先生による記事だ。
*
時間がのこりすくなくなったので、最後に「ステレオサウンド」の読者代表として、レコードとオーディオソフトウェアのありかたについてきいてみた。以下は彼の意見の要約である。
サックス レコードのすべてをきくことは不可能ですが、それぞれのレコード会社には音楽媒体としてのフィロソフィをもっています。DGGは、ダイナミックレンジがせまい傾向があり、私の好みではない。デッカ/ロンドンはイギリス人らしい大胆さが見られ、幅の広いレンジをもっているが、出来不出来がある。フィリップスはホールのえらび方から音楽の暖かさの表現、マイクをあまり数多くつかわず、一番好ましくきけます。
*
ステレオサウンド 84号は1987年秋に出ている。
(その14)で引用している瀬川先生が書かれていることもいっしょに読んでほしい。
(その12)と(その13)で触れた二枚。
キリル・コンドラシンの「シェエラザード」とコリン・デイヴィスのストラヴィンスキー。
どちらもフィリップス・レーベルで、コンセルトヘボウ管弦楽団である。
このころのフィリップスの録音は、瀬川先生が書かれていたように、音が良かった。
*
けれど、ここ一〜二年来、その状況が少しばかり変化しかけていた。その原因はレコードの録音の変化である。独グラモフォンの録音が、妙に固いクセのある、レンジの狭い音に堕落しはじめてから、もう数年あまり。ひと頃はグラモフォンばかりがテストレコードだったのに、いつのまにかオランダ・フィリップス盤が主力の座を占めはじめて、最近では、私がテストに使うレコードの大半がフィリップスで占められている。フィリップスの録音が急速に良くなりはじめて、はっきりしてきたことは、周波数レンジおよびダイナミックレンジが素晴らしく拡大されたこと、耳に感じる歪がきわめて少なくなったこと、そしてS/N比の極度の向上、であった。とくにコリン・デイヴィスの「春の祭典」あたりからあとのフィリップス録音。
*
ステレオサウンド 56号のトーレンスのリファレンスの紹介記事で、そう書かれていたのを、
また引用しておく。
この文章を読んでからというもの、フィリップスの録音こそ、と思い込もうとしていた。
熊本のオーディオ店にも、もちろんフィリップスのレコードをもってこられていた。
4月3日のaudio wednesdayでは、どちらかをかけるつもりでいる。
宿題としての、私にとって一枚。
それがどう響くのか。
私にとっては宿題としての一枚であっても、
他の人にとっては、そんなことは関係ない。
それでも、聴いた人の裡にどう響くのか。
「“盤鬼”西条卓夫随想録」のクラウドファンディングは達成して、
2月には手元に届くはずだったが、結局届かず。
なんでもCDのプレスの予定がずれ込んでいるのが理由とのメールが、少し前に届いた。
いつになるのか。3月中に届くとは思えなくなってきた。
X(旧twitter)に、ラジオ技術(組版担当のS)というアカウントがある。
この方の投稿を読むと、ラジオ技術誌の進行もストップしているようだ。
この方は「“盤鬼”西条卓夫随想録」には携われていない。
なので、この方の投稿からは「“盤鬼”西条卓夫随想録」についての情報は得られないが、
なんとなくではあってもラジオ技術編集部の事情は伝わってくる。
のんびり待つしかなさそうである。
今日(2月17日)は、アリス・アデールの二日目の公演。
すべてフランスの作曲家によるプログラムだった。
このことについてあとで書く予定で、とにかくいま書きたいのは、
アンコールでのスカルラッティの素晴らしさだ。
TIDALでもアリス・アデールのスカルラッティは聴ける。
けれど今日まで聴いてこなかった。
あまりスカルラッティは聴かない、という、ただそれだけの理由だ。
今日、アリス・アデールのスカルラッティを聴いて、
こんなにも楽しい曲なのか、と驚いていた。
弾いているアリス・アデールも笑顔を浮かべていた。
今日(2月12日)は、アリス・アデールのコンサートだった。
プログラムは、バッハの「フーガの技法」。
アリス・アデールの初来日が発表になってから今日まで、
ほんとうに待ち遠しかった。
アリス・アデールは今年79歳。
二時間弱の演奏を休憩無しだった。
途中、数回コップから水を一口含むだけ。
「フーガの技法」は未完なので、そこでぴたっと演奏は止った。
アリス・アデールの動きも止る。
だから拍手もすぐには起らなかった。
いい演奏会だった。
「フーガの技法」のあとだから、アンコールはない、と最初から思っていた。
なくていいと思っていたけれど、二曲のアンコール演奏。
バッハのゴールドベルグ変奏曲から第25変奏曲が聴けた。
アリス・アデールのバッハを、もっと聴きたい。
新たな録音は登場しないのか。
17日にも、また聴ける。
チケットはすべて売り切れている。
カザルスによるバッハの無伴奏チェロ組曲は、
ずっと以前から名盤として知られている。
クラシック好きで、この演奏を聴いたことのない人は、
かなり人ならともかく、聴き手としてのキャリアがある程度ある人ならば、
おそらくいないはずだ。
けれど、その多くの人たちが、どれで聴いているかというと同じではないはずだ。
SP盤で聴いている人もいる。
SP盤で聴いている人のなかにも、アクースティック蓄音器、電気式蓄音器、
カートリッジをSP再生用にしたオーディオ・コンポーネントとわかれる。
復刻盤のアナログディスクで、という人、
CDで、という人。
どちらであっても、いつの復刻なのかによって、音が違う。
さらにSACDがあり、MQAでも、いまは聴くことができる。
どれで聴くのがいちばんなのかについて、語りたいとは思っていない。
自分のところにあるモノで聴ければいい、と考えている。
私は、いまMQAで聴いている。
アナログディスクで聴いてきた、CDでも聴いている。
そして、いまMQAだ。
けれど2月7日のaudio wednesday (next decade) – 第一夜を前にして、
SACDで聴いていないことに気づいた。
今回はTIDALではなくSACDを中心に鳴らしていくことに決めているから、
今日、カザルスの無伴奏チェロ組曲のSACDを買ってきた。
すでに書いているように、audio wednesday (next decade)での一年を通じてテーマは、
カザルスの無伴奏チェロ組曲をどう鳴らしていくか、だ。
どう鳴るのか。
実を言うと、SACDは当日まで聴かずにおくことにした。
だからこそ、当日の音が、私自身も楽しみにしている。
おおたか静流の名前を知り、その歌を聴いたのは、
AXIAのカセットテープのコマーシャルだった。
「花」を歌っていた。
耳に残る歌であったし、耳に残る声でもあった。
CDを買った。
そのあと、別のCDも買って聴いていたけれど、
そこで止ってしまっていた。
「花」だけは、ふと聴きたくなることは何度かあったけれど、
聴くことはしなかった。
おおたか静流に関しては、「花」のままだった。
1月17日に、おおたか静流のアルバムを聴いた。
ある人がかけたのが、おおたか静流の「Bloom」だったからだ。
礼拝堂での録音とのこと。
聴いた印象では、プロプリウスのカンターテ・ドミノを連想した。
素直な録音である。
すぐさま注文した。
タワーレコードでは注文したけれど、取寄せで3日から7日と表示されていたけれど、
注文してから十日ほどして、まだ入荷しない、キャンセルも可能ということだったので、
amazonから購入することにした。
まだ手元には届いていないが、近日中に届く。
2月7日のaudio wednesday (next decade) – 第一夜でかける。
1月10日のaudio wednesdayでの一曲目は、
“Biko [Live At Blossom Music Centre, Cleveland]”。
ピーター・ガブリエルの“Biko”は、いくつかの録音がある。
三枚目のアルバムに収められているスタジオ録音、そのドイツ語版、
リミックスもある。ライヴ録音もいくつかある。
今回かけたクリーヴランドでのライヴは、1987年7月27日のものだ。
この曲をにしたのかについて詳しくは書かないが、
ガザの惨状がなければ別の曲を選んでいた。
「“盤鬼”西条卓夫随想録」のクラウドファンディング、残り一日で目標金額を達成している。
もしかすると……、と思ったこともあったけれど、来月には手元に届く。