Date: 1月 2nd, 2024
Cate: audio wednesday
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audio wednesday (next decade)、再開にあたって

オーディオの世界は、ながく(永く、長く)、ひろく(広く、拡く)、深い。くわえてオーディオはコンポーネント(組合せ)でもある。
世の中には、無数といえるほどのオーディオというコンポーネントが存在しているけれど、一つとして、まったく同じオーディオ・コンポーネントは存在しない。仮に、細部までまったく同じオーディオ・コンポーネントがあったとしても、
鳴らす部屋が違う。同じ造りの部屋がいくつもある集合住宅で、二人のオーディオマニアが住んでいて、まったく同じコンポーネントだとしても、二人の音が同じになるということはない。鳴らす人が違うからだ。
「音は人なり」。
オーディオの世界では、ずっと昔から、そういわれ続けてきている。誰がいいはじめたのかははっきりとしないが、五味康祐氏が、おそらくそうであるはずだ。
その五味康祐氏が、1970年に野口晴哉氏のリスニングルームを訪問されている。
     *
 ちっとも変らなかった。十七年前、ジーメンスやコーナーリボンできかせてもらった音色とクォリティそのものはかわっていない。私はそのことに感動した。高域がどうの、低音がどうのと言うのは些細なことだ。鳴っているのは野口晴哉というひとりの人の、強烈な個性が選択し抽き出している音である。つまり野口さんの個性が音楽に鳴っている。この十七年、われわれとは比較にならぬ装置への検討と改良と、尨大な出費をついやしてけっきょく、ただ一つの音色しか鳴らされないというこれは、考えれば驚くべきことだ。でもそれが芸術というものだろう。画家は、どんな絵具を使っても自分の色でしか絵は描くまい。同じピアノを弾きながらピアニストがかわれば別の音がひびく。演奏とはそういうものである。わかりきったことを、一番うとんじているのがオーディオ界ではなかろうか。アンプをかえて音が変ると騒ぎすぎはしないか。
(中略)
 音とはそれほどコワイものだということを、野口さんの装置を聴きながら私はあらためて痛感し、感動した。すばらしい音楽だった。年下でこんなことを言うのは潜越だが、その老体を抱きしめてあげたいほど、一すじ、かなしいものが音のうしろで鳴っていたようにおもう。いい音楽をきくために、野口氏がこめられてきた第三者にうかがいようのない、ふかい情熱の放つ倍音とでも、言ったらいいか。うつくしい音だった。四十畳にひびいているのはつまりは野口晴哉という人の、全人生だ。そんなふうに私は聴いた。——あとで、別室で、何年ぶりにかクレデンザでエネスコの弾くショーソンの〝ポエーム〟を聴かせてもらったが、野口氏が多分これを聴かれた過去当時に重複して私は私の過去を、その中で聴いていたとおもう。音楽を聴くとはそういうものだろうと思う。
(ステレオサウンド 15号より)
     *
2024年の一年間(12回)、音楽を、音を聴いてもらうことになった。
一回目となる1月10日は、とにかく鳴らしてみよう、聴いてもらおう、ということで、「序夜」とした。
2月が第一夜、3月が第二夜──、となり、12月が最終夜である。さまざまな音楽を、いろいろな音を鳴らしていきたいし、聴いてもらいたい。

1月10日の「序夜」では、イギリスのオーディオメーカー、メリディアンのDSP3200という小型スピーカーシステムを鳴らす。

野口晴哉氏のシステムとは非常に対照的な大きさのスピーカーだ。アンプとD/Aコンバーターを搭載していることで、シンプルな構成で、ストリーミングによって驚くほどの数の音楽を、すぐさま聴ける。
とにかく、ここから始めて、第一夜、第二夜……のテーマを決めていくことになる。

それでも一つだけ決めていることがある。毎回、最後にかける曲だけは決めている。
パブロ・カザルスのバッハの無伴奏である。序夜から始まり最終夜までに、どう変っていくのか。

このことを通じて、音楽を聴くとはどういうものかを、一人ひとり、その胸の裡で描いてもらえれば幸いだ。

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