NO TIME TO DIE
007シリーズの最新作「ノー・タイム・トゥ・ダイ」。
この映画を観終ってすぐの感想は、五味先生はなんといわれるだろうか、だった。
007シリーズは好きだから、高校生になってから上映されてきた作品は、
すべて映画館で観ている。
そういえば、そのころの007の映画は正月映画としての娯楽大作的扱いだった。
そう007は、死なないのだ。
これから先は「ノー・タイム・トゥ・ダイ」の結末について間接的に触れる。
なのでネタバレが絶対にイヤという人は読まないでほしい。
五味先生は「音楽に在る死」の冒頭に、こう書かれている。
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私小説のどうにもいい気で、我慢のならぬ点は、作者(作中の主人公)は絶対、死ぬことがない所にある。如何に生き難さを綴ろうと、悲惨な身辺を愬えようと「私」は間違っても死ぬ気遣いはない。生きている、だから「書く」という操作を為せる。通常の物語では、主人公は実人生に於けると同様、いつ、何ものか——運命ともいうべきもの——の手で死なされるか知れない。生死は測り難い。まあいかなる危機に置かれても死ぬ気づかいのないのは007とチャンバラ小説のヒーローと、「私」くらいなものである。その辺がいい気すぎ、阿房らしくて私小説など読む気になれぬ時期が私にはあった。
非常の事態に遭遇すれば、人は言葉を失う。どんな天性の作家も言葉が見当らなくて物の書ける道理はない。書くのは、非常事態の衝撃から醒めて後、衝撃を跡づける解説か自己弁明のたぐいである。我が国ではどういうものか、大方の私小説を純文学と称する。借金をどうしたの、飲み屋の女とどうだった、女房子供がこう言った等と臆面もなく書き綴っても、それは作者の実人生だから、つまり絵空事の作り話ではないから何か尊ぶべきものという暗黙の了解が、事前に、読み手と作者の間にあるらしい。ばからしいリアリズムだ。勿論、スパイ小説にあっても主人公はいかなるピンチからも脱出するに相違ない。ヒーローが敵国の諜報団にあっ気なく殺されるのではストーリーは成立しない。この、必ず生きぬけるという前提が、読者を安心させているなら、救われているのはヒーローではなくて作者である。救われたそんな作者の筆になるものだから、読む方も安心していられる。つまり死ぬ気遣いのないのが実は救いになっていて、似た救いは私小説にもあるわけだろう。どれほど「私」が生きるため悪戦苦闘しようと、とにかく彼はくたばることがないのだから。
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007シリーズでは、ほぼ毎回、敵の詰めの甘さがひっかかることがある。
ストーリーを成立させるためなのはわかっているから、目くじら立てることではない。
でも、後少し詰めがしっかりしていれば、野望がかなうのに……、
そんなふうに感じている人はけっこう多いのではないか。
ダニエル・クレイグ主演の007シリーズは、
「ノー・タイム・トゥ・ダイ」を観に行く前に、プライムビデオで四作品をもう一度観ていた。
それでも安心しながら観ていたのは、五味先生が書かれている通りであるからだ。
だからこそラスト近くになっての展開は、もしかして……、と思わせる。
それでも007……だからというおもいもあった。
「音楽に在る死」のなかほどで、こうも書かれている。
《死のつらさを書かぬ作者は、要するに贋者だ》。
007シリーズでは、多くの登場人物が死ぬ。
けれど、それらは死のつらさをえがいたものとは、ほとんどいえない。
「ノー・タイム・トゥ・ダイ」のあのシーンは、妙に明るくえがかれている。
だから、そこには死のつらさがない、とは思わない。