Date: 10月 18th, 2018
Cate: 菅野沖彦
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菅野沖彦氏のこと(音における肉体の復活・その1)

「五味オーディオ教室」の冒頭に出てくる「肉体」とはどういうことなのか。
音には音像がある。
音像が肉体なのか、というと、五味先生がいわれるところの肉体はそうではないことは、
「五味オーディオ教室」をくり返し読んでいるから、わかっている。

別項「評論家は何も生み出さないのか(その6)」で、向坂正久氏の文章を引用した。
もう一度、引用しておく。
     *
 評論とはくり返し書くが、文学の領域の仕事である。そこでは筆者の主観が、あらゆる客観的な事実に勝るのである。たとえ資料が乏しくとも、あるいはそれが不確かでであっても、その筆者のいおうとすることによって、それは枝葉末節にすぎない。ほんとうの幹は筆者の肉体だからである。
 ここでもうひとつの例をあげよう。名高い小林秀雄の「モオツァルト」には今日偽作と断定されている手紙の引用がある。研究論文ならば、すでにそのことで、この評論の価値は減少しよう。しかし、このエッセイの価値はそんなことで微動だにしないのだ。その手紙は小林にとって、ひとつの動機になったにすぎないのだから、そこから織り出していく彼自身の芸術論に価値があるのであって、引用そのものは極端にいえば誰の手紙でも構わないとさえいえるのである。
 論文と評論の差はここにある。そしてまた音楽好きの読者が、ほんとうに求めているのは客観的なものではなくて、より主観的なものであり、その主観を表現し得る技術を磨くことこそ、評論家たちが骨身を削って体得しなければならないことなのである。音楽のジャーナリズムはそのことを忘れているだけでなく、当の評論家たちさえ、そのことに悩むことが少なすぎるのである。
     *
ステレオサウンド 8号に載っている「音楽評論とは何か」からの一節だ。
ここにも「肉体」が出てくる。《ほんとうの幹は筆者の肉体だから》とある。

菅野先生がAXISのMY VIEW OF DESIGNで語られることも、本質的には同じことだ。
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菅野 人間というものは自分以上でも自分以下の仕事もできないものです。自分以上の仕事は無理で、以下の仕事は絶対にしてはいけません。したがって優れたモノを作ろうとするにはまず自分自身を改造していかなくてはならない。そしてそれは一朝一夕には完成しないものです。学習することももちろん大切なことで、知識を増し磨いていく努力も大切ですが、頭でっかちでデザインを云々していくだけでは、人が納得できるだけの感動的なものは生み出せないのではないかと思います。もの作りの芯になるところでは、自分が本音として欲しいものを作るという気持ちが不可欠ではないでしようか。最近のデザインを取り巻く様子を見ていると、どうも知識面ばかりが大きくなりすぎて、受け取るほうも頭で受け取っており心では受け取っていない、そんな気がしてなりません。ですからこのあたりで本書をもう一度振り返ってみるというか、デザイナーの方々には本音で欲しいと思えたり美しいと思えるモノ作りを追求していただき、私たちも素直に楽しめる、その関係がよいのではないかと思います。
     *
ここに出てくる《もの作りの芯となるところ》、
それは《ほんとうの幹》でもあり、
それこそが「肉体」につながっている。

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