ハイ・フィデリティ再考(続×九・原音→げんおん→減音)
サウンドボーイの編集長だったOさんも、シーメンスのオイロダインにEMTの927Dst、
そしてアンプは伊藤先生製作のコントロールアンプRA1501Aで、
パワーアンプは伊藤先生製作の300Bシングルアンプをそのままそっくりコピーして自作されたもの。
Oさんは最初から、このシステムに辿りつかれたのではない。
話を聞くと、そうとうなオーディオ道楽して、かなりの数のスピーカーを使ってきて、
ときにスタックスにコンデンサー型スピーカーを特注して、
放射状に振動エレメントをいくつも並べて、疑似的にコーン型スピーカー的なものを試されている。
そういうバックボーンがOさんにはある。
ステレオサウンド 54号に登場された長谷川氏にも同じようなバックボーンがある。
この人たちと同じようなことをハタチそこそこの若造がやったところで、
こういうシステムがもつ良さを理解することは、実のところ無理なはず。
最終的に、こういうシステムに行き着くのであれば、
最初からこういうシステムにしたほうが近道ではないか、経済的には無駄が出ないではないか、という考えもできる。
でも、それは決して近道ではなくて、むしろ廻り道ならばまだしも、道をはずれてしまうことにもなりかねない。
こういうシステムは、
いわば五味先生がマッキントッシュのMC275とMC3500について書かれたことに通じるからである。
MC3500の音を、五味先生は「簇生する花の、花弁の一つひとつを、くっきり描いていてる」とされ、
MC275の音を「必要な一つ二つは輪郭を鮮明に描くが、簇生する花は、花の美しさを出すためにぼかしてある」と。
いまのオーディオ機器の性能は、「音のすみずみまで容赦なく音を響かせる」。
そういう時代にあって、あえて高能率の、ナローレンジのスピーカーを、
真空管アンプ、それも古典的な回路のもので鳴らす、プレーヤーもがっしりした古典的なもの──、
これらでシステムを構築して家庭で音楽を聴くという行為は、
レコードによる音楽の聴き手が取捨選択して音を減らしていくことであるはずだ。
その取捨選択による減音に求められるのはなにか、
これを考えれば私がいいたいことはわかっていただけるはず。
だからいま、この歳になって、
平面バッフルにとりつけたシーメンスのコアキシャル、ダイナコのSCA35、
トーレンスの101 Limitedのシステムから離れてよかった、といえる。
オーディオマニアとしてのバックボーンを築いてこそのシステムなのだから。