終のスピーカーがやって来る(余談)
ウォルシュドライバーを採用したオーム・アコースティックスは、
いまも活動しているブランドである。
伊藤忠が取扱いをやめてからどこもやらなかった。
情報も入ってこなかったので、つぶれてしまったと勝手に思い込んでいた。
けれど今もニューヨークにある。
細々と──、とではなく、製品数もけっこうある。
古いモデルのスペアパーツも、古いモデルのアップグレードも行っているようだ。
ウォルシュドライバーを採用したオーム・アコースティックスは、
いまも活動しているブランドである。
伊藤忠が取扱いをやめてからどこもやらなかった。
情報も入ってこなかったので、つぶれてしまったと勝手に思い込んでいた。
けれど今もニューヨークにある。
細々と──、とではなく、製品数もけっこうある。
古いモデルのスペアパーツも、古いモデルのアップグレードも行っているようだ。
(その9)で、MQAをマンガーやジャーマン・フィジックスといった、
ベンディングウェーヴのスピーカーで聴いたら、どんなに素晴らしいだろうか、
と書いているし、
別項「黄金の組合せ(番外)」でも、
MQAとベンディングウェーヴのスピーカーこそ、
ごく私的な黄金の組合せとも書いている。
どちらも今年の2月に書いている。
この時点では、ジャーマン・フィジックスの取扱いはまだ再開されていなかった。
7月にジャーマン・フィジックスのHRS130が輸入されるようになった。
9月に銀座のサウンドクリエイトで、
十年ぶり以上のひさしぶりのジャーマン・フィジックスの音を聴くことができた。
「ジャーマン・フィジックス HRS130(とサウンドクリエイト・その3)」でも、
MQAで、それもULTRA DACとの組合せで聴いてみたい、と書いた。
書きながら、ほんとうに聴ける日がやってくるのかなぁ、ともおもっていた。
どこかで聴く機会はあまり期待できないことはわかっている。
となると自分でなんとかするしかない。
そんなことをなんとなく思い始めていたときに、Sさんからのメールが届き、
終のスピーカーが私のところにやって来ることになった。
これでMQAとベンディングウェーヴの組合せが実現する。
しかもグールドもMQAで聴ける時代になっている。
ジャーマン・フィジックスのスピーカーを聴いたのは、
2002年のインターナショナルオーディオショウでのタイムロードのブースであった。
Unicornが鳴っていた。
DDD型ユニットの原型といえるウォルシュドライバーの音は、
1980年代後半、オームのスピーカーシステムが、伊藤忠によって輸入されていたので、
ステレオサウンドの試聴室で聴いている。
動作原理に関しては、
ステレオサウンド別冊のHI-FI STEREO GUIDEに載っていた用語解説で知ってはいた。
なのでUnicornを初めて見ても、特別奇妙なスピーカーとは思わなかった。
けれど、その音には驚いた。
オームのスピーカーとは完成度がまるで違っていた。
そうなのだ、今年はジャーマン・フィジックスのUnicornを聴いて、ちょうど20年目である。
傍からすれば、単なる偶然でしかないし、20年というきりのよい数字に何の意味があるのか、
そう問われれば、何もない、と答えるのだけれど、それは本心からではなく、
やっぱり何かあるんだろうな、とおもっている。
そういうことを含めての、私にとっての終のスピーカーである。
「2021年をふりかえって(その3)」で、こう書いている。
*
2020年が、五味先生没後40年、
2021年の今年が、瀬川先生没後40年。
2020年には、タンノイのコーネッタを、ヤフオク!で手に入れた。
ステレオサウンドがキット販売したのを、誰かが組み立てたモノではなく、
別項で書いているように、はっきりと専門とする職人の手によるコーネッタである。
今年になって、そのことがわかり、いい買物をしたな、と実感している。
2021年には、SAEのMark 2500を手にいれた。
これもヤフオク!であり、ヤフオク!の相場よりも半分以下で落札できた。
こちらも程度はいい。
五味先生の没後40年の2020年にタンノイ、
瀬川先生の没後40年の2021年にMark 2500である。
不思議な縁が二年続いた。
*
ほぼ一年前に、これを書きながら、さすがに来年(つまり今年、2022年)は、
こんなことはもう起らないだろう……、と思っていた。
今年、2022年はグレン・グールド没後40年である。
だからといって、グールドになにがしか関係のあるオーディオ機器が、私のところにやって来る、
そんなことは起りようがない。
だいたいにして、グールドに関係のある(深い)オーディオ機器って、
いったいなんだろう──、そういう状況なのだから、
不思議な縁といえるオーディオ機器がやって来ることはない、そう思っていた。
今年、別項で書いているようにGASのTHAEDRAがやって来た。
これも不思議な縁からやって来たモノといえる。
それでもグールド没後40年とはまったく関係ない。
THAEDRAがやって来たことは、嬉しかった。
ジェームズ・ボンジョルノ設計(基本設計)のアンプのペアが実現したからだ。
夏にはこれも別項で書いているように、
ラックスキットKMQ60と自作の真空管アンプがやって来た。
今年も、もうこれで充分じゃないか、
グールド没後40年ということとはどれも関係なかったけれど。
10月26日、夕方に、一通のメールが届いた。
そのメールの内容は、ほんとうに夢のようなことだった。
そして一週間後の11月20日に、私にとっての終のスピーカーがやって来る。
グレン・グールドを、このスピーカーで聴けるだけでなく、
自分の手で鳴らし、グールドを聴くことができる。
グールド没後40年の2022年に、
ジャーマン・フィジックスのTroubadour 40がやって来る。
エラックのリボン型トゥイーターとともに、やって来る。
いまや億を超える金額であっても、
オーディオに限っても夢のような金額とはいえなくなりつつある。
ならば十億円、百億円、さらには一兆円と考えてみる。
一兆円ほどあれば、世界中、好きな場所に望むままの家を建てられるし、
リスニングルームもいくつもも持てる。
オーディオ機器に関しても、気に入ったブランドを買収して──、
そんなことまで可能になる。
それにホールを建てて、オーケストラを自前でもち、
それこそ、そこで原音再生に取り組むことだってやれる。
一兆円という数字は、無尽蔵に思えるし、実際にそうであろう。
世の中には一兆円でも現実的な数字でしかない、という人もいるだろうが、
一兆円を生きているうちにすべて使い切ることを想像してみれば、
その金額の途方のなさを、少しは実感できようというものだ。
そうやって想像(妄想)のかぎりを考えていく。
そんなばかげたことをまじめに考えていくことで、
それではやりたいことをすべてやって、最後にしたいことは──、
この問いが残るのではないのか。
瀬川先生が、ステレオサウンド別冊のHIGH TECHNIC SERIESの最初の号、
マルチアンプの号で書かれている。
*
■思いがけない小遣いが入った。あなたはそれで、演奏会の切符を買うか、レコード店に入るか、それともオーディオ装置の改良にそれを使うか……
実は、この設問には答えていただく必要は少しもないのだが、仮にもしあなたが、「むろん装置の改良に使う」とためらいなく答えたとすれば、もしかするとあなたは、マルチアンプはやらない方がいいタイプかもしれない。
……などというのは半分は冗談で、ほんとうに言いたいのは、実は次のようなことがらだ。
*
当時、学生だった私は、けっこう真面目にこの設問について考えていた。
学生だったから、思いがけない小遣いも、いくらに設定しようか、そこから考えていた。
この設問は、いくつになっても考えるのは、けっこう楽しい。
大人になれば、思いがけない小遣いの金額も学生だった頃からは違ってくるし、
同じ金額であったとしても、答は違ってくる。
私は、この設問のために、ときどき宝くじを買う。
当るとはまったく思っていない。
買うのは、月に一回程度で、ナンバーズかロト6のどちらか。
しかも一口しか買わないから、一年間の出費も二千円ほど。
なぜ買うのかといえば、ナンバーズにしてもロト6しても、
一致した数字の数によって当籤金が違う。
この具体的な数字が、あれこれ想像するうえで大事だからだ。
このくらい当籤していたら──、
そんなことを想像するためだけに買っているといえる。
なので想像する期間を長く楽しむために、結果をすぐに調べたりはしない。
宝くじの当籤金もいまでは数億円になっている。
けれど、その数億円が当籤したとして、それは思いがけない小遣いではあるが、
それだけでどれだけのことがやられるのだろうか、と現実的にもなる。
たとえばきちんとしたリスニングルームを、と想像する。
広さは? 造りは? そんな具体的な考え、費用はどのくらいかかるのか。
それから欲しいと思うオーディオ機器をすべて揃えるとしよう。
たとえばマジコのM9が欲しい、という人もいる。
けれどM9だけで一億円である。これに見合う機器を揃えたら、
そしてM9の大きさと重量にたえられるだけの部屋ということ、
それらの維持費などを積み重ねていくと、数億円はあっというまになくなる。
新製品とひと括りにしても、大きくわけて二つの種類の新製品があるといえる。
ひとつは、まったくの新製品である。
もうひとつは、改良モデルとしての新製品である。
どちらかであっても、新製品を聴く(ふれる)のは楽しい。
そうであっても、期待するところとなると、まったく同じなわけではない。
*
一つのものが、時間をかけて、愛情をもって練り上げられると、不思議に、そのものの個性が磨きをかけられて、強い主張として、見る者、触れる者に訴えかけてくるものである。このAU-D907リミテッドには、そうした熟成した魅力がある。例えは悪いかもしれないが、新製品にはどこかよそよそしい、床屋へ行きたての頭を見るようなところがある。きれいに整ってはいるが、どこか、しっくりこないあれだ。AU-D907リミテッドにはそれがない。刈ってから一~二週間たって自然に馴染んだ髪型を見るような趣きをもっている。中味を知って、音を聴けば、一層、その観が深まるであろう。
*
菅野先生が、ステレオサウンド 53号の特集「ステート・オブ・ジ・アート」で、
サンスイのプリメインアンプ、AU-D907 Limitedについて書かれた文章からの引用だ。
それまでの型番の末尾に、MK2とかAとかがつく改良モデルとしての新製品。
従来モデルを使っている人が期待するのは、ここのところが大きいはずだ。
従来モデルを使っていない人、関心もあまりなかった人にとっては、
まったくの新製品としての位置づけになるだろうし、
その新製品への期待は、他の新製品への期待と同じだろうが、
従来モデルを使っている人、特に愛用している人は、
《自然に馴染んだ髪型を見るような趣き》を求めてのもののはずだし、
それに応えてくれる新製品(改良モデル)は、これまでどのくらいあっただろうか、
そしてこれから、どのくらい登場してくるのだろうか。
日本語の歌における日本語の流暢さは、
歌そのものが与えてくれる情景に、どれだけ関係しているのだろうか。
(その5)で書いているように、
「よく、こんな日本語の歌、聴けますね」とか「がまんできますね」とか、
グラシェラ・スサーナの日本語の歌を聴いて、そういう人はけっこういる。
ホセ・カレーラスの「川の流れのように」をかけても、
まったく同じことをいう。
そんなことを言う人と私の、日本語の歌の聴き方はずいぶん違うわけだ。
私だって、流暢であればそのほうがいいとは思うけれど、
たいして、そのことが気になるわけではないし、気にすることもない。
それよりも、日本人の歌手(流暢な日本語)による日本語の歌よりも、
それまで聴きなれていた、とおもっていた日本語の歌に、
新しい輝き(もっといえば生命)を吹き込んでくれたように感じる。
だからこそ、多少日本語がまずかろうと、そんなこと気にせずに聴く。
歌の本質とは、そういうもののはずだ。
そして思うのは、まず流暢な日本語かどうかをすごく気にする人と私とでは、
音楽の聴き方(捉え方)が違うわけだから、それは音の聴き方(捉え方)も違う。
TIDALのおかげで、今年も聴きたいとおもった録音の多くを聴くことができた。
聴きたいと思ってすぐに聴ける。
このありがたさを、私と同じ世代、上の世代の人たちは実感すると思う。
若い頃、聴きたいと思っても、そうそうすぐには聴けなかった。
学生だったころは、聴きたいと思っても、レコードをすぐには買えなかった。
しかもFM局は、私が住んでいた田舎はNHKだけ。
聴きたいレコードはあっても、そのうちのどれだけを買って聴けたのか。
環境によって大きく違ってくることだけに、そんなことはなかったという人もいれば、
確かにそうだった──、と頷く人もいる。
そういう時代を過してきただけに、
TIDALのありがたさは、増していくばかりだ。
TIDALのおかげで、ジャンルに関係なく、そして録音の古い新しいに関係なく、
聴きたいとおもった音楽を、すぐに聴ける。
もちろんTIDALにない曲もある。
それでも聴ける曲のほうが圧倒的に多い。
そうやって今年聴いたもののなかで、
私のなかでは一、二を争うほど印象が強かったのが、
ハイフェッツによるヴィターリのシャコンヌだ。
ヴィターリのシャコンヌは、ずっと以前に聴いている。
誰の演奏だったのか憶えていない。
ハイフェッツではなかったことだけは確かだ。
つまり、あまり印象に残っていない。
それもあって、ヴィターリのシャコンヌを聴いたのはほんとうに久しぶりのことだった。
ハイフェッツの演奏で聴けるから、聴いた──、
そんな軽い気持から、である。
ハイフェッツによる演奏を聴いたことのある人は、いまごろかよ──、というだろう。
自分でも、そう思う。
いまになって、この演奏をすごさを知ったのだから。
ハイフェッツのことは、歳をとるほどによさを強く感じるようになり、
好きになってきている。
そこにヴィターリのシャコンヌである。
まだ聴いたことがないという人は、だまされたと思って聴いてほしい。
音楽を手にする感覚、先日ソーシャルメディアで目にしたことばだ。
アナログディスクのよさをあらわすものとして、そこでは使われていた。
音楽を手にする感覚、CD登場以前からオーディオにめり込んできた者ならば、
それは日常の感覚といえる。
そこにCDが登場した。ディスクの直径はLPの半分以下になり、
両手で扱うLP、片手で扱えるCDでもあった。
ディスクのサイズの違いは、ジャケットサイズの違いでもあった。
当時は、あれこれいわれていた。
所有する喜びは、CDよりもLPが上である。
その意味でも、音楽を手にする感覚は、CDよりもLPだろうし、
TIDALなどで音楽を聴く行為には、音楽を手にする感覚はない、といっていい。
なので、音楽を手にする感覚という表現を目にすると、
そうか、この人は、音楽を所有できると思っている人なのか、とそうおもうだけである。
私は、何度も書いてきているように、
音楽も音も所有できないと考えている。
別項「瀬川冬樹氏とスピーカーのこと(その10)」で、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80となったことだろう、と書いた。
いまもそのおもいはまったく変らない。
間違いなく瀬川先生は、
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニット中心のスピーカーを選択されたはず。
このことは、菅野先生と話したことがある。
菅野先生がジャーマン・フィジックスのTrobadour 40を導入されたとき、
たしか2005年5月だった。このときの昂奮はいまもおぼえている。
そして「瀬川先生が生きておられたら、これ(Trobadour 40)にされてたでしょうね」、
自然と言葉にしてしまった。
菅野先生も
「ぼくもそう思う。オーム(瀬川先生の本名、大村からきているニックネーム)もこれにしているよ」
と力強い言葉が返ってきた。
私だけが感じた(思った)のではなく、菅野先生も同じおもいだったことが、とてもうれしかった。
なので、すこしそのことを菅野先生と話していた。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットは、
菅野先生にとっての21世紀の375+537-500にあたり、
瀬川先生にとっての21世紀のAXIOM 80といえる。そう確信している。
《真剣に戯れること》、
特にオーディオと真剣に戯れることで思い出すのは、
上杉先生のことであり、黒田先生の文章である。
*
三十インチ・ウーファーが横に四本並んだところは、壮観でした。それを目のあたりにしてびっくりしたはずみに、ぼくは思わず、口ばしってしまいました、なんでこんな馬鹿げたことをしたんですか。そのぼくの失礼な質問に対しての上杉さんのこたえがまた、なかなか痛快で、ぼくをひどくよろこばせました。上杉さんは、こうおっしゃいましたね──オーディオというのは趣味のものだから、こういう馬鹿げたことをする人間がひとりぐらいいてもいいと思ったんだ。
おっしゃることに、ぼくも、まったく同感で、わが意をえたりと思ったりしました。オーディオについて、とってつけたようにもっともらしく、ことさらしかつめらしく、そして妙に精神主義的に考えることに、ぼくは,反撥を感じる方ですから、上杉さんが敢て「馬鹿げたこと」とおっしゃったことが、よくわかりました。そう敢ておっしゃりながら、しかし上杉さんが、いい音、つまり上杉さんの求める音を出すことに、大変に真剣であり、誰にもまけないぐらい真面目だということが、あきらかでした。いわずもがなのことをいうことになるかもしれませんが、上杉さんは、そういう「馬鹿げたこと」をするほど真剣だということになるでしょう。
*
私も、上杉先生のこの時のシステムをみたら、
「なんでこんな馬鹿げたことをしたんですか」と口走ると思う。
ステレオサウンド 38号の特集からの引用である。
黒田先生がオーディオ評論家のリスニングルームを訪問されている。
この時の上杉先生のシステムは、
シーメンスのオイロダインに中心帯域を受け持たせて、
8kHz以上をテクニクスのホーン型トゥイーターEAS25HH22NAに、
150Hz以下はエレクトロボイスの30Wという、かなり大がかりなシステムであった。
エレクトロボイスの30Wは、30インチ(76cm)口径のウーファー、
これを上杉先生は片チャンネルあたり二本、つまり両チャンネルで四本使われている。
30Wが二発横に並んでいる上にオイロダインのウーファーがあるわけだが、
オイロダインの38cm口径ウーファーが20cm口径ぐらいに感じられる。
黒田先生は《上杉さんは、そういう「馬鹿げたこと」をするほど真剣だということになるでしょう》
と書かれている。
深刻ぶるのが好きな人は、こんなことは絶対にやらない。
今年はなんといっても、メリディアンとジャーマン・フィジックス、
私の好きな、この二つのブランドが、日本市場に戻ってきたことがいちばんである。
海外ブランド、海外製品に関しては、輸入元がどこか、というのは、とても大事なことである。
高級オーディオのブランドばかり取り扱っているからといって、
その輸入元がよい輸入元とはいえないのが現状だ。
私は、好きなブランドの取扱いがステラ/ゼファンに移ってしまうと、
よりによってステラ/ゼファンなのかぁ、と毎回心の中でつぶやいている。
ジャーマン・フィジックスがステラ/ゼファン扱いにならなければ──、
どうしてもそう思ってしまうし、これだけではない。
他にもいくつか挙げることができる。
ステラ/ゼファンは飽きっぽいというか、冷淡なのか。
商売にならないと判断したら、取扱いをやめる。
商売だからしかたない──、
そうなのだろうが、ジャーマン・フィジックスのようにタイムロードがそれまで扱ってきて、
大切にしてきたブランドを、いわば横取りするようにして扱いはじめる。
そしてポイ捨て。
そんなふうには取り扱っていない、と反論されそうだが、
ジャーマン・フィジックスの音に惚れ込んでいる私にとっては、そう見える。
とにかくジャーマン・フィジックスとメリディアンが戻ってきた。
「2021年をふりかえって(その4)」で、メガネを新調したことを書いた。
川崎先生デザインのACTシリーズのなかから、ACT-Treeを選んだ。
「2021年をふりかえって(その5)」で、
ACT-Threeにしてからの日々は、第三幕ということになるのか、とも書いた。
別項「終のスピーカーがやって来る」を書いていると、
第三幕なのかもしれない、と思ったりする。
一昨年は、11月8日から「2020年をふりかえって」を書き始めた。
昨年は、11月1日から「2021年をふりかえって」を書き始めた。
今年は今日からだ。
今年、マドンナの新譜が出た。
“Finally Enough Love: 50 Number Ones”である。
TIDALでは、このアルバムはPopのところではなく、Danceのところで扱われている。
e-onkyoでもロック/ポップスではなく、クラブ/エレクトロニカのところだ。
マドンナのファンではないが、まったく聴いていないわけでもない。
耳にすることはあった。
以前、マドンナはQueen of Popと呼ばれていた。
だからPopなのだと思っていたら、いつしかDanceである。
いつからそうなのかは知らないが、時代は変っている──、そのことに驚いていた。
他の人はどうかはわからないが、私には、このことはけっこうな驚きだった。
このことをどこかで書こうと思いつつも、
唐突に、どこかのテーマで触れるのは無理があるな、と思っていたので、
ここで書くことにした。