続・無題(その1)
暴言を敢て吐けば、ヒューマニストにモーツァルトはわかるまい。無心な幼児がヒューマニズムなど知ったことではないのと同じだ。ピアニストで、近頃、そんな幼児の無心さをひびかせてくれたのはグレン・グールドだけである。(凡百のピアニストのモーツァルトが如何にきたなくきこえることか。)哀しみがわからぬなら、いっそ無心であるに如かない、グレン・グールドはそう言って弾いている。すばらしいモーツァルトだ。
(五味康祐「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」より)
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「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」は新潮社の「人間の死にざま」に収められている。
比較的ながい文章である。
引用したところは、終りのところに出てくる。
「モーツァルト弦楽四重奏曲K590」はあと少し続く。
そのあと少しが、ずしっと重いのだが、
あえて、ここだけを引用した(というよりも書き写した、といいたい)。
何も感じないのか、何かを感じるのか。
どれだけのことを感じ考えるのか。
昨晩、facebookにも、書き写していた。
書き写したい衝動にかられてのことだった。
昨晩は寝苦しかった。
そのためか、夢で何度か反芻しては目を覚ましていた。
これから何を書こうと思っているのか、自分でもよくわからない。
それでも、これだけは書き写しておきたい、とおもいながら、また眠りについていた。
なのでタイトルも無題とした。
五年前の夏に、一度「無題」は使っているから「続・無題」とした。