Archive for 9月, 2017

Date: 9月 25th, 2017
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その15)

KEFのModel 105とModel 107の違いは、
LS3/5A的といえるHEAD ASSEMBLYと、
低域の拡充をはかるとともに、その関係性において、である。

107では、低域の拡充を実現しながらも、
音源の大きさとしてはHEAD ASSEMBLYの大きさが、そうといえるわけだ。

105では、HEAD ASSEMBLYの下に30cm口径のウーファーがあるから、
音源の面積としては、大きい。

107がダクトをエンクロージュア正面もしくは底部に設けていたら、
音源の面積は小さくまとめられなかった。

エンクロージュア上部にダクトをもってきたということは、
低域の拡充とともに音源をできるだけ小さくまとめるためであったと思う。

LS3/5A(特に15Ω仕様)は、神経質なところをやや感じさせながらも、
インティメートな存在であった。
それは至近距離で聴くということと無関係ではない。

ところが低域の拡充のため、
30cm口径クラスのウーファーをもってくると、
そんな至近距離で聴くことは難しくなる。
少なくとも、LS3/5A単体よりも離れて聴くことになり、
低域の拡充を得られた反面、インティメートな雰囲気は薄れてしまう。

Model 107を見ていると、LS3/5Aのそういった聴き方も可能なように思えてくる。
LS3/5A単体を聴くのと同じくらいの至近距離で聴いても、
107は、通常のウーファー方式採用のスピーカーシステムのようなことにはならないはずだ。
(実はまだModel 107は鳴らしていない)

もちろん107クラスの大きさの、他のスピーカーと同じように、
ある程度の距離をとっての聴き方もできる。
むしろ、こちらの聴き方のほうがKEF推奨の聴き方なのだろうが、
107には、もうひとつの聴き方が隠されているようにも感じる。

そのことに気づいた鳴らし手だけが味わえる世界が、107には用意されている。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: plain sounding high thinking

plain sounding, high thinking(その6)

(その4)で、スピーカーが出してくる音とのコミュニケーション、とか、
(その5)で、スピーカーの本能、とか、
読む人によっては、わけのわからないことを書き始めたと思われようが、
コミュニケーションのとれるモノととれないモノは、はっきりとあると思っている。

オーディオのなかでは、特にスピーカー。
コミュニケーションのとれるスピーカーと、
コミュニケーションを拒絶しているかのようなスピーカーがある。

コミュニケーションがとれるとれないは、
スピーカーの性能、価格といったこととはあまり関係がない。

世評の高いスピーカーであっても、
私にはコミュニケーションがとれない、と感じるモノが、いまのところある。
その数は、少しずつ増えていっているようにも感じる。

そういうスピーカーは精度の高い音を出す。
そのことはたいしたことである。
ここまで出る(出せる)ようになったのか、と感心しながら聴きながらも、
欲しい、と感じさせないのは、
価格のことではなく、コミュニケーションの不在があるように感じるからだ。

少しでもいい音で聴きたい、いい音を鳴らしたい、とおもうからこそ、
あれこれこまかなセッティングやチューニングをやっていく。
そうすることで、音は少しずつ良くなっていく。
音は裏切らないからだ。

コミュニケーションがとれると感じるスピーカーでも、
とれないと感じてしまうスピーカーでも、そのことに関しては同じだ。

セッティングやチューニングに応えてくれているからこそ、音は良くなっていくわけだ。
ならば、応えてくれるということこそコミュニケーションではないのか、と考えもするが、
そういうことではない、と即座に否定する。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: ディスク/ブック

オーヴェルニュの歌

カントルーブの「オーヴェルニュの歌」といえば、
ネタニア・ダヴラツの歌唱が有名であっても、
私が最初に聴いたのは、キリ・テ・カナワとフレデリカ・フォン・シュターデのどちらかだった。

ダヴラツの「オーヴェルニュの歌」を聴いたのは、CDになってからだった。
そのCDも、もう手元にはない。

聴きたくなることはある。
岡先生によるダヴラツの「オーヴェルニュの歌」のCDの紹介記事を読んでいたから、
無性に聴きたくなっていた。
その数日後、タワーレコードからのニュースで、
ダヴラツの「オーヴェルニュの歌」のリマスター盤が出ることを知った。

発売日は来月である。
少し待たねばならないが、このくらいならしんぼうできる。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

375+537-500

375+537-500、
こんなふうに書いておくと、
若い人は、何のことだろう……、と首をかしげるかもしれない。

小学生の算数の問題ではない。
JBLのコンプレッションドライバーとホーンの組合せの型番である。

537-500は、のちのHL88である。
日本では蜂の巣とも呼ばれているホーンである。

HL88、蜂の巣ホーンといったほうがとおりがいいのは分っている。
それでも、この数式のような型番(375+537-500)が、
このドライバーとホーンの組合せにしっくりくると感じるのは、憧れからだろうか。

私がオーディオに興味をもちはじめたころには、
537-500という型番は消えていた。HL88である。
Hはホーン(horn)、Lはレンズ(lens)をあらわしている。

無線と実験の1966年12月臨時増刊に、瀬川先生が書かれている。
     *
 中心をなすものはJ.B.Lansingの375ドライバー・ユニットに537-500ホーンに組み合わせたスコーカーで、中音に関しては目下のところ非常に満足している。375ユニットは、ボイスコイル径が4インチ(約10cm)、磁束密度20000ガウス以上という、漬物石の如き超大型のユニットで、ホーンをつけると一人では持ち上げるのに骨がおれる。
 JBLのスピーカーについては、鋭いとか、パンチがきいたとか、鮮明とか、およそ柔らかさ繊細さとは縁の無いような形容詞が定評で、そのJBLの最大級のユニットを、6畳の和室に持ちこんだ例を他に知らないから、友人たちの意見を聞いたりもしてずいぶんためらったのだが、これより少し先に購入したLE175DLHの良さを信じて思い切って大枚を投じてみた。サンスイにオーダーしてからも暑いさ中を家に運んで鳴らすまでのいきさつはここではふれないが、ともかく小生にとって最大の買い物であり、失敗したら元も子もありはしない。音が出るまでの気持といったらなかった。
 荒い音になりはしないか、どぎつく、鋭い音だったらどうしようなどという心配も杞憂に過ぎて、豊麗で繊細で、しかも強靭な底力を感じさせて、音の形がえもいわれず見事である。弦がどうの声がどうのというような点はもはや全く問題でないが、一例をあげるなら、ピアノの激しい打鍵音でいくら音量を上げても、くっきりと何の雑音もともなわずに再現する。内外を通じて、いままでにこれほど満足したスピーカーは他に無い。……まあ惚れた人間のほうことだから話半分に聞いて頂きたいが、今日まで当家でお聴き頂いた友人知人諸氏がみな、JBLがこんなに柔らかで繊細に鳴るのをはじめて聴いたと、口を揃えて言われるところをみると、あながち小生のひとりよがりでもなさそうに思う。
     *
1966年8月に、瀬川先生の六畳間のリスニングルームに、
375+537-500はおさまっている。

山水電気扱いで、日本で最初に375+537-500を購入されたのは、瀬川先生である。
六畳間に、このホーンとドライバーを置くと、2441+2397とは違う存在感がある。
実際に、いま目の前に375+537-500がある

私のモノではなく、預かりものなのだが、
ハークネスの上に置いて眺めている。

375+537-500の下には、175DLHがある。
375+537-500の横には、馬蹄型の金具がついた075がある(これも預かりもの)。
それからスロートアダプターの2329ものっけている。
LE85のダイアフラムが木箱に入っているのもある。
Ampex-Lansingの800Hzのネットワークも、
エレクトロボイスの1828Cも置いている。

ハークネスの手前には、2441+2397がある。

瀬川先生が1966年ごろ、毎日眺められていた光景に近くなってきた。

Date: 9月 25th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

文行一致(その2)

ステレオサウンドは62号、63号で、
「音を描く詩人の死」を掲載している。

そのなかで、ずっとひっかかっていたことがある。
     *
 その先輩の一人、金井稔氏が追悼文のなかでいみじくも書かれたように
〝彼は自分の感性に当惑していたのであろう。〟
     *
金井稔氏による追悼文とは、おそらくラジオ技術に掲載されたものだろう。

《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》
どこか大きな図書館に行けば、その追悼文全文が読めるのだが、
なぜかしていない。

前後にどういうことが書かれていたのか、はっきりしない。
はっきりしないから、よけいに《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》が、
私の心に残り続けている。

ほんとうに瀬川先生は《自分の感性に当惑していた》のだろうか。
金井稔氏と瀬川先生のつきあいは長い。
瀬川先生が高校生だったころからのつきあいである。

だから、そうなのだろう……、と思いつつも、
一方で常にそうなのだろうか……、とも思っていた。

そこに、貝山知弘氏の「文行一致」があった。
貝山知弘氏の書かれたものを、あらためて読んで、
文行一致と《彼は自分の感性に当惑していたのであろう》が結びついた。

そうだったのか、とおもう。
いまになって、やっとそうおもう。

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 瀬川冬樹

文行一致(その1)

サプリーム 144号を、また読んでいる。
何回目だろうか。

最初に読んだのは、ステレオサウンドにいるときだった。
1982年春のことだ。

35年という月日は短くはない。
当時の読み方の浅かったことを、いま感じている。

文行一致、
貝山知弘氏が、そう表現されている。
     *
 氏は、「ステレオサウンド」26号〝いわば偏執狂的なステレオ・コンポーネント論〟のなかで、次のように書いている。
〝ものを創るでも選ぶでも、味わうでもいい。文学でも美術でも、何でもいい。人間の生み育てた文化どれひとつとりあげてみても、ひとつの物事をつきつめて考えたり味わったり選び分けたり創造したりしていくプロセスに真剣であれば、必ず、ある種の狂気に似た感情を経験するので、またそういうところを通り抜けた人にだけ、物は、ほんとうの姿を見せてくれる。長い年月の積重ねと暗中模索と失敗のくりかえしが、それを教えてくれる。本ものを創り、選び、使いこなすのは、そういう体験を経た人に限られると言っても言いすぎではないだろう。しかしそれはいかに努力の要ることか……〟
 これは、オーディオの名器と呼ばれ、趣味、洗練の極みとして生まれた製品についての記述てのだが、注目に価するのは、この一文のなかで、氏は、同時に、自己を語っていることだ。こうした氏の〈物〉に対する根本的な思想──優れた器は人間の精神の所産であるといする思想は、氏が技術誌に投稿していた頃と、全く変わってはいない。
 昭和36年4、5月に、「ラジオ技術」に連載した一文のなかで、氏は、同じテーマを語っている。しかし、その表現は、きわめて簡潔だ。
〝再生装置には、その製作者の思想があらわれてくるものである〟
 このアフォリズムは、その簡潔さ、その明快さ故に力があるが、まだ、氏の人生の影は投影されてはいない。前述の引用文からは、自らを語り、自らの人生を表現と一致させようという強い指向を感じとることができる。
 言行一致という言葉がある。この言葉を借りるなら、氏の指向した世界は、文行一致であると、ぼくは思う。自ら表現した美意識の世界に、自らを一致させようとする指向。それは、文字どおり、狭き道であり、克己心の要る作業である。美意識を生むのもひとつの欲望であるとするならば、それは同時に、自らの現実の欲望をいっぽうで絶たねばならぬという皮相な結果も招きやすい。氏の現実の欲望がなんであったか、うかがい知ることはなかったが、ぼくの仮定が正しいとするなら、美意識の界化と現実のギャップとの間にある氏の相克は、想像を絶するものがあったに相違ない。
     *
貝山氏は、この追悼文を書くにあたって、髭を剃った、と書かれている。
無意識のうちに、である。

畏敬の念がそうさせた、とも。

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 107, KEF, 試聴/試聴曲/試聴ディスク

KEFがやって来た(番外・table B)

KEFのModel 107のtable Bであげられているディスクは、
クラシックに関しては作曲家と作品名、それとレーベルとディスク番号のみ。
少し不親切に思えるだろうが、
Model 107の発売された1986年当時であれば、
それだけでどのディスクか、クラシックを聴いていた人ならばすぐにわかるし、
いまはインターネットがあるから、レーベルとディスク番号を入力して検索すれば、
どのディスクで、誰の演奏なのかは、すぐにわかる。

サン・サーンス:ピアノ協奏曲第二番/ラフマニノフ:パガニーニの主題による狂詩曲
ダヴィドヴィチ、ヤルヴィ/アムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団
(Philips 410 052)

ブラームス:ピアノ協奏曲第二番
アシュケナージ、ハイティンク/ウィーンフィルハーモニー
(Decca 410 199)

ドビュッシー:前奏曲集
ルヴィエ
(Denon 38C37)

ファリャ:三角帽子
デュトワ/モントリオール交響楽団
(Decca 410 008)

ラフマニノフ:交響的舞曲
アシュケナージ/コンセルトヘボウ管弦楽団
(DECCA 410 124)

カントルーブ:オーヴェルニュの歌
キリ・テ・カナワ
(Decca 410 004)

Mister Heartbreak
ローリー・アンダーソン
(Warner 925 077)

Four
ピーター・ガブリエル
(Charisma 800 091)

Superior sound of Elton John
エルトン・ジョン
(DJM 810 062)

Rickie Lee Jones
リッキー・リー・ジョーンズ
(Warner 256 628)

Body and Soul
ジョー・ジャクソン
(CBS 6500)

The Flat Earth
トーマス・ドルビー
(EMI 85930)

Date: 9月 24th, 2017
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その14)

Model 107のウーファーは外側からは見えない。
深く、とまではいえないが、沈んでいる、とはいえる。

その開口部は、くり返しになるが、エンクロージュア上部前方に設けられている。
バイロイト祝祭劇場が、オーケストラピットの開口部の後方に舞台がある。
オーケストラピットには奥行きがあるから、舞台はオーケストラピットの後方上部を覆っている。

Model 107のウーファーの開口部とHEAD ASSEMBLYの位置関係をつ横からみれば、
これに近い、といえる。

もちろん107の開口部からは、160Hz以下の音が出てくる。
バイロイト祝祭劇場のオーケストラピットの開口部は、そんなわけはない。
低音楽器の音しか聴こえてこないわけではない。
オーケストラすべての音が、そこから立ち上ってくる。

その違いはわかった上で、バイロイト祝祭劇場とModel 107の相似性を見いだそうとしている。
そういう見方をする必要がどこにあるのたろうか、と疑問に思われる方もいよう。

わたしにだって、そういう気持がまったくないわけではない。
それでもModel 107の実物を前にして、
なぜレイモンド・クックは、ギミックともとられかねない、こういう方式をとったのか、
そのことを考えると、バイロイト祝祭劇場のことがどうしても浮んでしまう。

レイモンド・クックは、ワーグナー聴きだったのだろうか。
MODEL 107のINSTALLATION MANUALには、RECORD SUGGESTIONSという項目がある。
     *
The importance of listening tests in setting up your hi fi system has been emphasised in these instructions. Use records having good tonal balance with good imaging qualities, covering as wide a rang of music and voice as possible. To assist your setting-up, and add to your musical enjoyment, KEF recommend the following records (table B) in either analogue or CD (where available) format.
     *
table Bには、12枚のディスクがあげられている。
クラシックはうち6枚。
そこにはワーグナーのディスクはない。

クックは、ワーグナー聴きだったのだろうか。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: High Resolution

Hi-Resについて(その9・補足)

その9)で、ステレオサウンドのインピーダンス測定も、
可聴帯域、つまり20kHzどまりだった、と書いた。

書いた後で気づいた、というか憶い出した。
ステレオサウンド別冊HIGH-TECHNIC SERIESの三冊目、
トゥイーターの号で、200kHzまでのインピーダンスを測定している。

トゥイーターユニット単体のインピーダンスということもあって、
10kHzあたりからインピーダンスは上昇していく。
200kHzまで上昇していくものがほとんどである。

インピーダンス特性のグラフの縦軸の目盛は32Ωまでしか振ってないが、
目盛はその上まである。

上昇の傾斜が急なものは60Ωを超えて、100Ωくらいまでいくようである。
100kHzあたりが32Ωくらいになるのが多い。

そのなかにあって驚異的なのは、テクニクスの10TH1000である。
50kHzまで8Ωフラット、その上では多少上昇するが、200kHzでも10Ω程度である。
その次に優秀なのがフォステクスのFT5RPである。
200kHzで14Ω程度である。
このふたつのトゥイーターはポリイミドフィルムにボイスコイルパターンをエッチングしている。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その13)

「音楽と音響と建築」では、バイロイト祝祭劇場は次のように紹介されている。
     *
 バイロイトの祝祭劇場は、おそらく世界でもっとも特異なオペラ劇場である。その設計はユニークである;これは作曲家のリヒアルト ワーグナーの構想になるもので、オペラ劇場はいかなる姿をし、いかなる音であるべきかについての、彼個人のイメージを実現したものである;これはそのあるじ(つまりワーグナー)の音楽にのみよつ仕え、とりわけ「ニーベルンゲンの指輪」および「パルシファル」(いずれもワーグナーの楽劇)に、もっともよく仕えるものなのである。もし1人の作曲家が彼自身の音楽の世界を形に造ったとすれば、これこそそれなのだ──彼の音楽のみのための劇場、そしてその劇場だけが、彼の音楽を最上のものとする!
 ワーグナーが25歳の頃、リガの「古くて、取るに足らない」、しかし彼が気に入っていた劇場で指揮をしたことがあった。彼は言っている、「この〝納屋〟に関して特に記憶に残った三つのポイントがあった:円形劇場の形をして座席の勾配が急峻なこと、オーケストラピットが深く落ち込んでいること、そして照明の扱い方である。」この三つの特長は、バイロイトの祝祭劇場でもはっきり見てとれる。長い間、ワーグナーは自分の祝祭劇場を夢見ていた。彼が1863年その計画を始めたとき、ある手紙の中に書いている:「ここ(ドイツの小さな町の一つ)に、暫定的に一つの劇場が、できるだけ単純で、多分全部木造で、内部だけが芸術的目的にそうようデザインされて建てられるだろう。私は1人の才能ある、経験の深い建築家と、円形劇場の形をもち、また深く沈んだオーケストラピットの利点をフルに活かしたオーディトリアムを前提として、計画を検討した。」
     *
バイロイト祝祭劇場の《深く沈んだオーケストラピット》のことは、
話だけは昔から読んでいたし、話で聞いていた。

バイロイト祝祭劇場の音は、録音されたものでしか聴いていない。
バイロイト祝祭劇場に行ったことのある人、黒田先生がそうだった。
一度、バイロイト祝祭劇場の話になったことがある。

オーケストラピットの開口部といえるところから、オーケストラの音が、
音のカーテンとして立ちのぼってくる。
舞台上の歌手は、その音のカーテンを突き抜いて聴衆に声(歌)を届けなければならない。

そういう趣旨のことを話された。
ワーグナー歌いといわれるには、
音のカーテンを突き抜くだけの力が超えに求められる、ということでもある。

「音楽と音響と建築」に掲載されている図をみると、
バイロイト祝祭劇場のオーケストラピットは、深く沈んでいる。

しかもヴァイオリンの上をおおっている庇がピットを囲うようになっている。
ミトロープスは、この庇を取り除くか、音響的にないのと同じ程度に孔をあけるかすれば、
バイロイト祝祭劇場の音はよくなるだろう、といっていたと「音楽と音響と建築」にはある。

カラヤンは、その実験を試みている。
庇を取り除いたが、ヴァイオリン以外の楽器群は舞台の下に埋もれたままなので、
結果は芳しくなく元にもどした、とも書いてある。

このバイロイト祝祭劇場のオーケストラピットと、
Model 107のウーファーとが、107の実物と対面した時に、重なった。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate:

色づけ(colorationとcolorization・その1)

カラーレイション(coloration)という言葉がある。

KEFのReference Seriesのカタログを見ていたら、
“Low Colouration”とあった。

KEFはイギリスの会社だから、colorationではなくcolourationである。
瀬川先生がいわれていたことだが、
カラリゼイション(colorization)とカラーレイションは、意味が違う。

どちらも色づけと訳すことはできるが、
色づけの意味合いがそもそも違う。

カラリゼイションは、積極的な色づけであって、
例えばモノクロの写真に着色、カラー化の意味での色づけである。

カラーレイションは、オーディオの世界では、
ノンカラーレイション、ローカラーレイションと使われ方をすることからもわかるように、
本来あってはならぬオーディオ機器固有の音色による色づけのことである。

カラーレイションとカラリゼーション、
いまでは、カラリゼーションの方は耳にしなくなったが、
先日、カラーレイションのところにカラリゼーションが使われていたことがあったのと、
KEFのカタログで目にしたので、思い出した次第。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: ジャーナリズム

オーディオの想像力の欠如が生むもの(その30)

オーディオの想像力の欠如のままでは、空洞ゆえの重さを感じることはないのだろう。

Date: 9月 23rd, 2017
Cate: オーディオ評論

ミソモクソモイッショにしたのは誰なのか、何なのか(先生という呼称・その4)

来週末(9月29日、30日、10月1日)は、インターナショナルオーディオショウ。
インターナショナルオーディオショウ協議会のサイトでは、
各ブースで行われるプレゼンテーションのスケジュールがPDFで公開されている。

上記リンクページの下部には、
「TIAS2017イベントスケジュール」とある。
いつからイベントスケジュールになったのだろうか。

昨年はどうだったのだろうか。
講演スケジュールのようだった気もするが、
いまとなっては確認できない。
それともイベントスケジュールだったのか。

ダウンロードできるPDFは、今年も講演スケジュールとなっている。
おそらくこれまで使ってきているテンプレートを流用しているからなのかもしれない。

スケジュール表をみてわかるように、
オーディオ評論家を呼ばないブースも多い。
そこに講演スケジュールとひと括りにするのは、そぐわない。

それに何度も書いてきているように、
オーディオ評論家が話すことは、
いまや講演と呼べない内容のものばかりになってきている。

来年以降、PDFのタイトルも講演スケジュールからイベントスケジュールへと変更されるのだろうか。

Date: 9月 22nd, 2017
Cate: カタチ

趣味のオーディオとしてのカタチ(その12)

車の運転自慢の男がいる、としよう。
彼にとって理想に近い車はポルシェだ、としておこう。

彼はポルシェの運転に自信をもっている。
たいへんな自信をもっている。
それだけでなく、他の車の運転も自慢する。

ポルシェ以外の車、
たとえばランボルギーニ、フェラーリ、アストンマーチン、ジャガー、
メルセデス・ベンツ、マクラーレンといった車だけでなく、
国産車でも、スポーツカー以外の車であっても、
彼はポルシェを運転する時と同じに運転し、
ポルシェと同じ走りを、他の車に要求する。

それぞれの車にそれぞれのよさがあり、
それを活かしてこその運転のはずだろうが、彼は違う。

彼はオーディオマニアでもある。
車の運転と同じに、スピーカーを鳴らす。
どんなスピーカーも、自宅で鳴らしているスピーカーと同じに鳴らす。

その音を自慢するし、
オーディオマニアのリスニングルームを訪ねていっては、
そういう鳴らし方を披露して、自慢する。

スピーカー鳴らしの達人とか、名人とか、自分のことを恥ずかしげもなく、そういう。

それを「自分の音」と、彼はいう。
たしかに、彼自身の音ではある。
どんなスピーカーをもってきても、その「自分の音」でしか鳴らせないのだから。

その「自分の音」とスピーカーとが、たまたまマッチすれば、
それはそれでいいのだが、そうそううまくいくものではない。
だから、自慢するのかもしれない。
言葉で相手を説得させるためにも必要となるからだ。

まるめた紙をアートだといい、デザインだ、といっている人となんら変らない。

Date: 9月 21st, 2017
Cate: 107, KEF

KEFがやって来た(その12)

KEFのModel 107の低音部は、ケルトン型の一種と考えられるが、
KEFではCoupled Cavityと呼んでいる。

Uni-Qユニット搭載の105/3、104/2にも、Coupled Cavityは採用されている。
どちらもトールボーイのエンクロージュア内部に二発のウーファーをおさめている。

ただ107と、105/3、104/2が違うのは、ダクトの形状と、その位置である。
105/3、104/2ではフロントバッフル中心よりもやや下のところに、
バスレフ型のダクトよりも二回りほど径のあるダクトが設けられている。

KEFのReference Seriesのカタログ(英文)には、
Coupled Cavityの簡略化した構造図がのっている。
103/3はウーファー一発で、
エンクロージュアが小型ということもあって、ダクトはエンクロージュア下部に下向きになっている。
ウーファーの二発の方は、この図では105/3、104/2のようにフロントバッフルにダクトはある。

通常、下か前である。
ところが107は上である。

107のアピアランスで、エンクロージュアの前面、中央あたりに、
Coupled Cavity用の大きめのダクトがひとつポツンとあっては、
けっこう無気味な感じがしよう。

ならばサランネットをつけるとか、下側につけるという手もある。
にも関らず上である。

その理由をレイモンド・クックに直接訊ねたいところだが、
クックは1995年に亡くなっている。

ならば考えるしかない。