Date: 8月 24th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その6)

10年以上前のレコード芸術の記事だったと記憶している。
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが語っていたことがある。

著名な演奏家による、いわゆる売れ筋の録音のときに、
同時にあまり知名度のない作曲家や新しい作曲家の作品を録音してカップリングするのは、
より多く売れる録音とひとつとして売ることで、
そのレコード(録音物)の聴き手に、知らしめるためでもある、ということだった。

そういった作曲家の、そういった作品だけを集めた録音では、
マニアックなごく一部の聴き手は買ってくれるだろうがほ、
多くの、そうでもない聴き手の耳に届くことはない。

彼らは音楽のプロフェッショナルである。
プロフェッショナルであるから、音楽を録音してそれを売ることで収入を得ている。
だが、商業的なことだけを考えて、企画をたて録音をしているわけではない。
そこには聴き手への教育的な意味合いもこめられている。

1963年のジュリアード弦楽四重奏団によるバルトークの弦楽四重奏曲の全集にも、
そういう意味合いがこめられている──、そんな気もする。

1963年にバルトークの弦楽四重奏曲がどれだけ一般的な聴き手の耳に届いていたのか、
正直わからない。
この時代のシュワンのカタログでもあれば、
バルトークの弦楽四重奏曲のレコードがどれだけ出ていたのか、それがわかるし、
おおよそのことは想像できるだろうが、この時代のシュワンのようなレコードのカタログ誌はもっていない。

ハンガリー弦楽四重奏曲による1961年の録音とジュリアード弦楽四重奏団のモノーラルの録音くらいしか、
他にどれだけあったのかを、私は知らない。
バルトーク弦楽四重奏団による録音は1966年ごろ、
タートライ弦楽四重奏団は年代がはっきりしないが60年代半ばごろだ。

Date: 8月 23rd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その5)

五味先生は、つづけてこう書かれている。
     *
 そのくせ、バルトークの全六曲の弦楽四重奏曲を、ジュリアードの演奏盤で私は秘蔵している。不幸にして私が狂人になったとき、私を慰めてくれる音楽はもうこれしかあるまい、と思えるし、気ちがいになっても、バルトークのクヮルテットがあるなら私は音楽を失わずにすみそうだ。狂人に音楽が分るものかどうか、その時になってみなければ分らぬが、モーツァルトとバルトークのものだけは、理解できそうな気がする。
 そういう意味で、私のこれは独断だが、バルトークは現代音楽でモーツァルトに比肩し得る唯一の芸術家だ。アルバン・ベルクもビラ・ロボスもシェーンベルクも、ついに新音楽ではバルトークの亜流にすぎない、そう断言してもよいと思う。
     *
「ジュリアードの演奏盤」としか書かれていない。
ジュリアード弦楽四重奏団は、三度バルトークを録音している。
モノーラル時代、ステレオになり1963年、デジタルになり1981年。
五味先生は1980年に亡くなられているから、
五味先生が秘蔵されていたジュリアードの演奏盤は、
バルトークの弦楽四重奏曲のすごさを、多くの聴き手に思い知らせたという意味でも、
モニュメンタルな録音といえる1963年のもののはずだ。

1963年はちょうど50年前。
私はうまれたばかりだから、当時のことを自分の体験として知っているわけではないが、
本やきくところによると、1963年にはバルトークは「現代音楽」として聴かれていた、ということだ。

バルトークの弦楽四重奏曲の第一番が1908〜1909年、
第二番が1915〜1917年、第三番が1927年、第四番が1928年、第五番が1934年、最後の第六番が1939年。

ジュリアード弦楽四重奏団がステレオ録音したとき、第六番の完成から24年後。
「現代音楽」としてバルトークの音楽が聴かれていた時代がはっきりとあって、
1963年はまだまだそういう時代だったからこそ、
ジュリアード弦楽四重奏団による二組のバルトークの全集を聴きくらべたとき、
音の良さでは1981年の録音が優れている。
けれど、演奏の気魄となると、1963年の録音に圧倒される。

Date: 8月 23rd, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その6)

バラコン──、
決していい言葉ではない。けれど、往々にしてグレードアップを何度か行うと、
バラバラなコンポーネントという印象に、デザインに関してはなってしまうことがある。

しかも音はまとまりをみせていっているであろうから、
人によってはデザインの統一感のなさ(バラバラな感じ)をどうにかしたくなる。

オーディオとはそういうものである、と自分を納得させることができればいいが、
そういう人でもデザインの面でもまとまりがあれば、
音が同じであれば、バラバラのデザインよりも、そちらを採るだろう。

マッキントッシュ、QUAD、B&Oのシステムのもつ魅力に憧れはもっている。
欲しい、と思うこともある。
けれど、どれでもいい、どれかひとつのシステムを買ってきて、
どれだけ満足できるか、というと、それはそう永い期間ではないように思う。

ここでのどれだけ満足できるかは、音の満足度ということよりも、
どれだけながく、そのシステムを変えることなく使っていけるか、という意味の、
時間的な長さのことだ。

もうひとつ書いておきたいことがある。
ここであげているマッキントッシュ、QUADに関しては、
いまのマッキントッシュ、QUADのイメージではなく、
私の中ではQUADはピーター・ウォーカーが生きていた時代までのQUADであり、
マッキントッシュも同じようにゴードン・ガウが生きていた時代までのマッキントッシュであり、
このふたつのブランドに関しては、そこまでのイメージが圧倒的に濃い。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: audio wednesday

第32回audio sharing例会のお知らせ

9月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

時間はこれまでと同じ、夜7時からです。
場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その10)

パイオニア、Exclusive F3の開発にそれだけの時間がかけられている──、
このことをいま知って、うんうんとひとり頷きながら納得している。

けれどチューナーにほとんど関心のなかった、若いときにこのことを知っていたら、
うーん、そうなんだ……、ぐらいの感想になっていたのは間違いない。

そして、そのことももう忘れてしまっていたことだろう。
活字による同じ情報でも、こちら(受けて)の状況で、その重要度が大きく違ってくる。

だから、いまExclusive F3がやって来て、少しずつF3について調べている、
このことは、現在(いま)でよかった、と思っているところだ。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: チューナー・デザイン

チューナー・デザイン考(パイオニア Exclusive F3・その9)

三井啓氏の記事によれば、チューナーも、コントロールアンプ、パワーアンプとともに企画されていたことがわかる。
ステレオサウンド別冊「世界のオーディオ」のパイオニア号、
204〜205ページにデザイン・スケッチが掲載されている。

コントロールアンプ、パワーアンプのスケッチとともに、
あきらかにチューナーのデザイン・スケッチがそこにはあった。

ではなぜチューナーのExclusive F3だけが約一年も遅れたのか。
その理由は、測定器の開発から始まったことにある。

三井氏の記事にはこうある。
     *
今日では広く採用されている群遅延特性測定器や、微分利得特性測定器といった精巧な測定器は、「エクスクルーシヴ」のFM専用チューナーを開発するうえで必要に迫られ、設計グループによって実現したものであった。
     *
記事には測定器の写真も載っていて、その説明文には「測定器メーカーとの共同開発による」とある。

オーディオ機器の開発の大変さは、なんとなくではあっても想像がつく。
けれど、測定器、それも新しい測定器となると、どれだけ大変なのかは、私には想像がつかない。

おそらく新しい測定器の開発と並行しながらExclusive F3の開発・設計も進められていた。
記事にも、「新しいFM専用チューナーは、昭和47年末ごろの設計の段階では」という記述がある。
昭和47年は1972年、Exclusive F3の発売は1975年。

Exclusive F3は、それだけの時間がかけられたチューナーといえる。

Date: 8月 22nd, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その4)

小学校の時の、そんな体験を彷彿させたのが、
五味先生の「西方の音」を読んでいたときだった。
長崎原爆資料館を訪れてから、約十年が過ぎていた。

「バルトーク」という一篇があった。
長くなるが引用しておく。中途半端に省略したくなかった。
     *
 もともとバルトークの音楽は私のもっとも忌避する芸術であった。彼の弦楽四重奏曲を、はじめて聞いた時の驚きを私は忘れない。かんたんに申すなら、バルトークは私を気違いにさせたいのか、と思った。そうでなくても何か一本、常人とはスジの狂った神経が自分にあるのを感じている。私は、常に正常でありたいし、こういう言い方が許されるなら目立たず平凡に一生を終えたいとどんなにつとめてきたかしれぬ。それでも最も自分らしくのびのび振舞えたと思えたとき、私の言動は常軌を逸し、人もそう言う。後で私もそう思う、だが常に、後でだ。
 そんな常軌を逸し、すじの違った何かをバルトークはことさら私の内部で拡大し、踏みはずせ踏みはずせと嗾ける。ふみはずせばどうなるか、防御本能で私は知っている。俺は破滅したくないのだ、平凡人でいたいのだ……私は心で叫んで抵抗し、脂汗で皮膚がぬめってくるような感じに、なんども汗を拭いた。そんな音楽である。バルトークは周知の通りその作品があまり急進的なため、不評を蒙り、一時は創作のペンを折らねばならなかった。しかし彼はそういう精神的孤立の中で最も自分らしい音楽を書いた、それが第二弦楽四重奏曲だ。当時彼は三十五歳だった。
 またそれからの二十年間、彼の充実した時期にその心の内奥を語りつづけたのが全六曲のクヮルテットであり、時に無調的、半音階的、不協和的作風(第四番)を経てヨーロッパを離れる六番にいたるまで、これら六つの弦楽四重奏曲には、つまり巨匠バルトークの個性のすべてが出ている。彼は晩年、貧乏のどん底でアメリカに死んでいったが、悲境のその死を一群のクヮルテットのしらべの中から予感するのは、さほど困難ではない。——などと、もっともらしい音楽解説は実はどうでもよいことだ。
 とにかく、私はバルトークの弦楽四重奏曲を——はじめに第二番、つぎに四番、六番と——ついにそのどれ一つ、終章まで聴くに耐えられなんだ。
「やめてくれ」
 私は心中に叫び、それが歇んだときホッとした。およそ音楽というものは、それが鳴っている間は、甘美な、或は宗教的荘厳感に満ちた、または優婉で快い情感にひたらせてくれる。少なくとも音楽を聞いている間は慰藉と快楽がある。快楽の性質こそ異なれ、音楽とはそういうものだろう。ところが、バルトークに限って、その音楽が歇んだとき、音のない沈黙というものがどれほど大きな慰藉をもたらすものかを教えてくれた。音楽の鳴っていない方が甘美な、そういう無音をバルトークは教えてくれたのである。他と異なって、すなわちバルトークの音楽はその楽曲の歇んだとき、初めて音楽本来の役割を開始する。人の心をなごめ、しずめ、やわらげ慰撫する。私には、バルトークは精神に拷問をかけるために聴く音楽としか思えなかった。言いかえれば、バルトークの弦楽四重奏曲を終章まで平然と聴けるのは、よほど、強靭な神経の持ち主に限るだろう。人はどうでもよい、私にはそうとしか思えないのである。
     *
「それが歇んだときホッとした」とある。
ここで、小学低学年のころの映画のこと、
小学五年での長崎原爆資料館のことを思い出すことになった。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その3)

死の床で、もう一度食べたいものがあるとしたら、
私は長崎原爆資料館を見た後に食べた、あのアイスかもしれない。

そのくらい、あの時のアイスの味は忘れ難いものになった。

あの時のまったく同じアイスが、いま目の前にあって食べたとしてもおいしいと感じても、
あくまでも、数ある食べ物の中のひとつとしておいしいと感じるだけだと思う。

それでも、こんなことを思い、書いているのは、あの時のアイスの味だけが、
直前まで見ていた長崎原爆資料館にいて、
それまでの十年間でいちども味わったことのない、いいようのない気持をどうにかしてくれたからだ。

小学低学年のときに観た映画、
このときは暗い映画館の中から(昔の映画館はほんとうに暗かった)、
明るい外に出た時に、ほっとした(できた)。

長崎原爆資料館のときには、外に出たくらいではそうはならなかった。
このときたしか十歳だった。
そんな子供は、なんとか、すこしでもはやくほっとしたかった。
そのとき目の前で売っていたのがアイスだった。

アイスはおいしかった。
ひとつ食べて、もうひとつ買った。それも食べ終るとまたひとつ買った。

なにか対比を求めていたのかもしれない。
映画館の暗さと外の明るさ──、
映画のときはこの対比でなんとかほっとできた。

けれど長崎原爆資料館のときは、外の明るさだけではどうにもならなかった。
子供心に、あのときのアイスは対比として存在であることがわかっていたのだろうか。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その5)

一時期、ワンブランドシステムとかワンブランドオーディオという言葉が雑誌を飾っていた。
マッキントッシュ、B&O、QUADといった、
音の入口から出口まで揃えているメーカーでシステムを統一する。

マッキントッシュのCDプレーヤー、マッキントッシュのチューナー、マッキントッシュのコントロールアンプ、
マッキントッシュのパワーアンプ、マッキントッシュのスピーカーシステム、
とすべてマッキントッシュの製品で揃えればデザインでの統一と音質・音色での統一が得られる。

B&O、QUADもワンブランドですべて揃えてしまうことで得られるものが確実にある。
同時に得られないものもあるわけで、
結局はどちらを重視するかにより、人はワンブランドを選択したりそうでなかったりする。

ワンブランドオーディオ、ワンブランドシステムという言葉が登場する以前は、
シスコンという言葉があった。
システムコンポーネントの略語である。

これもワンブランドで統一されたシステムであるわけだが、
メーカーのお仕着せということと、それにどちらかといえば安価なシステムが多かったこともあり、
初心者向きという認識であった。

このシスコンに対して、バラコンというのがあった。
バラコン──、バラバラにスピーカーやアンプを買ってきてコンポーネントを組み合わせるから、
つまりバラバラのコンポーネントという略語であった。
瀬川先生は、こんな言葉は使いたくない、使わない、といわれていたのを思い出す。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その4)

自分にとって、ほんとうに求めていたスピーカーシステムと早々に巡りあえることは、まずない。
いくつものスピーカーシステムを自分で鳴らしてこなければ、まず無理である。

その意味では「このアンプに合うスピーカーはなんですか」
と質問してくる人のことがまったく理解できないわけではない。
それでも、スピーカーシステムは自分で見つけるもの(モノ)である。

いつかは、きっとスピーカーシステムが見つかる。
それがどのくらいかかるのかは、なんともいえない。
幸運にも一年くらいで見つかる人もいるだろうし、
十年かかって見つけた人だっている。
それ以上の年月をかけているけれど、まだ見つからない……、という人もいよう。

それまでは、すでにシステムをつくっている。
一度にすべてのオーディオ機器を、欲しいモノを買える人もいるけれど、
私を含めて多くの人は、すこしずつグレードアップしていく。

プレーヤーにしても、アンプにしても、
自分にとってほんとうに求めていたスピーカーシステムが見つかるまでに、
いったい何度入れ換えているだろうか。

そうやっていっていると、往々にしてそれぞれのオーディオ機器のデザインに関しては、
じつにバラバラになってしまいがちだ。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その3)

1967年、オーディオ機器へ物品税がかかるようになり、
それまでは部品扱いだったアンプやスピーカー、プレーヤーが、完成品とみなされるようになった。

車は車一台で車としての機能を持っている。
けれどオーディオ機器の場合、アンプだけを買ってきても、それだけでは音は出てこない。
スピーカーシステムにしてもプレーヤーシステムにしても同じで、
レコードを聴くには最低でもプレーヤーシステムとアンプ、
それにスピーカーシステム、もしくはヘッドフォンを買ってこなければならない。

その意味では、確かにオーディオ機器は「部品」という見方ができる。
その「部品」を買ってきて、自分のためのシステムを構築する。

システムとは「個々の要素が有機的に組み合わされた、まとまりをもつ全体。体系」と辞書にはある。
まとまり・まとまるとは「ばらばらであったものが集まってひとつになる。また統一のある集まりとなる」ことだ。

ばらばらであったものが集まるには、中心となるもの(モノ)があってこそ、成り立つのではないのだろうか。
中心がなければ、ばらばらであったものは、いつまでたってもばらばらである。

オーディオというシステムにおいて、中心となるのはスピーカーシステムということになる。
まずスピーカーありきで、組合せを考えることは始まる。

ずっと以前は、多くのオーディオ雑誌にあった相談コーナーのページで、
「このアンプに合うスピーカーはなんですか」と読者の質問が少なからずあった。
いまでもインターネットに、昔と同じようにあるようだが、
いまも昔も、くり返すが、まずスピーカーありき、である。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その2)

たとえばラックスのコントロールアンプCL32は128000円、キットのA3032は88000円、
CL30は169000円、キットのA3400は108000円、
パワーアンプのMB3045は128000円(一台)、キットのA3000は79000円(一台)だった。

物品税の分だけ安いともいえるし、
そのメーカーでの組み立てにかかるコストも省けるから,ともいえるわけだが、
キットにはキットならではの苦労が、メーカーにはあったはずだ。

キットを購入して組み立てる人の技術が、どの程度なのかはばらばらのはず。
自分で回路設計もできてコンストラクションまで考える人もいるば、
ハンダゴテを握るのも初めて、とにかく安く買えるから、という人までいたと思う。

当然ハンダ付けの技術もワイヤリングの技術もまったく異る人たち向けにキットは売られている。
技術のある人ならば問題なく組み立て、調整し、完成品とまったく変わらぬモノを安く手にできる人もいる反面、
まともに組み立てられずメーカーに送る、という人もいた。

それに対してもメーカーとしてはアフターサービスとして、きちんと対応していた、と思う。
このコストは、完成品が故障で戻ってくるのよりも、ずっとかかっていたのではなかろうか。

キットの販売は大変だったはずだ。
それをラックスは長年やってくれていた。
私自身はラックスキットを購入したことはないけれど、
キットという存在はオーディオの勉強の教材としても存在していた。

物品税は1989年の消費税導入によってなくなった。
そうなると製品でもキットでも、消費税率は同じになる。

Date: 8月 21st, 2013
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その1)

1970年代、1980年代は各メーカーからキットが発売されていた。
有名なところではラックスキットがあった。

キットといえば初心者向きのモノと受けとられがちだが、
ラックスキットは充実していた。

たとえばラックスの管球式パワーアンプMB3045のキットはA3000、
MQ60のキットはKMQ60、
その他にもキットのみのモデルもあった。

コントロールアンプもCL32のキットがA3032、
CL30のキットがA3400として出ていた。

アメリカではダイナコの真空管アンプのキットも有名だった。

その他にもキットはいくつもあった。
ターンテーブルのキットもあり、アンプ、スピーカー、
それにデヴァイディングネットワーク(チャンネルデヴァイダー)もあった。
システムのほとんどをキットで揃えることもできた。

キットがこれだけ充実していたのには、物品税という理由がある。

昭和42年(1967年)、それまで部品扱いで非課税だったオーディオ機器に物品税がかけられることになった。
物品税は15%が基本で、いきなり15%もの課税になると、一挙にオーディオ機器の価格は高くなる。
そのため5%ずつ上げる、という猶予が与えられた。

そうなってもキットは、部品扱いだったため15%の物品税は関係ない。
だからキット販売は、価格をかなり抑えることができた。

Date: 8月 20th, 2013
Cate: 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その49・続×七 番外)

今回考えた組合せの、音の中心となるのはウエスギのU·BROS2011Pではないかと想像している。
実際のところ、組合せをつくり音をまとめていく過程で、スピーカーシステムのGX250MGが中心になるのか、
それとも私の想像しているようにU·BROS2011Pになるのかが、はっきりする。

それでもU·BROS2011Pを音の中心に据えて音をまとめていくというのも、ひとつの手法としてある。

では今回の組合せのデザインの中心となるのは、どれなのか。
全体のデザインの統一感はなくとも、どれかひとつ秀でたデザインのモノがあれば、
組合せ全体のイメージがずいぶん変ってくるのだが、
ここでは中心となるモノはない──、そんな気がする。

たとえばデザイン面の統一感を重視してコントロールアンプもCDプレーヤーもアキュフェーズに変更したとする。
システムの半分以上がアキュフェーズになれば、見た目の統一感は増す。
増すけれど、それでアキュフェーズのコントロールアンプなりCDプレーヤーが、
パワーアンプでもいいのだが、これらのひとつがデザインの中心になってくれるとは考えにくい。

アキュフェーズのデザインに関して、高く評価する人は割と多い。
私は、正直、いまのアキュフェーズの一連のデザインに関しては、どこか薄さを感じてしまう。
そのことが、それまで私のなかで積み重なってきたアキュフェーズの印象と少しずつ離れていくところがあり、
このままアキュフェーズのデザインは、この方向で展開していくのだとすれば、
いろいろとおもうところがある。

デザインに関しては、フォステクスのGX250MGもそうだ。
あえて、こういう外観にしているのだろうが、あまりにも魅力に欠ける。

今回の組合せはデザインの中心となるモノがないから、よけいにそれぞれの機器のデザインが気になってくる。

Date: 8月 20th, 2013
Cate: 音の毒

「はだしのゲン」(その2)

私が長崎原爆資料館に行ったのは、もう40年ほど前のこと。
そのときの建物は新しくはなかった。
どちらかといえば暗い感じのする建物だった記憶がある。
少なくとも近代的な明るい印象の建物ではなかった。

そんな資料館の中に展示されているものをひとつずつ見てまわった。
できれば見たくない、と思っていたような気もする。
でも、すべてをきちんと見なければ、と小学生ながらに思ってもいた。

いくつかはひどく記憶に残って、
しばらくはそのイメージが頭から消し去ることができなかった。

修学旅行は小学五年のときだった。
ぺちゃくちゃしゃべりながら行動をしがちの年ごろだったけれど、皆無口だった。
妙に静かだった。

心の中では、どういう言葉を発していたのかはわからない。
でも皆黙っていた。
湿気がまとわりつくような感じも記憶に残っている。

長崎原爆資料館の外に出たら、
自転車で小さな屋台をひいて、アイスを売っている人がいた。
長崎名物の氷のつぶがはいったアイスだ。

このアイスを食べて、ほっとした、というか、やっとほっとできた。