TIDALという書店(その20)
(その19)でも書いているように、
音楽を聴くのに、TIDALなどのインターネットを介しての聴き方を、
どこか味気ない、空虚だ、と否定する人が、少なからずいる。
そういう人たちは、大人ならば大人らしい音楽の聴き方をすべき──、
そんなことをいってきそうだ。
パッケージメディアにこだわって音楽を聴くのが、
ほんとうに大人らしい音楽の聴き方なのだろうか。
それしか大人らしい音楽の聴き方はないのだろうか。
安き(低き)に流れるのは、大人らしい音楽の聴き方ではない、と私も思う。
だからといって、TIDALで音楽を聴くことが安き(低き)に流れた音楽の聴き方、
大人らしくない音楽の聴き方とは、まったく感じていない。
むしろ、パッケージメディアにこだわりすぎてしまうことで、
新しい聴き方に関心の目(耳)を向けようとしない聴き方こそ、
大人らしくない音楽の聴き方ではないのか。
こだわるということは、一種の甘えだったり、楽であることに陥ってしまう。
こだわることがすべてそうだとはいわないが、
自分の殻に閉じ籠もってしまうことのいいわけにしか聞こえないことがあるのも事実だ。
大人らしい音楽の聴き方は、どういうメディアで聴くか、ということで決ることではない。
その先にあることのはずだ。