atmosphere design(その2)
「空なる実装空間」
川崎先生のコメントには、そう書いてあった。
「空なる実装空間」
川崎先生のコメントには、そう書いてあった。
オーディオのデザイン、オーディオとデザインについて考えていると、
オーディオ機器のデザインだけにとどまらず、
もうそろそろ空気のデザインということを考えていく時期に来ているように感じてしまう。
空気のデザイン、
つまりはリスニングルーム内の空気、
特定の空気であるから、アトモスフィア(atmosphere)のデザインとなる。
それはリスニングルームに、音響パネル、その類のモノを置くことも含まれはするが、
それだけのことにとどまらず、
リスニングルーム内の空気をどうデザインするかの領域を含んでの考えである。
2014年「ゴジラ」を観ていながら、つい1954年に「ゴジラ」を観た人たちは、
この2014年のハリウッド「ゴジラ」を観たら、どう感じるのだろうか──、ということをぼんふりと思っていた。
1954年の「ゴジラ」はモノクロ映画で、音声も映画と比較すると周波数レンジも狭く、
映画の音響としての効果もあまり期待できるものではなかったはず。
それにゴジラも着ぐるみによる演技で、ゴジラによって破壊される東京の街並もミニチュアである。
いまの映画の技術水準からすれば映像も音もずっと貧弱ということになるわけだが、
表現としては、必ずしも貧弱とはいえないところがあったからこそ、
60年後の現在、新たなゴジラが生み出されている。
2014年「ゴジラ」の咆哮に、感慨はなかった。
60年前、映画館でゴジラの咆哮を初めてきいた人たちは、どう感じていたのだろうか。
1954年と2014年は、何もかもが変っている。変りすぎているところもある。
1954年は1945年からまだ九年しか経っていない。
私は1963年生れだから、当時の雰囲気を肌で感じていたわけではない。
それでも、1945年から九年ということで、想像できることはある。
1954年の空気の中でのゴジラの咆哮は、何かを切り裂いていた、はずだと思う。
2014年の空気の中でのゴジラの咆哮は、何ものも切り裂いていなかった、切り裂けなかった。
私はそう感じている。
なぜ体が反応しないのか。
反応しないことで、どう感じていたのか。
結局、「ゴジラ」のドルビーアトモスによる音響には、
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」にあったものがなっかた。
それは、映画の音響としてのリアリティだと思う。
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」もリアリティがあったからこそ、
臨場感があったように思える。
反対に臨場感があったからリアリティを感じていたのかもしれない。
どちらにしても絵空事の音と観客を冷静にさせてしまうような音ではなく、
何かを体験しに映画館に行った、というリアリティが、
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」にはあったし、
「ゴジラ」には残念ながら、かなり稀薄だった。
私だけがそう感じたのか、とも思い、
私が観たTOHOシネマズ日本橋で、「アメイジング・スパイダーマン2」と「ゴジラ」を観た人にきいてみた。
私と同じ感想だった。
そして「ゴジラ」本編が始まる前のドルビーアトモスのデモ・ムービーの出来が良すぎた、ということも、
私とまったく同じだった。
このリアリティの稀薄さをもっとも嘆きたくなるのがゴジラの咆哮だ。
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」では、
いくつかのシーンで、そこで鳴っている音に反射的に体が反応してしまう。
それだからこそ、臨場感という、いまではオーディオではあまり使われなくなってきている、この表現を使う。
ただ、いい音がしているだけでは体は反応しない。
体が反応するということは、現実の音と錯覚しているのかもしれない。
何が要因でそうなるのかまではわからないまでも、ドルビーアトモスには、まさしく臨場感がある。
映画のシーンでは、空間がつねに同じわけではない。
閉ざされた空間もあれば開放された空間もあるし、
閉ざされた空間にしても、どういう構造体により閉ざされているのか、という違いはあるし、
閉ざされている空間が、何かによって一瞬にして開放されることもある。
そういった空間のシチュエーションを映像だけでなく、音響でも表現できるのがドルビーアトモスのような気がする。
「ゴジラ」にもいくつもの空間のシチュエーションがあった。
だかそこで鳴っている音が、それぞれのシチュエーションを見事に表現していたか、というと、そうとはいえない。
たとえばあるシーンで閉ざされた空間から、重い扉を開けたら、というシーンがある。
そこは堅固な構造物でのシーンから外界へ切り替るシーンでもある。
映像では暗いシーンから明るいシーンへとなる。
だが、音響がそれについていっていない。
だから、いい音で鳴っているな……、と終ってしまう。
体が反応する、ということがない。
1963年生れだから、子供のころ、ゴジラは映画館でよく観た。
今年はゴジラ生誕60周年で、ハリウッド制作の「ゴジラ」が7月25日から公開されている。
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」を、
3D+ドルビーアトモスで観た私は、
ゴジラのような巨大生物が登場する映画こそ、3D+ドルビーアトモスで観たい映画である。
ハリウッド制作の「ゴジラ」がドルビーアトモスだということは早くから伝わっていた。
1998年のハリウッド制作の「ゴジラ」と今回の「ゴジラ」はずいぶん違う、ということも伝わってきた。
期待は高まるわけで、できるだけ早いうちに観に行きたいと思っていたら、
鑑賞券が当った、というメールが、25日に届いた。
そういえはfacebookで鑑賞券プレゼントに応募していた、と思い出した。
しかもドルビーアトモスによる上映の鑑賞券である。
日時も指定されているから、さっそく昨日コレド室町にあるTOHOシネマズに行ってきた。
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」の上映にはなかった、
ドルビーアトモスのデモ(短い時間のもの)が、本編の直前に流れた。
これの出来がすごくいいだけに、「ゴジラ」本編のドルビーアトモスその期待は、さらに大きくなっていた。
「スタートレック イントゥ・ダークネス」、「アメイジング・スパイダーマン2」を観て、
ドルビーアトモスの特長は臨場感にある、と感じていた。
なのだが、残念なことに「ゴジラ」では、その臨場感が期待したほどではなかった。
今回の「ゴジラ」がドルビーアトモスを初めて体験するのであれば、
けっこう高い評価をしたであろうが、すでに二回体験し、その臨場感に昂奮していたのだから、
つい厳しいことをいいたくなる。
ららぽーとがある船橋からいま住んでいる国立まで電車の時間は一時間半ほどある。
その間ぼんやりと思っていたことがある。
いまジョン・カルショウがいたら、この日私が体験した技術で、
21世紀の「ニーベルングの指環」を制作するのではなかろうか、と。
20世紀の「ニーベルングの指環」はショルティとの全曲録音だった。
音だけのものであっても、カルショウはさまざまなことを試みている。
そのすべてが、いま聴いても価値が変らない、とはいえないところはある。
やりすぎの感はたしかにある。
それでも当時、初の「ニーベルングの指環」の全曲盤である。
あれだけ長い作品を音だけのレコードで、聴き手に最後まで聴き通してもらうためのアイディアとしては、
成功しているといえるし、そこがまたいまではやりすぎとも感じてしまう。
とはいえカルショウ/ショルティによる「ニーベルングの指環」はおもしろいレコードである。
こういうレコードを、いまから50年以上前にカルショウはつくっている。
そのカルショウが、3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか。
ワーグナーの楽劇でも、
「ニーベルングの指環」の作曲の途中でつくられた「ニュルンベルグのマイスタージンガー」、
「トリスタンとイゾルデ」は登場するのは人間だけなのに対して、
「ニーベルングの指環」ではそうではない。
そういう作品である「ニーベルングの指環」だけに、あれこれ夢想してしまっていた。
映画が映し出されるスクリーンの大きさは無限大ではないから、縁がある。
縦と横にそれぞれが縁があるからこそ、映画は成立するものであり、
だが時としてその縁を観客に意識させないようにしたいと考えている制作者もいるのではないだろうか。
船は時にあるららぽーとの西館に新しくできた映画館(TOHOシネマズ ららぽーと船橋)、
私がスタートレックを観てきた劇場は500人ほどの大きさ。
都内にはこれよりも大きな劇場があるし、その劇場のスクリーンよりもサイズとしては小さくなる。
けれど縁を感じたか、ほとんど感じなかった、ということでいえば、
TOHOシネマズ ららぽーと船橋のスクリーンは、大きさ(縁)をさほど意識しなかった。
これが今回はじめて体験したドルビーアトモスがもたらしてくれたものなのかどうかは、
まだなんともいえない。
それでも無関係とは思えなかった。
TOHOシネマズは来年日本橋にもできる。
その後上野、新宿にもできる。
おそらくドルビーアトモスも導入されることだと思う。
そうなってくれれば船橋まででかけなくても、もう少し近くの劇場で体験できるようになる。
最近ではホームシアターを熱心に取り組んでいる人の中には、
映画館よりも自宅の方が音も映像もよい、と感じている人が増えているらしい。
確かに昨日のTOHOシネマズ ららぽーと船橋は質の高い映画館だったが、
それほどでもない映画館があるのも事実で、
ホームシアターのマニアが、映画館よりもよい、と思うのはわからないわけではない。
でも、別項で書いている現場(げんば)と現場(げんじょう)、
音場(おんば)と音場(おんじょう)でいえば、
ドルビーアトモスが体験できた映画館は現場(げんじょう)である、とはっきりといえる。
船橋に出かけて映画を観てきた。
船橋までの距離は約50km。その間にいくつもの映画館があるにも関わらず、
船橋まででかけていったのは、11月22日にオープンした船橋のららぽーとに出来た映画館が、その理由である。
Dolby Atoms(ドルビーアトモス)を日本で初めて導入した映画館である。
いまのところここでしかドルビーアトモスは体験できない。
しかもスタートレックを二週間だけ、このドルビーアトモスで上映してくれるとあれば、
ちょうど午前中に船橋に用事が重なったこともあって、出かけて、いま帰ってきたところ。
ドルビーアトモスについてはリンク先を読んでいただくとして、
スタートレックを一本観ただけの感想ではあるが、
映画館の音響とはいえ、トーキーと呼ばれていた時代とは別種の音響であり、
映画館で映画を鑑賞するための音響から、映画を体験するための音響といえる。
こんな書き方をすると効果だけを狙った音響のように受けとめられるかもしれないが、
決してそこに留まっている音響ではなく、
エンディングで流れる音楽を聴いていても、いい印象だった。
そしてスタートレックは3D上映だった。
3D上映とドルビーアトモスの相性は、かなりいいのではないだろうか。
観ている途中で気づいたのは、
通常の上映よりもスクリーンの大きさを意識することがかなり少なかった、ということ。
「TÁR」は、公開初日(5月12日)に観た。
(その1)で書いているように、TOHOシネマズ日比谷のスクリーン1で観たかったからだ。
スクリーン1での上映は、やはり18日までだった。
早めに観に行ってよかった、と観終ったから、よけいにそう思う。
大きなスクリーンと上質な音で観たい映画である。
単に音楽を扱っている映画だからということからではなく、
「TÁR」を観た人(注意深くきいた人)ならば、そのことをわかってもらえるはず。
「TÁR」をおもしろかったという人もいれば、期待外れ、残念だったという人もいる。
「TÁR」はおもしろい映画だった。
観終って、もう一度観たい、と思っていた。
いくつか確認したいシーンがあったからでもある。
それもTOHOシネマズ日比谷のスクリーン1で、と思っていた。
できればDolby Atmosで上映してほしい。
エンドクレジットには、Dolby Atmosのロゴが表示される。
話題作がけっこう公開されているし、公開予定でもあるから、
「TÁR」のDolby Atmosでの上映は望めない。
個人的にもう一度観たい(確認したい)シーンは、終盤での、
あるビデオを見ている時の主人公の顔のアップのシーンだ。
えっ、とおもってしまった。
どういう意味(こと)? と思うほどの表情だったけれど、
そのシーンはほんとうに短い。
6月1日に「トップガン マーヴェリック」を観てきた。
IMAXで観てきた。
今年観た映画のなかで、ダントツに楽しかった。
映画って、いいなぁ、と素直におもえるほどよかった。
映画館で観てよかった映画だ、とも思っていた。
この十年くらいか、映画館が輝きを取り戻したような感じを受けている。
私が、再び積極的に映画館で映画を観るようになったきっかけは、
ドルビー・アトモスの登場である。
別項「トーキー用スピーカーとは(Dolby Atmos・その1)」で書いているように、
2013年12月1日、船橋まででかけて観に行った。
その時観たのは「スタートレック イントゥ・ダークネス」で、
ドルビーアトモスと3Dによる上映だった(IMAX 3Dではない)。
船橋まででかけたのは、
Dolby Atoms(ドルビーアトモス)を日本で初めて導入した映画館で、
まだ船橋にしかなかったからだ。
船橋からの帰りの電車のなかでおもっていたことは、(その3)に書いている。
ジョン・カルショウがいま生きていたら、
3D映像とドルビーアトモスを与えられたら、
どんな「ニーベルングの指環」をわれわれに提示してくれるであろうか──。
そんなことをぼんやりとではあるが考えていた。
それから九年ほど経って、IMAX 3Dが登場した。
別項「Doctor Strange in the Multiverse of Madness(その1)」で、
「Avatar: The Way of Water」の予告編を観た、と書いた。
この予告編もIMAX 3Dで、そのクォリティの高さは、また一つ時代が変った、
そう思わせるほどのものだ。
「ニーベルングの指環」。
最新のCGによる制作とIMAX 3Dでの上映。
観たい。
虚構の「構」は木偏に冓と書く。
木をうまく組んで前後平均するよう組み立てること、と辞書にはある。
その構から始まる言葉には、
構想、構造、構築、構成などがある──、と考えていると、
別項「atmosphere design」でふれた「空なる実装空間」、
この川崎先生による言葉が浮んできて、結びつく。
昨年12月に、船橋のららぽーとに、ドルビーアトモスの上映館が出来、そこで映画を観てきたことを書いた。
今年春に日本橋室町にもドルビーアトモスの上映館が出来た。
5月に「アメイジング・スパイダーマン2」をそこで観てきた。
スパイダーマンの映画は、サム・ライミ監督により2002年に公開、
2004年に続編「スパイダーマン2」、2007年に「スパイダーマン3」が公開された。
いずれも好調だったため、「スパイダーマン4」もサム・ライミによって制作される、という噂があった。
期待していたが、立ち消えになってしまった。
サム・ライミの降板理由については、
あくまでも学生時代のピーター・パーカー(主人公)を描くため、というものだった。
でも一方で製作会社のソニーが、サム・ライミに3Dによる撮影を要求し、
それを拒否したため、らしいと噂もあった。
それを裏付けるかのように2012年に公開された「アメイジング・スパイダーマン」は3Dで撮影されていた。
スパイダーマン・シリーズは映画館で観てきている。
「スパイダーマン2」はいい映画である。それたけにサム・ライミの降板にはがっかりしたし、
3Dで観る必要性もあまり感じなくて、「アメイジング・スパイダーマン」は2D上映館で観た。
「アメイジング・スパイダーマン2」も、
昨年12月、ドルビーアトモス上映館でスタートレック・シリーズの「イントゥ・ダークネス」を観ていなければ、
2D上映館で観ていたことだろう。