「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(わかりやすさの弊害・その4)
特定のディスクの、この部分がこんなふうに鳴った──、
それが主体の試聴記は、その試聴室で鳴っていた音のリポートである。
特にスピーカーは鳴らし手(鳴らし方を含めての鳴らし手)によって、
音は大きく変ることは珍しくない。
そこにスピーカーシステムの総テストの難しさと面白さがあるわけだ。
ステレオサウンド 207号の特集のテスト方法が完全なわけではない。
ただ、207号のやり方もテスト方法のひとつである。
そういうテスト方法だから、ああいう試聴記の書き方になる、ともいえる。
それは、あるレベルではわかりやすい。
けれど、207号の試聴記を、オーディオ評論と考えている書き手(テスター)は、
どれだけいるのか。
試聴室で鳴っていた音を、限られた文字数でできるだけ伝えたい、というところでの、
207号の試聴記は、情報の提供であって、
別項『「複雑な幼稚性」が生む「物分りのいい人」(その28)』で書いている意味での音の解釈とは、
少なくとも私は捉えることができない。
でも、それは私が、オーディオ雑誌(特にステレオサウンドに)、
オーディオ評論を求めているからであって、
いまのステレオサウンド編集部は、
実のところ、旧来の意味でのオーディオ評論から離れようとしている気もする。
このことについて書こうとしていたときに、
今日facebookで、近いことを若い人が書かれていた。
二度ほど会って話したことのあるMさんが書かれていた。
Mさんは、
《旧来の物事の責任から解放されたオーディオ評価があっていいと思う》
と書かれていた。