ちいさな結論(「音は人なり」とは)
毒をもって毒を制す。
オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なりの毒がある。
それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。
それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である。
毒をもって毒を制す。
オーディオ機器ひとつひとつに、それぞれの毒がある。
聴き手にも、その人なりの毒がある。
それ以外の毒もある。
いくつもの毒がある。
それらから目を背けるのもいい。
けれど、毒をもって毒を制す、
そうやって得られる美こそが、音は人なり、である。
ここにきて、オーディオとはとことん理外の理だ、と心底おもうようになってきた。
美は結論である。
己の結論に節制をもつことが、オーディオマニアとしての「美」である。
40年近くオーディオマニアであり、50をすぎて得た私のちいさな結論である。
いい音を求めるのは、オーディオマニアならば皆同じであっても、
そこに答を求めているのか、問いを求めているのかの違いがあるのではないか。
答だけを求めた方が、ずっと合理的なのかもしれない。
理論だけでオーディオを追求した方が、やはりずっと合理的である。
けれどオーディオの世界には、そういった合理主義だけではすくえない美があるはずだ。
すくえないは、掬えないでもあり、救えないでもある。
なぜ、このブログを一万本書こう、などと思ったのか、
そのことを自問している。
もしかすると一万本書くことは、
辛(刃物)+口という形象てある「言」という漢字をあつめて、
鍛えなおすことで一本の刀にまとめていくことかもしれない。
そういう意味での「意識」なのだと、いまは思って書いている。
「ブッダのことば」(岩波文庫)のなかに、
「人が生れたときには、実に口の中に斧が生じている。愚者は悪口を語って、その斧によって自分を断つのである」
とある。
「言」という字は、
辞典にあるように、川崎先生のブログを読まれた方ならすでにご存知のように、
辛(刃物)+口という形象である。
批評と評論の違いは、「論」のいう字があるかないかにあり、
「論」という漢字に「言」がついているところに、はっきりとある。
評論には、「言」がふたつある。
「音」と「言」については、川崎先生の書かれたもの、講演を、読み聴きされているかたならば、
目に、耳にされたことがあるはずだ。
何度か目にして耳にしている。
そしてやっと気がついたことは、
「心はかたちをもとめ、かたちは心をすすめる」という、この釈迦のことばと結びついていくことだ。
このことばについては、このブログをはじめたころに書いている。
このことばと、川崎先生の「いのち、きのち、かたち」は、心の中でくり返す。
「音」と「言」──、こじつけだといわれそうだが、こういえないだろうか。
「音は言をもとめ、言は音をすすめる」と。
意識の「意」は、「音」と「心」からできている。
以前から気づいてはいても、そこで止っていた。
川崎先生が、1月12日のブログに、この「意」について書かれている。
「自分の『意』を見つめることから」のなかで、「音」+「心」=心音、
つまり人が「生れてすぐに心拍となる心臓と鼓動」と書かれている。
翌13日のブログ「心を諳に、そうして意は巡る」、14日のブログ「意識とは生の認知であり良心」、
この3本の川崎先生のブログを読み、「音」と「心」からできていることに気づいただけの段階から、先に進め、
オーディオは、音楽を聴く「意識」だ、ということに気がついた。
オーディオは、音楽を聴くための道具、であるとともに、
音楽を聴く「意識」でもある。
「本物のエネルギーを注入してくれる」ものは、人によって違っていて当然である。
ひとと同じことなんて、なにひとつないのだから、
音楽から「本物のエネルギー」を受け取るのだって、
ある人はクラシック、またある人はジャズ、ロックからだという人だっているわけだ。
同じクラシックでも、フルトヴェングラーの演奏を大切にする人もいれば、
カラヤンでなければならない人がいてこそ、自然であるといえる。
マーラーの交響曲第5番にしてもそうだ。
長島先生と私は、バーンスタイン/ウィーン・フィルの演奏をとったが、
一方でインバルの演奏をとる人がいる。
どちらが音楽がよくわかっているとか、高尚だとか、そういう問題ではない。
生れも育ちもひとりひとり違うのだから、必要とするものだって違うというだけのはなしである。
ただし、あくまでも、音楽(音)と真剣に対決する瞬間をもてる人にかぎる。
タンノイ・オートグラフでフルトヴェングラーをきき、
カラヤンのベートーヴェンには精神性がない、といってみたところで、
「ろくでなし」のささやきに翻弄されていることにすら気づかないのであれば、
五味先生の劣悪なマネにすらなっていない。
「ろくでなし」を追いだせ、と言いたいのではない。
「ろくでなし」のささやくいいわけに耳を貸すな、と言いたいのである。
オーディオと向かい合い、音と向かい合い、音楽と向かい合っているときだけは、
ディスク1枚だけでいい、1曲だけでもいい、
そのあいだだけは「ろくでなし」を、しっかりと認識したい、それだけである。
「音楽においてのみ、首尾一貫し円満で調和がとれ」ていたフルトヴェングラーのようにありたい、のである。
先週、友人のYさんからのメールには、丸山健二氏の「新・作庭記」(文藝春秋刊)からの一節があった。
*
ひとたび真の文化や芸術から離れてしまった心は、虚栄の空間を果てしなくさまようことになり、結実の方向へ突き進むことはけっしてなく、常にそれらしい雰囲気のみで集結し、作品に接する者たちの汚れきった魂を優しさを装って肯定してくれるという、その場限りの癒しの効果はあっても、明日を力強く、前向きに、おのれの力を頼みにして生きようと決意させてくれるために腐った性根をきれいに浄化し、本物のエネルギーを注入してくれるということは絶対にないのだ。
「矛盾した性格の持ち主だった。彼は名誉心があり嫉妬心も強く、高尚でみえっぱり、
卑怯者で英雄、強くて弱くて、子供であり博識の男、
また非常にドイツ的であり、一方で世界人でもあった」のは、
ウィルヘルム・フルトヴェングラーのことである。
フルトヴェングラーのもとでベルリン・フィルの首席チェロ奏者をつとめたことのある
グレゴール・ピアティゴルスキーが、「チェロとわたし」(白水社刊)のなかで語っている。
同じ書き出しで、1992年、ピーター・ガブリエルのことを書いた。
「ろくでなし」のことにふれた。
人の裡には、さまざまな「ろくでなし」がある。
嫉妬、みえ、弱さ、未熟さ、偏狭さ、愚かさ、狡さ……。
それらから目を逸らしても、音は、だまって語る。
音の未熟さは、畢竟、己の未熟さにほかならない。
音が語っていることに気がつくことが、誰にでもあるはずだ。
そのとき、対決せずにやりすごしてしまうこともできるだろう。
そうやって、ごまかしを増やしていけば、
「ろくでなし」はいいわけをかさね、耳を知らず知らずのうちに塞いでいっている。
この「複雑な幼稚性」から解放されるには、対決していくしかない。
ピアティゴルスキーは、つけ加えている。
「音楽においてのみ、彼(フルトヴェングラー)は首尾一貫し円満で調和がとれ、非凡であった」
5年前だったはずだが、菅野先生に、「敵は己の裡(なか)にある。忘れるな」と、言われた。
胸に握りこぶしを当てながら、力強い口調で言われた。
この、もっともなことを、人はつい忘れてしまう。
この菅野先生の言葉を思い出したのは、岩崎先生がなぜ「対決」されていたのか、
なに(だれ)と対決されていたのか、について考えていたからだ。
「自分の耳が違った音(サウンド)を求めたら、さらに対決するのだ!」
岩崎先生の、この言葉にある「違った音(サウンド)」を求めるということは、どういうことなのか。
「複雑な幼稚性」(その3)で、「人は音なり」と書き、悪循環に陥ってしまうこともあると書いた。
悪循環というぬるま湯はつかっていると、案外気持ちよいものかもしれない。
けれど、人はなにかのきっかけで、そのぬるま湯が濁っていることに気がつく。
そのときが、岩崎先生の言われる「違った音(サウンド)」を求めるときである。