菅野沖彦著作集(できることならば)
1989年春、朝日ジャーナル増刊として「手塚治虫の世界」が出た。
手塚治虫は1989年2月9日に亡くなっているから二ヵ月ほどで出ている。
短期間で編集されたとは思えないほど素敵な本である。
いまも手離さずに持っている。
菅野沖彦著作集だけでなく、
「手塚治虫の世界」のような「菅野沖彦の世界」を出してほしい、と思う。
1989年春、朝日ジャーナル増刊として「手塚治虫の世界」が出た。
手塚治虫は1989年2月9日に亡くなっているから二ヵ月ほどで出ている。
短期間で編集されたとは思えないほど素敵な本である。
いまも手離さずに持っている。
菅野沖彦著作集だけでなく、
「手塚治虫の世界」のような「菅野沖彦の世界」を出してほしい、と思う。
(その1)の冒頭で引用したことを、また書き写しておく。
*
暴言を敢て吐けば、ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい。無心な幼児がヒューマニズムなど知ったことではないのと同じだ。ピアニストで、近頃、そんな幼児の無心さをひびかせてくれたのはグレン・グールドだけである。(凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか。)哀しみがわからぬなら、いっそ無心であるに如かない、グレン・グールドはそう言って弾いている。すばらしいモーツァルトだ。
(五味康祐「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」より)
*
《ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい》とある。
そう書いている五味先生が、「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」を書いている。
(その10)で引用しているように、
五味先生は、モーツァルトの弦楽四重奏曲第23番 K.590を聴かれていない。
なのに三万字をこえる「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」だ。
五味先生はヒューマニストでないから書けたのか。
ジェームズ・ボンジョルノは2013年に亡くなっているから、
MQAの音は聴いていない。
昨年秋からMQAの音をいろんな機会で聴くたびに、
いい方式が登場してくれた、と思う。
それだけに、ここでMQAやメリディアンのことについて書くことが多くなっている。
書いていて、ふと思った。
ボンジョルノはMQAをどう評価するのだろうか、と。
9月12日から二ヵ月。
あの日感じたことで、ひとつ書かなかったことがある。
大きく的外れな解釈のように思えたからだった。
二ヵ月経っても、そう感じている。
WAVELET RESPECTは、一輪挿しである。
WAVELET RESPECTという一輪挿しの「花」は、人である。
「菅野沖彦著作集」が、ステレオサウンドから11月18日に発売になる。
あわせて、「菅野沖彦のレコード演奏家訪問〈選集〉」も出る。
「菅野沖彦著作集」はステレオサウンドのウェブサイトをみればわかるように、
今回は上巻であり、下巻の発売も予定されている。
せっかくの著作集なのだから、
ステレオサウンドに掲載された内容だけでなく、
スイングジャーナルに掲載されたものも読みたい、と思う人は多いはずだ。
スイングジャーナル社がいまもあれば、
スイングジャーナル版菅野沖彦著作集が出るのを期待できるが、
スイングジャーナル社はすでにない。
下巻のあとに、スイングジャーナルだけでなく、
他のオーディオ雑誌、レコード雑誌に書かれた文章をおさめた著作集を出してほしい。
菅野先生の本が、こうやって出るのはいいことだと思う。
それでも、こうやって一冊の本にまとめられて、
それを手にして読むことで、いまのステレオサウンドをはじめ、
オーディオ界からなくなってしまったものに、読み手は気づくのではないだろうか。
すべての読み手が気づくとは思っていないが、少なからぬ人たちが気づくであろう。
この読み手のなかには、ステレオサウンドだけでなく、
オーディオ雑誌の編集者、それにオーディオ評論家と呼ばれている人も含まれる。
気づく人はどれだけいるのか、何に気づくのか。
それがはっきりとしてくるのは、どのくらい経ってからなのだろうか。
一年が経った。
短いようで長く感じた一年だったし、
長かったようで短くも感じた一年が過ぎた。
この一年で、オーディオ業界、オーディオ雑誌は、
何か変ったのかといえば、何も変っていない、といえるし、
変っていないのかといえば、よい方向には変っていない、としかいえない。
今日は、とあるところにデッカのデコラを聴きに行っていた。
予定では昨日(12日)だったが、台風による今日になった。
偶然によって、10月13日に、デコラをじっくりと聴けた。
じっくりと聴いたのは、今回が初めてである。
項をあらためて、デコラについては書くつもりだが、
いろいろなことを考えさせられた。
だからこそこの一年、
何が変ったのか、とよけいに考えてしまう。
福井にマルイチセーリングという会社がある。
創立70周年記念新作発表会が、六本木のAXISで行われた。
川崎先生によるWAVELET RESPECTが、その新作である。
カーボンファイバーによるイス+ソファーである。
WAVELET RESPECTを真横からとらえたシルエットは、
川崎先生による「プラトンのオルゴール」のシルエットと重なる。
それにどことなくNeXTのCubeのようにも思えてくる。
川崎先生はオーディオマニアだ。
だから、今回、カーボンファイバーによるイスの新作ときいて、
買える買えないは別として(かなり高価なはずだ)、
リスニングルームに置きたくなるに決っている──、
そう思っていた。
触ってきたし、坐ってもきた。
いいと感じた。
けれど、私はどうしてもオーディオマニアである。
買える買えないは別として、WAVELET RESPECTをリスニングルームに置くか、となったら、
現時点ではためらう点がある。
たまたま私が坐ったのがそうだったのか、
組立て精度に関係してくる点が一つ、
そして構造的なところに関係してくる点が一つあった。
川崎先生はオーディオマニアである。
だから、私が気づいた点も気づかれているはず。
五ヵ月前に思いついただけのタイトルである。
いまだに何をテーマとするかは決っていない。
それで思っているだけのことはいくつかある。
そのひとつが、瀬川先生の著作集のタイトルにもなっている
「良い音とは 良いスピーカーとは?」についてである。
これはステレオサウンドに連載されていた記事のタイトルである。
そのころは「良い音とは 良いスピーカーとは?」でよかった、と思う。
でも、その後、瀬川先生が書かれたもの、
そして辻説法をやりたい、といわれていたことをあわせて考えれば、
「良い音とは 良いスピーカーとは?」には続きがあったのかもしれない。
そんなふうにおもえてくる。
「良い音とは 良いスピーカーとは 良い聴き手とは?」
聴き手は鳴らし手でもある。
こういうタイトル、これに近いタイトルで書かれたかもしれない──、
そう勝手におもっている。
昨晩書こうと思ったけれど、
あえて一日ずらして書くことにした。
音による自画像について考えていくうえで、
これも自画像なんだ、と思っているのがある。
ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーのチェロ協奏曲である。
1965年8月19日に、ジャクリーヌ・デュ=プレは、
バルビローリ指揮ロンドン交響楽団と、エルガーのチェロ協奏曲を録音している。
EMIは、ジャクリーヌ・デュ=プレのエルガーを一度も廃盤にしなかった、ときいている。
この録音が終って、プレイバックを聴き終ったデュ=プレがなんといったのかは有名な話である。
なので、このエルガーをジャクリーヌ・デュ=プレの自画像とするのは、
どうか、と思わないわけではない。
けれど宿命的に自画像になってゆく。
自画像といえる歌について考えていくうえで、
どうしても外せない歌手がいる。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウであり、
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウによる「冬の旅」について、である。
スタジオ録音だけでなく、ライヴ録音を含めると、
十種以上のCDが発売になっている。
そのすべてを聴いているわけではないし、
スタジオ録音に関しても、すべてを聴いているわけではない。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、
1955年にジェラルド・ムーアのピアノで、EMIに「冬の旅」を録音している。
これが一回目である。
1962年、同じくムーアの伴奏で、ステレオ録音、
1965年に、今度はイェルク・デムスのピアノで、レコード会社もドイツ・グラモフォンになっている。
1971年に、三度、ムーアと、ドイツ・グラモフォンに録音している。
1979年、ダニエル・バレンボイムと五度目の録音、
1985年、アルフレッド・ブレンデルとの六度目、
1990年、マレイ・ペライアとの七度目(最後)の「冬の旅」である。
バレンボイムとの録音から、ピアニストが、伴奏ピアニストの域を超えたところでなされている。
このバレンボイムとの「冬の旅」の評価は高い。
バレンボイムがあまり好きでない私でも、この「冬の旅」は素晴らしいと思っている。
ディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは、1925年5月28日生れである。
一度目の「冬の旅」は、ぎりぎり29歳、
二度目は37歳、三度目は39歳(40歳になる二週間ほど前)、
四度目は46歳、五度目は53歳、六度目は60歳、七度目は65歳である。
黒田先生は、「冬の旅」は青春の歌だ、とどこかに書かれていた。
「青春」を実感できるということで、
ヘルマン・プライ/ヴォルフガング・サヴァリッシュの「冬の旅」も高く評価されていた。
もちろんディートリヒ・フィッシャー=ディースカウとバレンボイムとの「冬の旅」も、
高く評価されていたけれど、
この録音でのディートリヒ・フィッシャー=ディースカウは60歳である。
代表曲、十八番(おはこ)といえる歌をもつ歌手もいる。
たとえばサラ・ブライトマン。
私は、サラ・ブライトマンの名をきくと、
反射的に“Amazing Grace”を思い出す。
サラ・ブライトマンの代表曲は、他にもいくつかあるだろう。
他の曲(歌)でもかまわないが、
“Amazing Grace”が、サラ・ブライトマンの自画像であるとは、まったく思っていない。
それは曲、歌の出来や素晴らしさ、そういったこととは違うところで、
そう思えない。
私がそう思えないだけなのかもしれない。
私以外の人は、サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
彼女の自画像そのものといえる曲(歌唱)だということだってあろう。
いやいや、“Amazing Grace”ではなくて……、といって、
他の曲をサラ・ブライトマンの自画像だ、と挙げる人もいるであろう。
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は、
マリア・カラスの“Casta Diva”よりもずっと多くの人が聴いていることだろう。
マリア・カラスの“Casta Diva”は聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は聴いたことがある、
口ずさめる、という人の方が多いはずだ。
ジュディ・ガーランドの“Over The Rainbow”を聴いたことがなくても、
サラ・ブライトマンの“Amazing Grace”は知っている、という人は多いはずだ。
だからこそ、“Amazing Grace”はサラ・ブライトマンの代表曲といえる。
けれど、だからといって自画像とは必ずしもいえない。
結局、世の中には、自画像といえる歌をもつ歌い手とそうでない歌い手とがいる。
マリア・カラスによる「清らかな女神よ」(Casta Diva, カスタ・ディーヴァ)が、
マリア・カラスの自画像そのものだ、ということにはっきりと気づいたのには、
ひとつのきっかけがある。
5月のaudio wednesdayで、“Over The Rainbow”を聴いた。
ジュディ・ガーランドの“Over The Rainbow”を筆頭に、いくつかの“Over The Rainbow”を聴いた。
“JUDY AT CARNEGIE HALL”での、“Over The Rainbow”は見事だった。
この晩、何度かけたことか。
最初にかけた。
それからアンプがあたたまってきた、といって、またかけた。
音が良くなってきたな、と感じたら、かけた。
最後に、またかけた。
いくつか聴いた“Over The Rainbow”のなかに、手嶌葵が歌う“Over The Rainbow”もあった。
手嶌葵の“Over The Rainbow”を聴いて、
“JUDY AT CARNEGIE HALL”でのジュディ・ガーランドによる“Over The Rainbow”のすごみを、
いっそう感じた。
手嶌葵のCDを持ってきたHさんは、これかける、やめましょう、といわれていたのを、
少々無理矢理かけた。
Hさんが、やめましょう、といった理由も、聴けばわかる。
表現という、表現力という。
これらのことばは、安易に使われがちのようにも感じることが多くなった。
手嶌葵の“Over The Rainbow”は、
手嶌葵なりの表現である──、
手嶌葵のファンからそういわれれば、そうですね、というしかないが、
それでは手嶌葵なりの表現とは何ですか──、
もしそんなふうにいってくる人がいたら、そう聞き返したくなる。
その晩は、ジュディ・ガーランドのカーネギーホールでの“Over The Rainbow”に圧倒された。
圧倒されたから、その時には気づかなかったが、
ここでの“Over The Rainbow”も、ジュディ・ガーランドの自画像そのものである。
1979年秋のステレオサウンド別冊、
「SOUND SPACE 音のある住空間をめぐる52の提案」のひとつ、
瀬川先生による「空間拡大のアイデア〝マッシュルーム・サウンド〟」は、
面白い提案だと高校生だった私は、まずそう思ったけれど、
現実には、この提案を実現するには、四畳半とはいえ、
家を建てることが前提のものであるだけに、
どちらかといえば、興味をおぼえたのは、
狭い空間に平面バッフルを収める方法についてだった。
賃貸住宅に住んでいるかぎりは、マッシュルーム・サウンドは無理、と思っていた。
でも、その考えが変ったのは十年ほど経ってからだった。
そのころからだったと思うが、ロフトと呼ばれるアパートが出てきはじめた。
屋根裏を居住空間としたもので、一時期流行っていた。
とはいえ、ロフト部分は屋根裏にあたるだけに冬は暖かいが、夏は暑い。
それにメインの居住空間は、暖かい空気がロフト部分に逃げるため、冬は寒い、ともいわれている。
結局、ロフト部分はふだん使わないものの物置き的使い方になってしまう、ともいわれていた。
けれど、このロフト形式のアパートこそ、瀬川先生のマッシュルーム・サウンドに近い。
ロフト分だけ空間拡大されているし、
それになんといっても天井高が意外にも確保できる。
建物にもよるが、一番高いところでは4mほどにもなる。
それに天井が傾斜しているわけだから、
床と天井という大きな平行面が一つなくなる、という利点もある。
もっともロフト部分へは梯子での昇り降りであり、
たいていのロフト付きのアパートでは、梯子の位置が、
スピーカーの配置の邪魔になる場合も少なくない。
それでもロフト部分は、空間拡大のためだけと割り切ってしまえば、
梯子を外してしまうことだって可能だ。
今年2月に、バックハウスのベートーヴェンのピアノ・ソナタ全集がSACDで発売になった。
9月には、ケンプによる全集が、CD八枚組+Blu-Ray Audio(一枚)で出る。
バックハウスはDSDで、ケンプは96kHz/24ビットで、それぞれのベートーヴェンが聴ける。
ケンプはさらにe-onkyoでMQAでも配信されている。
いい時代、面白い時代になってきた。
ひとつ前の「人工知能が聴く音とは……(NTTの発表より)」でふれた
「音認識のために訓練された深層ニューラルネットワーク(DNN)」は、
進歩していくことで「神を視ている」といえるようになるのか。
(その1)を書いて五年が過ぎ、そんなことを考えている。