Date: 2月 23rd, 2024
Cate: 終のスピーカー

終のスピーカー(その18)

これこそが自分にとっての終のスピーカーだ、といったところで、
そうやって思い込もうとしたところで、
心に近い音を求めない人には、永遠に終のスピーカーは存在しない。

終のスピーカーとは、そういう存在のはずだ。

Date: 2月 23rd, 2024
Cate: ベートーヴェン

ベートーヴェンの「第九」(20世紀の場合と21世紀の場合・初演200年)

二年前の春、オクサーナ・リーニフについて少しだけ書いている。
いまのところ、オクサーナ・リーニフ指揮のベートーヴェンの第九は聴けそうにない。
一日でも早く聴ける日(つまり彼女が指揮する日)が訪れることを祈っている。

今日、TIDALで新しく配信されることになった第九がある。
Keri-Lynn- Wlson指揮Ukrainian Freedom Orchestraによる第九である。

ケリ=リン・ウィルソン、ウクライナ・フリーダム・オーケストラについては、
彼女本人のサイトを読んでほしい。

この第九は、ドイツ語による歌唱ではなくウクライナ語によるものだ。
このことについても、彼女のサイトに載っている。

今年は第九の初演から200年である。
いくつもの第九の録音が登場することだろう。

Date: 2月 22nd, 2024
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(オーディオショウにて・その5)

ナチュラルな音、自然な音といった表現を使う人がいる。
言っている本人は、客観的な意味でのナチュラルな音なのだろうが、
それが多くの人にとって、ほんとうの意味でナチュラルな音であるのは、
どのくらいの割合なのだろうか。

低いのか高いのか。
よくわからない、というのが、私の実感だ。

誰かが、ナチュラルな音ですね、と言う。
その誰かが、たとえばオーディオ業界の名の知れた人だったりすると、
それを受けとめた人の多くは、
なるほど、こういう音がナチュラルな音なのか、と思うようになってしまうかもしれない。

まったく名の知れていない人が、ソーシャルメディアで、
この音こそナチュラルな音と力説したとしても、
君はそういう音をナチュラルと思うのか──、
そんな受けとめ方をされるほうが多いのかもしれない。

オーディオ評論家が、オーディオ雑誌で、スピーカーの存在が消える、と書いたとする。
これをどう受けとめるか。
スピーカーの存在が消えるわけだから、
そのスピーカーから鳴ってくる音こそ、ナチュラルな音というふうに受けとめるのか。

Date: 2月 21st, 2024
Cate: 複雑な幼稚性

「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その61)

2021年の終りに、
「バカの壁」は、養老孟司氏、
「アホの壁」は、筒井康隆氏。

そろそろ、誰か「ゲスの壁」を書いてくれてもよさそうなのに……、
そんなことを何度か感じた一年でもあった、と書いた。

ここでのタイトルの「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」、
確かにゲスである。

Date: 2月 21st, 2024
Cate: ロマン

オーディオのロマン(その15)

その14)で書いている、
聴いたオーディオ機器の数をあからさまに水増しする当人には、
そういう意識はなかったのかもしれない。

私の考えでは、比較試聴をした場合か、自分でじっくり鳴らしてみたオーディオ機器は、
聴いた、といえるし、聴いたことのあるオーディオ機器として数える。

アンプでもスピーカーでもいいのだが、
スピーカーを二機種、同条件で比較試聴する機会があったとしよう。
この場合は、二機種聴いた、といえるし、誰もが納得するはずだ。

けれどどちらか片方だけのスピーカーを、オーディオ店の店頭でただ聴いただけでは、
どうだろうか。

そのオーディオ店に頻繁に通っていて、
そこで鳴っている音を熟知しているのであれば、
いつもの同じラインナップで、スピーカーだけがいつもの違うモノが鳴っていたとしたら、
これはこれで一機種聴いた、といえる。

けれどそういえないところで、スピーカーを一機種聴いた場合は、
そこで鳴っているシステム・トータルの音を聴いただけであって、
他のスピーカーの音を聴かない限り、スピーカーを一機種聴いたとはいえない。

それでも、聴いた、と主張するオーディオマニアがいるのは事実だ。
この人は、そうやって増えていく(彼が聴いたと主張するオーディオ機器の)数を、
どう捉えているのか。

自分は同年代で、もっとも多くのオーディオ機器を聴いている者だ、と自負したいのか。
さらには、世代をこえて、世界一多くのオーディオ機器を聴いた者として認められたいのか。

その数を増やしていくことが、彼にとってのロマンなのか。
それはギネスブックに掲載されることを目的とする人と近いのだろうか。

Date: 2月 20th, 2024
Cate: 音楽性

AAとGGに通底するもの(今回の来日でわかったこと)

アリス・アデールが来日した。
東京での二公演、名古屋での一公演だった。

今回の来日の招聘元の方のブログを読んでわかったことは、
アリス・アデールは本国フランスでもめったに公演を行わない人ということ。
録音が活動の中心ということだ。

コンサートをドロップアウトしているわけではないが、
確かにアリス・アデールの公演情報は目にしたことがなかった。

十数年前のバッハの「フーガの技法」はライヴ録音だったのだが、
これは珍しいことだったわけだ。

そして帰国後、録音の予定がある、とのこと。
何なのかは明らかになっていないが、
もしかするとバッハではないか、と期待している。

初日のアンコールでのゴールドベルグ変奏曲が、いまも耳に残っているからだ。

Date: 2月 19th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その7)

《憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい》、
五味先生がそう書かれている。

五味先生だけに限らない、同じことを何人もの方が書いてこられてきた。

だから、頭では、そのことはわかっている。
わかりすぎている、ともいっていい。

それでも若いころ、憧れのオーディオ機器が一つ二つは、
どんなに人にもあったはずだ。
そんな数では足りない、という人もいる。

憧れのオーディオ機器。
しかも、その音を聴く機会がなかったオーディオ機器ほど、
それへの憧れは大きく増していく。

ずいぶんと年月が経って、憧れのオーディオ機器との出合いがあったりする。
昔とは違う。ポンと買えるだけの経済力もある。
ようやく憧れのオーディオ機器が手元に来た。念願かなってだ。

その喜びは、本人にしかわからないはずだ。

問題はここからだ。
冷静に音を聴ける人もいるし、ずっと憧れのままで聴く人もいる。
失望を味わう人もいるし、ずっと喜んでいられる人もいる。

思うのは、後者のオーディオマニアは、オーディオの罠におちているのかだ。

Date: 2月 18th, 2024
Cate: 再生音

再生音に存在しないもの(その3)

スピーカーの存在をまったく感じさせない──、とか、
スピーカーの存在が消えてしまう──、
そういった表現を、ここ数年、けっこうな回数見かけるようになってきている。

この手の表現を使う人は、そのスピーカーのことを最上級の褒め言葉で賞讃している。
そんな試聴記を読んでいると、いまの世の中、
そんなにもスピーカーの存在が消えてしまうほどの製品が多いのか、とも思ってしまう。

そのことを、スピーカーも進歩している、
技術の進歩でもあり、いいことだ、と素直に喜べるだろうか。

私は、また、この人、こういった表現を書いている、としか捉えていない。
なぜかといえば、その人(一人ではない)は、
再生音に存在しないものを、何ひとつ語っていない、明確にしていない。

このことを抜きにして、スピーカーの存在について語れるとは思っていないからだ。

Date: 2月 18th, 2024
Cate: 電源

モバイルバッテリーという電源(その14)

こんなこと書かなくとも、常識もしくは共通認識として、
広く知られているはず──、ついそう思い込んでしまったりする。

けれど後になって、意外にもそうでなかったりしたことがこれまでにもけっこうな回数あった。
ここではアンカーのモバイルバッテリーのPowerHouse 90について書いているところだが、
このPowerHouse 90はバッテリーから、つまりDCからACを作り出している。

つまりそのための電子回路が内蔵されているわけで、
その電子回路を介して、PowerHouse 90のAC出力(110V、60Hz)が得られている。

当然なのだが、アンプと同じように、
本領発揮ともなると、この電子回路のウォームアップの時間というのが必要となる。

アンプが電源をいれてすぐに、本来の音を鳴らしてくれないように、
PowerHouse 90もウォームアップの時間を必要とする。

もちろん通常のAC電源からPowerHouse 90にすれば、
音の変化は小さくないが、それでもしばらく電源供給の状態にしておくことで、
音が変化するポイントがある。

Date: 2月 17th, 2024
Cate: ディスク/ブック

Alice Ader(その5)

今日(2月17日)は、アリス・アデールの二日目の公演。
すべてフランスの作曲家によるプログラムだった。

このことについてあとで書く予定で、とにかくいま書きたいのは、
アンコールでのスカルラッティの素晴らしさだ。

TIDALでもアリス・アデールのスカルラッティは聴ける。
けれど今日まで聴いてこなかった。

あまりスカルラッティは聴かない、という、ただそれだけの理由だ。

今日、アリス・アデールのスカルラッティを聴いて、
こんなにも楽しい曲なのか、と驚いていた。

弾いているアリス・アデールも笑顔を浮かべていた。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その6)

(その4)で引用している五味先生の文章。
ここでもう一度引用しておく。
     *
 私に限らぬだろうと思う。他家で聴かせてもらい、いい音だとおもい、自分も余裕ができたら購入したいとおもう、そんな憧憬の念のうちに、実は少しずつ音は美化され理想化されているらしい。したがって、念願かない自分のものとした時には、こんなはずではないと耳を疑うほど、先ず期待通りには鳴らぬものだ。ハイ・ファイに血道をあげて三十年、幾度、この失望とかなしみを私は味わって来たろう。アンプもカートリッジも同じ、もちろんスピーカーも同じで同一のレコードをかけて、他家の音(実は記憶)に鳴っていた美しさを聴かせてくれない時の心理状態は、大げさに言えば美神を呪いたい程で、まさしく、『疑心暗鬼を生ず』である。さては毀れているから特別安くしてくれたのか、と思う。譲ってくれた(もしくは売ってくれた)相手の人格まで疑う。疑うことで──そう自分が不愉快になる。冷静に考えれば、そういうことがあるべきはずもなく、その証拠に次々他のレコードを掛けるうちに他家とは違った音の良さを必ず見出してゆく。そこで半信半疑のうちにひと先ず安堵し、翌日また同じレコードをかけ直して、結局のところ、悪くないと胸を撫でおろすのだが、こうした試行錯誤でついやされる時間は考えれば大変なものである。深夜の二時三時に及ぶこんな経験を持たぬオーディオ・マニアは、恐らくいないだろう。したがって、オーディオ・マニアというのは実に自己との闘い──疑心や不安を克服すべく己れとの闘いを体験している人なので、大変な精神修養、試煉を経た人である。だから人間がねれている。音楽を聴くことで優れた芸術家の魂に触れ、啓発され、あるいは浄化され感化される一方で、精神修養の場を持つのだから、オーディオ愛好家に私の知る限り悪人はいない。おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる。これは知られざるオーディオ愛好家の美点ではないかと思う。
(「フランク《オルガン六曲集》より」
     *
《おしなべて謙虚で、ひかえ目で、他人をおしのけて自説を主張するような我欲の人は少ないように思われる》、
けれど、ソーシャルメディアを眺めていると、
現実はずいぶんと違うようだ、と思わざるをえない。

どうしてなのか。
我欲のかたまりの人は、おそらく心に近い音を聴いていない、
知らない、そんな音を求めていないのではないのか。

いつまでも耳に近い音だけを求めている。
おさなオーディオの域に居続けている人たちなのだろう。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

オーディオの罠(その6)

以前別項で書いたことを思い出している。
こんなことを書いた。

己の知識から曖昧さを、できるだけなくしていきたい。
誰もが、そう思っているだろうが、罠も待ち受けている。

曖昧さの排除の、いちぱん楽な方法は、思いこみ、だからだ。
思いこんでしまえれば、もうあとは楽である。
この罠に堕ちてしまえば、楽である……。

このこともオーディオの罠といえるし、
オーディオに限ったことではない。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 音楽性

「音楽性」とは(映画性というだろうか・その16)

その15)に関連することで思い出すのは、スタートレックの映画である。
2009年からのリブートのスタートレックではなく、
1979年の「スタートレック」から続く映画のことだ。

四作目の「スタートレックIV 故郷への長い道」の監督は、
スポック役のレナード・ニモイだった。
五作目の「スタートレックV 新たなる未知へ」の監督は、
カーク役のウィリアム・シャトナーだった。

「スタートレックIV 故郷への長い道」はいい映画だった。
最後のシーンに、スタートレックのファンならば、うるっとくるものがあったはずだ。
「スタートレックV 新たなる未知へ」、だから期待していた。

がっかりしたことだけ憶えている。
当時は、四作目と五作目の違いについて、あれこれ考えることは特にしなかったが、
このテーマで書いていて、四作目は確かに映画だった。

五作目は映画だっただろうか。
テレビドラマの枠にとらわれてしまっていたのではないだろうか。
それゆえ映画館のスクリーンで観ていて、つらいと感じたものだった。

Date: 2月 16th, 2024
Cate: 「オーディオ」考

耳の記憶の集積こそが……(その7)

耳の記憶の集積こそが、オーディオである──、
なのだから、過去を物語として語れない時点で、
その人はオーディオを語れない、ともいえる。

Date: 2月 15th, 2024
Cate: MERIDIAN

メリディアン DSP3200のこと(その4)

メリディアンのサイトにアクセスすると、
DSP8000 XEをフラッグシップとして、
DSP9、Special Edition DSP7200、Special Edition DSP5200などが、
DSP3200とともにラインナップされている。

DSP8000 EXのユニット構成は、
ウーファーが20Cm口径コーン型(6本)、スコーカーが16cm口径コーン型、
トゥイーターは2.5cm構成のベリリウム振動板のドーム。

DSP9のユニット構成はDSP8000 XEと基本的に同じで、
ウーファーの数が6本から4本となっている。

DSP7200もスコーカー、トゥイーターは同じで、
ウーファーが2本になり、
DSP8000、DSP9ではエンクロージュアの両サイドにあったウーファーが、
フロントバッフルに取りつけられている。

DSP5200は一見するとダブルウーファーの2ウェイのようだが、
ウーファーとスコーカーが16cmと同口径のコーン型、
トゥイーターは2.5cm口径のベリリウムのドーム型の3ウェイである。

これらのモデルがベリリウム振動板のドーム型トゥイーターを採用しているのに、
DSP3200では8cm口径のアルミニウム振動板のコーン型トゥイーターである。

DSP3200のウーファーは16cm口径コーン型。上級機のスコーカーとまったく同じではないだろうが、
基本的にはそう大きくは違わないだろう。

DSP3200の開発にあたって、上級機の上の帯域二つのユニット、
2.5cmのドーム型トゥイーターと
16cmのコーン型ウーファー(スコーカー)とで組むことも考えられたのではないのか。

その方が、ずっと開発も楽になるはず。
なのに実際のDSP3200は、8cmコーン型ユニットをトゥイーターに採用している。
このことの、なぜかを考えずにオーディオ評論は書けるのだろうか。