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Date: 10月 24th, 2017
Cate: 岩崎千明

537-500と岩崎千明氏(その1)

ステレオサウンド 38号「オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ」、
何度も見て読んでいるにもかかわらず、
またひっぱりだしてきたのは確認したいことがあったから。

JBLのホーン537-500といえば、
菅野先生が長年愛用されていることはよく知られているし、
菅野先生よりも早く瀬川先生が導入されていたことも知られている。

けれど岩崎先生は?
あれだけ多くのオーディオ機器があった岩崎先生のリスニングルームに、
537-500はなかったのか──、それを確かめるために38号を開いている。

少なくとも38号に掲載されているカラー写真、モノクロ写真のどこにも写っていない。
「岩崎氏の再生装置」というリストにも、537-500、もしくはHL88の型番はない。

37号もひっぱりだしてきた。
「ベストサウンドを求めて」という記事で、
岩崎先生はJBLのユニット群によるマルチアンプシステムを実験されている。
プロローグとして、JBLのホーンについて書かれている。

そこには537-500(HL88)のことは出てくる。
     *
 そりゃあ、そうだろう。蜂の巣にしたって黄金の翼にしたって、JBLファンなら一度は手にして、そばに置きたい魅力のかたまりだ。HL88として復活したが、前の型番537−500といってもぴんとこないファンがいたとしても175DLHのホーンの兄貴分といえば判るだろう。つまり蜂の巣音響レンズをホーン開口部にそなえた強力無比な中音用ホーンなのだ。鉄製の強固なる丸形(コニカル)ホーンは、デッドニングなどはしていないが、どう叩いても、とうていホーン鳴りなどしそうにない。パンチングメタルを17枚重ねた音響レンズは、単なる拡散器というより、ホーン開口部につけた音響的バッファーの作用もして家庭用として適切なるエネルギーにするため、積極的な音響損失をも、もたせてあるといえる。
     *
けれど本文といえるユニット組合せの試聴には、
2350、2355、2397、HL89、HL900、HL92は登場するが、
537-500(HL88)は、そこにはいない。

《JBLファンなら一度は手にして、そばに置きたい魅力のかたまり》と書かれているのに、
岩崎先生のリスニングルームに、537-500があった写真をみたことがない。
写真に写っていないから、ない、とは断言できないが、
あれだけの大きさと存在感をもつ537-500を、どこかにしまわれていたとは考えにくい。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その2)

「レコード落語百席」の数ページあとに、
特別インタビュー「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」がある。
     *
レコードというものは、コンサートホールでの演奏をできるかぎり忠実に再現することが、第一の目的であるのか、それともレコードならではの演奏というか、演奏再現を主体的に考えてレコーディングすべきなのか、ヴィルモースさんのご意見をうかがわせてください。
ヴィルモース 私は、生演奏とレコードの演奏とはまったく違うものだと考えています。そして生演奏をそのままレコードに忠実に写しかえるということは、ルポルタージュとしての意味しかないでしょう。たしかに優れた演奏のライヴ・レコードは、きわめてエキサイティングなものですが、それはその瞬間を捉えたからであって、いいかえるとその瞬間がきわめてエキサイティングなものだったわけで、レコードそのものかエキサイティングであるというわけではありません。たとえばフリッツ・ブッシュがベートーヴェンの第九番を指揮しているライヴ・レコードは、たいへんすばらしいものですが、それはその夜のブッシュの指揮のすばらしさということ、つまりはその夜の優れたルポルタージュということなんですね。そしてそれは、いま私たちが〈レコード〉と呼んでいることと、少し違っているわけです。
 レコードは、先ほどもいいましたが、生演奏の裡に生きているものを殺してはならない、ということがまず第一に必要ですが、だからといってルポルタージュにとどまってもならないのです。優れたレコードはが追求しているものは、たとえばカラヤンやベームの、ある作品に対する解釈がどんなものであるのか、ということだと思います。そして聴きては、同じ曲の違った演奏を聴き比べて、それぞれの演奏家の解釈の違いを知ってゆくことに興味をおぼえてゆくはずです。
 それからコンサートでは、ごく少数の例外をのぞいて、そのコンサートのはじめから終りまで通して、精神を集中したままで演奏を行なうというのは不可能でしょう。どこかで息抜きして、とくに難しい場面にそなえるということは、よく見受けられます。これは技術的にということではなく、心理的にそうした緊張感の連続に耐えられないからですね。
 しかしレコードでは、そうした緊張感をずっと持続させることが可能です。そうした精神の集中させた演奏の持続ということは、レコードならではのものではないかと思います。そういった精神の集中とか緊張の感覚というものは、コンサートホールでよりも、レコードでのほうがより大きく強く出ると思いますね。
     *
「レコード落語百席」と「ピーター・ヴィルモース レコーディングを語る」が、
ステレオサウンド 37号に載っているのは偶然なのだろうが、
それにしても、単なる偶然では片付けられない一致が、読みとれる。

Date: 10月 23rd, 2017
Cate: 録音

録音は未来/recoding = studio product(圓生百席・その1)

圓生百席」という録音物(レコード)がある。
1970年代前半から録音がスタートして、十年までいかないが、けっこうな年月をかけて完成された。
CBSソニー(現ソニーミュージック)からLPで発売され、
いまもCD(116枚+特典CD2枚)として発売されている。

ステレオサウンド 37号の音楽欄に、「レコード落語百席」という記事が載っている。
CBSソニーの京須偕充氏による「圓生百席」の録音に関する話だ。

いまもむかしも、落語に強い関心は持っていないため、
ステレオサウンドにいるときも、37号の他の記事は読んでいても、
この「レコード落語百席」は読まずじまいだった。

さきほど調べもののため37号を開いていた。
いまごろ「レコード落語百席」を読み終えた。

ひところステレオサウンドは、バックナンバーを編集したムックを出していた。
オーディオ機器中心、オーディオ評論家中心の内容だから、
「レコード落語百席」のような記事は、そういったムックに収録されることは、まずない。

もったいない、とおもう。
全文を掲載したいところだが、そうもいかないので、最後のところだけを引用しておく。
     *
 こういう苦心はひとくちではいえないから、つい黙っていると、「いくらよく出来ていても、テープ編集したものは死んだ芸だ」とか、「客の笑いをともなわい落語は落語にあらず」というような批判をあびせられる。ほめてくれるひとでも、じつをいうと、客の反応がきこえないのが寂しい、とつけくわえる。祝宴のつもりがお通夜になったといいたげなのだ。
 無理もないことかもしれない。落語は実演の枠を出たことがほとんどないのだ。落語が今日ほどに普及したのは、戦後のラジオ放送のお陰だが、それはほとんど例外なしに公開録音、寄席中継だった。落語家をお座敷によんで、結構な酒食とともに、サシ同然で一席楽しむ──そんなぜいたくのできるひとは、世の中にひとにぎりもいない。だからラジオのお陰で、茶の間で落語をきく習慣ができたということは、会場のお客と一緒にきくという錯覚を楽しむ習慣ができたことなのだんた。インスタント・ホーム寄席。そして、たいがいの落語ファンは、レコードも実演の代用品としてきこうとしている。レコードもまた、インスタント・ホーム寄席なのだろう。
 私も当初は迷い、おおかたのお客の好みに合わせようかと思った。しかし圓生師は、かたくなにスタジオ制作を主張した。実演は実演、レコードはレコード、中途半端はいやだというわけだ。
「実演をそのままレコードにするのはいやですねえ。実演とレコードとでは、あたくしの考えでは、演出を変えなくてはいけないと思うんです。実演だってお客様が千人のとき、百人(いっそく)のとき、それぞれやり方を変えています。実演のウソてェこともあるんですよ。たとえば内緒話の描写ですが、リアルにやったら、うしろのお客様にはきこえません。だから内緒話らしくやるんです。実演はそれでいいんです。ですがレコードならリアルなひそひそ声でやるべきでしょう。実演をそのままレコードにすると、そういうところが大味になるはずなんです。ですから実演とレコードは一長一短、そもそもは別ものなんで比較は出来ませんよ。レコードはレコードらしく、いいものにしようじゃありませんか。とにかくこわいものですよ、あたくしが死んでもレコードはのこる。」
 徹底的にスタジオでいこう、と私は思った。あるひとが、レコードをきいていってくれた。圓生師匠が自分ひとりのために、サシでやってくれているようなきぶんになり、心おきなくききこめる。登場人物や情景のイメージものびのびとひろがって、これまで気がつかなかった芸のうまみや奥行きがわかってきた、と。
 こういうひとがひとりでもいてくれれば、「レコード落語」も浮かばれるというものだ。
     *
音楽と落語は同一視できない面もある。
それは音楽の録音、落語の録音についてもいえようが、
それでも「レコード落語百席」は、完成度ということについても考えるきっかけを与えてくれる。

Date: 10月 22nd, 2017
Cate: アンチテーゼ

アンチテーゼとしての「音」(その11)

「毒にも薬にもならない文章」を書くことを選択し、
好んでマーラーを聴くことはしなかった知人は、
よく「音楽を聴くことで浄化される」ということを口にしていた。

知人は、五味先生と同じ意味で言っているようだったが、
私の耳には、同じように言っているだけにしかきこえなかった。

毒のある音楽を拒絶するのは、その人の自由である。
知人が好んで聴く音楽は、そして演奏は、毒のあるものではなく、
清らか、という言葉で表現できるものが多かった。

汚れていない音楽(演奏)ときこえるものを、知人は好んでいた。
そして清潔感という言葉もよく使っていた。

彼は、だからワーグナーも好んで聴くことはしなかった。

それが知人の音楽の聴き方であり、
そういう音楽を鳴らすためのオーディオ(音)であり、
それが知人にとって必要と思えるものだったのだろう──、
と一応の理解は示せても、やはり違うだろう、といいたくなる。

あなたがいう浄化と五味先生がいう浄化は、はっきりと違う、と。

Date: 10月 22nd, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その5)

ステレオサウンド 44号掲載のBCIIIのインピーダンス特性を最初見たとき、
測定ミス? と思うくらい、他社のどんなスピーカーよりも変ったカーヴだった。

けれど測定ミスということは冷静に考えるとありえない。
BCIIIのカーヴに疑問を抱けば、再確認でもう一度測定するはずである。
測定ミスでないことを確認したうえでの掲載であろう、と思った。

事実、ステレオサウンドで働くようになって、測定は三回行なっていた。
測定ミス、測定誤差をなくすためである。
44号ての測定も、長島先生なのだから三回やっているはずである。

測定ミスでない証拠に、46号でもBCIIIのインピーダンス特性は、やはり不思議なカーヴだった。
しかも44号のBCIIIと46号のBCIIIは、同じ個体ではないようだ。

46号の試聴記に、瀬川先生は次のように書かれていることからも、それはわかる。
     *
 44号(219ページ)でも触れたが、BCIIIを何回か試聴した中で、たった一度だけ、かなりよく鳴らし込まれた製品の音をとても良いと思ったことがあった。今月のサンプルは、44号のときよりもさらに鳴らし込まれたものらしく生硬さのないよくこなれた音に仕上っていた。
     *
インピーダンス特性にわずかな違いがあるだけでなく、
残響室内での能率(リアル・エフィシェンシー)は、91.0dB(44号)と94.0dB、
リアル・インピーダンスは10.0Ω(44号)、13.3Ω(46号)という違いがあり、
入・出力リニアリティ、トーンバースト波による低域第3次高調波歪率のグラフを比較しても、
少なからぬ違いがみてとれる。

インピーダンス特性もその数値に少なからぬ違いはあるが、
カーヴそのものの形はほぼ同じといえる。

BCII同様に50Hzにゆるやかピークがある。
その値は約50Ω(44号)、約80Ω(46号)。
30Hzまではインピーダンスは低下するが、それ以下でインピーダンスは上昇する。
20Hzでは約40Ω(44号)、約80Ω(46号)である。
10Hz、もっと下の周波数まで測定してあれば、もっと多くのことが読みとれるが、
残念ながら20Hzまでの測定である。

50Hz以上になると、全体としてはゆるやかに下降していく。1kHzで5Ω前後になり、
2kHzにゆるやかなピークがあり、約10Ω(44号)、約15Ω(46号)となり、
また下がり5kHzあたりで少し盛り返して、10kHz以上でまた下降していく。
20kHzでは約4.5Ω(44号)、約4Ω(46号)まで低下する。

44号のBCIIIと46号のBCIIIとでは、
インピーダンス特性の変動は、46号のBCIIIのほうが大きい。
可聴帯域内での傾向としては、うねりはあるが右肩下がりのカーヴである。

スーパートゥイーターの違いはあるものの、
20cmベクストレンウーファーとトゥイーター(HF1300)のクロスオーバー周波数は3kHz、
HF1300とスーパートゥイーターとのクロスオーバー周波数は13kHzと、
BCIIもBCIIIもカタログ発表値は同じである。
にも関らず、中高域のインピーダンス特性は、BCIIとBCIIIとではカーヴの形が違う。

詳しく知りたい方は、ステレオサウンド 44号、45号、46号、それに47号をご覧いただきたい。

Date: 10月 22nd, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その4)

BCII、BCIIIの型番のBはウーファーの振動板に採用しているベクストレン(Bextrene)、
CはトゥイーターHF1300のメーカーであるセレッション(Celestion)の頭文字である。

BCのあとのII、IIIは二番目のモデル、三番目のモデルという意味で、
BCIというモデルが、スペンドールの第一作にあたる。

BCIは日本では発売されなかったが、BBC仕様モニターである。
使用ユニットは、20cmベクストレンウーファーとHF1300の2ウェイで、
エンクロージュアの外形寸法はBCIIと同じ。

BCIIはBCIをベースに、ウーファーの磁気回路を強化し、
スーパートゥイーターとして13kHz以上を受け持つITTのSTC4001を追加している。
このふたつの変更により、耐入力はBCIの40Wから100Wに向上している。

BCIIは、BCIAとして、LSナンバーをもつ正式モデルはないが、BBCでも使われている。

BCIIIは、BCIIに30cmベクストレンウーファーを追加し4ウェイとしたシステムであるが、
スーパートゥイーターはBCIIとは違い、セレッションのHF2000に変更されている。
つまりBCIに、30cmベクストレンウーファーと、
スーパートゥイーターとしてHF2000を追加したモデルと考えた方が、より正確といえる。

BCIは日本に入ってきていないので、ステレオサウンドでも取り上げていない。
なのでインピーダンス特性がどうなっているのか確認できないが、
BCIIのインピーダンス特性は45号に載っている。

5Hzにゆるやなピークを持ち、500Hzから2kHzにかけて10Ω以上、
そこから上の帯域になると低くなり、4kHzあたりからゆるやかな傾斜で上昇していく。

この当時の他社製のスピーカーシステムと比較しても、特に変っているとはいえない。
BCIIよりも、優秀なインピーダンス特性のスピーカーもあるが、
同程度にうねっているスピーカーシステムは他にもあった。

ところが44号掲載のBCIIIのインピーダンス特性は、相当に奇妙なカーヴを描いている。

Date: 10月 21st, 2017
Cate: 技術

捲く、という技術(その3)

DENON(デンオン)というブランドから何を真っ先に思い出すかは人によって違ってくるけれど、
もっとも多くの人が挙げるのはDL103であろう。

放送局用として開発されたカートリッジとはいえ、
いまでも製造されていることは、それが日本製であることも考え合わせると、
非常に稀な例といえる。

しかもバックオーダーをつねにかかえている、ときく。
いまDL103のコイルを捲ける人は、ベテランの女性ひとりだけ、ということも知られている。
ひとりということは後継者が、いまのところいない、ということでもある。

いまいないということは、将来も期待できそうにない、ということになる。
DENON(デノン)という会社は続いても、DL103はいつの日か製造中止になろう。
どんなに売れるモデルであっても、肝心のコイルを捲ける人がいなくなれば、造れなくなる。

そうなったら、DENONはカートリッジ専業メーカーに製造を依頼するようになるのだろうか。

MC型カートリッジの原価の大半は人件費だ、と以前、瀬川先生がいわれていた。
そのくらいコイルを丁寧にきちんと捲くことは大変な技術だということである。

しかも一個とか二個といった、ごく少数をうまく捲ければいいというものではない。
DL103は工業製品であって、ほとんどバラつきなく、相当な数のコイルを捲いていかなければならない。
ここがすごいところであり、プロフェッショナルの仕事だと感心する。

アメリカの人工衛星のハンダ付けは、たったひとりの人が行っているという話を読んだことがある。
人工衛星一基のハンダ付けの箇所は、アンプなどの比ではない。
桁が違う。

その記事に載っていた数字をいまでは憶えていないが、
少なくとも万を超えていた、十万箇所くらいだった……、もっと多かったかもしれない。
それをたったひとりで、ひとつずつ丁寧に仕上げていく。

ハンダ付けの不良があっても、ロケットに積まれ打ち上げられてしまったら、
修理することはできないわけだから、ミスは絶対に許されない。
だから、ひとりなのだ、と記事には書かれていた。

Date: 10月 21st, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その3)

スペンドールはBCIIの復刻は手がけても、BCIIIは復刻しなかった。
理由はいくつかあるのだろう。

新しくなった輸入元からのリクエストもあったのかもしれない、
そのリクエストにしても、売行きがあまり見込めない機種の復刻を打診することはない。

BCIIIは、イギリスでの評価はどうだったのか知らないが、
日本ではBCIIばかりが評価されていたし、
BCIIIを早くから(BCIIよりも)評価されていたのは岡先生ひとりくらいだった。

オーディオ評論家ではないが、トリオの創業者の中野英男氏もBCIIよりもBCIIIを高く評価されていた。
     *
 私の仕事部屋、つまりトリオの会長室には、今十二本のスピーカーが並んでいる。正確に申せば六セット。うちニセットは机の前あとの四セットは左手の壁ぎわに置かれてある。最近机の前に据えられて定位置を獲得したスピーカーのひとつにスペンドールBCIIIがある。このスピーカーは永い間名器BCIIの名声に隠れて世に喧伝されるところまことに少なかった。BCIIは、菅野沖彦、瀬川冬樹両先生をはじめ、何人かの方によってしぱしぱとりあげられ、その独特の硬質かつ艶麗な語り口が世のクラシック愛好者の注目を集めたが、BCIIIについては今迄推す人はほとんどなく、かの瀬川さんすら幾分疑問視する向きがないでもなかった。
 私はここ何ヵ月かBCIIを聴き込ん来たが、その良さは認めるにせよ、ブルックナーやマーラーの再生時におけるスケール感の貧しさは覆うべくもなかった。
(「音楽、オーディオ、人びと」より)
     *
《かの瀬川さんすら幾分疑問視する向きがないでもなかった》とある。
たしかにそうだった。

ステレオサウンド 44号の試聴記の冒頭に書かれている。
     *
 弟分のBCIIがたいへん出来が良いものだから、それより手のかかったBCIIIなら、という期待が大きいせいもあるが、それにしてはもうひとつ、音のバランスや表現力が不足していると、いままでは聴くたびに感じていた。たった一度だけ、かなり鳴らし込んだもので、とても感心させられたことがあってその音は今でも忘れられない。
     *
《たった一度だけ、かなり鳴らし込んだもので、とても感心させられたことがあってその音は今でも忘れられない》
とある。
これは中野英男氏のBCIIIのことなのではないのか。

もちろん別の人なのかもしれないが、
私には中野英男氏のことだと思えてならない。

Date: 10月 21st, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その15)

長岡鉄男氏がオーディオ評論をはじめる以前は、
放送作家だったことは、よく知られている。

長岡鉄男氏が手がけられた番組がどういうものであったのか、
放送作家としての長岡鉄男氏の評価はどうであったのかは直接は知らない。

中野英男氏の「音楽、オーディオ、人びと」の中に、
オーディオ評論家ではない長岡鉄男氏についての記述がある。
     *
 成城の我が家の書斎──四畳半の腰掛け式コタツのある、我が家では音だし機械が置いてない唯一の部屋──の小さな本箱には、長岡鉄男さんの著書が何冊か並んでいる。オーディオの本ではない。奇智、頓智、隠し芸に関する新書判である。二十年前、長岡さんはラジオ、テレビのコミック・ライターであった。天才的、としか評しようのない創造力で幾つかの人気番組を作り上げておられたが、同時にコミックな本も次々にものされ、その方面でも人気作家のひとりであった。その頃、新しい本が出版されるたびに、長岡さんは献呈の辞を添えて私に贈って下さった。当時の宴会における私の隠し芸の種本は、ほとんど長岡さんの作であった。人気が出ないわけはないではないか。
     *
才能ある放送作家だったのだと思う。
その才能がオーディオマニア(キチガイでない)に向けられたからこそ、
長岡教と呼ばれる、ある種の集団が生れたのではないだろうか。

Date: 10月 21st, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その2)

スペンドールのBCIIは、ステレオサウンド 45号の特集に、
BCIIIは44号と46号の特集に登場している。

44号と45号は「フロアー型中心の最新スピーカーシステム」が特集で、
二号にわたってのスピーカーの総テストが行われている。

46号は「世界のモニタースピーカー そのサウンドと特質を探る」で、
モニタースピーカーに限ってではあっても、ここでもスピーカーの総テスト、
つまり三号続けてのスピーカー特集だった。

スピーカー特集のひとつの前の43号はベストバイが特集だった。
BCIIの存在はそれ以前に知っていたけれど、
その評価の高さを知ったのは43号だった。

上杉佳郎、岡俊雄、菅野沖彦、瀬川冬樹、山中敬三の五氏が、
BCIIをベストバイコンポーネントとして選ばれている。
「光沢をおびたみずみずしい音が魅力的(上杉)」、
「ピアノより弦楽器やヴォーカルが見事である(岡)」、
「音の美しさでは、ベストといってよく(菅野)」、
「クラシック中心の愛好家には、ぜひ一度耳にする価値ある名作だ(瀬川)」、
「かけがえのないコンパクト機である(山中)」、
コメントの一部だけの抜粋だけでも、
BCIIというスピーカーシステムが、1977年当時、どれだけ高く評価されていたのかわかる。

とにかく品位の高い音、みずみずしい音を特徴とすることは伝わってくる。
BCIIの音は、はやく聴きたい、と思っていた。

BCIIの音を聴けたのは、瀬川先生が熊本のオーディオ店に来られた時だった。
43号に書いてあったとおりの音が鳴っていた。

43号でBCIIIは……、というと、岡先生の一票を得ただけだった。
BCIIIについての文章は掲載されてなかったが、
岡先生はBCIIのところで、BCIIの若干の弱みも指摘されていて、
「こうした不満はBCIIIではほとんど感じさせないことは附記しておきたい」と書かれていた。

Date: 10月 20th, 2017
Cate: スピーカーとのつきあい

スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ(その1)

私にとってスペンドールの代表的スピーカーといえば、やはりBCIIである。
私だけに限らないはずだ。
少なくとも私と同世代、上の世代のオーディオマニアの人に同じことを聞けば、
九割以上の人がBCIIと答える、と言い切れる。

それほどBCIIの評価は好ましいものだった。
輸入元が今井商事からかわり、復刻されたBCIIの音は聴いていない。
ここでのBCIIとは、あくまでも今井商事が輸入元だったころのBCIIのことである。

BCIIには、BCIIIという上級機があった。
BCIIは3ウェイ、というより2ウェイ・プラス・スーパートゥイーターといえる構成。
BCIIIは、そのBCIIにウーファーをさらに加えたかたちだ。

BCIIのウーファーは口径20cmのベクストレンのコーン型、
BCIIIは、この20cmウーファーに、30cmのベクストレンコーン型を足している。
カタログには、ふたつのウーファーのクロスオーバー周波数は700Hzとなっている。
20cmウーファーは3kHzまで受け持つのは、BCIIもBCIIIも同じである。

この700Hzという値は、もう少し低く設定することは考えなかったのだろうか、と思わせる。
BCIIにも採用されている20cmウーファーをもう下の帯域まで受け持たせていれば、
スピーカーの印象もずいぶん変ってきたはずなのに……。
それはつまりBCIIのイメージそのままに、
スケールアップしたよさをBCIIIは出せたかもしれない、と思うからである。

日本ではBCIIとBCIIIとでは、圧倒的にBCIIのほうが人気が高く、
売行きも大きな差があったはずだ。

BCIIは、よく見かけたし、何度も音を聴いている。
ステレオサウンドの試聴室でも聴いている。

BCIIIは、というと、これも聴きたくても聴く機会がなかったスピーカーのひとつである。
見かけることも、数えるほどもなかった。

Date: 10月 19th, 2017
Cate: 井上卓也

井上卓也氏のこと(ボザークとXRT20・その2)

ボザークの音は聴いていない。
熊本にいたころは実物をみる機会もなかった。

東京で暮らすようになって、秋葉原のオーディオ店で展示されているのを見たことはある。
それは長いこと売れていないようで、展示品とはいえ、くすんだ印象を受けた。

いまなら聴かせてほしい、と店員にいえるが、
18、19ぐらいのころ、買えもしないオーディオ機器を聴かせてほしい、とは、とてもいえなかった。
いつか聴く機会はあるだろう、と当時は、そうも思っていた。

結局聴く機会は訪れなかった。
そういうものなのかもしれない。

ステレオサウンドのバックナンバーをみても、
ボザークについて書かれているのは、当然とはいえ井上先生が圧倒的に多い。
つぎに菅野先生が少し書かれているくらいだ。

ボザークのスピーカーも、そんなには登場していない。
新製品を次々と出してくるメーカーではなかったし、
ユニットも四種類のコーン型が用意されていて、その組合せでシステム構成がなされていた。

そういうメーカーであり、そういうスピーカーシステムなだけに、
目立つこと、スポットライトが当てられることは、
私がステレオサウンドを読みはじめてからは、なかった。

ボザークの音とは、どんな音だったのか。
     *
また、「理想の音は」との問にたいしてのR・T・ボザークは、ベルリンフィルのニューヨーク公演の音(たしか、リンカーンセンター)と断言した。あの小気味よさはいまも耳に残る貴重な経験である。
 ボザークのサウンド傾向は、重厚で、密度の高い音で、穏やかな、いわば、大人の風格を感じさせる米国東海岸、それも、ニューイングランドと呼ばれるボストン産ならではの音が特徴であった。このサウンドは、同じアメリカでもかつて日本で「カリフォルニアの青い空」と形容された、JBLやアルテックなどの、明るく、小気味よく、シャープで反応の速い音のウェスタン・エレクトリック系の音とは対照的なものであった。
     *
井上先生が、「音[オーディオ]の世紀」(ステレオサウンド別冊)に、そう書かれている。
「コンポーネントの世界」の巻頭鼎談では、瀬川先生が語られている。
     *
瀬川 このスピーカーを作ったボザークという男が来日した折り、ぼくはいろいろ話し合ったんですが、そのときに貴方の好きな音楽はなんですかと聞いてみた。そうしたら、シンフォニー、それもとくにマーラーとブルックナーとブラームスのだ、というんです。しかもそうした曲を、アメリカ人だけど、ドイツ・グラモフォンがカッティングとプレスした盤で聴くのが好きなんだ、といってた。
     *
理想の音、好きな音楽という問いに対してのボザークの答は明快だ。

Date: 10月 19th, 2017
Cate: バランス

音のバランス(その4)

川崎先生の今日(10月19日)のブログ「モノの美しさにあるバランス性が決定要因」。

ちょうどいまは天秤座の時期である。
天秤座のシンボルマークは、もちろん天秤を表している。
その天秤とは片天秤ではなく、両天秤のはずだ。

X(エックス)というアルファベット。
このアルファベットこそ、両天秤だと最近思っている。

両天秤だからこそ、解でもある、と思っていたところに、
川崎先生の「モノの美しさにあるバランス性が決定要因」だった。

Date: 10月 19th, 2017
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その3)

「五味オーディオ教室」がオーディオのスタートだった私にとって、
「五味オーディオ教室」は、五味先生の耳の記憶が綴られていた、とつくづくおもうとともに、
それ以外のスタートでなくてよかった、ともつくづくおもう。

「五味オーディオ教室」をくり返しくり返し読んできたのは、
「五味オーディオ教室」という五味先生の耳の記憶を継承しようとしていた──、
ここにきて、やっとそういえる。

Date: 10月 18th, 2017
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(長岡鉄男氏とpost-truth・その14)

長岡鉄男というオーディオ評論家は、どのタイプなのか。
オーディオマニア(キチガイでない)のためのオーディオ評論家(キチガイでない)だと私は思っている。

だからこそ、あれだけ多くの読者からの支持があったのだと思っている。
長岡鉄男氏のうまいところは、
オーディオマニア(キチガイでない)を相手に、
オーディオマニア(キチガイ)と思い込ませることにあったのではないだろうか。

オーディオメーカーにとってありがたいのは、
長岡鉄男氏のようなオーディオ評論家であったはずだ。

オーディオマニア(キチガイでない)がオーディオマニア(キチガイ)と思い込むことで、
オーディオにお金を注ぎ込む。
メーカーにとってありがたい存在(客)を、長岡鉄男氏はその文章でつくってきた。

その10)で引用した五味先生の文章。
その中に出てくる、あるステレオ・メーカーの音響技術所長の
「キチガイ相手にショーバイはできませんよ」、これこそがメーカーの本音であり、
オーディオブームはオーディオマニア(キチガイでない)によって支えられていた、ともいえるし、
ブームのためには、オーディオマニア(キチガイでない)を、
オーディオマニア(キチガイ)だと思い込ませることだったのではないか。