瀬川先生への追悼文の中で、菅野先生は
「僕が高校生、彼は僕より三歳下だから中学生であったはずの頃、
われわれは互いの友人を介して知り会った。いわば幼友達である。」と書かれている。
菅野先生は1932年9月、瀬川先生は1935年1月生まれだから、学年は2つ違う。
ということは、菅野先生が高校一年か二年のときとなる。
けれど、去年の27回忌の集まりの時、菅野先生が、
「瀬川さんと出会ったのは、ぼくが中学生、彼が小学生のときだった」と話された。
みんな驚いていた。私も驚いた。
27回忌の集まりは、二次会、三次会……五次会まで、朝5時まで6人が残っていたが、
「さっき菅野先生の話、びっくりしたけど、そうだったの?」という言葉が、やっぱり出てきた。
それからしばらくして菅野先生とお会いしたときに、自然とそのことが話題になった。
やはり最初の出会いは、菅野先生が中学生、瀬川先生が小学生のときである。
「互いの友人」とは、佐藤信夫氏である。
「レトリックの記号論」「レトリック感覚」「レトリック事典」などの著者の、佐藤氏だ。
佐藤氏の家に菅野先生が遊びに行くと、部屋の片隅に、いつも小学生がちょこんと正座していた。
大村一郎少年だ。いつもだまって、菅野先生と佐藤氏の話をきいていたとのこと。
何度かそういうことがあって、菅野先生が佐藤氏にたずねると、紹介してくれて、
音楽の話をされたそうだ。いきおい表情が活き活きとしてきた大村少年。
けれど3人で集まることはなくなり、菅野先生は高校生に。
ある日、電車に乗っていると、「菅野さんですよね?」と声をかけてきた中学生がいた。
中学生になった大村少年だ。
「ひさしぶり」と挨拶を交わした後、
「今日、時間ありますか。もしよかったら、うちの音、聴きに来られませんか。」と菅野先生をさそわれた。
当時はモノーラル。アンプもスピーカーも自作が当然の時代だ。
お手製の紙ホーンから鳴ってきた音は、
「あのときからすでに、オームの音だったよ、瀬川冬樹の音だった」。
瀬川冬樹のペンネームを使われる前からつきあいのある方たち、
菅野先生、長島先生、山中先生、井上先生たちは、大村にひっかけて、
オームと、瀬川先生のことを呼ばれる。
瀬川先生自身、ラジオ技術誌の編集者時代、オームのペンネームを使われていた。
菅野先生と瀬川先生の出会い──、
人は出会うべくして出逢う、そういう不思議な縁があきらかに存在する。ほんとうにそう思えてならない。