Archive for 1月, 2012

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: audio wednesday

第12回公開対談のお知らせ

明日(1月4日)は今年最初の公開対談(といっても今回はひとりですけど)であると同時に、
昨年2月2日から始めた、この公開対談の12回目である。つまり1クールの最後となる。
1年やりとげられたな、と新年最初の回に思っているわけだ。

前回ひとりで話したときは11月ということで、瀬川先生について語った。
今回は、まだテーマを決めかねている。
何について語ろうか、テーマがまったく思い浮ばないわけではない。
あれについて話そうか、それともこれについて語ろうか、と迷っている。

そういう状態ですけど、
明日夜7時、四谷三丁目の喫茶茶会記でお待ちしております。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その2)

ほんとうに、この曲は傑作だ、と思えた瞬間だった。
アバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏によって、心からそう感じることができた。

それからはそれまで買って聴いていたディスクをひっぱり出して、ふたたび聴きはじめていた。
フルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーの演奏に圧倒された。
五味先生が「フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を知ったようにおもうのだ」
と書かれたことが実感できたのは、私にとってはアバド/ウィーンフィルハーモニーの演奏があったからである。

アバド/ウィーンフィルハーモニーのディスクがもし登場していなかったら、
登場していたとしても、アバドのベートーヴェンなんて、という思い込みから手にとることさえしなかったら、
ベートーヴェンの交響曲第三番の素晴らしさに気づかずに20代を終えていたかもしれないと思うと、
なんといったらいいのか、或る意味、ぞっとする。

アバド/ウィーンフィルハーモニーの交響曲第三番は、これだけでは終っていない。
このディスクを聴いてしばらくしたったときの朝。
ステレオサウンドに通うために、このころは西荻窪に住んでいたので荻窪駅で下車して丸ノ内線に乗り換えていた。
電車が荻窪駅に停車する寸前、ドアの前に立っていた私の頭の中に、
ベートーヴェンの交響曲第三番の第一楽章が鳴り響いた。

こんな経験ははじめてだった。
いきなり、わっ、という感動におそわれた。もうすこしで涙がこぼれそうになるくらいに。
なぜか、その演奏がアバド/ウィーンフィルハーモニーのものだ、とわかった。

だからというわけでもないが、私はアバド/ウィーンフィルハーモニーの第三番には恩に近いものを感じている。

Date: 1月 3rd, 2012
Cate: Claudio Abbado, ベートーヴェン

ベートーヴェン(交響曲第三番・その1)

ベートーヴェンの交響曲第三番は、ベートーヴェン自身のそれ以前の交響曲、第一番と第二番だけでなく、
他の作曲家によるそれ以前の交響曲とも、なにか別ものの交響曲としての違いがあるのは、
頭では理解できていても、実を言うと、なかなか第三番に感激・感動というところまではいけなかった時期があった。

世評の高いフルトヴェングラー/ウィーンフィルハーモニーによるレコードは、もちろん買って聴いた。
他にもカラヤン/ベルリンフィルハーモニー、トスカニーニ/NBC交響楽団、
ワルター/コロンビア交響楽団なども買って聴いた。

五味先生は「オーディオ巡礼」の所収の「ベートーヴェン《第九交響曲》」の冒頭に書かれている。
     *
ベートーヴェンでなければ夜も日も明けぬ時期が私にはあった。交響曲第三番〝英雄〟にもっとも感激した中学四年生時分で、〝英雄〟は、ベートーヴェン自身でも言っているが、〝第九〟が出るまでは、彼の最高のシンフォニーだったので、〝田園〟や〝第七〟、更には〝運命〟より作品としては素晴しいと中学生でおもっていたとは、わりあい、まっとうな鑑賞の仕方をしていたなと今はおもう。それでも、好きだったその〝英雄〟の第二楽章アダージォを、戦後、フルトヴェングラーのLHMV盤で聴くまでこの〝葬送行進曲〟が湛えている悲劇性に私は気づかなかった。フルトヴェングラーで聴いてはじめて、〝英雄〟を私は知ったようにおもうのだ。
     *
そのフルトヴェングラーの演奏でも、〝英雄〟の素晴らしさをうまく感じとれない、ということは、
ベートーヴェンの聴き手として、なにか決定的に足りないところが私にあるんだろうか、
このまま、この先ずっと交響曲第三番に感動することはないまま生きていくのだろうか、
と不安にちかいものを感じていたことが、20代前半にあった。

それでも交響曲第三番の新譜が出れば、買っていた。
1985年録音のアバド/ウィーンフィルハーモニーのCDも、そうやって購入した一枚だった。
クリムトのベートーヴェン・フリーズがジャケットに使われたディスクだ。
アバド/シカゴ交響楽団のマーラーは聴いていたけれど、正直、アバドのベートーヴェンにはさほど期待はなかった。

CDプレーヤーのトレイにディスクを置いて鳴らしはじめたときも、
ながら聴きに近いような聴き方をしていたように記憶している。
なのに鳴り始めたとほぼ同時に、
いきなり胸ぐらをつかまれて、ぐっとスピーカーに耳を近づけられたような感じがした。
目の前がいきなり拓(展)けた感じもした。
このとき、ベートーヴェンの交響曲第三番に目覚めた感じだった。

Date: 1月 2nd, 2012
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その9)

ステレオサウンド 38号の特集は、オーディオ評論家──そのサウンドとサウンドロジィ、である。
インタヴュアーとして、井上先生、黒田先生、坂氏の三人が、
岩崎千明、瀬川冬樹、菅野沖彦、柳沢功力、上杉佳郎、長島達夫、山中敬三、井上卓也、
八氏のリスニングルームを訪ね、「音」を聴く、という内容である。

ステレオサウンドのなかで、どれがいちばん面白いかは、人によって違って当然。
同じ人にとっても、時代によって面白い、と感じるステレオサウンドは変ってくることだってある。
こんなことを書きながらも、それでもいちばん面白いステレオサウンドは、やはり38号だ、と私は言いたい。

いま私の手もとにあるステレオサウンド 38号は、私が購入した38号ではない。
この38号は、岩崎先生のご家族からいただいた38号であり、岩崎先生が読まれていた38号である。
いただいたステレオサウンドは38号だけではなく、他に数冊ある。
けれど、この38号だけはかなりくたびれていた。
おそらく、岩崎先生もステレオサウンド 38号は、くり返しに手にとり読まれてきたから、
こんなふうにくたびれているのだろう、と思われる。
ほかのステレオサウンドは、かなりきれいな状態なのだから。

ステレオサウンド 38号の特集は、
オーディオ評論家八氏のインタヴューがまとめられていて、これがメインの記事となっている。
それに井上先生による、八氏の再生装置についての文章があり、
八人に宛てた黒田先生の手紙がある。

瀬川先生への手紙「アダージョ・ドルチェ」、
岩崎先生への手紙「アレグロ・コン・ブリオ」には、
「さわやか」という黒田先生による表現が共通している。

Date: 1月 2nd, 2012
Cate: 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明氏と瀬川冬樹氏のこと(その8)

岩崎先生の書かれたものをステレオサウンドなりスイングジャーナルに掲載されたときに読んできたわけではない、
ということは以前にも書いたとおりである。
そのことが、岩崎先生とライバル関係にあったのは、ジャズという共通項目だけで、
菅野先生がライバルだと思い込んできたことに、いま思うと関係している。

それこそ10年はやく生れていて、岩崎先生の文章が掲載されるオーディオ雑誌の発売を楽しみに待って読む、
という体験があったなら、岩崎先生とライバル関係にあったのは菅野先生だけではない、ということに、
もっとはやくに気がついていたはずだ。

菅野先生と瀬川先生はライバル、
岩崎先生と菅野先生はライバル、
瀬川先生と岩崎先生もライバル。
このライバル関係は三角形を形成する。

なんとおもしろい時代だったのか、と思う。
そして羨ましくも思う……。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: re:code

re:code(その3)

黒田先生は、次のように書かれている。
     *
しかし、蓄音機=再生装置とは、いったいなにか。
蓄音機=再生装置は、機能の面でいうと一種の情報解読機である。レコード面の溝にきざまれている凹凸は、たとえ虫メガネでみようと、顕微鏡でみようと、なにがなんだか皆目わからない。レコードは、蓄音機=再生装置にかけてはじめて、レコードとしての意味をもつ。レコード面の溝にきざまれている凹凸という暗号を針先でこすって、そこから音をみちびきだす。そのことに限っていえば昔も今もさして変わらない。
     *
黒田先生は蓄音器=再生装置を、一種の情報解読機とされているし、
レコード面の溝にきざまれている凹凸という暗号、という表現も使われている。
情報解読機を暗号解読機ととらえても問題なかろう。

再生側のオーディオ機器は、暗号解読器であり、
録音側のオーディオ機器は、暗号生成器ということになる。

こう考えていくと、暗号はcode(コード)であるから、
オーディオにおけるレコード(record)とは、暗号を記録したモノであり、
その暗号を、オーディオ機器によって聴き手が、
別項「音を表現するということ」に書いているようにリモデリングして、
リレンダリングして、リプロデュースしていくと考えれば、その元となるレコードは、re:codeでもあるはずだ。

レコードをrecordでもあり、re:codeでもある、ととらえることで、
オーディオとは何モノなのかが、よりはっきりと浮び上ってくるのではないだろうか。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: re:code

re:code(その2)

なぜ録音に関しては、その記録の確認に器械を必要とするのか。
それは音を記録にするにあたって、ある種の暗号化が行われているから、である。

暗号化というと、デジタル方式は、アナログ信号を0と1のデジタル信号に変換するのだから、
そういえるだろうが、アナログ方式ではアナログ信号のまま取り扱うから暗号化しているわけではない、
と受けとられる方もいよう。

でもテープへの記録は、マイクロフォンがとらえた振動を電気信号に変換して、
さらに録音ヘッドによって磁気に変換して磁気テープに記録する。
CDがデジタル式の暗号化であるならば、磁気録音はアナログ式の暗号化といえる。
つまり暗号化された信号が磁気テープには記録されている。
だからその暗号を解読する器械が必要となるわけだ。

アナログディスクへの記録もそうだ。
電気信号を振動へと変換して記録しているから、その暗号を解読するには専用の器械を必要とする。
アナログディスクで、溝のうねり具合で、フォルティシモがわかるのは、
磁気テープにくらべて暗号化の度合いが低い、ということになろうか。

つまり再生側のオーディオ機器は、暗号解読器といえる。
このことは、すでに黒田先生がずっと以前に書かれている。

黒田先生の著書「レコード・トライアングル」におさめられている
「〈レコードのレコード〉でレコードを考える」のなかに出てくる。
黒田先生が「〈レコードのレコード〉でレコードを考える」を書かれたのは、ステレオ誌1977年1月号であるから、
1976年11月から12月にかけて、ということになる。30年以上の前のことだ。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: re:code

re:code(その1)

CDが登場する1982年以前は、オーディオにおいてレコードはアナログディスクのことを指していた。
レコード(record)は、記録、成績という意味ももつから、
LPやSP、シングル盤(EP)といったアナログディスクだけではなく、テープもレコードということになるのだが、
そんなことはわかっているオーディオマニアのあいだでも、レコードはアナログディスクのことであり、
テープはテープ、もしくはヒモという。

アナログからデジタルに変っても、レコードは記録されたもの、ということに変りはないから、
CDもDVDもSACD、DATなどもレコードのなかに含まれる。
とはいうものの、いまもレコードというと、アナログディスクのことになってしまう。

同じ記録するものとして、写真がある。
写真を撮る器械はカメラである。
レンズがあり、カメラ本体があり、フィルムがある。
録音ではレンズがマイクロフォンにあたり、カメラ本体はテープデッキ本体、
フィルムが磁気テープ、ということになる。

レンズがとらえた光はフィルムに記録される、マイクロフォンがとらえた音は磁気テープに記録される。
フィルムは現像しなければならないが、フィルムに記録されているものは、
レンズがとらえた一瞬を、ほぼそのままの形で記録する、と、録音と比較すると、そういえる。
ネガフィルムでは色まではわからないものの、なにをがそこに写っているのかは、フィルムをみるだけでわかる。
ポジフィルムであれば色までわかる。
現像されていれば、フィルムに写っている記録をみるのに特別な器械は必要としない。
たしかにビューアーがあった拡大鏡があれば細部まではっきり見ることができるけれど、
何が写っているのかを確かめるのであれば、それらはモノは特に必要としない。

録音の場合はそうはいかない。目の前にある磁気テープに何が録音されているのかは、
目で見ただけではなにもわからない。
録音と同じようにテープデッキという器械と、あとすくなくとも音を出すモノ(ヘッドフォン)は必要となる。

録音に関してはテープ録音だけではない。ディスク録音でも同じことだ。
溝のうねりをみて、ここはフォルティシモが刻まれているな、ぐらいは判断できても、
溝の形を見ただけで、どんな音楽がそこに記録されているのかを判断できる人は、まずいない。
ここでも、その記録を耳で確かめるためには、なんらかの最低限の器械を必要とする。

Date: 1月 1st, 2012
Cate: 黒田恭一

黒田恭一氏のこと

黒田恭一(1938年1月1日 – 2009年5月29日)