TIDALという書店(その19)
トーマス・スタンコの“Terminal 7”も、TIDALで聴ける。
すぐに聴ける。
この、すぐに聴ける、ということが、
聴き手としてのこちらの積極性にすこしばかりを影響を与えている。
すぐに聴ける、ということがなければ、
“HOMELAND”をどれだけ見ようと、曲を検索することはしなかったのだから。
“HOMELAND”はシーズン5まで見ているから、
トーマス・スタンコの“Terminal 7”は七十回は聴いているわけだ。
にもかかわらず、昨晩まで検索してこなかったのは、
すぐに聴けないこと、
それからCDをさがして買ってきてまで聴こう、というつもりはなかったこと、
この二つのことがあってそのままにしていた。
そんな怠惰な聴き手であっても、TIDALがあると、少しは変ってくる。
シーヴ・ヤコブセンとトーマス・スタンコを、昨晩は知った。
TIDALを使っていなければ、おそらくこのままずっと知らなかったであろう。
音楽を聴くのに、TIDALなどのインターネットを介しての聴き方を、
どこか味気ない、空虚だ、と否定する人がいまも少なからずいるはわかっている。
否定したい人は、否定すればいい。
TIDALで配信されている音楽のすべて、とまではいわないものの、
大半を所持している人ならば、そういうことをいうのも自由だ。
けれど、どんなに音楽好きの人であっても、
TIDALで配信されている音楽の、いったい何割を持っているというのだろうか。
TIDALにすべてがあるわけではない。
けれど、それはTIDALしか使わないということではない。
TIDALを使って聴くのもよし、CDやLPで聴くのもいい。
物理的なメディアがないことを、味気ないとか空虚とかいってしまうことの、
聴き手としての不自由さというよりも、消極的なところに留まってしまっていること。
そのことに対して、何も感じないのは、音楽の聴き手としてどうだろうか。
こういう聴き手は、なぜか、どちらか片方だけで論じてしまうところがあるよう気がする。
どちらも選べるのだから、妙なこだわりを捨ててしまえばいいのに──、
けれどそれができないから、味気ないとか空虚とかいってしまうのか。
そして、このことは、別項で書いている老成ぶるにも関係してくるように感じている。