Archive for category テーマ

Date: 4月 7th, 2025
Cate: 終のスピーカー

エラック 4PI PLUS.2のこと(その14)

ずっと以前からトゥイーターを変えたり足したりしたら、
低音域の鳴り方が変る、と言われてきている。

自作スピーカーでマルチウェイシステムに取り組んでいる人、
既成スピーカーシステムでもスーパートゥイーターをつけている人、
トゥイーターを交換したことのある人にとっては、常識でもある。

とはいってもそういう経験のない人もいる。
ない人の方が多いのかもしれない。

知識として、トゥイーターが変る、
高音域の鳴り方が変れば、低音域の鳴り方も変化することは知っていても、
だからといって体験しているわけではない。

実際、エラックの4PI PLUS.2を足すことで、
低音域の鳴り方は良くなる。

言い方を変えれば、低音域の鳴り方が良くならなければ、
そのトゥイーターの質が良くないのか、調整が悪いのかであるともいえる。

4月2日のaudio wednesdsyで、エラック無しの音も聴かせてほしい、とリクエストがあった。
どのMQA-CDでエラックのあるなしを聴いてもらうか、
よく考えていたわけではなく、かけたいMQA-CDをかけて、
その鳴り方をきいたうえて、このディスクにしようと、いわば直感的に決めた。

“John Coltrane & Johnny Hartman”にした。

Date: 4月 6th, 2025
Cate: ディスク/ブック

Mauriat 100(その3)

イージーリスニングとかムード音楽、そんなふうにポール・モーリアの音楽は受け止められ、聴かれていた。

ポール・モーリアは、ポピュラー音楽とクラシック音楽の中間に位置すると、
自身の曲について、そう語っていたそうであるにも関わらず、
世間の受け止め方は、他の音楽よりも低き位置にあるものだったと感じる。
BGM、聞き流しのための音楽、邪魔にならない音楽──、
そんな感じだろう。

それでも一度きちんと向かい合って聴いてみれば、
そんな音楽ではないことは、ほとんどの人の耳に明らかなはず。

聴かずにいてもいいし、それじゃ一度聴いてみるか、となるのも、どちらでもいい。

聴いた方がいいとは言わないが、
ポール・モーリアの曲をかけて楽しめないシステム(音)は、
どこか未熟なところや不具合がある、と言っていいだろうぐらいに、
いまは、思っている。

そして今年はポール・モーリア生誕百年。
だからといってレコード会社が、何かやるわけでもないし、
音楽雑誌が特集を企画するわけでもない。
ひっそりと過ぎていくだけだろう。

私も、今年が生誕百年とは気づいていなかった。

今年のaudio wednesdayから、よく来られる、私よりもひと世代上の女性の方から教えてもらった。
ポール・モーリアの曲をかけたから、知ることができた。

Date: 4月 5th, 2025
Cate: audio wednesday

audio wednesday (next decade) –今後の予定

4月2日のaudio wednesdayの準備をしている時、
野口晴哉氏のリスニングルームのコーナーにあるヴァイタヴォックスのCN191が、
「鳴らしてみろ」と言ってきたように感じた。

スピーカーがもの言うわけではない。
私の勝手な思い込みなのはわかっていても、そんなふうに感じたのも事実。

そうなるとCN191を年内に鳴らしてみたくなる。

CN191がうまく鳴っているのを聴いたことがない。
もちろん鳴らしてみたこともない。

すんなり鳴ってくれるとは思っていないので、
鳴らすとしたら二回、もしくは三回続けて鳴らすことになろう。

それから7月は第一水曜日の2日ではなく、第二水曜日の9日になる。

Date: 4月 4th, 2025
Cate: ディスク/ブック

Mauriat 100(その2)

フランコ・セルブリンのKtêmaはイタリア、
エラックの4PIPLUS.2はドイツ。
なのにポール・モーリア・オーケストラはフランスだということを、
今回初めて意識した。

それに上手い、とも思っていた。
こんなに細かい指揮をしていたのかと感心もしていた。

もうひとつ、フィリップスによる録音だからこそのポール・モーリアだな、とも思っていた。

フィリップス以前、別のレーベルで録音していたようだが、
私がポール・モーリアの名を聞いて頭に浮かべる曲は、
すべてフィリップス時代のものばかり。

もし、これらの曲が、ドイツ・グラモフォンだったり、
デッカだったりしたら、どうだっただろか──、そんなことも想像していた。

それでもヒットはしていただろうが、やはりフィリップスによる録音だったからこその要素もあると感じている。

Date: 4月 3rd, 2025
Cate: audio wednesday

audio wednesday (next decade) –第十六夜(FRANCO SERBLIN Ktêma)

5月7日のaudio wednesdayでも、フランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らす。
どう鳴らすかは、まだ決めていないが、なんらかの趣向を凝らすのもいいけれど、
ただただ聴いてもらうのもいいと考えている。

Date: 4月 3rd, 2025
Cate: ディスク/ブック

Mauriat 100(その1)

Paul Mauriat(ポール・モーリア)。
どんな人なのか知らなくても、どこかでポール・モーリアの曲は耳にしているはず。

先月のaudio wednesdayで、ポール・モーリアのMQA-CDをかけた。
私は持っていないけれど、メリディアンの輸入元のハイレスミュージックの鈴木さんが持ってきてくれた中にあった。

私の世代は、けっこういろんなところで、ポール・モーリアの曲は聴いている。
テレビからもよく流れていた。
それでもLPやCDを買って聴いていたわけではない。

私もきちんと聴いたのは、3月のaudio wendnesdayが初めてだった。

昨晩のaudio wednesdayでもかけた。
先月とラインナップは同じ。ケーブルも同じで、スピーカーの位置もほぼ同じ。
違うのは、昨晩はフランコ・セルブリンの上に、エラックの4PI PLUS.2をのせていたことだ。

リボン型、水平方向無指向性のスーパートゥイーターを足すことで、どんなふうに変るのか。
そのことを聴いてもらいたいので、
かける曲も先月から大きく離れることはしなかった。

ポール・モーリアも、だからかけた。
良かった、予想以上に良かった。

Date: 4月 2nd, 2025
Cate: スピーカーの述懐

スピーカーの述懐(その59)

ステレオサウンド 8号掲載の音楽評論家の向坂正久氏が「音楽評論とは何か」で書かれている。
     *
 では一体、評論の望ましい型とはどんなものか具体的にあげてみよう。私はオーディオに関して全く無知であるが、本誌の「実感的オーディオ論」を毎号愉しみにして読んでいる。製品名などで、その表現のいわんとするところの幅がわからぬこともないではないが、そこには五味康祐という一人の人間が、オーディオの世界で夢み、苦闘している姿が生きている。ひと言でいえば体臭がある。この体臭とは頭脳だけからは決してうまれない。オーディオという無限の魅惑が、その肉体を通して語られることの、紛れもない証左である。
     *
オーディオ機器についてなんらかを語るということ、
その中でも特にスピーカーについて語るということは、
まさにこういうことであるはずなのに、
オーディオ雑誌、インターネットに氾濫している中のどれだけが、そうと言えるだろうか。

Date: 4月 1st, 2025
Cate: audio wednesday

audio wednesday (next decade) –第十五夜(FRANCO SERBLIN Ktêma+1.0・いよいよ明日)

明日(4月2日)のaudio wednesdayは、三たびフランコ・セルブリンのKtêmaを鳴らす。
今回は、Ktêmaにエラックの4PI PLUS.2を足して鳴らす。

Ktêmaにスーパートゥイーターを足すことが、必ずしもいい結果につながっていくのか、
やってみなければわからないが、本音だ。

出さない方が良かった──、という結果になるかもしれないが、
仮にそうなったとしても、得られることはあると思っている。

Ktêmaについて得られること、4PI PLUS.2について得られること、
スピーカーシステムについて得られたことは、少なからずある。

聴く人によって、その得られることは違ってこよう。
だからこそオーディオは面白い。

先月に引き続き、今回もメリディアンのULTRA DACで、MQA-CDをかける。

開始時間は19時。終了時間は22時。
開場は18時から。

会場の住所は、東京都狛江市元和泉2-14-3。
最寄り駅は小田急線の狛江駅。

参加費として2,500円いただく。ワンドリンク付き。
大学生以下は無料。

Date: 3月 31st, 2025
Cate: ディスク/ブック

宿題としての一枚(その15)

1982年からステレオサウンドで働くようになったので、
五味先生と会えることはかなわなかった。

この項では私にとっての宿題としての一枚について書いているのだが、
五味先生からの「宿題としての一枚」は、どれだろうか、と考える時がある。

とても難しく悩む問いである。

明日(4月1日)は、五味先生の命日だ。

Date: 3月 30th, 2025
Cate: スピーカーの述懐

スピーカーの述懐(その58)

いまはどうなのだろか。
昔は、あの人が鳴らすアルテックは、いい感じなんだよ、
そんなことが言われていた。

アルテックのところは、タンノイでもJBLでもいい。
スピーカーのブランドが、そこには入る。

ここでの、いい感じで鳴るは、
アルテックはアルテックらしい音で、タンノイはタンノイらしい音で鳴ることであって、
よくアルテックらしくない音、JBLらしくない音で鳴らすのを、
ありがたがる人、自慢する人も昔からいるけれど、
そのスピーカーがそのスピーカーらしく鳴る(鳴らせる)のは、
そのスピーカーとその人との相性がいいからなのかもしれない。

アルテックのスピーカーをいい感じで鳴らせる人がいる。
その人がアルテックのスピーカーが好きならば、何もいうことはないのだが、
アルテックではなく、JBLとかタンノイの方を好きだったりする。

そしてJBLとかタンノイをうまく鳴らせるわけではなかったりすることもある。

こういう場合、アルテックを鳴らすのが、その人にとって幸せなのか、
それとも好きなスピーカーをうまく鳴らさなくても、鳴らしていくことが幸せなのか。

Date: 3月 29th, 2025
Cate: audio wednesday

audio wednesday (next decade) –第十五夜(FRANCO SERBLIN Ktêma+1.0)

4月2日のaudio wednesdayでも、フランコ・セルブリンのKtêma を鳴らす。

今回は、エラックのリボン型トゥイーター、4PI PLUS.2も一緒に鳴らす。

2月と3月の音、特に3月の音から、どう変化するのか。
このことを聴いてもらいたいので、今回もMQA-CDを鳴らす。

Date: 3月 29th, 2025
Cate: ちいさな結論

ちいさな結論(問いつづけなくてはならないこと・その6)

美しく聴くということは、
スピーカーから美しい音が出たから美しく聴く、というとではなく、
美しい音をスピーカーから出すために美しく聴く、ということだ。

Date: 3月 28th, 2025
Cate: 電源

ACアダプターという電源(その8)

富田嘉和氏が、ラジオ技術で1988年ごろの連載で、
興味深いアンプの試作について書かれていたのを記憶している。

差動回路ではなく、真空管アンプの回路をトランジスターに置き換えたといえる回路で、
増幅回路そのものは目新しくはなかった。
古典的といえる回路なのだが、違うのは各増幅段ごとに安定化電源回路が設けられていることだった。

各増幅段ごとに安定化電源を設けるのは、
すでに安井 章氏が発表されていたから、それ自体は目新しくはない。

安井 章氏のローカル電源はシリーズ型だった。
富田嘉和氏のローカル電源は、定電流回路とシャント型を組み合わせたものだった(はずだ)。

手元に、そのラジオ技術がないので記憶に頼って書いているのだが、
その回路はスタックスのスーパーシャントレギュレーターを、
簡略化してローカル電源として各増幅段に設けるというものだった。

かなりの好結果が得られたようで、
確か低音域の解像度がかなり向上したと書かれていたと記憶している。

この回路はアースに流れる電流を常に一定にしようというもので、
アース電位の変動による音質劣化を解消しようというものと、
私は理解している。

もっとも記憶違いも考えられるので、
いま、その回路を見たら違う解釈をするかもしれないが、
大きく外れてはいないはずだ。

この富田嘉和氏の電源に対する答が、
私のなかでは、スーパーシャントレギュレーター回路への関心を、
さらに強めることになった。

Date: 3月 27th, 2025
Cate: オーディオマニア

オーディオマニアとして(圧倒的であれ・その13)

人は、好きなスピーカーを必ずしもうまく鳴らせるとは限らない。
こういう音がスピーカーから出てきてほしいと望んでいても、それが必ずしも鳴らせるとは限らない。

つまりオーディオマニアとして、できないことが常にある、と言っていい。

何が「できない」のかをはっきり見極めることは大事だし、その「できない」をしっかりと受け止めて、負けないことも大事である。

「できない」から目を逸らせてしまうと、腐っていくだけだ。

Date: 3月 26th, 2025
Cate: スピーカーの述懐

スピーカーの述懐(その57)

いわゆる耳のいい人というのは、割といるものだ。
細かな音の違いを聴き分ける人で、
破綻のない文章が書けて、オーディオの技術にも、ある程度明るいと思われていれば、
オーディオ評論家として食っていけるであろう。

もちろん周りへの配慮、営業力みたいなことも求められるけれど、
いまオーディオ評論家として食っていけていても、
その人たちをオーディオ評論家(職能家)と呼べないのは、
洞察力が欠けているからではないのか。