Archive for category テーマ

Date: 5月 25th, 2014
Cate: audio wednesday

第41回audio sharing例会のお知らせ(試聴ディスクのこと)

いまJBLの4350について書いている。
その中でチャック・マンジョーネの「サンチェスの子供たち」のことについてふれたことで、
facebookで、このことが話題になった。
いくつかのコメントの中で、試聴ディスクについて知りたい、というのがあった。

最近では視聴と書く人が、少なくともインターネットでは多くなってきているが、
あくまでも試聴であり、試聴のためにかけるディスクを試聴ディスク、試聴LP、試聴CDという。

ステレオサウンドで働いていたから、かなりの数の試聴ディスクを聴いてきた。
それ以前、ステレオサウンドの読者だったころも、どんなディスクを使われているのかは非常に興味があった。

試聴ディスクとは、いったいどういうものなのか。
どういう基準によって、試聴ディスクを選ぶのか。

いわゆる優秀録音と呼ばれていれば試聴ディスクとして十分なのたろうか。

試聴といっても、例えばスピーカーやアンプの総テストでは、
かなりの数のスピーカーなりアンプを聴く。
そういうときに使うのも試聴ディスクである。

一方で新製品として登場してきたスピーカーなりアンプを聴くときに使うのも試聴ディスクである。

さらに試聴室でもいい、自分のリスニングルームでもいい。
あるシステムからいい音を抽き出すために調整していくために聴くディスクもまた試聴ディスクである。

試聴ディスクで、ひとつのテーマになる。

来月のaudio sharing例会では、この試聴ディスクをテーマにしようと思っている。

6月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 23rd, 2014
Cate: iPod

ある写真とおもったこと(野獣死すべし)

昼ごろtwitterを眺めていたら、あるツイートが目に留った。
映画「野獣死すべし」で松田優作演じる伊達邦彦が自室で聴くスピーカーはJBL、というものだった。

「野獣死すべし」は観たことがなかった。
JBLが登場するのであれば観ておこう、とHuluのラインナップにあることは知っていたので、さっそく観た。

確かにスピーカーシステム、それもフロアー型が登場する。
38cm口径と思われるウーファー(コルゲーションつきのコーン紙はJBLによく似ている)、
それにスラントプレートの音響レンズがついている。
パッと見た目、JBLのスピーカーと勘違いする人がいるかもしれない。

「野獣死すべし」の冒頭でスピーカーは映っている。
部屋を流して映すシーンで、ぼんやりとだがJBLのスピーカーではないことはわかる。
オンキョーのScepter 500である。

Scepter 500は1977年11月に出ている。
38cm口径のウーファー、セクトラルホーンのスコーカー、スラントプレートの音響レンズつきのトゥイーター、
14kHz以上を受け持つスーパートゥイーター(ホーン型)の4ウェイである。
このScepter 500は、同時期のオンキョーのサブウーファーSL1が追加されている。

映画のなかほど、松田優作がスピーカーの前にうずくまり、音楽を聴くシーンがある。
ウーファーに耳をくっつけんばかりにしている。

「野獣死すべし」は1980年の映画だから、まだ登場していなかったスピーカーのことをいってもしかたないが、
このシーンによりぴったりのスピーカーは、同じオンキョーならば,1984年登場のGrand Scepterである。

オールホーン型の2ウェイシステム。
こう説明してしまうと、このスピーカーの音を聴いたことがない人は、
実際の音とは正反対の音を想像してしまうかもしれない。

Grand Scepterというスピーカーは、巨大なヘッドフォンともいえる。
しかも、私にはスピーカーの前にうずくまくるような聴き方に寄り添う音色のように感じている。
どこかうつむきがちな音という印象が、私には残っている。

だから、あのシーンに向いている、と思ったわけだ。
そして、そういうところはアクースタットのスピーカーの世界と共通するところがある、とおもっていた。

方式こそ大きく違えども、どちらもその方式での理想を追求しているところがある。
アメリカと日本から、1980年代に、このふたつのスピーカーは登場した。
そこに共通する世界があること。時代が要求する音だったのかもしれない。

Date: 5月 22nd, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その6)

このテーマを書く気になったのは、twitterで、
私のシステムでも、マーラーを聴くにも十分だ、というツイートを見たからだった。

私がフォローしている人が書いたことではなく、
私がフォローしている人がリツイートしたもの。

それを見た時に、いまも、こういうことを書く人がいるのか、が正直な気持だった。
いったいどういう人なのだろう、と、リツイート先の人のところを見てみた。

だが、マーラーを聴くにも十分だ、ということに関係するツイートはなかった。

まったく面識のない人の書き込み。
それも短い書き込み。
それゆえにあれこれ想像してしまい、このテーマを書くことにした。

マーラーを聴くにも十分だ、という人は、いったいどこまでのマーラーを聴いているのだろうか。

1947年録音のワルターのマーラーぐらいまでなのか、
1963年のバーンスタインのマーラーぐらいまでなのか、
1973年のカラヤンのマーラーぐらいまでなのか。
それとも最新録音のマーラーを含めての、「マーラーを聴くにも十分だ」なのかがはっきりしない。

おそらくこの人のいわんとしていることは、
自分は音ではなくマーラーの音楽を聴いている、だから最新の、大がかりなシステムでなくとも十分である、
そういうことを主張したいのだとは思う。

Date: 5月 21st, 2014
Cate: JBL, Studio Monitor, 型番

JBL Studio Monitor(型番について・余談)

D/Aコンバーターを自作しようと考えたことのある人、
そこまでいかなくとも市販のD/Aコンバーターの内部に興味のある人にとって、
シーラス・ロジック(CIRRUS LOGIC)の名前は聞いたことがあることだろう。

仮になかったとしても、CS8412といった型番は記憶のどこかにあるとおもう。

シーラス・ロジックはD/Aコンバーターのチップもつくっている。
このシリーズの型番は43ではじまる。
CS4341、CS4344、CS4345、CS4348、CS4350、CS4365と、
JBLのスタジオモニター4300シリーズの型番と重なるものがある。

こういう型番を見ると、単純に嬉しい。

シーラス・ロジックの場合、電子部品だからあまり馴染みはないだろうが、
ソニーの1970年代半ばの製品には、PS4350(アナログプレーヤー)、
TC4350SD(オープンリールデッキ)があった。

オーディオとはまったく関係ないけれど、4300シリーズの数字をよく見かけるものとして、
アメリカのドラマ「デスパレートな妻たち」がある。
登場人物が住む家には、それぞれ番地が大きく表示されていて、ほとんどが4300番台なのだ。
4355という家も登場する。

単なる数字でしかない。
シーラス・ロジックの製品が43から始まるのは単なる偶然だろうし、
デスパレートな妻たちの番地もたまたまなのだろう。
それでも、もしかすると……、と考えるのが馬鹿馬鹿しいのはわかっていても楽しかったりする。

Date: 5月 21st, 2014
Cate: audio wednesday

第41回audio sharing例会のお知らせ

6月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

テーマについて、後日書く予定です。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 5月 18th, 2014
Cate: 「うつ・」

うつ・し、うつ・す(その3)

音は人なり、ということから、その人が鳴らす音は鳴らし手をうつす鏡であるということは、
ずっと昔からいわれ続けている。

鏡といえば、鏡ともいえよう。

だが鏡には、実のところ何もうつってはいない。
鏡が正面にある。
そこには自分の姿が映っている。

けれど鏡を斜めから見ている人と正面から見ている人とで、
鏡に見ているものは違っている。

鏡が映画のスクリーンのように何かを映し出しているのであれば、
正面の人も斜めの人も同じものを見れるはずだが、そんなことはない。
それが鏡である。

誰も鏡のほんとうの姿をみることはできない。

だから音を鏡にたとえることには完全には同意できないでいる。
でも、その反面、そういう鏡だからこそ、オーディオ(2チャンネル方式)の音と似ている、ともおもえてくる。

Date: 5月 16th, 2014
Cate: High Fidelity

ハイ・フィデリティ再考(モーツァルトのレクィエム)

モーツァルトのレクィエムを聴きおわると、よくおもうことがある。

私達が聴けるレクィエムは、誰かの補筆が加わっている。
ジュースマイヤーであったり、バイヤーであったり、ほかの人であることもある。

モーツァルトの自筆譜のところと誰かの補筆によるところとの音楽的差違はいかんともしがたいわけだが、
ならばその音楽的差違をはっきりと聴き手に知らせる(わからせる)演奏が、
ハイ・フィデリティなのだろうか、と思う。

そこには音楽的差違がある以上、
それをはっきりと音にするのが演奏家としてハイ・フィデリティということになる──。

それでも思うのは、誰かの補筆が加わっていてもモーツァルトのレクィエムとして聴きたい気持があるからだ。
音楽的差違をはっきりと示してくれる演奏よりも、そうでないほうがいいとも思う。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その5)

1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムであれば、
1963年録音のバーンスタインのマーラーも、
1947年録音のワルターのマーラーも過不足なく聴かせてくれる、といえる。

1963年録音のバーンスタインのマーラーを過不足なく聴かせるシステムは、
1947年録音のワルターのマーラーも過不足なく聴かせてくれるけれど、
1973年録音のカラヤンのマーラーとなると、必ずしもそうとはいえない。

1963年録音のバーンスタインのマーラーを過不足なく聴かせるシステムの中には、
1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムもあれば、そうでないシステムもある。

1973年録音のカラヤンのマーラーを過不足なく聴かせるシステムが、
1980年録音のアバドのマーラーを、1986年録音のインバルのマーラーを過不足なく聴かせてくれるとはかぎらない。

今日のマーラーを過不足なく鳴らせたとしても、
それは明日のマーラーを過不足なく鳴らせるという保証とはなり得ない。

レコード(録音されたもの)をオーディオを介して聴く、という行為には、常にこの問題がつきまとう。
これから先、どれだけ時間が経ち、技術が進歩しようとも、この問題がなくなることはまずありえない。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その4)

「レコードにおけるマーラーの〈音〉のきこえ方」に、こう書いてある。
     *
 レコーディング・エンジニア側での思いやりがあってできたレコードであるから、ききての側で、そのレコードをかけるにあたってのことさらの苦労はいらない。そのレコードをきくかぎり、再生装置についての心配は、ほとんどいらない。ロジャースLS3/5Aモニターという、幅十八・五センチ×高さ三十センチ×奥行き十六センチという小さなスピーカーできこうと、JBL4343というフロア型スピーカーできこうとその一九四七年に録音されたワルターのレコードをきいているかぎりでは、そのいずれできいてもことさらの差はない。
 ところが、一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードとなると、事情は少なからず変わってくる。たいした差はないとはいいがたい。ロジャースできいたものと、高さが一メートル五センチあるJBL4343できいたものとでは、あきらかに違う。ここでは、先ほどの言葉でいえば、レコードを録音する側でのききてに対しての思いやりが薄れている。あたかもそこでの音は、これだけの大がかりなシンフォニーをきこうとしているあなたなら、それ相応の再生装置でおききになるのでしょう——とでもいいたがっているかのようである。
 大太鼓のとどろきだけを取りだしていうと、そのバーンスタインのレコードでは、からppへ、そしてppからpppへの変化が、歴然である。ただそれは大きい方のスピーカーできいたときにいえることで、小型スピーカーできいた場合には最後のpppによるとどろきはひどく暖昧なものとなってしまう。
     *
1947年のワルターと1963年のバーンスタインにおいて、これだけの差がある。
バーンスタインの10年後のカラヤンにおいてはどうなのか。
     *
 大太鼓の三つのとどろきのうちののとどろきとppのとどろきは小型スピーカーのほうでも、どうやらききとれるが、最後のpppのとどろきは精一杯に音量をあげてもほんの気配程度にしかきこえない。そこにその音があるということを知っていれば、耳をすましてなんとか感知できなくもないが、さもなければききのがしても不思議はないほどの微妙な音である。大きいほうのスピーカーできけば、そのようなことはない。バーンスタインのレコードでよりも、さらにはっきりと、ppの差を、pppppの差を、示す。大太鼓がオーケストラの一番奥にいることも、誰がきいてもわかるように、きこえる。そこで示されるひろがりは大変なものである。
 しかし——、そう、しかしといわなければならない。最後のとどろき、つまりpppのとどろきをきくためには、かなり音量をあげなければならない。このレコードのレコーディング・エンジニアには、ワルターのレコードのレコーディング・エンジニアにあったききてに対しての思いやりが欠けているとでもいうべきか。本来は微弱であるべき音を少し大きめにとってききてにその音の存在をわかりやすくさせようとするより、できるかぎりもともとの強弱のバランスに近づけようとしている。むろんそれは間違ったこととはいえない。ハイ・フィデリティの考えにたっての録音というべきであろう。たしかにその一九七三年に録音されたカラヤンのレコードは、一九四七年に録音されたワルターのレコードより、そして一九六三年に録音されたバーンスタインのレコードより、録音ということでいえば、抜きんでて素晴らしい。
     *
引用ばかりになるけれど、もうひとつステレオサウンド別冊「コンポーネントステレオの世界 ’76」の巻頭、
岡先生と瀬川先生、黒田先生による座談会、「オーディオシステムにおける音の音楽的意味あいをさぐる」で、
カラヤンのマーラについてふれられている。
     *
黒田 最近出たカラヤンのマーラーの第五番、この第一楽章の結尾で大太鼓の音が入っているんだけど、あるレコードコンサートでたいへん優れた録音の例としてその部分をかけたら、なぜか大太鼓が鳴らない(笑い)。
(中略)
 ぼくの装置だとちゃんとピアニッシモに入っているんです。ここのところでこのレコードの録音がよいのかわるいのかというのが、ひじょうに微妙になってくる。
     *
1947年のワルターから26年のあいだで、これだけ違ってきている。
1973年のカラヤンのあとに、アバド/シカゴ交響楽団による第五交響曲が出て、
インバル/フランクフルト放送交響楽団による録音が出、その後も多くの第五交響曲がいま市場にはある。

Date: 5月 15th, 2014
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その2)

最初にいっておきたいのは、オーディオのプロフェッショナルではないのだから、
すべてのアナログプレーヤーを使いこせるようになる必要はない、ということ。

自分の使っているアナログプレーヤー、
それは愛着がもてて信頼できるプレーヤーを見つけて手に入れて、
そのアナログプレーヤー、ただ一機種の使いこなしに長けていればいい。

ターンテーブルの駆動が、
ベルドドライヴ、リム(アイドラー)ドライヴ、ダイレクトドライヴ、どの方式でもあってもいい、
トーンアームもダイナミック型なのかスタティック型なのか、軸受けはどの方式なのか、
これもきちんとしたモノであれば、それでいい、
カートリッジも同じである。MC型でなければならないとか、そんなことはここでは関係ない。

とにかくこれが自分のアナログプレーヤーだといえるモノを見つけ出すことである。
それを手に入れる。

このアナログプレーヤーだけを使いこなせるようになれば、それでいい。

Date: 5月 14th, 2014
Cate: アナログディスク再生

アナログプレーヤーの設置・調整(その1)

このブログで、アナログプレーヤーの設置・調整に関することは書く必要はない──、
と最初のころは思っていた。
それが2008年のころ。

その後SNS(twitter、facebookなど)が日本でも急速に広まっていった。
どちらもやっている。
audio sharingというサイト、このaudio identity (designing)というブログをやっている関係から、
私がフォローする人、私をフォローする人は、オーディオに関心のある人が多い。

そうすればその人たちがSNSに書きこむものを毎日目にする。
そこにはオーディオ以外の話題のほうが多いのだが、オーディオのこともやはりある。
そしてアナログディスク、アナログプレーヤーに関するものも目にする。

これらを目にして思うのは、アナログプレーヤーの設置・調整に関して、
このブログで基本的なことを含めて、こまかなことにまで書いていく必要があるのかもしれない、と感じている。

世代によってはCDが身近な存在であり、
アナログディスク(LP)というものを後から知ったという人もいる。
私よりずっと長いアナログディスク歴の人もいる。

長いからすごい、というわけでもないし、短いから未熟ともいえない。
これは以前から感じていたことだが、SNSの普及でますますそれは強くなっている。

これはもう書いていく必要がある──、
そんなことを知っているよ、という人に対して、実のところ書いていく必要がある、と思っている。

Noise Control/Noise Designという手法(45回転LPのこと・その3)

私がアナログディスク固有のノイズに注目したのは、
CDが登場したばかりのとき、サンプリング周波数が44.1kHzだから、20kHz以上はまったく再生できない。
だからアナログディスクよりも音が悪い。
人間の耳の可聴帯域は20kHzまでといわれているけれど、実はもっと上の周波数まで感知できる。

とにかく、そんなことがいわれていた。

確かにサンプリング周波数が44.1kHzであれば、
アナログフィルターの遮断特性をふくめて考えれば20kHzまでとなる。
それで十分なのか、となれば、サンプリング周波数はもっと高い方がいい。

だからといって、サンプリング周波数が44.1kHzで20kHzまでだから……、というのは、
オーディオのことがよくわかっていない人がいうのならともかくも、
少なくとも音の美を追求してきた(している)と自認する人が、
こんなにも安易に音の美と周波数特性を結びつけてしまうことはないはずである。

FM放送のことを考えてみてほしい。
FM放送でライヴ中継を聴いたことが一度でもある人ならば、
その音の良さ、美しさを知っているはずだ。

この体験がある人はFMの原理、チューナーの仕組みを大ざっぱでいいから調べてみてほしい。
FM放送の周波数特性はCDよりも狭いのだから。

それでもライヴ中継の音の良さには、陶然となることがある。

Date: 5月 13th, 2014
Cate: 現代スピーカー

現代スピーカー考(その33)

リボン型、コンデンサー型、その他の全面駆動型のスピーカーユニットがある。
これらは振動板の全面に駆動力がかかっているから、振動板の剛性は原則として必要としない、とされている。

駆動力が振動板全体に均一にかかっていて、その振動板が周囲からの影響をまったく受けないのであれば、
たしかに振動板に剛性は必要ない、といえるだろう。

だがリボン型にしろコンデンサー型にしろ、一見全面駆動のように見えても、
微視的にみていけば駆動力にムラがあるのは容易に想像がつく。
だいたい人がつくり出すものに、完全な、ということはない。
そうであるかぎり完全な全面駆動は現実のモノとはならない。

ボイスコイルを振動板にプリントし、振動板の後方にマグネットを配置した平面型は、
コンデンサー型よりももっと駆動力に関しては不均一といえる。
そういう仕組みを、全面駆動を目指した方式だから、
さも振動板全体に均一に駆動力がかかっている……、と解説する人がいる。

コーン型やドーム型に対して、こうした方式を全面駆動ということは間違いとはいえないし、
私もそういうことがある。だが完全なる全面駆動ではないことは、ことわる。

もし全面駆動(つまり振動板全体に駆動力が均一にかかっている状態)が実現できていたら、
振動板の材質の違い(物性の違い)による音の差はなくなるはずである。
現実には、そうではない。ということは全面駆動はまだ絵空事に近い、といえる。

ただこれらの方式を否定したいから、こんなことを書いているのではない。
これらのスピーカーはピストニックモーションを追求したものであり、
ピストニックモーションを少しでも理想に近付けるには、振動板の剛性は高さが常に求められる。

剛性の追求(剛の世界)は、力まかせの世界でもある。
ジャーマン・フィジックスのDDD型ユニットを聴いてから、頓にそう感じるようになってきた。

Date: 5月 13th, 2014
Cate: 「オーディオ」考

十分だ、ということはあり得るのか(その3)

黒田先生の著書「レコード・トライアングル」に「レコードにおけるマーラーの〈音〉のきこえ方」がある。
1978年に書かれた、この文章で、黒田先生は三枚のマーラーの第五交響曲のレコードをとりあげられている。

一枚目は、ブルーノ・ワルター指揮ニューヨークフィルハーモニーによるもので、1947年録音。
二枚目は、レナード・バーンスタイン指揮ニューヨークフィルハーモニーで、
ワルターと同じコロムビアによるもので、1963年録音。
三枚目は、ヘルベルト・フォン・カラヤン指揮ベルリン・フィルハーモニーで、
1973年、ドイツ・グラモフォンによる録音。

一枚目は二枚目には16年、二枚目と三枚目には10年の開きがある。
一枚目のワルターによるマーラーは、当然モノーラルで、録音機材はすべて真空管式。

二枚目のバーンスタインからステレオ録音になるわけだが、
バーンスタインのころだと録音機材のすべてがトランジスターになっているかどうかは断言できない。
一部真空管式の機材が含まれていてもなんら不思議ではない。

三枚目のカラヤンにおいては、おそらくすべてトランジスター式の録音機材といえるだろう。
それにマイクロフォンの数も、同じステレオでもバーンスタインよりも増えている、とみていい。

録音機材、テクニックは、カラヤン/ベルリン・フィルハーモニーのマーラー以降も、
変化(進歩)しつづけている。

カラヤンの10年後の1983年ごろにはデジタル録音が主流になっているし、
さらに10年後の1993年、もう10年後の2003年、2013年とみていくと、
ワルターのマーラーから実に半世紀以上経っている。

マーラーの音楽に興味をもつ聴き手であれば、ワルターによるものももっているだろうし、
バーンスタイン、カラヤンも持っていて、さらに結構な枚数のマーラーのレコード(LP、CD)を持っている。
そして、それらを聴いている。

Date: 5月 12th, 2014
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(その19)

このことも別項「ある写真とおもったこと」に書いたことと重なるけれど、
オーディオと「ネットワーク」について考えていくと、共通体験の提供がある。

録音されたものは、そのままでは音は鳴ってこない。
レコードを頭の上にのせようと、耳にくっつけようと、
それだけでは音楽は聴こえてこない。しかるべき再生装置があって、そこに記録されている音楽を聴ける。

この再生装置(オーディオ)が、実に千差万別。
しかも同じオーディオ、仮に同じつくりの部屋で鳴らしたとしても、
鳴らす人が違えば同じ音が出ることはない。

人の数だけの音が鳴っている。

高価なオーディオでも、カセットテープに録音して外出時に聴くような場合でも、
人の数だけの音が鳴っている。

それがいま共通体験が可能になりつつある、といえるようになってきた。
本格的なオーディオでのみしか聴かない、という人を除けば、
つまりiPodで音楽を聴く、iPodでも音楽を聴くという人たちには、共通体験としての音楽が提供されている。

これはいままでなかったことであり、これからますます拡大していくことだろう。

オーディオと「ネットワーク」、ネットワークオーディオについて考えていくとき、
私は、分岐点(dividing)と統合点(combining)、フィルター(filtering)、
最終点と出発点の関係と境界、共通体験、これらのことばで対象を解体していくことになる。