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Date: 2月 12th, 2017
Cate: ロングラン(ロングライフ)

定番(その2)

定番といえるオーディオ機器をいくつか思い浮べてみてほしい。
私が(その1)で挙げたモノの他にもいくつかあるだろうが、
その中にはアンプは含まれているだろうか。

たとえばサンスイの607、707、907シリーズは何度もモデルチェンジしている。
けれど定番として捉える人もいれば、そうでない人もいるはずだ。
私は後者だ。

AU607、AU707が最初に登場し、
ダイヤモンド差動回路を採用時に、上級機のAU-D907が登場し、
607、707も数字の前にDがつくようになった。

そして限定モデルとしてAU-D907 Limitedが出た。
ここまでは定番となり得るアンプだった。

けれど次のフィードフォワード回路採用の、型番末尾にFのつくモデルから、
定番から外れはじめたように感じた。

ラックスのSQ38はどうだろうか。
1978年に登場したLX38までは、確かに定番といえるアンプだった。

LX38で一旦シリーズは途絶える。
その後、ふたたびシリーズ展開が始まるのだが、
それを以前のように定番と捉えることはできなかった。

いまはLX380があるが、これを定番と捉える人はどれだけいるのだろうか。

管球王国のVol.83の新製品紹介に、LX380が取り上げられている。
傅信幸氏が書かれている。

そこにLX380のプロポーションについての記述がある。
以前のSQ38は横幅があり大きかった。
このサイズのままでは、いまどきのラックには収まらないだろうから、
横幅を短くする必要があった──、そんなふうな説明がなされていた。

こんな説明で納得する人がいるのか。

Date: 2月 12th, 2017
Cate: ロングラン(ロングライフ)

定番(その1)

長期間にわたって売り続けられている製品・商品をロングランとかロングセラーなどという。
オーディオの世界にもロングラン・コンポーネントはある。

オルトフォンのSPU、デンオンのDL103がすぐに浮ぶ。
これらよりも少し新しいところでは、オーディオテクニカのAT33も挙げられる。

スピーカーユニットではフォステクスのFE103がある。
昔はJBLのLE8T、アルテックの755もそうだったけれど、
いまはどちらも製造中止になって久しい。

JBLには4311があった。
4311の後継機として4312があり、昨年70周年記念モデルとして4312SEが出た。

このへんは人によって捉え方が違ってくるのだが、
私の目には4312は4310、4311とは違うスピーカーとしてうつる。
ましてネットワークに変更が加わった4312SEは、4310、4311の流れの外に位置する。

こういうロングランの製品を日本語にすれば、定番だろう。

SPUにしてもDL103にしても、上に挙げたモデルは、
どれもそのメーカーの定番の製品である(あった)。

ここに来て業績が回復しているというニュースがあったマクドナルドは、
少し前までは、ボロボロの会社のような印象で報道されがちだった。

マクドナルドがなぜダメになったのか。
正確なところはわからないが、友人らと話している時にマクドナルドのことが話題になった。
友人らはみな同世代。
10代のころにマクドナルドを初めて食べている世代だ。

みな、あのころのマックはおいしかった、という。
私も東京に出て初めて食べたビッグマックはおいしいと感じた。

それがいつしかおいしいとは感じなくなっていた。
みな同じだった。
年齢も関係しているだろうし、舌も肥えてきたからなのかもしれないが、
それでもあの頃のビッグマックといまのビッグマックは違い過ぎるだろう、とも話した。

記憶のなかだけの比較でしかないのはわかっている。
正確な比較ではない。
それでも、あの頃のビッグマックは、味だけでなく、ボリュウムもあった、
そのボリュウムが、いかにもアメリカの食べ物という印象を与えてもいた。
とみな感じている。

そのボリュウムがなくなってしまったのが凋落の原因だ、と好き勝手に話していた。

ビッグマックはマクドナルドの定番であり、
ビッグマックという定番があの頃のままであったならば……。
マクドナルドの業績の変化は違っていたかもしれない。

もしかするとあの頃のビッグマックといまのビッグマックは、まったく同じなのかもしれない。
けれど変っている、と感じている。

定番が定番にあり続けるためには、まわりの変化に応じての変化が必要であり、
変化を完全に拒否したところでは、定番を定番として維持することはできないのだろう。

Date: 2月 12th, 2017
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(ブームなのだろうか・その1)

モノ・マガジンの2017年2月16日号は、
レコードとハイレゾの仲間たち」がメインの特集となっている。

2月10日のKK適塾でも、川崎先生がモノ・マガジンについて話された。

こういうのを目にすると、オーディオは少しブームになりつつあるのだろうか、と考える。
その一方で、オーディオ雑誌の書店での取り扱いは、それほどいいといえないも感じている。

オーディオ雑誌が雑誌コーナーになくて、書籍コーナーに置いてあるところもある。
雑誌コーナーに置いているところでも、
すべてのオーディオ雑誌が置いてあるわけでなく、
いくつかのオーディオ雑誌は書籍コーナーにのみ置いてある。

以前は平積みされることの多かったステレオサウンドも、
最近では平積みしている書店は減ってきている。
管球王国に関しては、取り扱いをやめた書店が増えている。

この平積みに関しては、こっちが平積みで、これは違うのか、と思うことはあるが、
書店にとって平積みにする本は、私の基準とは違うところにあるのだから。

これは出版不況だけが理由でなく、
オーディオ雑誌は、書店にとって売れ筋ではなくなってきているからなのか。
雑誌コーナーの広さは決っているから、必然的にそこから追い出される本はあるわけだ。

こんな現状が続いているのを見ているだけに、
オーディオがブームとは思えない。
けれど今回のモノ・マガジンもそうだし、昨年もいくつかの雑誌でオーディオが取り上げられてもいた。

出版不況がいわれている時代に、
売れない企画を出版社はやらないだろうから、
オーディオを特集するということは、それなりの部数が捌けるということだろう。
となれば、オーディオはブームになりつつあるのか、とまた思う。

モノ・マガジンを手にする人は、
ステレオサウンドやオーディオアクセサリーなどのオーディオ雑誌を手にする人よりも、
そうとうに多いはずだ。

けれどそこからステレオサウンドやオーディオアクセサリーを読みはじめる人は、
どのくらいいるだろうか、を考えると、
ヘッドフォン、イヤフォンの世界から、
スピーカーの世界に来ない人がいるのと同じなのかもしれない。そんな気もする。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その4)

グラシェラ・スサーナの歌で浮ぶ情景に変りがない、ということは、
その情景は、私にとって郷愁なのか。

郷愁ならば、変らぬことに新鮮さを感じたりはしないはずだ──、
と思いつつも、五味先生が書かれていることを思い出している。
     *
 野口邸へは安岡章太郎が案内してくれた。門をはいると、玄関わきのギャレージに愛車のロールス・ロイス。野口さんに会うのはコーナー・リボン以来だから、十七年ぶりになる。しばらく当時の想い出ばなしをした。
 リスニング・ルームは四十畳に余る広さ。じつに天井が高い。これだけの広さに音を響かせるには当然、ふつうの家屋では考えられぬ高い天井を必要とする。そのため別棟で防音と遮音と室内残響を考慮した大屋根の御殿みたいなホールが建てられ、まだそれが工築中で写真に撮れないのが残念である。
 装置は、ジョボのプレヤーにマランツ#7に接続し、ビクターのCF200のチャンネルフィルターを経てマッキントッシュMC275二台で、ホーンにおさめられたウェスターン・エレクトリックのスピーカー群を駆動するようになっている。EMT(930st)のプレヤーをイコライザーからマランツ8Bに直結してウェストレックスを鳴らすものもある。ほかに、もう一つ、ウェスターン・エレクトリック594Aでモノーラルを聴けるようにもなっていた。このウェスターン594Aは今では古い映画館でトーキー用に使用していたのを、見つけ出す以外に入手の方法はない。この入手にどれほど腐心したかを野口さんは語られた。またEMTのプレヤーはこの三月渡欧のおりに、私も一台購めてみたが、すでに各オーディオ誌で紹介済みのそのカートリッジの優秀性は、プレヤーに内蔵されたイコライザーとの併用によりNAB、RIAAカーブへの偏差、ともにゼロという驚嘆すべきものである。
 でも、そんなことはどうでもいいのだ。私ははじめにペーター・リバーのヴァイオリンでヴィオッティの協奏曲を、ついでルビンシュタインのショパンを、ブリッテンのカルュー・リバー(?)を聴いた。
 ちっとも変らなかった。十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。高域がどうの、低音がどうのと言うのは些細なことだ。鳴っているのは野口晴哉というひとりの人の、強烈な個性が選択し抽き出している音である。つまり野口さんの個性が音楽に鳴っている。この十七年、われわれとは比較にならぬ装置への検討と改良と、尨大な出費をついやしてけっきょく、ただ一つの音色しか鳴らされないというこれは、考えれば驚くべきことだ。でもそれが芸術というものだろう。画家は、どんな絵具を使っても自分の色でしか絵は描くまい。同じピアノを弾きながらピアニストがかわれば別の音がひびく。演奏とはそういうものである。わかりきったことを、一番うとんじているのがオーディオ界ではなかろうか。アンプをかえて音が変ると騒ぎすぎはしないか。
     *
オーディオ巡礼の一回目、野口晴哉氏のリスニングルームを訪問されたときの文章である。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(オーディオのこと)

KK塾のときは司会はいなかった。KK適塾にはいる。
毎回そうなのだが、KK適塾が始まる前に司会者からの注意事項がある。

そこにはSNSやブログに、内容について書くな、ということがある。
だからKK適塾になってからは、内容については書かないようにしている。

書きたいことはあっても、そういうことである。

1月のときは少し、今回のKK適塾でも、
川崎先生がオーディオについて語られている。
そのことについて書きたいのだが、書くな、という司会者のお達しだから、
このことについても書けない。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その9)

デザインに強い関心はあっても、デザインについて専門的に学んできているわけではない。
オーディオのデザインについて書きながらも、
どれだけオーディオのデザインを理解しているのか、を自らに問うている。

何かがひっかかってくるデザインのオーディオ機器の場合、
だからそのオーディオ機器単体で、そのデザインについて判断するのではなく、
いくつかの状況においての判断をするように心掛けている。

ヤマハのプリメインアンプのA1は、その意味でひっかかってきたデザインであった。
すでに書いているように、広告で見て、新鮮な印象を受けた。
その後、オーディオ店で実物を見て、精度感のなさに少しがっかりもした。

それでも気になるデザインのアンプであり、
「コンポーネントステレオの世界 ’78」での写真も、
A1のデザインについて考えるうえで、私にとっては重要な一枚だった。

瀬川先生は、以前、ヤマハのデザインはB&Oコンプレックスだ、といわれた。
熊本のオーディオ店でいわれたことだから、A1の登場よりも一、二年あとのことだ。

瀬川先生が、どのヤマハの製品のことを指してだったのかははっきりとしないが、
なんとなく察しはつく。

「コンポーネントステレオの世界 ’78」では、
そのヤマハのアンプがB&Oのアナログプレーヤーの隣に置いてある。
A1の下にはペアとなるチューナーT1がある。

B&Oとヤマハの後方にB&Wのスピーカーがあるというレイアウトだ。
ここでは、ヤマハのアンプとチューナーが浮いている。

B&WのDM5とB&OのBeogram 4002が並んでいるのに違和感はない。
にも関わらずA1とT1は浮いているように感じる。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: ワイドレンジ

JBL 2405の力量(その5)

ここでのタイトルは「JBL 2405の実力」ではなく、力量としたのは、
2405を単体のユニットとして使った経験のある方ならばわかっていただけよう。

JBLのスピーカーシステムにおいても、2405の受持帯域は1オクターヴくらいである。
8月3日に行った「新月に聴くマーラー(Heart of Darkness)」では、
カットオフ周波数は約15kHzだから、もっと狭い。
(もっともスロープ特性は6dB/oct.だから単純比較はできないが)

それでも2405があるとないとでは音は、大きく違ってくる。
もちろんどんなトゥイーターであれ、あるとないとでは音ははっきりと違うわけだが、
単に高域のレンジを延ばすだけのトゥイーターだと、
多くの場合、音が薄くなることが生じてしまう。

昔からよくいわれてきたことだ。
トゥイーターの帯域の音だけが薄くなるわけではない。
下の帯域までも薄くなってしまう。

これもよくいわれるたとえなのだが、
餅をのばすと薄くなるのと同じだ、と。

けれど餅のたとえは正確ではない。
いまある餅に別の餅(トゥイーター)を新たにつけているのだから、
もともとある餅をのばしただけではない。

それでもこのたとえが通用するくらいに、安易にトゥイーターをつけると、
そんな印象になってしまいがちだ。

2405だとそういうことがない。
少なくとも私の経験上ない。
もっとも下の帯域にウェスターン・エレクトリックの594Aを使っていたりすれば、
2405でも音が薄くなるということになるかもしれないが、
パーマネントマグネットを使用したユニットを使っているかぎり、
2405をつけ足して音が薄くなる、ということはないのではないか。

もちろん合う合わないという問題は別にあっても、
2405の音(高域)には、芯がしっかりとある。

結局芯のないトゥイーター、そこまで行かなくとも芯がぼやけてしまっているトゥイーターだと、
音が薄くなってしまうのかもしれない。

こういうことをふまえての「2405の力量」である。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(ヤマハのA1・その8)

ステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’78」に、
ヤマハのA1もスペンドールのD40も組合せに登場している。

どちらも組合せも山中先生によるものである。
D40が登場する組合せは、スピーカーがスペンドールBCIIで、
アナログプレーヤーはリンのLP12にSMEの3009 SeriesIIIに、
カートリッジはオルトフォンのMC20、ヘッドアンプに同じオルトフォンのMCA76。

一昔前のドイツ系の演奏・録音盤を十全なかたちで再生したいというテーマでの組合せ。
メインとなる組合せはQUADのESLのダブルスタックで、
スペンドールの組合せは予算を考慮した組合せである。

カラーページに、この組合せの写真が見開きで載っている。
LP12もコンパクトなプレーヤーであり、D40もコンパクトなアンプ。
写真をみていると、まとまりのある組合せに感じた。

いま改めて見ても、視覚的にもいい組合せである。
D40はお世辞にもデザインされた、とはいえない。
LP12もこのころは電源スイッチが押しボタンで、洗練されているとはいえない。

BCIIも、凝ったデザインのスピーカーシステムではない。

この組合せで際立ったデザインのモノは、SMEのトーンアームぐらいであるが、
このトーンアームが視覚的に浮いてしまっているからといえば、そうではない。
うまく収まっているように感じられる。

うまい組合せだな、といまも思う。
いまも、この組合せを聴いてみたい、と写真は感じさせる。

一方のA1が登場する組合せは、女性ヴォーカルを中心に楽しみながらも、
優れたデザイン感覚を持つ装置を、というテーマである。

こちらもふたつの組合せがあり、A1の組合せは予算を考慮した案である。
スピーカーはB&WのDM5、アナログプレーヤーはB&OのBeogram 4002である。

Date: 2月 11th, 2017
Cate: アナログディスク再生

アナログディスク再生・序夜(その7)

2月1日はかなり寒い日だった。
audio wednesdayを行う喫茶茶会記のLルームは、
イベントが行われない時は使われていないから暖房も入っていない。

セッティングをやっているときに暖房を入れたわけで、
音を出しはじめるころには部屋はある程度暖まっているけれど、
カートリッジの内部まで十分に暖まっているとはいえない。

そのため針圧も、ずっと同じ値で聴いていたわけではない。
鳴らしはじめの針圧、途中で変えた針圧。
しばらく鳴らしていて、カートリッジの内部も十分に暖まったころの針圧は違ってくる。

カートリッジの針圧を、カタログにある値にぴったりと合わせて、
それ以外の針圧で聴くことはしない人がいるけれど、針圧はすぐに変えられるものであり、
己の感覚に合せて、自由に変えていくものである。

そのためには針圧によって音がどう変化するのかを把握しておく必要はある。
あるレコードにはうまく合っていた針圧でも、
音楽の傾向、録音の年代や方法が大きく違うときには針圧を変えたほうがいいこともある。

料理における塩加減のようなものである。
塩は足りなければ足せるけど、多かったら、その料理から取り除くことは無理だが、
針圧は増やすことも減らすことも簡単にできる。

喫茶茶会記のアナログプレーヤーのトーンアームはRMG309だから、
インサイドフォースキャンセラーがついていない。
たいていのトーンアームにはついている。

インサイドフォースキャンセラーも針圧同様、もっと自由に変えてみて音の変化を把握しておく。
基本は針圧と同じ値にすることだが、それが最良の結果になるわけではない。
少し増やしてみたり減らしてみたりする。

それができるのがアナログディスク再生である。

Date: 2月 10th, 2017
Cate: 情景

続・変らないからこそ(その3)

それにしてもグラシェラ・スサーナの歌によって私の心のなかに浮ぶ情景は、
これほどまでに変らないのだろうか。

最初に聴いたのは13歳だった。
それから四十年が経つ。

あのころはシングル盤でも聴いていた。
ミュージックテープ(カセットテープ)でも聴いていた。
LPでも聴いていた。

いまはCDで聴いている。

再生するシステムも大きく、何度も変っている。
鳴ってくる音はとうぜん、あの頃とは違う。

にも関わらず、グラシェラ・スサーナの歌を聴くと、同じ情景が浮ぶ。

歌を聴けば、必ずそうなるわけではない。
同じ曲を、別の歌手が歌ったのを聴いても、グラシェラ・スサーナとおなじ情景は浮ばない。
違う情景が浮ぶ歌手もいれば、情景が浮ばない歌手もいる。

ここで書いているグラシェラ・スサーナの歌とは、日本語で歌われた歌のことである。
日本語だから──、というのは理由にならないのは、
情景が浮ばない歌手の歌もあるからだ。

Date: 2月 10th, 2017
Cate: 川崎和男

KK適塾(四回目)

KK適塾四回目の講師は、河北秀也氏と北川原温氏。

今回、もっとも記憶残っている言葉は「文化」である。

十数年前、菅野先生が話してくださったことがある。
日本が失われたのは、明治維新によってであり、
第二次世界大戦の敗戦でさらに失われた──、
そんなことを趣旨のことだった。

このことを、ますます実感する世の中になってきている。
今日も明治維新という言葉が出てきた。

なるほど、と思うより、やはり、と思ってしまう。

十数年まえよりも、世の中にほころびが目立つ始めたようにも感じている。
文化が失われることによって、文明にほころびが生じてしまう。

今日の話を聞いていて、そのことを考えていた。

Date: 2月 9th, 2017
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その21)

1970年後半に、FET一石使用のゼロバイアスのヘッドアンプの製作記事を、
オーディオ雑誌で何度か見かけた。

FETの他には抵抗とコンデンサー、
電源は消費電流が少ないこともあって、乾電池を使った製作例もあった。

それらの製作記事の詳細を憶えているわけではないが、
シンプルで音がいい、的なことが書かれてあったはずだ。

FETが一石ということは、これ以上増幅素子を削ることはできない。
増幅するには最低でも何らかの増幅素子がひとつは必要となる。

FET一石のゼロバイアスのヘッドアンプは、
シンプルなのかミニマルなのか。

増幅素子に限らず、抵抗やコンデンサーいって部品も少ない方が、
アンプとしてシンプルである、といわれがちだし、思われがちだ。

でも、ほんとうに能動素子、受動素子の数の少ないのがシンプルなのだろうか。
部品点数の少なさがシンプルであることに直接結びつくのだろうか。

ここで考えるべきは、素子の数といった視覚的なことではなく、
アンプとしての動作について、である。
さらにいえば、それぞれの部品の動作について、もである。

少なくともアンプについてシンプルということは、
目的を実現するための動作がシンプルであれば、そのために素子数が増えても、
そのアンプはシンプルということになる。

トーンコントロールやフィルターといったファンクションを削ったアンプが、
素子数をできる限り減らしたアンプが、
シンプルとは限らない。

Date: 2月 8th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その18)

ステレオサウンド 60号の特集で、JBLの4345についての座談会。
ここで使いこなしについて語られている。
     
菅野 瀬川さんがかなり満足される音で4345を鳴らしておられる現状というのは、おそらくJBLの連中が数年かかってやることをやっているのじゃないかと思うんです。使いこなしなどというたいしたことじゃないと思う。もしかすると、何もやってないでしょう。
 だからこそ、それを技術的に解決して、実現しようとしたら、確実に数年かかる。ユーザーの使いこなしって、そういうものだと思うんです。
 とにかく瀬川さんは、はたから見ると何だかわからないし、活字にも書けないという、きめの細かいことをやっているわけです。
瀬川 いえいえ、ただ接いだだけですよ。レベルコントロールはちょっといじってますけれどね。
菅野 本人は特に何かしているという意識はなくて、はたから見てもその通りでも、無意識のうちにやっていることって、すごくありますよ。
──そこを多少披露していただけませんか。
瀬川 それは無理なんですよ。荻昌弘さんだったかな、うまい店があって、そこのコックに、「こういうことを聞いちゃいけないんだけど、オムレツのつくり方のコツ教えてくれ」って言ったら、「いやぁ、コツなんてものは口で教えられるものじゃねぇ。無意識に身につくものなんだから、だんな、その気があったら一年間ここへ通ってごらんなさい」と言われたっていうんだ。
 ぼくも4345の使いこなしということで、具体的に言葉ではっきり言えることは、いまのところまだ新しくてミドルハイがこなれていないから、ミドルハイのところだけ-1から1・5ぐらい下げて、スーパートゥイーターは-1にしてみたり、ゼロにしてみたり迷っているというくらいで、あとは、置き方だって半ば無意識に、いまのぼくの部屋で最善のところに置いているんでしょうね。
 しかし少なくとも、さっきも言ったように、背面を硬い壁にしているということは多少影響していると思う。いろいろな場所で──たいてい後ろにいっぱいスピーカーが置かれていたり、後ろががらんどうの状態で──ブロックで持ち上げたりするでしょう。そうすると、うちで鳴っているような音は全然出てこないですね。低音がおかしな音になってしまう。
 一般的には販売店の評価でも、4345はまだよくわからないとか、低音がズンドコズンドコいうだけだとかいわれているようです。ぼくの場合には、床にぺったり置いて、背中も壁にぴったりつけて、ただそうやって置いているだけですけど、非常にローエンドのよく伸びた音がします。
菅野 瀬川さんが初めからぺたっと置いたというのは、あなたがほかのケースで──なにしろスピーカーの置き方に関しては、ぼくの十倍くらい凝るんだから──しつこく実験した挙げ句に、ぺったり起きのよさを聴きとり、このケースはぺったりだというのが無意識に思い浮かぶんですよ。同じぺったり置きにしていても、ちょっと意味が違うんですよ。
     *
レコード芸術の「MyAngle 良い音とは何か?」の最後のところとともに、
ここをじっくり読んでほしい。
ずっと以前に読んだ、という人も、もう一度じっくり読み返してほしい。

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その17)

レコード芸術に、瀬川先生の連載が始まったのは1981年の夏だった。
「MyAngle 良い音とは何か?」というタイトルだった。
一回だけの連載だった。
     *
 二年、などというと、いや、三ヶ月だって、人びとは絶望的な顔をする。しかし、オーディオに限らない。車でもカメラでも楽器でも、ある水準以上の能力を秘めた機械であれば、毎日可愛がって使いこなして、本調子が出るまでに一年ないし二年かかることぐらい、体験した人なら誰だって知っている。その点では、いま、日本人ぐらいせっかちで、せっぱつまったように追いかけられた気分で過ごしている人種はほかにないのじゃなかろうか。
 ついさっき、山本直純の「ピアノふぉる亭」に女優の吉田日出子さんが出るのを知って、TVのスウィッチを入れた。彼女が「上海バンスキング」の中で唱うブルースに私はいましびれているのだ。番組の中で彼女は、最近、上海に行ってきた話をして、「上海では、日本の一年が十年ぐらいの時間でゆっくり流れているんですよ」と言っていた。なぜあの国に生れなかったんだろう、とも言った。私は正直のところ、あの国は小さい頃から何故か生理的に好きではないが、しかし文学などに表れた悠久の時間の流れは、何となく理解できるし、共感できる部分もある。
 いや、なにも悠久といったテンポでやろうなどという話ではないのだ。オーディオ機器を、せめて、日本の四季に馴染ませる時間が最低限度、必要じゃないか、と言っているのだ。それをもういちどくりかえす、つまり二年を過ぎたころ、あなたの機器たちは日本の気候、風土にようやく馴染む。それと共に、あなたの好むレパートリーも、二年かかればひととおり鳴らせる。機器たちはあなたの好きな音楽を充分に理解する。それを、あなた好みの音で鳴らそうと努力する。
……こういう擬人法的な言い方を、ひどく嫌う人もあるらしいが、別に冗談を言おうとしているのではない。あなたの好きな曲、好きなブランドのレコード、好みの音量、鳴らしかたのクセ、一日のうちに鳴らす時間……そうした個人個人のクセが、機械に充分に刻み込まれるためには、少なくみても一年以上の年月がどうしても必要なのだ。だいいち、あなた自身、四季おりおりに、聴きたい曲や鳴らしかたの好みが少しずつ変化するだろう。だとすれば、そうした四季の変化に対する聴き手の変化は四季を二度以上くりかえさなくては、機械に伝わらない。
 けれど二年のあいだ、どういう調整をし、鳴らし込みをするのか? 何もしなくていい。何の気負いもなくして、いつものように、いま聴きたい曲(レコード)をとり出して、いま聴きたい音量で、自然に鳴らせばいい。そして、ときたま——たとえば二週間から一ヶ月に一度、スピーカーの位置を直してみたりする。レヴェルコントロールを合わせ直してみたりする。どこまでも悠長に、のんびりと、あせらずに……。
 あきれた話をしよう。ある販売店の特別室に、JBLのパラゴンがあった。大きなメモが乗っていて、これは当店のお客様がすでに購入された品ですが、ご依頼によってただいま鳴らし込み中、と書いてある。
 スピーカーの「鳴らしこみ」というのが強調されている。このことについても、改めてくわしく書かなくては意が尽くせないが、簡単にいえば、前述のように毎日ふつうに自分の好きなレコードをふつうに鳴らして、二年も経てば、結果として「鳴らし込まれて」いるものなので、わざわざ「鳴らし込み」しようというのは、スピーカーをダメにするようなものだ。
 下世話な例え話のほうが理解しやすいかもしれない。
 ある男、今どき珍しい正真正銘の処女(おぼこ)をめとった。さる人ねたんでいわく、
「おぼこもよいが、ほんとうの女の味が出るまでには、ずいぶんと男に馴染まさねば」
男、これを聞き早速、わが妻を吉原(トルコ)に住み込ませ、女の味とやらの出るのをひとりじっと待っていた……とサ。
 教訓、封を切ったスピーカーは、最初から自分の流儀で無理なく自然に鳴らすべし。同様の理由から、スピーカーばかりは中古品(セコハン)買うべからず。
 今月はこれでおしまい。
     *
最後のところを引用した。
ソフトウェアの達人といわれていた瀬川先生が、これを書かれている。

《何もしなくていい。何の気負いもなくして、いつものように、いま聴きたい曲(レコード)をとり出して、いま聴きたい音量で、自然に鳴らせばいい。そして、ときたま——たとえば二週間から一ヶ月に一度、スピーカーの位置を直してみたりする。レヴェルコントロールを合わせ直してみたりする。どこまでも悠長に、のんびりと、あせらずに……。》

近ごろ、やっと瀬川先生の真意がわかってきたように思っている。
ひとり勝手に思っているだけにしても、
世の中、スピーカーをダメにする「鳴らし込み」は、むしろ増えているのではないだろうか。

瀬川先生のいわれる「鳴らし込み」の前提として求められるのは、セッティングである。

Date: 2月 7th, 2017
Cate: 使いこなし

セッティングとチューニングの境界(その16)

「オーディオの想像力の欠如が生むもの(その19)」で、
オーディオの想像力の欠如が、セッティング、チューニングの境界をさらに曖昧にしている、
と書いた。

もっといえば、オーディオの想像力の欠如のままでは、チューニングは無理である。

鍛えられているかどうかよりも、
オーディオの想像力があるかどうかのほうが、重要だとも思っている。

オーディオ業界にいる人たちすべてがオーディオの想像力をもっているとは思っていない。
むしろ持っている人の方が少ないのではないか──、そんな気さえすることがある。
オーディオ評論家と名乗っている人たちに関しても、そうである。

オーディオの仕事をしていない人たちに、オーディオの想像力がないのかといえば、
そうではない。
むしろ、オーディオを仕事としている人たちよりも、オーディオの想像力をもつ人は多いかもしれない。

オーディオ歴の長い人ほど、オーディオの想像力をもっているかといえば、
これもそうとはいえない。

オーディオの想像力について書いていくことは難しい。
だから、別項で「オーディオの想像力の欠如を生むもの」を書いた。
オーディオの想像力そのものについて、いまのところはうまく書けなくとも、
オーディオの想像力が欠如するということについては、書ける。

くり返そう、
オーディオの想像力が欠如していては、チューニングは無理である。
けれど強調したいのは、チューニングができなくとも、いい音を出すことはできる、ということだ。