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Date: 2月 12th, 2014
Cate: 楽しみ方

オーディオの楽しみ方(音を鳴らさないゆえの楽しさ)

インターネットが急速に普及して、オーディオの個人サイトが急激に増えたころ、
そういった個人サイトにある掲示板を利用したオフ会もまた急速に広まっていった印象がある。

あちこちの個人サイトに、今日は、どこどこに行って音を聴いてきた、とか、
誰々さんがお見えになって音を聴いてもらいました、とか、
そういったことが、意識して探さなくても目に入ってきていた。

それらの個人サイトがいまも存在しているかといえば、
細かくチェックしているわけではないので正確なことはいえないものの、
あのころとくらべるとずいぶん減ってきたように感じている。

とはいえオフ会そのものがまったく行われていないわけではない。
ただ第三者に目につく感じではなく、ひっそりと行われているだけのことかもしれない。

オーディオは音を出す趣味といえるところがある。
だからオフ会(つまりは人様の音を聴いたり人様に自分の音を聴いてもらう)が行われる。

言葉だけでは伝わりにくいこと、伝わらないことも、
そこに出かけて音を聴けば、すぐさま理解できることもある。

実際に音を出して聴く、ということは大きな楽しみではある。

なのに私が毎月第一水曜日に行っているaudio sharing例会は、
もう四年目にはいっているけれど、音を出すことをいまのところ一度もやっていない。

音が聴けないから、そんな集まりに、どんな面白さ、楽しさがあるのか、と思われる。
でも、あえていえば音を出さないゆえの楽しさもある、といいたい。

Date: 2月 11th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その2)

先月もあるところで松田聖子を聴いたことは、別項でも書いているとおりだ。
実は今回も松田聖子を聴いてきた。

前回はCD、今回はアナログディスクで松田聖子を聴いた。
この松田聖子のディスクを930stで聴いた後、
ガラード301のシステムでかけたわけだ。

どちらが私には良かったのかは、先にも書いたように930stだった。
けれど、おもしろいのは松田聖子が好きな人は、ガラード301の方が良かった、という。

930stでの松田聖子とガラード301での松田聖子はどう違っていたのか。

松田聖子のディスクを一枚も持っていない、
松田聖子の歌といえば、テレビで聴くくらいの聴き手でしかない私には、
ガラード301での松田聖子は、歌の上手なアイドル歌手というふうに感じられた。

930stで聴く松田聖子は、アイドル歌手という面影は感じさせず、
あくまでもプロの歌手としての松田聖子であった。

松田聖子のディスクを一枚も持っていない私は、松田聖子のファンではない。
でも松田聖子の熱心な聴き手である人は、松田聖子のファンであり、
その人にとっては、松田聖子はアイドルという存在でもあるのかもしれない。

私にとって松田聖子はアイドルでもなんでもなかった。
この思い入れの違いが、930stなのかガラード301なのかの違いにつながっているのではないだろうか。

Date: 2月 11th, 2014
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(serial No.1001・その1)

ハイエンドオーディオと呼ばれている流れは、
良くも悪くもマークレビンソンのLNP2から始まった、といっていいと思う。

LNP2(Low Noise Pre-Amplifier)は1973年に登場した。
最初の10台のLNP2には、バウエン製モジュールUM201が搭載され、
それ以降はマークレビンソン製のモジュールLD2が搭載されるようになった。

けれど実際には36台のLNP2までは正式にバウエン製モジュールが搭載されている。
しかも、ここがいかにもアメリカらしいのだが、
それ以降も正規輸入品(つまりRFエンタープライゼスが輸入したモノ)でも、
天板をとってみると、LD2ではなくUM201が搭載されていたLNP2があることも確認されている。

どうも最初の80台くらいまでは、ときどきバウエン製モジュールがはいっている。

LNP2のシリアルナンバーは1001から始まっている。
つまりLNP2からハイエンドオーディオの流れが始まった、とみれば、
シリアルナンバー1001のLNP2から始まった、ともいえよう。

そのシリアルナンバー1001のLNP2は、アメリカにではなく日本にある。
今日、そのシリアルナンバー1001のLNP2を聴いてきた。

Date: 2月 11th, 2014
Cate: 930st, EMT

EMT 930stのこと(ガラード301との比較・その1)

EMTの930stは何度も聴いたことのあるアナログプレーヤーであり、自分でも使っていた。
ガラードの301は、何度か聴いたことはあるけれど、その回数は930stのそれよりもずっと少ないし、
自分のプレーヤーとして使ったことはない。

つまり同じ空間で同時に聴いたことは、これまで一度もなかった。

930stの音は、かなり身にしみ込んでいる。
930stの他のプレーヤーとの音の差もある程度は掴んでいて、
そういったプレーヤーと比較することによって、ガラード301の音をなんとなく掴んでいたつもりであった。

今回、機会があって930stとガラード301(トーンアームはオルトフォンRMG309で、カートリッジはSPU)を、
同時に聴くことができた。

ガラード301といってもプレーヤーベースをどうするのか、
組み合わせるトーンアーム、カートリッジによっても結果として出てくる音は違ってくるわけで、
システムとして構築されている930stと同列で比較するのが難しいのはわかっている。

それでも同じ条件で聴きくらべられるのはこれまでなかったし、ありがたい体験でもあった。

どちらが良かったのか。
結果を先に書いてしまうと、私には930stだった。

けれど、こうやって比較試聴して得られたものはそれだけではなく、
ここにオーディオの面白さがある、と感じられることも得られた。

Date: 2月 10th, 2014
Cate: ワーグナー

ワーグナーはなぜ長いのか

ワーグナーの作品は、ほとんどが長い。
これらの作品の時代にあっても、おそらく長いと思われていたことだろう。

感覚的な長さよりも、物理的に長い。
ワーグナーの作品を通しで聴くには、
しかも誰にも何ものにも邪魔されずに一気に聴き通すには、
いまではそれなりの準備が必要となる。

「ニーベルングの指環」を四夜にわたって連続して聴こうとしたら、
それなりの準備がかなりの準備になってしまう。

なぜワーグナーはこれほど長いのか。

ワーグナーの作品が大きいから、というしかない。
その大きさについて考える時、空間と時間は結局のところ同じなのではないかと感じる。
だからワーグナーには、ワーグナーの大きさに見合った時間を必要とする。

ワーグナーを聴くということは、
この大きさと対決することであり、
ワーグナーをオーディオを介して聴くということは、
その大きさを感覚的に再現できなければ意味がない。
再現できなければ対決のしようがないからだ。

Date: 2月 9th, 2014
Cate: ラック

ラックのこと(その9)

ラックの天板・棚板の上でオーディオ機器を前後させて、
ある程度いいポイントを見つけるとともに、前後移動による音の変化の傾向をつかんだら、
今度は左右に動かしてみる。

この左右方向の移動でも音は変る。
特にアナログプレーヤーは左右移動の音の変化が大きい傾向にある。

左右方向に動かして、自分にとっていい音のポイントが、左に大きくずらしたところにあったとする。
だが前後方向の移動と違い、左右のどちらかに大きくずれていると、見た目のバランスがよくない。

なのでたいていは左右に関しては真ん中に置くことが、私の場合は多い。

それにしてもなぜオーディオ機器を移動することによって音が変化するのか。

どんなに分厚く振動しにくいといわれている材質の天板・棚板であっても、
振動を皆無にすることは不可能である。
どんなものでも振動している。

この振動が、上に置くオーディオ機器の脚の位置、荷重によって変化していく。
前に動かせば、脚の位置はとうぜん前寄りになるし、天板・棚板の前のほうに荷重がかかる。

四点の脚ならば四つのポイントで、三点支持ならば三つのポイントで、
機器の荷重を支えているともいえるし、天板・棚板を押えているともいえる。

Date: 2月 9th, 2014
Cate: 程々の音

程々の音(その23)

コーネッタの組合せを考え書いてきた。
もう少し全体の価格を抑えたいという気持はあったけれど、
コーネッタをうまく鳴らしたいという気持が強くて、
組合せの価格としては、それほど抑えたものとはいえなくなってしまった。

とはいえ昨今の、おそろしく高価なオーディオ機器(中には理解不能な高価なモノもある)からすれば、
現実的な価格の範囲には収まっている。

このコーネッタを中心としたシステムであっても、
オーディオマニア以外の人からみれば、かなり高価なシステムであり、
価格を抑えたシステムとは映らないのもわかっている。

そういうシステムを、この「程々の音」とつけて書いているのは、
このシステムならば、グレードアップをはかろうという気にさせないのではないか──、
そんな気がするからでもある。

「五味オーディオ教室」を読んで始まった私のオーディオは、
エスカレートしていくばかりだった。
そのことを後悔しているわけではないけれど、
以前書いたように、母の希望でもあり、私もある時期目指していた教師になっていたら、
東京に出てくることもなかったし、家庭をもち、
ここで書いてきたコーネッタのシステムをつくりあげたら、
そのままレコードを聴くことを楽しんでいたのではないのか。

地方公務員の給料で、家族に迷惑・負担をかけることなく、
音楽を聴くことを楽しむのに、コーネッタのシステム以上のものは、どれだけ必要なのだろうか。

日本では「音は人なり」が時として、悪い方向で使われることがある。
程々の音で聴いているということは、程々の人である、
最上(極上)の音で聴いている私は、最上(極上)の人である──、
ここまであからさまに意識していなくとも、「音は人なり」のそういう解釈もまた存在している。

Date: 2月 9th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その9)

こんな人がいた。
「4343よりも4333がデザインがいい」

同意はできないけれど、これだけなら「あぁ、この人は4343よりも4333が好きなんだな」と理解できる。
デザインの良し悪しを好き嫌いだけで判断している人だと理解できる。

けれど、彼は続けてこういった。
「4343よりも4333の方が、いい音で鳴るからデザインがいいんだ」と。

彼がデザインについてあれこれいうのは、音がいいか悪いかでの判断であって、
音が悪ければ、どんなに優れたデザインであっても、それはひどいデザインということになる。

彼はいかにも自信をもって、そういった。
彼にとって、これは絶対に揺るがない正論であって、これ以外にデザインを評価することはできない。

彼の、この主張に納得したり同意する人がいるのか。

彼は「4343よりも4333の方が……」といった時点で、
彼自身がオーディオにおいて未熟であることを告白していることに気づいていない。
気づいていないからこそ、自分は正しいことをいっているんだ、からこその彼の虚勢である。

こういう人は少なからずいる。

不思議なのは、4343がいい音で鳴らない、といった時点で、
4343をうまく鳴らすことができなかった、と白状していることに気づいていない点である。

Date: 2月 8th, 2014
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(その20)

ステレオサウンド 3号には、もう一機種、
デザインについて考えていくうえで興味深いプリメインアンプが載っている。
パイオニアのSA81というアンプだ。

このSA81のデザインについての瀬川先生の評価はこうだ。
     *
どこかで見たようなデザインだと思ってよく考えたら、マランツのプリの左右をそのままひっくり返した形であった。パイオニアほどのメーカーが、いまどき何ということか。特に、他の機種がパイオニアとしてのオリジナルなカラーで統一してしかもそれが成功しているのに、これひとつだけ別物のような感じがする。
     *
瀬川先生が厳しく書かれているSA81のパネルは、
安っぽくしたマランツModel 7といいたくなる程度である。

瀬川先生でなくとも、SA81のデザインに関しては、厳しいことをいいたくなる。
ほんとうに、なぜパイオニアは、この時代に、こういうデザインのアンプを送り出したのだろうか。

Date: 2月 8th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その8)

数年前にステレオサウンドの連載記事として、4343を現代に甦らせる、というものがあった。
エンクロージュア、ネットワークを新たなものにつくり変えて、という企画だった。

一回目から、いやな予感があった。
それでもステレオサウンドというオーディオ雑誌を、どこかで信じていた。
だから最終的にはいい企画になるんだろうな、という期待をもって、
二回目、三回目……と読んでいった。

4343はパーフェクトなスピーカーシステムとはいえない。
パーフェクトなスピーカーシステムなど、この世に一台も存在したことがないのだから、
4343がパーフェクトでないから、
といって、他の優秀な最新のスピーカーシステムよりもひどく劣っているわけではない。

4343が登場したのは1976年だから、
ステレオサウンドの4343改造(改良とはとうてい書けない)記事が出た時点でも、
古い時代のスピーカーシステムという括り方をされるようになっていた。

30年ほど経っていれば、気になるところがないわけではない。
技術も進歩している。
だからもう一度、現代の視点で4343を徹底的に見直していけば、
文字通り「4343を現代に甦らせる」ことは充分に可能である。

だがステレオサウンドの4343改造記事は、
4343というスピーカーシステムが、どういうモノなのかを徹底的に検証することなく、
改造に取りかかってしまっていた。

これ以上こまかいことはここでは書かないけれど、
結局のところ、あの記事は4343改造記事であり、
4343を、ではなく、4343に搭載されているスピーカーユニットを、というところで終ってしまっている。

話をもとに戻そう。

Date: 2月 8th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その7)

JBLには、特徴あるデザインのスピーカーシステムは、4343の他にもいくつもある。
パラゴンがそうだし、ハーツフィールドもあるし、ハークネスもある。

これらコンシューマー用のJBLのスピーカーシステムと、
4343が違うところはプロフェッショナル用というところではなく、
スピーカーユニットを見せた状態でのデザインの美しさである。

4ウェイだから、4343には4つのユニットがついている。
それだけのユニットがフロントバッフルについていながらも、
洗練されているのは、最初にステレオサウンド 41号の表紙で見た時も、
そして知人のリスニングルームで4348のあとにそこにおさまった4343を見た数年前でも、
その印象はまったく変ることがない。

4343のスピーカーユニットは、前身の4341と同じである。
4341もいいスピーカーシステムだとは思う。
音に関しては4343よりも4341のほうをとる人がいるのも知っている。

でも4341は、どこか間延した印象が拭いきれていない。
4343には、そういうところがない。

4343について書き始めると、書きたいことはいくらでもあってとまらなくなる。
ここでもすでに少し脱線しはじめていることはわかっているが、
あと少しだけ脱線したまま書いていく。

Date: 2月 7th, 2014
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その6)

1970年代後半のJBLのスタジオモニターは、ひとつのピークを迎えていた。
ラインナップも豊富だった。

ラインナップが豊富なだけのメーカーはほかのメーカーでもあるけれど、
この時代のJBLのスタジオモニター(4300シリーズ)は、
もっともローコストの4301にしても、トップモデルの4343、4350にいたるまで充実していた。
2ウェイの4331があり、3ウェイの4333、それにブックシェルフ型の4311が揃っていた。

なかでも4343は、もっとも洗練されたモデルだった。
それは音だけでなく、デザインにおいても、
4343はJBLというスピーカーメーカーの体質のもっともよいところを凝縮したような、そういう存在だった。

いまもJBLには4300シリーズはある。
これらのスピーカーシステムの音が評判がいいのは知っている。
いいんだろうな、とは思っている。
それでも、デザインに関しては、ほとんど魅力を感じない。

そういえば数年前、知人のところで4348を聴いたことがある。
4348は15インチ・ウーファー、10インチ・ミッドバス、ホーン型のミッドハイとトゥイーター。
つまり4341から始まった4ウェイの最終形態でもある。

4つのユニットをすべてインライン配置している4348は、4343の後継機といえる。
4343のあとに4344が登場しているけれど、
4344は4345の弟分であり、4343のエッセンスを継承しているといえるのは、4348のほうである。

4348の知人は、しばらくして4343の中古を手に入れた。
知人のリスニングルームで、短期間のうちに4348と4343がおさまっているのを見たわけだ。

4343はやはり洗練されたスピーカーだ、と強く実感できた。

Date: 2月 7th, 2014
Cate: きく

音楽をきく(その1)

2月5日の、作曲のゴーストライターのニュース以来、
facebookでもtwitterでも、この件に関する書き込みが多い。

いろんな意見がある。

私はというと、問題となった人がつくったといわれている曲をまったく聴いていないから、
この件に関しては何かを書こうとは、いまのところ思っていない。

それでも、いまこうやって書いているのは、
twitterでの、いくつかの書き込みを見たからである。

問題となっている人は、「現代のベートーヴェン」と呼ばれていた。
そのこともあってtwitterには、ベートーヴェンの音楽を聴いても、
ベートーヴェンがどういう人性で、
それゆえにどういう人生をおくってきたかのということにはまったく関心がなくて、
「純粋に曲を聴いている」というのがあった。

何もベートーヴェンだけに限らない、他の作曲家の音楽においても、
「音楽自体を聴いて感動できる」というのもあった。

「純粋に曲を聴いている」も「音楽自体を聴いて感動できる」も、
表現は違えども同じことを主張している。

だが、ほんとうにそんな聴き方ができるのか。
純粋に音楽を聴く、ということはいったいどういうことなのか。

Date: 2月 6th, 2014
Cate: ラック

ラックのこと(その8)

思い込みが、いい音を思い込んでいる本人だけにいい音を聴かせることはある。
だが、そうやってのいい音には、遅かれ早かれ気がつく。
思い込みが強ければ強いほど、気がつかなかったりするけれど。

実際にはラックの天板なり棚板のどの位置に置くのがいいのか、とはいえない。
天板、棚板の上でアンプなりCDプレーヤーを動かしてみる。

最初は基準として真ん中に置いて、音を聴く。
それからオーディオ機器を前に移動する。
落ちないぎりぎりまで手前に持ってきて、そのときの音を聴く。
今度は反対に後に移動して、また音を聴く。

真ん中、手前、後と、三つの音を聴いたことになる。
システムがうまく調整されていれば、
この移動による音の差は、決して小さくはない。

動かしたからといって、あるアンプがまったく別のアンプに変るわけではないが、
音のバランスが変化していることに、まず気がつくはずだ。

三つの位置のどこかに、求める音に近いところがあるはず。
たとえば手前に持ってきたときの音が、すべての面ではいいとは感じられなくても、
全体としては求めている音に近ければ、
次の段階として、真ん中と手前の中間の位置に移動して音を聴いてみればいい。

このときの音の判断によって、もう少し真ん中寄りにするのか、それとも手前寄りにするのか。
すこしずつ移動距離が短くしていくことで、追い込んでいく。

Date: 2月 6th, 2014
Cate: 孤独、孤高

毅然として……(その6)

こんなことを考えながら書いていると、ルートヴィヒ二世のことが頭に浮ぶ。

ワーグナーを宮廷に招き、
ワーグナーのためにバイロイトに、ワーグナーの作品の上演のためだけの劇場、
バイロイト祝祭劇場の建築を全面的に援助する。

バイロイト祝祭劇場で最初に上演されたのは「ニーベルングの指環」。

バイエルン国王だからできたことであるけれど、
ルートヴィヒ二世たったひとりのためだけの上演をワーグナーが行ったという話はきいたことがない。

ルートヴィヒ二世は、たったひとりでワーグナーを聴きたかったのだろうか。
ワーグナーはどうおもっていたのだろうか。