Archive for category テーマ

Date: 2月 15th, 2015
Cate: オリジナル

オリジナルとは(STAR WARSの場合・その1)

2010年の映画に、「ピープルvsジョージ・ルーカス」がある。
スターウォーズの熱狂的なファンとスターウォーズの監督ジョージ・ルーカスの映画であり、
スターウォーズの熱狂的なファンのジョージ・ルーカスに対する愛憎をとらえたドキュメンタリーである。

スターウォーズは1977年に公開された。
映画館で観た世代だから、あのときの昂奮はいまも忘れられない。
この映画に登場するファンは、まさしく熱狂的とつけなくてはならないほどの人たち。

その彼らとジョージ・ルーカス側とでは、オリジナルに対する考えが違うことが、描かれている。

1977年公開のスターウォーズは、のちにEpisode IVと呼ばれるようになった。
旧三部作、新三部作があるためである。

1997年に旧三部作がリマスターされ、劇場公開された。
フィルムの洗浄から始まり、デジタル処理も施されている。

このリマスター版を、ジョージ・ルーカス側はオリジナルと位置づけている。
だが熱狂的なファンは、最初に劇場公開されたものをオリジナルとしている。

制作側は、当時の技術ではできなかったことを、20年後の技術で実現しようとする。
つまり制作側にとってのオリジナルとは、ジョージ・ルーカスの頭の中にあるものを映像化したもの、となる。
熱狂的なファンにとっては、ジョージ・ルーカスがそれをオリジナルといおうと、
あくまでもリマスターであり、オリジナルは当時劇場公開されたもの、
パッケージソフトではレザーディスクで発売されたもの、ということになる。
(この映画の公開後、DVDでも、いわゆるオリジナル版が出ている。)

それはリマスター版を認める認めないに関係なく、熱狂的なファンにとってはそうである。

映画の中でも取り上げられているが、
1980年代にモノクロ映画をカラー化しようという動きがあったときに、
ジョージ・ルーカスは反対の立場に立っている。
そういう彼が、自分の作品に対しては反対の立場をとっている。

何をもって「オリジナル」とするのか、
この映画でもそうだが、立場によって違うということに結局のところなってしまうのか。

Date: 2月 15th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その15)

オーディオという再生システムの中心をスピーカーとすれば、
組合せはスピーカーから始まるわけで、鳴らしたいスピーカーがまずあり、
そのためのシステムを組んでいく。

鳴らしたいスピーカーが能率がそれほど高くないモノ、
内蔵ネットワークは使用部品が多く、複雑なモノであれば、
ミニマルなシステムを組もうとしてもパワーアンプは必要となる。

にも関わらず、私はHUGOを主体とした組合せを考えている。
HUGOを主体としたミニマルなシステムを考えているわけで、
スピーカーを主体としたミニマルなシステムを考えているわけではない。

私は(その13)の最後に、
ミニマルという印象はHUGO単体が醸し出しているのではなく、
それをどう使ってみようか、という使い手側に潜んでいるということになるのか、
と書いた。

けれど、こうやって考えていくと、やはりHUGOにミニマルな要素があるということになるのか。
少なくとも私はHUGOにそういった要素を感じているから、
ここでこんなことを書き連ねている、ともいえる。

Date: 2月 14th, 2015
Cate: オーディオ入門

オーディオ入門・考(その6)

どんなことであっても、最初は何もわからない、知らないところから始める。
入門書は、そんな初心者、入門者が知りたいこと、疑問に感じていることについての答を提示する。
それを読み、初心者、入門者は基本となる知識を身につける。

入門書をこう定義すれば、「五味オーディオ教室」は優れた入門書とはいえない。

「五味オーディオ教室」に書かれてあることも、ある種の答とはいえる。
けれど、その「答」は読み手に、問い掛けをうながすものである。
だから、私は「五味オーディオ教室」をひじょうにすぐれた入門書だと思っている。
少なくとも私にとって、これ以上のオーディオの入門書はない、と断言できる。

これはひとつの運の良さともいえる。
どんなに「五味オーディオ教室」がすぐれた入門書であっても、
この本が出たのは1976年、それ以前にオーディオに関心をもった人には遅すぎた、ということになるし、
「五味オーディオ教室」はいつまで売っていたのだろうか。

CDが登場した1982年には手に入ったのだろうか。
1980年代後半にはみかけなくなっていたから、それ以降オーディオに関心をもった人も読めなかった。

いつ読んでも素晴らしい本は素晴らしい。
けれど入門書としての性格をおびた本であれば、
できれば初心者、入門者のうちに読んでおきたい。

「五味オーディオ教室」との出逢いがなかったら、
こうやってブログを書くようなことはしていなかったかもしれないし、
書いていたとしても、ずいぶん違うことを書いていたであろう。

Date: 2月 14th, 2015
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その5)

オーディオがベンチャービジネスであったころのアメリカにおいて、
アンプメーカーは雨後の竹の子のように多くのメーカーが生れていったが、
スピーカーメーカーとなると、そう数は多くない。

ステレオサウンド 46号の新製品紹介のページで、
井上先生と山中先生が、このことについて語られている。
     *
井上 こうした新メーカーが次々とあらわれてくる背景には、一つはアンプ自体が他のジャンルにくらべてシャーシなどの板金加工プラスL(コイル)、C(コンデンサー)、R(抵抗)、半導体と回路技術の知識があればすぐつくれる、つまり個人レベルでの製作が可能でなおかついいものをつくり出せる可能性を多分にもっている点があげられると思います。
山中 本当に、プリント基板を自分で書いて、ハンダゴテをもって組み立てるだけで試作機がすぐにできあがるわけです。試作機という言葉を意識的に使ったのは、アマチュアが偶然非常にセンスのいいアンプをつくったとしても起業として成り立つだけの製品になり得る可能性を他のオーディオ機器にくらべ多分にもっているからです。
 これが、スピーカーやプレーヤー、テープデッキでは、そうした個人の頭の中にできあがったものだけでいい製品ができるかといえば、その可能性は非常に少ないといえます。起業レベル、つまり資本力と設計、製作上のキャリアの蓄積がものをいう世界です。
井上 たとえば、スピーカーユニット一つを例にとっても、コーン紙はどうやってつくればいいか、フレームは、マグネットは、機械加工は……と考えると、やっぱり個人ではつくれませんね。開発費自体も物量を投入するだけに大きなものになります。また、コーン紙その他のパーツができたとしても、それを単純に組み合わせていい音がするかといったらそうはいかない。内部構造がシンプルでメカニカルな部分が多いですから、その点でキャリアが必要であり、データーではおし計ることのてきない試行錯誤のくりかえしから得たノウハウなどの占める割合が大きくなるといえます。
     *
1978年に46号は出ているから、これを読んだとき私は15歳。
なるほど、と素直に読んでいた。

けれど時代は変る。
それにつれてスピーカーの開発も変っていく。
新興スピーカーメーカーがいくつも登場してくるようになった。
それらのメーカーすべてがスピーカーユニットを自社開発・製造していたわけではなくなっていった。

Date: 2月 14th, 2015
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その4)

こういう人のことを、ひそかにマーク・レヴィンソン症候群と呼んでいる。

アメリカではマーク・レヴィンソンの成功に刺戟され、
第二、第三のマーク・レヴィンソンを目指すエンジニアがいた。
あのころ、オーディオはベンチャービジネスであった。

アメリカだけではない、日本にもそういう人たちはいた。
会社を興し成功した人もいれば失敗した人もいる。
いまも続いている会社があれば、あっという間に消えてしまった会社もいくつもある。

私は会社を興した経験はないけれど、あまり慎重になりすぎても起業することは無理であろう。
いくばくかの無謀ともいえる勢いがなければ起業はできないのかもしれない。

とはいえ、知人のようにスピーカーを自作する。
それが彼の好む音で鳴ってくれた。
そこには開発費も生じていない。
そのことで、彼自身が自分のことをすごいと思い込む。
それが勢いとなり、スピーカーメーカーを興せるのじゃないか、となる。

だが多くの人は、ここで周囲の人に聴いてもらうのではないだろうか。
少なくとも信頼できる人に聴いてもらい、その評価を受けとめる。
それでも評判がよければ、本気でオーディオメーカーを興そうとなるかもしれない。

そうやって誕生したメーカーは少なくない。

Date: 2月 14th, 2015
Cate: オーディオのプロフェッショナル

モノづくりとオーディオのプロフェッショナル(その3)

なんでも原価計算をしてしまう人が少なからずいる。
オーディオだけでなく、いろんなジャンルにそんな人がいる。

彼の多くに共通するのは、計算した結果を提示して、これらの製品は高すぎる、という。
中にはぼったくりだろう、といいたくなる価格の製品もないわけではないが、
多くの製品の場合、まずそんなことはない。

原価だけでモノがつくれるわけではないことは、多くの人が知っていることであり、
知っているから、あえて、そんな指摘は多くの人がやらない。

ほかのメーカーが開発したモノをそっくりコピーした製品をつくるにしても、
原価だけでは成り立たない。

原価計算がとにかく好きな人は、
なぜ原価のことしか考慮しないのだろうか。
この原価計算が好きな人と同じことを、(その2)で書いた知人は口にしていた、といえる。

塗装もしていない、ただつくりっぱなしの箱のスピーカーである。
スピーカーシステムとはとうていいえないレベルでとまっている。

内蔵ネットワークもないのだから、すべての調整はユーザーにまかせることになる。
そんなものと、メーカーがきちんと調整して仕上げも行って送り出す製品とを、
同列に並べて比較していることの愚かさになぜ気づかないのかと不思議になる。

知人がすごいのは、スピーカーメーカーを興せると思い込んでしまっていたところにある。
安くていい音のスピーカーを送り出せる自信に満ちていた。

Date: 2月 14th, 2015
Cate: 単純(simple)

シンプルであるために(ミニマルなシステム・その14)

CHORDのHUGO単体では荷が重いと思われるスピーカーはいくつもある。
そういうスピーカーのほうが、いまは多い。

そういうスピーカーを鳴らそうとしたら、なんらかのアンプが必要になる。
パワーアンプを一台用意すれば、レベルコントロールはHUGOでできるから、それで事足りる。

この場合のパワーアンプは、いわば必要なモノであるから、
HUGO、パワーアンプ、スピーカーというシステムは、最小である。
つまりはミニマルなシステムということになる。

それは頭ではわかっていることであっても、
心情的には(あくまでも私ひとりの心情として)、
パワーアンプを用意しなければ鳴らないスピーカーをもってくる時点で、もうミニマルとは感じない。

低能率の小型スピーカーを鳴らすために、
このスピーカーの何倍も大きく、重く、出力も数100W以上あるようなパワーアンプをもってきたら、
それは過剰すぎるという意味で、ミニマルなシステムとはいえなくなる。

でもそうでなくて、サイズ的にも出力としても必要な分だけの規模のパワーアンプであれば、
やはりそれはミニマルなシステムとなる。
でもくり返すが、それをミニマルとは心情的に納得し難い。

私に同意される人もいると思うし、パワーアンプを用意してもミニマルだろう、という人もいる。

私と同じようにミニマルを捉えてしまうと、
スピーカーの選択がかなり制約を受けてしまうことになる。

過剰すぎないパワーアンプを用意することまではミニマルと捉えれば、
スピーカーの選択に特に制約は生じなくなる。

Date: 2月 14th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(その3)

昨日、ある海外メーカーのオーディオ機器の修理のことが、facebookで話題になっていた。
このメーカーの製品を使っているユーザーのブログがリンクされていて、
コメントには、他のユーザーの方も実例があった。

この海外メーカーの製品はかなり高価なモノである。
このメーカーの輸入元は、かなり大きな規模の会社であり、
輸入だけでなく、オーディオ機器の開発も行っている。

そういうところだから、むしろ修理体制はしっかりしているように思われるけれど、
実際はどうもそうではないようである。

facebookに書かれていたことを疑うわけではないが、私自身の体験ではないから固有名詞は出さないが、
誰もが知っている会社である。

ある人は、ここが取り扱っているアンプが故障したため修理に出したら、
パーツが違うパーツに変っていた、とのこと。
そのことで輸入元に問い合せると、音は変りません、といわれたとある。

この輸入元は、使者が開発している製品のカタログでは、パーツのことにふれている。
もちろんパーツによって音が変ることを認めている。

にも関わらず輸入している製品となると、まったく反対のことを平気でユーザーにいう。
驚きよりも呆れる。
こうなると輸入元としての信用だけでなく、国内メーカーとしての信用もなくしてしまうことに、
このメーカーに勤務している人たちは気づかないのであろうか。

部署が違う──。
それが理由なのかもしれないが、そんなことはユーザーからすれば理由にはならない。
このメーカーの製品の購入を検討している人にも、理由にはならない。

同じ会社として見られているのだから。

Date: 2月 13th, 2015
Cate: 輸入商社/代理店

輸入商社なのか輸入代理店なのか(その2)

マークレビンソンのLNP2、JC2が話題になっている時代、
アメリカでは多くの小規模のアンプメーカーが誕生した。
その中にDBシステムズがあった。

プアマンズ・マークレビンソンとも呼ばれていたDBシステムズのアンプは、
徹底的にコストを削減するつくりだった。
お世辞にもおしゃれなアンプとはいえなかった。

コントロールアンプのDB1と電源のDB2の組合せで、当時20万円をすこしこえていた。
それほど考かなアンプではなかったけれど、
マークレビンソンのアンプに匹敵する切れ込みの鋭い音を特徴としていた。

当時の輸入元はRFエンタープライゼスだった。
その後、輸入元がナスカになった。

この輸入元はDBシステムズのアンプに惚れ込んだH氏が、
勤めていた会社(たしかシュリロ貿易だったはず)を辞めて、
DBシステムズの輸入のために興した会社だった。

こういう輸入元は会社の規模は小さくとも信頼できた。
修理に関してもきちんとしていた。
小さな輸入元だったから、大きな輸入元からすれば売行きは少ないだろうが、
DBシステムズに対する日本のユーザーの信頼は増していったように思う。

海外のオーディオ機器を輸入して売るだけならば、輸入代理店、輸入代理業としか呼べない。
会社の規模が大きかろうと、修理体制がいいかげんなところは、そう呼ぶしかない。

残念なことに、輸入代理店、輸入代理業としか呼べないところ、
しかも会社の規模の大きいところがそうである、ということを耳にすることが何度かある。

Date: 2月 11th, 2015
Cate: audio wednesday

第50回audio sharing例会のお知らせ

3月のaudio sharing例会は、4日(水曜日)です。

テーマはまだ決めていません。
時間はこれまでと同じ、夜7時です。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

Date: 2月 11th, 2015
Cate: 楷書/草書

楷書か草書か(その4)

その人の書く字と音(演奏)との関係で思い出すのは、
黒田先生の、カルロ・マリア・ジュリーニについて書かれた文章がまずある。

マガジンハウスから出ていた「音楽への礼状」に、この文章はおさめられている。
ジュリーニが、マーラーの交響曲第九番をシカゴ交響楽団と録音した1977年から五年後の1982年に、
ジュリーニはロサンゼルス・フィルハーモニーとともに来日公演を行っている。

この時黒田先生はジュリーニにインタヴューされ、マーラーの九番のスコアにサインをもらわれている。
     *
 あのとき、マーラーの第九交響曲のスコアとともに、ぼくは、一本の万年筆をたずさえていきました。書くことを仕事にしている男にとって、自分に馴染んだ万年筆は、他人にさわられたくないものです。そのような万年筆のうちの一本に、AURORAというイタリアの万年筆がありました。その万年筆は、ずいぶん前に、ミラノの、あなたもご存知でしょう、サン・バビラ広場の角にある筆記用具だけ売っている店で買ったものでした。そのAURORAは、当時、ようやく馴染みかけて使いやすくなっているところでした。でも、あなたはイタリアの方ですから、それでぼくはAURORAでサインをしていただこうと、思いました。
 おそらく、お名前と、それに、せいぜい、その日の日づけ程度を書いて下さるのであろう、と漠然と考えていました。ところが、あなたは、ぼくの名前から書きはじめ、お心のこもったことばまでそえて下さいました。しかし、それにしても、あなたは、字を、なんとゆっくりお書きになるのでしょう。ぼくはあなたが字をお書きになるときのあまりの遅さにも驚きましたが、あなたの力をこめた書きぶりにも驚かないではいられませんでした。スコアの表紙ですから、それなりに薄くはない紙であるにもかかわらず、あなたがあまり力をこめてお書きになったために、反対側からでも字が読めるほどです。
 時間をたっぷりかけ、一字一字力をこめてサインをして下さっているあなたを目のあたりにしながら、ぼくは、ああ、こういう方ならではの、あのような演奏なんだ、と思いました。
     *
ジュリーニが、ゆっくりと書くのは、さもありなんと、ジュリーニの演奏を聴いたことのある人ならば思うだろう。
黒田先生の文章で興味深いのは、力をこめた書きぶりである。

スコアの表紙の裏側からでも字が読めるほどの力のこめぐあいである。

ゆっくりと、力をこめる。
こういう音でジュリーニの演奏は聴くべきである。

Date: 2月 11th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(その3)

カートリッジにはトーンアームという相棒がいる。
ゼロバランスさえとれれば、どんなトーンアームとどんなカートリッジの組合せでも、音は出る。
とはいっても、そのカートリッジの本来の性能をできるだけ発揮したければ、
トーンアームの選択も重要になってくる。

軽針圧カートリッジに最適なトーンアームは、重針圧カートリッジには向かないし、
重針圧のトーンアームで、軽針圧カートリッジは使いたくない。
それぞれのカートリッジに適したトーンアームをできるだけ使いたい。

ステレオサウンドがヘッドフォンの別冊を出した1978年と現在の違いは、
ヘッドフォンアンプがいくつも登場してきていることである。

ヘッドフォンアンプはカートリッジにとってのトーンアームのような存在である。
カートリッジとトーンアームの関係のように適さない、ということはほとんどないけれど、
ヘッドフォンにとってヘッドフォンアンプの登場は、良き相棒の登場ともいえよう。

瀬川先生は「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」での試聴で、
トリオのプリメインアンプKA7300Dを使われている。
その理由を書かれている。
     *
 ヘッドフォンのテストというのは初体験であるだけに、テストの方法や使用機材をどうするか、最初のうちはかなり迷って、時間をかけてあれこれ試してみた。アンプその他の性能の限界でヘッドフォンそのものの能力を制限してはいけないと考えて、はじめはプリアンプにマーク・レヴィンソンのLNP2Lを、そしてパワーアンプには国産の100Wクラスでパネル面にヘッドフォン端子のついたのを用意してみたが、このパワーアンプのヘッドフォン端子というのがレヴェルを落しすぎで、もう少し音量を上げたいと思っても音がつぶれてしまう。そんなことから、改めて、ヘッドフォンの鳴らす音というもの、あるいはそのあり方について、メーカー側も相当に不勉強であることを思った。
 結局のところ、なまじの〝高級〟アンプを使うよりも、ごく標準的なプリメインアンプがよさそうだということになり、数機種を比較試聴してみたところ、トリオのKA7300Dのヘッドフォン端子が、最も出力がとり出せて音質も良いことがわかった。ヘッドフォン端子での出力と音質というは、どうやらいま盲点といえそうだ。改めてそうした観点からアンプテストをしてみたいくらいの心境だ。
     *
このころの瀬川先生は、いまのヘッドフォンとヘッドフォンアンプの状況は歓迎されたように思う。
1978年当時はヘッドフォンのみだった。
いまは優秀なイヤフォンもある。
メーカーの数も増えた。
そこにヘッドフォンアンプが加わるわけだから、きっとハマられたのではないだろうか。

Date: 2月 10th, 2015
Cate:

日本の歌、日本語の歌(距離について・その1)

1989年か1990年だったと記憶している。
ヴィクトリア・ムローヴァが来日した。
津田塾ホールでのコンサートがある。

ムローヴァをかぶりつきで聴きたかった(見たかった)私は、
当時津田塾ホールの仕事をされていたKさんにチケットの手配をお願いした。
ムローヴァにいちばん近い席で聴きたい、という勝手な要望をつけて。

当日ホールについてチケットを受けとると、
いちばん前の席ではあるものの、中央の席ではなかった。
いちばん近い席という要望はかなえられなかったかぁ……、とすこしがっかりしていた。

コンサートが始る。
ムローヴァがステージに現れた。
なぜかムローヴァはステージの中央ではなく、私が坐っている席の真正面に立って演奏を始めた。

ムローヴァがステージのどの位置で演奏をするのか知った上で用意してくれたのどうかはわからなかったが、
私の要望は最高のかたちでかなえられた。

いまでは信じられないだろうが、当日津田塾ホールは満員ではなかった。
私の両隣はほとんど空席だった。

私の後には多くの人がいても、彼らは私の視界にははいらない。
私の視界にいるのはヴィクトリア・ムローヴァだけだった。

こういう距離感で音楽を聴けるのは、クラシックのコンサートではあまりない。

Date: 2月 10th, 2015
Cate: ヘッドフォン

ヘッドフォン考(その2)

1978年にステレオサウンドは別冊として「Hi-Fiヘッドフォンのすべて」を出している。
国内外47機種のヘッドフォンの試聴を行っている。

この別冊の筆者は岡原勝氏、菅野先生、瀬川先生。
この面子からして、ヘッドフォンの別冊だから……、といったところは微塵もない。

いま思えば、よくこの時機に、これだけの内容のヘッドフォンの別冊を出していたな、と感心する。

1978年当時のヘッドフォンの扱いは、ぞんざいだったといえなくもない。
ステレオサウンド本誌でヘッドフォンがきちんと取り上げられることはほとんどなかった。
そこにヘッドフォンだけの別冊、
しかもステレオサウンドのメイン筆者である菅野先生と瀬川先生が試聴に参加されている。

瀬川先生は、自ら立候補して試聴に参加されている。なぜか。
     *
 ヘッドフォンで聴くレコードの音というものを、私は必ずしも全面的に「好き」とはいえない。が、5年ほど前から住みついたいまの家が、発泡性のPCコンクリートによるいわゆる「マンション」の3階で、遮音さえ別にすれば住み心地は悪くないのだが、音屋にとって遮音が悪いというのは全く致命的でまして夜が更けるほど目が冴えてきて、真夜中に音楽を聴くのが好きな私のような人間にとっては、もう命を半分失ったみたいな気分。いまはもう、一日も早くここを逃げ出して、思う存分音を出せる部屋が欲しいという心境になっているが、そんな次第で、最近の私にとって、ヘッドフォンは、好むと好まざると、もはや必要不可欠の重要な存在になってきている。
 それでもはじめのうちは、何となく入手したいくつかのヘッドフォンを、決して満足できる音質ではなかったが、ヘッドフォンなんて、まあこんなものなのだろうと、なかばあきらめて、適当に取りかえながら聴いていた。そのうちどうにも我慢ができなくなってきて、友人の持っている国産のコンデンサー型を借りてみたりしたが、なまじ期待が大きかったせいか、よけい満足できない。
 だいたいヘッドフォンというは、ローコストの製品はおマケのような安ものだし、高級機になると販売店等でも実際の比較試聴がなかなかできない。そんな折に、ほとんど偶然のような形でAKGのK240を耳にして、ヘッドフォンでもこんなにみずみずしく、豊かでひろがりのある音が得られるのかとびっくりして、しばらくのあいだこればかり聴く日が続いた。これの少し前は、KOSSのHV/1LCをわりあい長く聴いていた。国産のヘッドフォンのいくつかを試してみても、音楽のバランスのおかしいものが多く、とうてい満足できなかった。とはいうものの、AKGやKOSSにも、十分に充たされていたわけではない。
(中略)
 試聴はかなり長時間にわたったが、テストをしている最中にも、いくつかの良いヘッドフォンを発見するたびに、私は早速、今回の編集担当のS君に頼んでは、気に入った製品をすぐに手配してもらった。こうして試聴の終ったいま、イエクリン・フロート、ゼンハイザーHD400、ベイヤーDT440を買いこんでしまった。AKGは140も240もすでに持っているし、KOSSは前述のようにHV/1LCと、それに私の目的ではめったに使わないがPRO/4AAを前から持っている。これだけあれば私は十分に満足だ。
     *
この文章から、瀬川先生は六本のヘッドフォンを、この時点で所有されていることがわかる。

Date: 2月 9th, 2015
Cate: デザイン

オーディオのデザイン、オーディオとデザイン(GKデザインとヤマハ)

ステレオサウンド 47号、巻頭。
瀬川先生が「オーディオ・コンポーネントにおけるベストバイの意味あいをさぐる」を書かれている。
その冒頭に、こうある。
     *
たしか昭和30年代のはじめ頃、イリノイ工大でデザインを講義するアメリカの工業デザイン界の権威、ジェイ・ダブリン教授を、日本の工業デザイン教育のために通産省が招へいしたことがあった。そのセミナーの模様は、当時の「工芸ニュース」誌に詳細に掲載されたが、その中で私自身最も印象深かった言葉がある。
 ダブリン教授の公開セミナーには、専門の工業デザイナーや学生その他関係者がおおぜい参加して、デザインの実習としてスケッチやモデルを提出した。それら生徒──といっても日本では多くはすでに専門家で通用する人たち──の作品を評したダブリン教授の言葉の中に
「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
 というひと言があった。
 20年を経たこんにちでも、この言葉はそのままくりかえす必要がありそうだ。いまや「グッド」デザインは日本じゅうに溢れている。だが「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ない。この問題は、アメリカを始めとする欧米諸国の、ことに工業製品を分析する際に、忘れてはならない重要な鍵ではないか。
     *
47号が出たのは1978年6月。
ちょうどこのころ、ヤマハのオーディオ機器をGKインダストリアルデザイン研究所が手がけていることを知った。
知った、といっても、ただそれだけのことで、それ以上のことはわからなかったのだから、
知らないと同じようなものだ。

「日本にはグッドデザインはあるが、エクセレント・デザインがない」
ここで私が思い浮べていたのは、ヤマハのオーディオ機器のことだった。

1978年、ヤマハのスピーカーシステムはNS1000Mがあった。NS690IIもあった。
プリメインアンプは、CA2000、A1があり、コントロールアンプはC2、C4、
パワーアンプはB3、B4、チューナーはCT7000、T1、T2などがあった。

どれもグッドデザインだと思っていた。
でもエクセレント・デザインかというと、当時高校生だった私には、そうは思えなかった。

GKインダストリアルデザイン研究所が、ヤマハのオーディオ機器のすべてを手がけていたのかどうかも知らない。
けれどヤマハの代表的なオーディオ機器は、GKインダストリアルデザイン研究所によるものだろう。

GKインダストリアルデザイン研究所が手がけたであろうヤマハのオーディオ機器のいくつかは、
いまでも欲しいと思うモノがある。
それでもエクセレント・デザインとは不思議と思えない。

それは瀬川先生が書かれているように、
「エクセレント」デザイン──単に外観のそればかりでなく、
「エクセレントな」品物──は、日本製品の中には非常に少ないからなのだろうか。

そうかもしれない。
私にとってはヤマハのオーディオ機器は「エクセレントな」品物ではなかった。
上品ではあった。
でもそのことが「エクセレントな」になることを阻礙していたのかも……、とも思える。

榮久庵憲司氏が亡くなられたことを知り、
最初に思ったのが、このことだった。

ヤマハのオーディオ機器のデザインについては、
瀬川先生の語られたある言葉も思い出すし、いつかまた書くことになると思う。