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Date: 11月 27th, 2019
Cate: 黄金の組合せ

黄金の組合せ(その27)

1970年代後半のJBLのスタジオモニターとマッキントッシュのアンプの組合せ、
これを黄金の組合せと認識している人が、インターネット上にはけっこういるようだ。

でも、黄金の組合せだ、とは私は一度も思ったことがない。
いったい誰がそんなことをいっていたのか。
それすらも疑問である。

JBLのスピーカーでも、それ以前のオリンパスやパラゴンなどで、
古いジャズを聴くのであればマッキントッシュとの組合せというのも、しっくりくる。

けれど4341、4343が登場し、
JBLのスタジオモニターもワイドレンジ指向になっていた。
同時代のマッキントッシュのアンプは、
JBLのスタジオモニターの変化と追従していたわけではない。

それぞれ独立したメーカーなのだからそれでいいのだが、
4343とそのころのマッキントッシュのアンプとでは、
マッキントッシュのアンプのほうに古さを感じてしまう。

もちろん、それで聴きたい音楽がうまく鳴ってくれればいい。
それはわかったうえで、ではジャズの世界でも録音も変ってきていた。

具体的にあげればECMの録音を、
JBLの4343をマークレビンソンとSAE、スレッショルドのアンプで鳴らす音と、
マッキントッシュの、やや古さを残したアンプで鳴らすのとでは、
比較試聴をするまでもなく、前者の組合せがしっくりとくる。

マッキントッシュのアンプも1980年ごろから変化していった。
古さはなくなっていく。
それでもステレオサウンドの試聴室で、
C29とMC2205のペアを聴いた時、
ローレベルの音の粗さに驚いたことがある。

Date: 11月 27th, 2019
Cate: High Resolution

MQAのこと、文教堂市ヶ谷店のこと

書店が取り扱っているのは本だけではなく、
文具やCD、DVDなども扱っているところもある。

市ヶ谷駅近くの文教堂の書店も、入口の近くにCD、DVDコーナーがある。
といっても小さなコーナーである。

そこにMQA-CDがまとめて置いてある。
CD、DVDは壁に据えつけの棚なのだが、
MQA-CDは支柱があって回転するタイプの什器で、別においてある。

ユニバーサルミュージックのMQA-CDの、邦楽以外のタイトルではあるが、
見つけた時は嬉しかった。

なぜかMQA-CD、ハイレゾとか、そういうポップ広告があるわけでもない。
ただMQA-CDだけがまとめられている。

なぜあるのか、それはわからない。
店長がオーディオマニアなのか。

とにかく文教堂市ヶ谷店では、MQA-CDが売っている。

Date: 11月 27th, 2019
Cate: ハイエンドオーディオ

ハイエンドオーディオ考(その1)

昨年3月に「ハイエンドオーディオ考を書くにあたって」を書いた。
一年半ほどそのままにしていた。

このブログの目標である10,000本まであと100本を切っている。
このままだと10,000本を書き終っても、
「ハイエンドオーディオ考」を書き始めないな、と自分でも思い始めた。

それに今年のインターナショナルオーディオショウで、
あらためてFMアコースティックスの音を、惚れ惚れと聴いていた。

なので、やっと書く気になった次第だ。

インターナショナルオーディオショウで聴いたFMアコースティックスのパワーアンプは、
FM711MKIIIは、11,400,000円である。
一千万円を超えるアンプであるが、FMアコースティックスのフラッグシップモデルではない。
その上がある。

FMアコースティックスのアンプは、価格的にはハイエンドオーディオということになろう。
でも、アクシスのブースで、その音を聴いていて、
FMアコースティックスは果してハイエンドオーディオという括りに含まれるのか、と疑問に感じていた。

ハイエンドオーディオのはっきりとした定義は、どこかにあるのだろうか。

ハイスペックオーディオならば、ハイエンドオーディオよりもずっとわかりやすい。
ハイプライスオーディオもまたそうだ。

どちらも数字が表わしてくれるからだ。
数字だけではない、能書きもそうである。

FMアコースティックスのアンプは、確かにハイプライスだ。
けれど、アクシスのスタッフがショウで話していたように、
FM711にしてもMKIIIになっているが、
改良モデルが出る度に、FMアコースティックスにどんな変更が加えられたのか問い合せても、
まったく返答がない、ということ。

FMアコースティックスのアンプは、あまり能書きがない。
CMRRは優秀な特性ぐらいは伝えているが、
それにしても改良モデルの登場によって、どう向上しているかの情報もない。

Date: 11月 27th, 2019
Cate:

賞からの離脱(BCN+Rの記事・その4)

ベストバイもステレオサウンドグランプリも、
選ぶ人がいて選ばれる機種があるという点で、
ベストバイには「賞」とはついていないが、私はベストバイ賞という認識でずっといる。

他の人はどうなのかはなんともいかないが、
少なくとも、私にベストバイの選考にあたって、
選考者であるオーディオ評論家が、ベストバイ選考のための試聴をやっている──、
そう思っていた人たちは、ベストバイを賞を捉えていたのではないのか。

以前書いているように、ベストバイは、編集者の体力的問題もあって生れた企画である。
スピーカーやアンプなどの総テストは、聴くオーディオ評論家も大変だが、
裏方の編集者の体力的にもしんどい作業である。

すべての号で総テストを行っていては、編集者の身体がもたない、
肉体的に休める必要もあってもベストバイという企画である。

ベストバイは、つまり最初から試聴を行わないことを前提としている。

私はこのことに批判的ではない。
現実的に無理なのだ、ベストバイ対象機種の総試聴というのは。

ベストバイの選考対象となる機種は、
前年のベストバイで選ばれた機種に、その一年で登場した機種すべて、ということになる。
それらをすべて一箇所に集めて、選考者全員に試聴してもらうことを考えてみてほしい。

試聴する時間もたいへんなものになるが、
それ以上に困難となるのが、例えばスピーカーシステムの試聴を行うとして、
対象機種を一度に集められるかということだ。

メーカー、輸入元に連絡をとって、日程調整をしなければならないが、
まずこれがたいへんなことである。
それをなんとかしたとして、集められたスピーカーシステムすべてを置く場所の確保が問題となる。
現在のステレオサウンドの試聴室および倉庫の広さがどの程度なのかは知らないが、
それでも無理だとは断言できる。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 十牛図

十牛図と「ゴドーを待ちながら」

「ゴドーを待ちながら」の作家、
サミュエル・ベケットは、十牛図を知っていたのか。

十牛図と「ゴドーを待ちながら」の共通する点を、
強引に見つけながら、関連づけていこう──、なんてことはいまは考えていない。

けれども、まったく関係がない、とも思えないでいる。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 戻っていく感覚, 書く

毎日書くということ(戻っていく感覚・その9)

そんなどうでもいいことまで考えて、どうするの?
そう思っている人はいることだろう。
実際、「妻がそういってました」といわれたことがある。

オーディオに関心があるなしに関係なく、
その人の奥さんからみれば、どうでもいいことにこだわっている、と映っているわけだ。

ここで「神は細部に宿る」ということをいいたいわけではない。
人は考える。

オーディオのことについて考える、音について考える、聴くということについて考える、
オーディオ、音楽に関すること、できることならばすべてのことについて考えていきたい──、
そう思っている。

人それぞれ考えている。
同じ音を、同じ場所で同じ時に聴いたとしても、考えることは違うこともある。
あるオーディオの事象について考えるにしても、人が違えば考えも違ってくるところがある。

同じ世代で、同じくらいのオーディオのキャリアであっても、
聴く音楽が近くても、考えがまったく同じになることなんて、まずない。

だから考えるのは、なぜ、私はそう考えたのか、についてである。
そう考えるのは、なぜなのかを考える。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その13)

2019年に登場した製品で、インパクトが最も強かったのは、
OTOTENに出展していた中国のESD ACOUSTICである。

インターナショナルオーディオショウでの、
テクダスのAir Force ZEROもあるけれど、
このモデルに関しては、実物を見るまでに、
けっこうな量の情報に触れていたから、インパクトという点ではやや色褪てしまう。

ESD ACOUSTICに関してはまったく知らなかっただけに、
ブースに入って、そのシステムの規模に圧倒された。

とはいえ、音だけでいえば、今年のオーディオショウで強く印象に残ったのは、
別項で書いているように、アクシスのブースでの、
ファインオーディオとFMアコースティックスの組合せによる音である。

この音は、また聴きたい、と思ったし、
日曜日にもう一度行こうかな、と思ったほどの音だった。

ESD ACOUSTICの音は、来年のOTOTENでまた聴きたい音である。
一年のあいだにどれだけ練り上げられているのか、それを確かめたいという気持が強い。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その29)

トリオのL07Cのことでは、瀬川先生の存在があった。
トリオの重役から、《殴りたいほど口惜しいよ》といわれるほどに書かれていた。
瀬川先生があれだけ書かなければ、L07CIIはL07Cと同じデザインだったであろう。

アキュフェーズのE800はどうか。
瀬川先生はいない。菅野先生もそうだ。
オーディオ評論家の誰も、E800のプロポーションのひどさについて書かないであろう。

ラックスのアンプのプロポーションに関しても、
それを擁護するようなことを書く人はいたが、プロポーションについて批判的なことを書く人は、
私が知る限り、誰もいなかった。

エソテリックのデザインに関しても、そうである。
むしろ褒める人がいる。

E800は12月発売のステレオサウンドに登場することはまちがいない。
ベストバイに選ばれるはずだし、ステレオサウンドグランプリでもそうであろう。

そこでE800のずんぐりむっくりのプロポーションについて触れる人はいるのか。
やんわりとでもいい、苦言を呈す人はいるだろうか。
後二週間ほどで、それははっきりする。

メーカーにとって、輸入元にとって、都合の悪いことは黙っておく方が、
オーディオ評論家(商売屋)にとっては都合がいい。

でも、それでいい、と本音で思っているのか、と問い質したい。
一人でも多くquality customerを増やしていくことを、
オーディオ評論家の役目だとは思っていないのか。

quality customerがいなくなることはない。
すでにE800のプロポーションのひどさにがっかりしている人たちはいる。

それでもquality customerではない人たちが増えてくれば、
メーカーはどうなっていくであろうか。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その28)

別項「オーディオがオーディオでなくなるとき(その9)」で書いたことを、くり返す。

マッキントッシュのゴードン・ガウの言葉だったと記憶している。

「quality product, quality sales and quality customer」だと。
どれかひとつ欠けても、オーディオの世界はダメになってしまう、と。

quality product(クォリティ・プロダクト)はオーディオメーカー、
quality sales(クォリティ・セールス)はオーディオ店、
quality customer(クォリティ・カスタマー)はオーディオマニア、
そういうことになる。

ステレオサウンドのウェブサイトの記事にある人、
大阪ハイエンドショウでE800の音を聴いて予約した人は、quality customerといえるのか。

アキュフェーズにとっては、すぐさま予約してくれる人、
しかもE800はプリメインアンプとしては高級品であるから、
そういう人は、いいお客さんであるはずだ。

いいお客さんが、quality customerかといえるかといえば、微妙でもある。
E800の音はいいのだろう。

インターナショナルオーディオショウで、
E800がファインオーディオのF1-12を鳴らしている音は聴いている。
短い時間だったが、まともな音で鳴っていた。

アクシスのブースでFMアコースティックスで鳴らした音を聴いた直後だっただけに、
印象にあまり残っていないということはあるが、
アキュフェーズらしい音であったし、きちんとした条件で聴いたら、
かなりいい評価をする可能性もある。

音はいいはずである。
少なくとも悪くはないはずだ。

だからしつこいぐらいに E800のプロポーションについて書いている。
音がよければ、それで満足するのか。
すぐさま予約することは、メーカーにとって、ほんとうにいいことなのか。

E800が売れた、としよう。
かなりのヒット作になれば、
アキュフェーズは、これからのアンプのデザインをどう考えていくのか。

quality productは、音さえ良ければ、優れていれば、それでいいのか。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その27)

オーディオ協会のfacebookが、
ステレオサウンドのインターナショナルオーディオショウの記事へリンクしている。
アキュフェーズの記事があるのを、それで知った。

《先般の大阪ハイエンドショウでも、E-800の音を聴いてすぐに予約をしたという方もいたそうだ》
とあった。
予約された人は、E800のずんぐりむっくりのプロポーションが気にならないのだろう。

それはそれでいい。
すべてのオーディオマニアが、私と同じように感じているわけでないことぐらい知っている。

またトリオのL07Cのことを持ち出すが、
L07CIIが出た、ということは、L07Cは売れていた、ということでもある。

瀬川先生はL07Cの音は認めても、デザインは酷評だった。
それでも抵抗なく使っている人はいたわけだ。

ステレオサウンド 49号で
《そのために私個人も多くの愛好家に奨めたくらいだが、ユーザーの答えは、いくら音が良くてもあの顔じゃねえ……ときまっていた》
と瀬川先生は書かれている。

瀬川先生の周りでは、L07Cのデザイン(顔)を認めていない人が少なからずいた。

結局、気にする人とまったく気にしない人がいる。
そのことは昔からそうだった。

けれど、そうだった……、ということで、これからも変らずでいいとは思っていない。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その17)

スピーカーが、同じ598という価格であっても、
KEFではなく、1980年代の598戦争時代の国産のスピーカーシステムであったなら、
AU-D707とAU-D607のどちらをとるかとなったら、あまり迷うことなくD707にするであろう。

そういえば303には、ウーファーを二発にした304というモデルもあった。
同時期に発売になっている。

おもしろいもので、304は、ほとんどというか、まったく話題になっていない。
304は見たこともない、なので音ももちろん聴いたことがない。

悪いスピーカーシステムではなかったはずだ。
なのに……、である。

日本ではそうだったのだが、イギリスではどうだったのか。
そのへんのこともわからないが、304を鳴らすとしたら、AU-D707にしたように思う。

何も同時代のスピーカーとアンプ同士で鳴らすのがベストとは考えていない。
古いスピーカーシステムを新しいアンプで鳴らす新鮮さは、確かにある。

ここでもくり返すが、303がメインのスピーカーであるならば、そうしただろう。
AU-D607で鳴らす303の音に、これといった不満は感じていないが、
それでも新しいアンプで鳴らしてみた音は、どんなだろう、とは想像してしまう。

想像はするけれど、そういう機会が訪れたとしても、
303はAU-D607で鳴らすことから、あえて逸脱しないようにしたい、とも思っている。

これはこれでいい、と満足することが大事だからだ。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: 598のスピーカー

598というスピーカーの存在(KEF Model 303・その16)

サンスイのAU-D707とD607。
どちらがアンプ単体として優れているかといえば、D707であろう。

それにパネルデザインにおいても、D707のほうがいい。
D607もいいのだけれど、D707を見たあとでは、
ツマミが少なくなっていることが、どことなく足りないものがあるように感じさせる。

D607だけを見ていると、そんなふうには感じないのに、
D707と比較してみると、そう感じる。
D707の方が兄さんだな、とも思う。

その707は、D707になって電源トランスが二個から一個になっている。
この変更点をどう解釈するかは、いろいろある。

D607は左右独立電源トランスなのに、
上級機のD707は、前作707では左右独立だったのを左右共通にしているのだから、
理解に苦しむ──、という意見もあったはずだ。

電源トランスを左右チャンネルで独立させることのメリットもあればデメリットもある。
一つにまとめることも同じだ。メリットもあればデメリットもある。

サンスイがD707で目指した音では、電源トランスを一つにして、
その分大型にすることが効いているのだろう。
それはおそらく音の力強さとか充足感といったところと関係しているはずである。

D607では607が特色としていた音の面を活かす方向での、
左右独立電源トランスと出力段のトランジスターの数の少なさなのだろう。

井上先生がいわれている独特のプレゼンス、
菅野先生がいわれている音の空芯感、
これはD707にあまり感じられないところであり、D607ならではの音である。

サンスイのAU-Dシリーズにも、アンプの優劣は存在する。
それでも単なる優劣だけでなく、それぞれの価格のプリメインアンプとして、
このアンプならではの音のよさを失わないようにまとめあげている。

そこに気づくと、KEFのModel 303には、AU-D607をもってきたい。

Date: 11月 26th, 2019
Cate: ディスク/ブック

金魚撩乱

岡本かの子の「金魚撩乱」を、今日知った。

いつからなのか美魔女なる言葉を、頻繁に目にするようになった。
調べてみると、光文社の商標登録になっている。
才色兼備の35歳以上の女性を指し、魔法をかけたかのように美しい、という意味とある。

美・魔女なのか、美魔・女なのか。
美魔・女だとしたら、美魔という表現があるのかと思い、検索してみた。

そうやってたどりついたのが「金魚撩乱」だ。
この作品に、美魔(びま)が出てくる。
     *
マネキン人形さんにはお訣れするのだ。非人間的な、あの美魔にはもうおさらば。さらば!
     *
美魔女はここからヒントを得たのだろうか。
だとしたら、美魔・女ということになるが、美魔女について、もうどうでもいい。

美魔であり、マネキン人形さんとは、真佐子のことだ。
復一の心情である。

オーディオマニアも、美魔にとり憑かれているのかもしれない──、
そんなことを思いながら読んでいた。

「金魚撩乱」の最後を引用しておく。
     *
「これこそ自分が十余年間苦心惨憺して造ろうとして造り得なかった理想の至魚だ。自分が出来損いとして捨てて顧みなかった金魚のなかのどれとどれとが、いつどう交媒して孵化して出来たか」
 こう復一の意識は繰り返しながら、肉情はいよいよ超大な魅惑に圧倒され、吸い出され、放散され、やがて、ただ、しんと心の底まで浸み徹った一筋の充実感に身動きも出来なくなった。
「意識して求める方向に求めるものを得ず、思い捨てて放擲した過去や思わぬ岐路から、突兀として与えられる人生の不思議さ」が、復一の心の底を閃めいて通った時、一度沈みかけてまた水面に浮き出して来た美魚が、その房々とした尾鰭をまた完全に展いて見せると星を宿したようなつぶらな眼も球のような口許も、はっきり復一に真向った。
「ああ、真佐子にも、神魚華鬘之図にも似てない……それよりも……それよりも……もっと美しい金魚だ、金魚だ」
失望か、否、それ以上の喜びか、感極まった復一の体は池の畔の泥濘のなかにへたへたとへたばった。復一がいつまでもそのまま肩で息を吐き、眼を瞑っている前の水面に、今復一によって見出された新星のような美魚は多くのはした金魚を随えながら、悠揚と胸を張り、その豊麗な豪華な尾鰭を陽の光に輝かせながら撩乱として遊弋している。
     *
復一がめざしていた金魚造りは、そのままオーディオマニアの行為そのものの描写のようでもある。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: 1年の終りに……

2019年をふりかえって(その12)

インターナショナルオーディオショウも終り、今年もあと一ヵ月と少し。
まだ三ヵ月ほど残ってそうな気がしなくもないが、あと少しで今年が終る。

先ほど公開した「資本主義という背景(その8)」が、9,900本目。
このブログの目標である10,000本まで100本となった。
あと少しで終る、という感じがようやくしてきた。

夏のあいだ、書いた本数が少なかった。
そのため10月、11月は遅れを取り戻さなければならなかった。
10月も11月も、9月の二倍は書いた。
遅れをどうにか取り戻した。

書き始めたころは、平成が終ってしまうとは思っていなかった。
平成のうちに10,000本書ける、と思っていた。

2019年をふりかえって、というより、
2008年から2019年までをふりかえって、である。
ようやくふりかえられるようになった。

Date: 11月 25th, 2019
Cate: 欲する

資本主義という背景(その8)

《恋愛はただ性欲の詩的表現を受けたものである。少なくとも詩的表現を受けない性欲は恋愛と呼ぶに値しない》

芥川龍之介の「侏儒の言葉」にそう書いてある。

欲と慾の違いがよくわかっているわけではないが、
引用したことが真理であるならば、
欲と慾とは、詩的表現を受けていないか受けているのかの違いなのか。

だとすると、心の部分が詩的表現といえるのか。
そんなことをぼんやりと考えている。