Archive for 1月, 2015

Date: 1月 4th, 2015
Cate: デザイン

オーディオ・システムのデザインの中心(その17)

オーディオがブームだったころ、店頭効果ということがよくいわれていた。
客がスピーカーの試聴にオーディオ店にくる。

当時はブックシェルフ型であれば各社のスピーカーが所狭しと積み上げられていることが多かった。
そして客は、店員にいくつかのスピーカーを聴きたいとリクエストする。
店員は切替えスイッチで、客が希望するスピーカーを次々と鳴らす。

このときスピーカーの音圧が揃うように調整する店員もいたであろうが、
そうでない店員もいた。
そうなると切り替えた時に、前に鳴っていたスピーカーよりもわずかでも音圧が高ければ、
実際のリスニングルームとはかけ離れた試聴条件では、よく聴こえてしまうことがある。

音圧が同じでも地味な音のスピーカーよりも、派手な音のスピーカーのほうが目立つ。
とにかく他社製のスピーカーよりも、自社製のスピーカーを客に強く印象づけるための音づくり、
これを店頭効果と呼んでいた。

いまはそんなものはなくなっていると思うが、
デザインに関しては、どうだろうか、と思っている。

例としてあげたブックシェルフ型スピーカーは、さほど高級(高額)なモノではなかった。
大きさもユニット構成も外観も似ているモノが大半だった。
だからこそ音での店頭効果で目立とうとしていた、といえる。

ここで書こうとしているデザインについては、
そういった普及価格帯のモノではなく、高級(高額)のモノについてであり、
デザインの関係性・関連性と排他性について考えていきたい。

Date: 1月 4th, 2015
Cate: オーディオの「美」

オーディオの「美」(その3)

2015年は未年(ひつじ年)である。

以前、美という漢字は、羊+大である。
形のよい大きな羊を表している、と書いた。

そういわれても、なかなか実感はわきにくい。
まず、なぜ羊なのか、と思う。

大きな羊は、人間が食べるものとしてではなく、
神に捧げられる生贄を意味している──。

神饌としての無欠の状態を「美」としている、ときけば、
美という字が羊+大であることへの疑問は消えていく。

となれば、美ということに対しての認識も変ってくる。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 書く

毎日書くということ(思い出す感触・その3)

原稿用紙に手書きする。
それを見ながら、キーボードで入力する。
二度手間といえることを何度かやってみた。

面倒くさいと感じていた。
手書きがすでに面倒なことに感じた。

何かを書く、ということは、今の私には親指シフトキーボードを打つことになってしまっている。
試しにローマ字入力をしてみる。
手書よりも面倒だと感じる。

数えたわけではないが、すでに手書きで書いた量よりも、親指シフトキーボードで書いた量の方が多い。
間違いなく多い。

ステレオサウンドの原稿用紙にステッドラーの芯ホルダーで書いていた時期はそう長くはない。
まとまった量の文章で、この組合せで最後に書いたのは、
ステレオサウンド 72号の「幻のEMT管球式イコライザーアンプを現代につくる」での読者からの手紙である。

栗栖さんという930stユーザーからの手紙から、この企画は始まったことになっている。
この栗栖さんという読者の手紙は私が書いた。

肩に力がはいりすぎたような原稿を書いた。
自分でもそう感じていたから、ダメ出しをもらった。
それで書き直した。

それでOKをもらい、自分の手書きの原稿を、
導入されたばかりの富士通のOASYSで入力していった。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: コペルニクス的

オーディオにおける天動説(その3)

グッドマンのAXIOM80は、このユニットならではの独特の構造をもつ。
一般的なエッジとダンパーは、この9.5インチという、他にあまり例のない口径のフルレンジユニットにはない。
そのため軽量コーンでありながら、f0は20Hzと驚異的といっていいほど低い。

となれば、HIGH-TECHNIC SERIES 4にある佐伯多門氏の解説通りであれば、
AXIOM80の低域特性は20Hzあたりから12dB/oct.で減衰していくはずである。
だが実際のAXIOM80の特性は、というと、200Hzあたりから減衰していく。
それも-12dB/oct.ではなく、-6dB/oct.のカーヴを描いている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4には、残念ながら、そのことについての記述がなかった。
ラウザーのPM6も200Hzあたりから減衰していく。
JBLのD130もそうだ。

D130のf0は40Hzと発表されている。
しかし200Hzから下の帯域が6db/oct.で減衰していく。

AXIOM80、PM6、D130に共通しているのは、軽量コーンと強力な磁気回路を組み合わせたユニットであること。
それゆえに能率が100dB/W/m前後となっている。

HIGH-TECHNIC SERIES 4を読んだ時は、ここまでしかわからなかった。
その後わかってきたことは、
AXIOM80、PM6,D130の200Hz以下の帯域は、速度比例による動作である、ということ。
そして6dB/oct.で減衰している、というよりも、6dB/oct.で音圧が上昇しているということである。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: バランス

音のバランス(その2)

いまはトーンコントロールがないアンプがあたりまえになってきたため、
トーンコントロールの使いこなし的な記述もみかけなくなっている。

私がオーディオをはじめたころは、トーン・ディフィートスイッチがつきはじめたころではあったが、
トーンコントロールはたいていのアンプについていた。
そしてオーディオの入門書、入門記事にはトーンコントロールをうまく使うためとして、
まず大胆にツマミをまわしてみること、と書いてあった。

つまり低音調整用のツマミを右に左に、まずいっぱいまで廻す。
右(時計方向)にいっぱいまでまわせば、低音が増強され、
左(反時計方向)にいっぱいにすれば低音は減衰する。
どちらもあきらかにバランスがくずれた音であり、両極端に振った音である。

同じことを高音でもやってみる。
次にツマミを廻す角度を少しずつ減らしていく。
さらにもっと減らしていく。
これをくり返して、最適のバランスと感じられるところをさぐりあてる。

なれていない人ほど、最初はわずかしかツマミを動かさないことが多かった。
ちまちま動かしていたのではわからないことがある。
大胆に両極端に振ることで、中点がはっきりとしてくる。

これはなにも帯域バランスだけではない。
たとえば硬い音、柔らかい音に関してもそうだ。
熱い音・冷たい音、乾いた音・湿った音……。
最初からバランスのいい音を求めるよりも、
ある時期ある時期で、どちらにも極端に振ってみた音を出してみたほうがいい。

バランスをくずすまいと、ちまちま左右に揺れていては、
はっりきしたことは、なにも見つからない。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーのアクセサリーのこと(その8)

私は、針圧とインサイドフォースキャセラー量を、バイアスと捉えている。
針圧は垂直方向、インサイドフォースキャセラーは水平方向のバイアスであることは、以前書いた。

このバイアスは同じカートリッジで最適値を、ある条件のもとでさがし出したら、
常にその値でいい、というものではない。
温度によっても最適バイアス値は変化する。
レコードによっても違ってくるし、
毎日レコードをかけているカートリッジと半年ぶりに使う時と、一年ぶり、
さらにはもっとひさしぶりに使う時とでは、同じバイアス値が最適とはならない。

2.6gの針圧が最適だったとしても、次にかけるときには、
もろもろの条件の変化により、2.65gだったり2.55gだったりすることだってある。
2.6gが1.6gになるような、大きな変化はないけれど、わずかの違いは生じてくる。

私はそう考えているから、針圧計の精度にやたらこだわる人の考えは正直理解できない。
そのとき鳴らすカートリッジの最適バイアス値は、前回の値はあくまでも参考値でしかすぎない。
あとは耳で聴いて、ほんのわずか針圧印加用のウェイトをずらしていくだけであるからだ。

前回の針圧を、0.01gで測ってメモしていたところで、役に立たない。
カートリッジの針圧とインサイドフォースキャセラー量は、固定しておくものではない。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 表現する

自己表現と仏像(その4)

スヴャトスラフ・リヒテルがいっている。

リヒテルの演奏に「個性的ですね」といわれたときに、
「個性的でも独創的でもなんでもない。作品をよく研究して、その作品の指示通り弾いているだけだ」と。

自己表現などということは、彼の頭のなかにはまったくなかったはず。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その10)

なにもカラヤンをきく人は、古楽器による演奏をきいてはいけない──、
などといいたいわけではない。

ある人は、レーベルでいえばオワゾリールやアルヒーフの音を好んでいた。
このふたつのレーベルのLPやCDを買っては鳴らしていた(きいていた)。
彼自身の音の好みも、このふたつのレーベルに共通したところのあるものだった。
彼が、だからふたつのレーベルを好むのは自然なことだったのかもしれないし、
そういう音に自分のシステムの音を仕上げるのも、また彼にとっては自然な行為だったのであろう。

だが彼は、そういうシステム・音できいて、カラヤンは素晴らしい、という。
彼の音の好みは変ることはなかった。
彼の音も大きく舵を切ることはなかった。

そういう音で彼はきいて、カラヤンのブルックナーは素晴らしい、とまた言う。
カラヤンのブルックナーでの響きと、彼が好む響きは、いわば相容れないようにしか、私には感じられない。

そういえば、おそらく彼は「音楽をきいている」というだろう。
けれどくり返すが、音楽と音は呼応している。
豊かさを拒絶した響き(それを響きといっていいものだろうか……)で、カラヤンのブルックナーをきく。

ジャズでいえば、ルディ・ヴァン・ゲルターの録音したブルーノートのアルバムを、
ECM的な音できいて、素晴らしい、といっているようなところがある。

ここにちぐはぐさがある。
「風見鶏の示す道を」のなかに、こう書いてある。
     *
残念ながら、その点でちぐはぐな例も、なくはない。最新鋭の装置をつかいながら、今となってはあきらかに古いレコードを、これがぼくの好きなレコードです──といってきいている人がいる。それはそれでかまわないが、その人はおそらく、どこかで正直さがたりないのだろう。
     *
私にも同じことがあった。
好きなレコード(演奏)と好きな音に、どこかちぐはぐなところがあった。

Date: 1月 3rd, 2015
Cate: LNP2, Mark Levinson

Mark Levinson LNP-2(serial No.1001・その4)

ステレオサウンド 42号の音楽欄に、平田良子氏による「時間に挑戦する男 デビッド・ボウイー」が載っている。

David Bowie、いまではカタカナ表記ではデヴィッド・ボウイだけれど、
42号が出た1977年は、デビッド・ボウイーだった。

私がデヴィッド・ボウイのことを知ったのは、この42号の記事だった。
4ページの記事、四枚のモノクロの写真。

世の中には、こういう人がいるんだ、と思いながら記事を読んだ。
記事には、こうある。
     *
ボウイーという人間は、中性的という以上の存在である。彼のなかには、性別や年齢を超越したもうひとりのかれがいて、ボウイーが生み出す方法論をつぎからつぎへとあざやかに実践してみせるのだ。
     *
42号の記事を読んだ時は、音楽記事としてだけ読み、デヴィッド・ボウイのことを知っただけで終った。
この記事を読んだからといって、デヴィッド・ボウイのレコードを買うことはしなかったし、
デヴィッド・ボウイ主演の映画「地球に落ちてきた男」も観ることはなかった。
(最寄りの映画館では上映していなかったように記憶している。)

だからデヴィッド・ボウイの音楽を聴いたのは、もう少し先のことだったし、
聴いたからといって、特にオーディオと結びつくことはなかった。

それからずいぶん経ち、デヴィッド・ボウイのある写真を目にして、4343のことが頭に浮んだ。
その写真は、やはりモノクロで1970年代後半のころのもののようで、いわゆるスナップ写真だった。
日本での写真だった。
背景には電車が写っている。

デヴィッド・ボウイと日本の当時の日常風景との組合せ。
その写真をみて、4343はデヴィッド・ボウイのようなスピーカー(スター)なのかもしれない──、
そんなことがふいに頭に浮んだのだった。

私にとって、4343の存在を知ったのも、デヴィッド・ボウイのことを知ったのも、
ほぼ同時期(三ヵ月違うだけ)であるからこそなのかもしれない。

Date: 1月 2nd, 2015
Cate: 戻っていく感覚

戻っていく感覚(「風見鶏の示す道を」その9)

ききたいレコードはわかっていても、目的地がわからなかった旅人には、車掌という存在が必要だったといえる。

聴きたいレコードはわかっている、目的地もわかっている、
だから車掌という存在は必要ない、という人もいる。

彼は旅人といえるのだろうか。

ききたいレコードと目的地は本来は呼応している。
いいかえれば、ききたい音楽と、その音楽をきくための音とは呼応している。

だから黒田先生は書かれている。
     *
 あなたはどういうサウンドが好きですか──という質問は、あなたはどういう音楽が好きですか──という質問と、実は、そんなにかわらない。ここでいう音楽とは、あらためていうまでもないが、演奏を含めての音楽である。青い音が好きで、同時に紅い音楽が好きだということは、本来、ありえない。音と音楽とは、もともと、呼応していてしかるべきだろう。そのことは、なにごとによらずいえるのだろうが、音に対しての好みと音楽に対しての好きがちぐはぐだとしら、それは多分、その人の音に対しての感じ方と音楽のきき方のあいまいさを示すにちがいない。
 それは、多分、演奏家の楽器のえらび方と、似ている。すぐれた演奏家なら誰だって、彼がきかせる演奏にかなった楽器をえらぶ。なるほどこういう演奏をするのだから、こういう楽器をつかうんだなと、思える。それと同じようなことが、ききてと、そのききてがつかう装置についても、いえるにちがいない。
     *
カラヤンがいた。
カラヤンは指揮者だから、直接楽器を選ぶことはない。
彼にとっての楽器は、彼が指揮するオーケストラといえる。

カラヤンは古楽器に対して、全否定といえた。
正確な引用ではないが、
古楽器特有の響きを、ひからびた響き、そういった表現をしていたと記憶している。

カラヤンの演奏をきいてきた者であれば、カラヤンが古楽器を選ぶとは思わない。
けれど、青い音が好きで、紅い音楽が好きだという、
本来ありえないこと(ききて)がいた。

Date: 1月 1st, 2015
Cate: ポジティヴ/ネガティヴ

ポジティヴな前景とネガティヴな後景の狭間で(その3)

過去を振り返るな、前(未来)だけを見ろ!──、
こんなことを声高に、自分にいいきかせたり誰かにいったりしている人は、
グレン・グールドのいっているポジティヴな前景とネガティヴな後景を、
まったくそのとおりだ、と受けとめることだろう。

未来こそポジティヴであり、目の前に開けている、つまりは前景であり、
過去はどんなに後悔して変えたくても変えられないものだし、すでに通ってきたものだから、
そこにこだわるのはネガティヴなことであり、後景である、と。

だがグールドの、ポジティヴな前景とネガティヴな後景は、そんなことではない。

グールドは、ポジティヴとネガティヴについて、次のように語っている。
     *
われわれが自分の思考を組織化するのに用い、そうした思考を後の世代に渡すのに用いるさまざまなシステムは、行為──ポジティヴで、確信があって、自己を頼む行動──といういわば前景と考えられるものだということ。そしてその前景は、いまだ組織化されていない、人間の可能性という広大なきわまりない後景の存在に信頼を置くよう努めない限り、価値をもちえない、ということです。
     *
つまりグールドはここでは、ネガティヴを、組織化されていない、人間の可能性という意味で使っている。
グールドのいう、ネガティヴとは、これだけの意味ではない。

グールドは、事実の見方の助言として、こうも言っている。
     *
諸君がすでに学ばれたことやこれから学ばれることのあらゆる要素は、ネガティヴの存在、ありはしないもの、ありはしないように見えるものと関わり合っているから存在可能なのであり、諸君はそのことを意識しつづけなければならないのです。人間についてもっとも感動的なこと、おそらくそれだけが人間の愚かさや野蛮さを免罪するものなですが、それは存在しないものという概念を発明したことです。
     *
グールドのいうポジティヴな前景とは、つまりは存在しているものである。