音を聴くということ(グルジェフの言葉・その2)
錬金術とは、卑金属を貴金属に変える。
ゲオルギー・グルジェフがいっていた「人間は眠っている人形のようなものだ」こそ、
卑金属なのかもしれない。
つまり目覚めている人間が貴金属である、とすれば、
眠っている状態から目覚めようとすることが錬金術ともいえよう。
オーディオで音楽をきくことは、
聴き手の意識次第では、錬金術に連なっていくような気さえする。
錬金術とは、卑金属を貴金属に変える。
ゲオルギー・グルジェフがいっていた「人間は眠っている人形のようなものだ」こそ、
卑金属なのかもしれない。
つまり目覚めている人間が貴金属である、とすれば、
眠っている状態から目覚めようとすることが錬金術ともいえよう。
オーディオで音楽をきくことは、
聴き手の意識次第では、錬金術に連なっていくような気さえする。
私にとってヤマハのヘッドフォンといえば、
カセットデッキのTC800GLとともに、マリオ・ベリーニによるデザインのHP1である。
そして次に、YHL003が来る。
TC800GLとYHL003は、ニューヨーク近代美術館の永久所蔵に選ばれている。
YHL003はポルシェデザインである。
現在のヤマハのヘッドフォン。
その写真を見て、違和感があった。
デザインがひどいという違和感ではない。
HP1やYHL003と違うデザインだからという違和感でもない。
左右のハウジングに、大きくヤマハのマーク(音叉を三つ組み合わせたもの)が入っている。
ここに違和感があった。
同じようにハウジングに、ブランドのロゴやマークが大きく入っているヘッドフォンは、
ヤマハだけでなく、他にも数多くある。
それなのにヤマハのヘッドフォンだけに違和感をおぼえたのは、
私の記憶の中にあるヤマハのヘッドフォンは、HP1でありYHL03であるからだ。
ステレオサウンド 43号の「真贋物語」、
「(三)貪欲」と見出しがついたところを引用したい。
*
これも料理店の主の話であるが、一流の店に奉公して四十歳で独立し、花柳界の中で仕出し専門の店を開業した。永年叩き上げた板前だから、この人の作るものは優れている。私はよくその人に誘われて旅に出たし、料亭を廻って食べ歩かされた。腹が減ると、どんな店へでも入って、この人の口にはとても合うまいと思うものでも全部残らず食べる。
まずいものでもみんな食ってみないとわからないし、作った人に無礼である、といって、暫くして「まずかった」と笑ってみせる。納得して口に出す。最高の味作りのできる人がこれである。
だし巻きと伽羅蕗だけの弁当を旅に出た車中で相伴に預ったが何とも美味であったのが忘れられない。前夜親方が店をしめてから独りで作ってくれた逸品である。
この人も徹底的に吝(けち)であったから、その技まで弟子にも倅にも残さず死んでいってしまった。あれほどの名人であったのに私を連れて食い漁ったのは屹度自分の作ったものより旨いものがあったら、という恐怖と興味が錯綜していたのだろう。
永年修業して確固として自分の味を既に持っているのだから、おいそれと変えられる筈もないし、またそうあっては困るのだが、若しやという不安にかられる処に私は惹かされる。自信と不安、名人になるほどそれは苛まれる。
自惚の強いということは他人を蔑むことでは決してない。もっと自惚れたいから他人の仕事を見たいのである。欠点を指摘したいのではなく優れた点を採り入れたい一心である。しかし実行するには相当の努力を必要とする、というのは真似が赦されない立場にあるのが名人であり、自分で自分をその座につかせてしまっているからである。
個性を喪失させたくないのと、自分の鼻についた個性への嫌悪との葛藤に苦しむことは、この道に限らず名人の業である。
*
最初に読んだ時はわからなかったが、
ある程度経ってから読みなおしてみると、
伊藤先生自身のことだと気づく。
いまこうやって書き写していても、そう感じる。
だから、この人の作るアンプと同じモノを作れるようになりたいと思ったのだった。
別項「オーディオ・アクセサリーとデザイン(その5)」で引用した伊藤先生の「絢爛な混淆」、
ここで伊藤先生が書かれていることも、趣向を凝らすを勘違いした例である。
1980年代にフィリップス・レーベルからでていた小澤征爾/ボストン交響楽団によるマーラー。
二番を、井上先生が試聴によく使われていた。
ピアニッシモのレベルは低かった、と記憶している。
そこが聴こえるぎりぎりで音量を設定すると、
フォルティシモではそうとうな音量になって、最初聴いた時は少々驚いた。
何度か聴いていても、
このダイナミックレンジは家庭で聴くには広すぎるな、と感じたし、
ちょっとボリュウムを大きめにしただけで、フォルティシモでは大きい、と感じていた。
岡先生が小澤征爾の「ローマの松」で、
ピアニッシモが物理的に小さな音、といわれている、
まさにマーラーにおいてもそうであって、
「ローマの松」を聴いていないから断言できないものの、
おそらく、マーラーのピアニッシモのほうが、物理的により小さな音であり、
フォルティシモは物理的により大きな音なのだろう。
ステレオサウンド 52号は1979年、
カラヤン盤も小澤盤も「ローマの松」はアナログ録音で、
小澤/ボストンのマーラーはデジタル録音、
しかも52号のころ、岡先生も黒田先生もLPで聴かれている。
小澤のマーラーはCDである。
優秀録音盤ということに、小澤のマーラーはなるわけだが、
私は、このマーラーを自分のリスニングルームで聴きたいとは思わなかった。
カラヤンのマーラーの二番はない。
もしカラヤンが二番をデジタル録音で残していたとしたら、
「ローマの松」と同じことがいえたのではないだろうか。
カラヤンはデジタル録音になっても、
ただ物理的に小さな音であるだけでなく、
心理的な意味でのピアニッシモであったと思う。
これはカラヤンの、さりげない趣向が凝らしかたといえるし、
カラヤンのピアニッシモは見事ともいえる。
岡先生は、こうもいわれている。
*
岡 六〇年代後半から、レコードそしてレコーディングのクォリティが、年々急上昇してきているわけですが、そういった物理量で裏づけられている向上ぶりに対して、カラヤンは音楽の表現でこういうデリケートなところまで出せるぞと、身をもって範をたれてきている。指揮者は数多くいるけれど、そこで注意深く、計算されつくした演奏ができるひとは、ほかには見当りませんね。ぼくがカラヤンの録音は優れていると書いたり発言したりすると、オーディオマニアからよく不思議な顔をされるんだけど、フォルテでシンバルがどう鳴ったかというようなことばかりに気をとられて、デリカシーにみちた弱音といった面にあまり関心をしめさないんですね。これはたいへん残念に思います。
*
さりげない趣向であっても、他の指揮者ができることでもない。
8月のaudio wednesdayでやったことを、
常連のHさんは自宅でも試した、とメールが届いた。
自宅のシステムの三個所に試してみて、明らかな違いが聴きとれた、とのこと。
Hさんひとりの感想ではなく、奥さまも一緒に聴かれての違いの確認である。
CDプレーヤーに対しては、Hさんは試したほうがよかった、
奥さまは試さないほうが好ましい、と意見はわかれたそうだが、
他の個所では意見は一致されたのだろう。
どこに試すかによって意見の相違はあっても、
そのことを試すことによる音の変化は、オーディオの関心のない人の耳にも明らかだ。
ならば、どんなことをやったのか、ここで書いても、と思うのだが、
絶対、試しもせず、聴きもせず、そんなことで音は変らない、と言い張る人がいるし、
興味を多少なりとももって試す人もいるだろうが、
この方法はいくつかの条件を満たす必要がある。
そう大したことではない。
それでも、その大したことでない、三つぐらいの条件を満たさずに試す人がいるのも、
これまでの他の例でいくつも知っている。
それでいて、効果がなかった、という。
だから文字だけで伝えることはしない。
とはいっても出し惜しみもしない。
audio wednesdayで来てくださった人たちの前で試しているくらいなのだから。
どういうことをやったのかは、あくまでも音出しといっしょに伝えることにしている。
五味先生は、毎年ワーグナーを、
バイロイト音楽祭を録音されていた。
放送された、
いちど録音されたものを録音する。
それはどんなにいい器材を用意して注意を払ったところで、
ダビング行為でしかない、ともいえる。
やっている本人がいちばんわかっていることだ。
それでも毎年録音されていた。
オーディオ愛好家たる私の自画像がテープに録音されている、と。
答は、目の前にある。
見えているわけではない。
あるという気配を感じている。
その気配を濃くしたいからこそ、
毎日問い続ける(書き続ける)。
オーディオにおいては、答は目の前にある、
そんな直感があるからこそ、
問い続ける。
五味先生がいわれた「音による自画像」には、そういう意味が含まれてのことだ、
この齢になっておもえてきた。
今月のaudio wednesdayテーマは「結線というテーマ」で、
前回書いたように、
「サイズ考」でネットワークについて書いていることをやる。
なのでどういうことうやるのかおおよそ想像がつく人もいよう。
この方式をやるには、スピーカーケーブルがさらに必要になるが、
喫茶茶会記で使っているケーブルはカナレのスターカッド構造のモノである。
1mあたり千円もしないケーブルのはずだ。
今回のテーマに、スターカッドのケーブルは都合がいい。
ケーブル関係は何ひとつ用意せずに試すことができるからだ。
手間は少しかかるが、費用はかからない。
場所はいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。
ステレオサウンド 50号の巻頭座談会で、
ステレオサウンドが36号でスピーカーシステムのリアル・インピーダンス測定を始めたことが、
やや自画自賛的に語られている。
*
岡 長島達夫さんが、リアル・インピーダンスを計測するようになったのは、何号からでしたかね。
長島 第36号からです。
岡 これは日本では、それまでいわれていなかったことですね。メーカーでさえいっていなかったんですよ。
山中 「ステレオサウンド」のテクニカルなテストというのは、つねにメーカーをリードしていたといっても、ぼくはそれほどいいすぎではないと思う。さまざまなジャンルで、それまでまったくやっていなテストを試みて、メーカーや読者を驚かせてきたわけでしょう。しかも、ふつうのテクニカル・リポート的なことは、いっさいやらない。そんなものは興味がない、といったような顔をしてほ(笑い)。この面の「ステレオサウンド」の貢献はずいぶん大きいと思う。
井上 たとえばそのころには、インピーダンスカーブがどこかで落ちこんでいるスピーカーが、ずいぶんあったけれど、いまはすっかり是正されているんですね。
山中 少なくとも、そういったカーブではぐあいがわるいということが、スピーカーの新しい製品を開発する際に、メーカー側の関係者の頭に浮かんだのはたしかでしょう。
井上 そして、物理特性としても、しかるべくギャランティするという風潮がでてきたことは、事実ですよね。
山中 しかも、音がよくなくてはいけないという姿勢も、厳然としてある。
*
50号のころは、41号から読みはじめた私にとって、
36号の測定がどういう影響を与えたのかはわからなかった。
それでもインピーダンスカーヴは、基本的手測定項目のひとつであっても、
重要な項目のひとつであることは、なんとなく感じていた。
つい先日、あるところでヘッドフォンアンプを聴く機会があった。
ヘッドフォンも四種類用意されていた。
音を聴き、そのヘッドフォンアンプ・メーカーの社長の話をきいて思っていたのは、
ヘッドフォン、イヤフォンのインピーダンスカーヴのことだった。
「ヘッドフォン インピーダンスカーブ」で検索すると、
いくつかの製品のインピーダンスカーヴがグラフで表されているのがいくつも出てくる。
最初に見たいくつかは、割合にフラットだった。
優秀だな、と思って、他のいくつかのサイトをみてみると、
驚くほどうねっている製品があるのがわかる。
それうねりかたは、36号以前のスピーカーのインピーダンスカーヴのひどいのよりもひどい。
インピーダンスカーヴがひどい機種には共通していることがある。
同じ構成の物がすべてそうなのかはサンプル数が少ないので、これ以上は書かないが、
やはりそうなのか、と思うところはある。
フィデリティ・リサーチのカートリッジFR7が登場したのは1977年。
40年前のことで、ステレオサウンド 47号の新製品紹介で取り上げられている。
記事では製品写真だけでなく、発電構造図も載っていた。
そこの説明文には、完全なプッシュプル発電をめざしている、と書かれてあった。
たしかにマグネットを左右にふたつ配して、それまで見たことのない発電機構だった。
フィデリティ・リサーチは、FR1からずっとコイル巻枠に鉄芯を使わない、
いわゆる純粋MC型カートリッジを一貫して作ってきたメーカーである。
鉄芯を使わない空芯型は、どうしても発電効率が低くなりがちである。
FR7ではプッシュプル発電により、0.25mV(5cm/sec)の出力電圧を、
内部インピーダンス2Ω(負荷インピーダンス:3Ω)で実現している。
同時期のオルトフォンのSPUが鉄芯型で、同じスペック、
MC20も鉄芯型だが、こちらは0.07mVと低いのをみても、
FR7の発電効率の高さはわかる。
もっともマグネットをふたつ内蔵していることもあって、
FR7はヘッドシェル一体型とはいえ自重30gの重量級ではあった。
FR7の発電機構は、他に例のないものだった。
だから、そこばかりに目が行っていた。
1978年の長島先生の「図説・MC型カートリッジの研究」に、FR7も取り上げられている。
内部構造図もある。
それを見ていて、ふと気づいた。
他のカートリッジとコイルの描き方が少し違うことに気づいた。
構造図はふたつあって、ひとつは内部構造の全体図と、振動系の断面図だ。
断面図のほうのコイルは、通常、巻枠の断面図、つまり縦に二本の直線、
それにコイルの断面図、これは○がいくつも一直線に並んでいる。
巻枠にコイルが巻かれているわけだから、断面図はこうなる。
ところがFR7の断面図は、○だけでなく両側の○と○を結ぶ水平方向の直線も描かれていた。
なぜ、FR7だけ違うのか、と最初は疑問だった。
図面を描き慣れている、見慣れている人ならば、
この断面図が意味するところはすぐに理解できるだろうが、
高校生だった長島先生の解説が必要だった。
*
発電径の中心をなすコイルは、各チャンネルにそれぞれ二個のコイルが使用され、計四個のコイルが籠型に組み合わされているが、巻枠は全く持っていない。完全に中空で作られた籠型コイルの中心をカンチレバーが貫通した形になっている。これは、ともすれば質量が大きくなりがちなMCカートリッジのコイル部分を少しでも軽量化するため、このような手法が採られたのであろう。コイル用導線はわりと太めの銀線が使用されている。
*
コイルの巻枠がないから、
同じようにコイルが組み合わされている他社のカートリッジとはコイルの断面が違う。
つまり非磁性体の巻枠もないため、まさしく空芯なのがFR7である。
アナログブームといわれ、アナログディスクの製造枚数は増えいるようだし、
カートリッジの新製品も登場してきている。
高価すぎるカートリッジも登場している。
けれどいまFR7のコイルを巻けるのか、と思う。
40年前に、55,000円で販売されていたカートリッジと同等のカートリッジを、
いま作れるのだろうか。
趣向を凝らす、とはいったいどういうことなのか。
ステレオサウンド 52号で、
岡先生と黒田先生が「レコードからみたカラヤン」というテーマで対談されている。
*
黒田 そういったことを考えあわすと、ぼくはカラヤンの新しいレコードというのは、音の面からいえば、前衛にあるとはいいがたいんですね。少し前までは、レコードの一種の前衛だろうと思っていたんだけど、最近ではどうもそうは思えなくなったわけです。むろん後衛とはいいませんから、中衛かな(笑い)。
いま前衛というべき仕事は、たとえばライナー・ブロックとクラウス・ヒーマンのコンビの録音なんかでしょう。
岡 そこのところでは、黒田さんと多少意見が分かれるかもしれませんね。去年、カラヤンの「ローマの松」と「ローマの泉」が出て、これはびっくりするほどいい演奏でいい録音だった。ところがごく最近、同じDGGで小沢/ボストン響の同企画のレコードができましたね。これはいま黒田さんがいわれた、プロデューサーがブロック、エンジニアがヒーマンというチームが録音を担当しているわけです。
この2枚のレコードのダイナミックレンジを調べると、ピアニッシモは小沢盤のほうが3dB低い。そしてフォルティシモは同じ音量です。したがって全体の幅でいうと、ピアニッシモが3dB低いぶんだけ小沢盤のほうがダイナミックレンジの幅が広いことになります。物理的に比較すると、そういうことになるんだけれど、カラヤン盤のピアニッシモのありかたというか、音のとりかたと、小沢盤のそれとを、音響心理学的に比較するとひじょうにちがうんです。
黒田 キャラクターとして、その両者はまったくちがうピアニッシモですね。
岡 ええ。つまりカラヤン盤では、雰囲気とかひびきというニュアンスを含んだピアニッシモだが、小沢盤では物理的に小さい音、ということなんですね。物理的に小さな音は、ボリュウムを上げないと音楽がはっきりとひびかないんです。小沢盤の録音レベルが3dB低いということは、聴感的にいえば6dB低くきこえることになる。そこで6dB上げると、フォルテがずっと大きな音量になってしまうから聴感上のダイナミックレンジは圧倒的に小沢盤の方が大きくきこえてくるわけです。
いいかえると、カラヤンのピアニッシモで感心するのは、きこえるかきこえないかというところを、心理的な意味でとらえていることです。つまり音楽が音楽になった状態での小さい音、それをオーケストラにも録音スタッフにも要求しているんですね。これはカラヤンがレコーディングを大切にしている指揮者であることの、ひとつの好例だと思います。
それから、これはカラヤンがどんな指示をあたえたのかは知らないけれど、「ローマの松」でびっくりしたところがあるんです。第三部〈ジャニロコの松〉の終わりで、ナイチンゲールの声が入り、それが終わるとすぐに低音楽器のリズムが入って行進曲ふうに第四部〈アッピア街道の松〉になる。ここで低音リズムのうえに、第一と第二ヴァイオリンが交互に音をのせるんですが、それがじつに低い音なんだけど、きれいにのっかってでてくる。小沢盤ではそういう鳴りかたになっていないんですね。
つまりPがひとつぐらいしかつかないパッセージなんだけれど、そこにあるピアニッシモみたいな雰囲気を、じつにみごとにテクスチュアとして出してくる。録音スタッフに対する要求がどんなものであったかは知らないけれど、それがレコードに収められるように演奏させるカラヤンの考えかたに感嘆したわけです。
黒田 そのへんは、むかしからレコードに本気に取り組んできた指揮者ならではのみごとさ、といってもいいでしょうね。
*
カラヤンの「ローマの松」も小澤の「ローマの松」、どちらも持っていないけれど、
このことはわかる。
デジタル録音になってからの小澤征爾の、フィリップス・レーベルのマーラー。
ステレオサウンドの試聴で何度となく聴いている。
ここでのマーラーでも、小澤のピアニッシモは、岡先生が指摘されたとおりのピアニッシモだった。
スタニスワフ・レムの「完全な真空」。
この本を手にしたのは、出版社が国書刊行会だったということも大きい。
1989年に翻訳が出た。
ステレオサウンドを辞めてしばらくしてのことだった。
当時編集顧問をされていた方から、国書刊行会の本は読んだほうがいいよ、と言われていた。
他に読みたい(買いたい)本もあったけれど、「完全な真空」を手にとってレジへ行った。
「完全な真空」は架空の書籍の書評集である。
いまも手に入る本だし、特にその内容について書くつもりも、この本の書評を書くつもりもない。
当時「完全な真空」に刺激されて、架空のオーディオ機器の批評を考えた。
その数年後に、サウンドステージの編集を手伝う機会があって、
実は一本だけ記事を作ったことがある。
架空の、海外のオーディオ雑誌を翻訳するというかたちでの、
架空のオーディオ機器の批評記事である。
三本ほど、どんなことを書くかも考えていた。
結局、サウンドステージの仕事から離れることになり、掲載されることはなかった。
この記事につけていたタイトルが「絶対零度下の音」である。
絶対零度下では分子運動さえ止ってしまう。
つまり音は存在しない状態のはずだ。
完全な真空がありえないように、絶対零度下の音も存在しない。
この「絶対零度下の音」は、私にとって、のちに別の意味をもちはじめた。
何らかの趣向を凝らさないと聴き手にアピールできない世の中になったのか、と思うのは、
facebookのタイムラインに表示されるクラシックの演奏会の動画を見ていた時だった。
いくつかのレコード会社をフォローしていると、
そのレコード会社がアピールしたい演奏家の動画が流れることがある。
そうやってなんとなく目に入ってきた演奏会の動画、
そこに映っていたのは肌の露出の多い衣装でのピアノ演奏だった。
肌の露出が多いのが下品といいたいのではなく、その衣装がまたひどかった。
こんな衣装(もうそう呼べない)で演奏するのか。
これが趣向を凝らすということではないだろうに……、と思いながらも、
音をあえて流さずに眺めていると、滑稽でしかなかった。
趣向を凝らす、とはこういうことではないけれど、
こういうことが趣向を凝らすことだというふうになりつつあるのは、
なにもクラシックの演奏会におけることだけでなく、
オーディオ機器においても、
どこかズレたところで趣向を凝らすことが行われているとも感じることが出てきている。
特にそれを強く感じるのは、ヘッドフォン、イヤフォンの世界である。
どう考えても納得のいかないことを持て囃す風潮がある。
それにのっかるメーカーが少なからずある。
物分りのいい人(ぶっている)は、それが差別化だよ、というのだろう、
もしくは、ここでも付加価値なんだよ、というのか。