Archive for category 「本」

Date: 11月 22nd, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その3)

小学館はFMレコパルだけでなくサウンドレコパルも出版していた。
サウンドレコパルは月刊誌。略してサンレコと呼ばれていた。

この10年、いやもっと以前からサンレコといえばサウンドレコパルではなく、
サウンド&レコーディング・マガジンの略称として一般的には通じるようになっていた。

今回のFMレコパルの一号限定の復刊はDIME編集部によるものである。
なぜDIME編集部はサウンドレコパルではなく、FMレコパルにしたのか。

今回のFMレコパルの復刊号に「懐かしい」という気持を抱いた人たちは、
FMレコパルではなくサウンドレコパルの一号限定の復刊だったとしたら、
やはり懐かしいということになるのだろうか。

サウンドレコパルだったら、あまり話題にならなかったかもしれない。

今回のFMレコパルを読んだ人たちの懐かしいという気持は、
学生時代の友人、知人と久しぶりに会った時の懐かしいに近いか同じなのだろうか。

人は10年以上会っていなければ人によっては別人のように変っていることもある。
容貌も変る。
それでも10数年ぶりに会えば懐かしいということになるとすれば、
会った瞬間ではなく、なんらかの会話をしてからではないだろうか。
その会話も昔のことをふり返ってではないだろうか。

私も10年ぶりに会った経験がいくつかある。
最初は、懐かしいではなく、久しぶりだった。
そして話をする。それでも懐かしいという気持をもつことはなかった。

Date: 11月 21st, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その2)

FMレコパルの復刊号は売れているようだ。
すべての書店を廻っているわけではなく、近所の書店や大きめの書店を見た感じでは、好評のように感じる。

facebookでも、懐かしい、面白い、という声があった。
そういう人たちは私と同世代かすこし下の世代の人たちが多いようだ。

私には、懐かしいという気持が湧いてこなかった。
手に取った瞬間は、本の厚み、表紙の感じが、以前のFMレコパルの感触を思い出させてくれたけれど、
そこまで留りである。

内容に懐かしいという気持はなかった。

私はこのブログで、古いことも書いている。
ステレオサウンドのバックナンバーから引用することも少なくない。
だからといって、ステレオサウンドのバックナンバーを手にする時、懐かしいという気持は、
まったくないに近い。

われわれはLP、CDによって、古い録音を聴く。
10年前どころか、もっと以前の、モノーラルの録音も聴くし、
親が生まれる前の録音も聴いている。

それらの録音が行なわれたのと同時代に聴いてきたモノもあるし、
そうでなくレコードを聴きはじめる時代よりずっと前の録音も聴いているわけだ。

懐かしいという気持が湧くのは、あくまでもその録音が世に出た時に聴いてきたものに限られるはずだ。
過ぎ去った時に聴いていたものを、いま聴くことで懐かしいと感じることがある。
どんなに古くても初めて聴くものに、懐かしいという気持を抱くことはありえないことである。

古いからといって、どちらに対しても懐かしい、という気持は湧くことはまずない。
そして、少なくとも愛聴盤に関しては、まったくないといえる。

むしろ自分でLPなりCDを持っていない曲、
それも学生時代に耳にしていた曲が、なにかでふいに流れると懐かしいと思うことがある。

けれど、その懐かしいという気持は、ほんの一瞬であることが多い。
懐かしいと感じた曲が、いい曲であるならば、もう懐かしいということはどこへ行ってしまっている。
懐かしいという気持が最後まで残っているのは、そこまでの場合が多い。

古いと懐かしいは、同じではない。

懐かしいと感じるには、その対象に親近感、親密感をもっているかどうかであるのはわかっている。
だが古い録音を聴く、古いステレオサウンドを読むのと、
今回のFMレコパルの復刊号を読むのと同じことではない。

いまは2014年で、今回のFMレコパルは一号限りとはいえ2014年のFMレコパルとして出版されているからだ。

Date: 11月 20th, 2014
Cate: 「本」

オーディオの「本」(FMレコパル・その1)

手にされている方もおられるだろう、FMレコパルが一号限定で復刊した。
一週間前に書店に並んだ。
近所の書店には、取り扱っている店とそうでない店とがあった。
昼過ぎに行ってのことだから、すでに売れ切れだったとは考えにくい。

取り扱っている店は、平積みではなかったけれど、通常の置き方とは少し変え、目立つように並べてあった。
この書店の店主はFMレコパルを読んできた世代なのかもしれない、と思いながら、手に取った。

まず感じたのは本の厚さである。
当時のFMレコパルを手に取っている感じがよみがえってきた。

私のころはFM誌は三誌あった。
FMfan、週刊FM、それにFMレコパルである。
数年後にはさらに増えていき、いまはすべて消えていった。

三誌はどれも同じくらいの厚さだった。
それぞれに特徴のある編集だった。

復刊FMレコパルをめくっていくと、あのころのFMレコパルのテイストがきちんと再現されていると感じる。
このへんは、小学館という大きな出版社の強みかもしれない。

FM誌には必ずついていたFM番組表はついていなかった。
これにページを割くのであれば、他にやりたい企画もあっただろうし、いま番組表をつける意味、
特に一号限定の復刊ということからも番組表はなくて当然なのだろう。

あぁレコパルだな、と思いながらも、それ以上ではなかった。
当時もFMレコパルの読者とはいえなかった。
私が毎号買っていたのはFMfanだったこともある。

でもいま共同通信社がFMfanを一号限定復刊して、FMレコパルと同じレベルでの復刊であったとしても、
同じように感じるような気がする。

facebook、twitterでは今回の復刊を喜んでいる声がいくつもあった。
そういう声があがってくるのはわかるけれど、私はそうなれなかった。

Date: 11月 13th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(池田圭氏の「音の夕映え」)

別項で池田圭氏の年齢を知りたくて、久しぶりに「音の夕映え」を取り出した。
奥付を見た。

そこに初版千五百部、再版千部、とあった。

「音の夕映え」の初版は1979年に出ている。
再版は1981年に出た。

1981年に「音の夕映え」を買った時に、奥付で、この数字は見ていた。
けれど、そのときはオーディオの書籍がどれだけの数が出るのかという知識はまったくなかった。
だから、ただ1500部と1000部、合せて2500部。私が持っている「音の夕映え」は2500分の1冊なのか、
ぐらいのことしか思っていなかった。

1979年はオーディオブームの全盛期は過ぎてはいたものの、
まだまだオーディオには勢いがあったように感じていた。
そのころ出た「音の夕映え」の初版が1500部なのか……、といまはおもう。

池田圭氏は、ステレオサウンドにもときおり書かれてはいても、
メインの筆者のではなかった。
とはいえ「音の夕映え」の初版1500部は少ない、と感じる。

「音の夕映え」は2500円である。
「音の夕映え」を手にとった人ならばわかるはずだが、
この本のつくりは池田圭氏のわがままをかなえている。

「音の夕映え」には、最新のオーディオ機器のことはほとんど出てこない。
そういう本だからこれだけの数しか売れなかったのだとしたら、
──なんだろう、いまのオーディオのある一面と重なってきて、
虚しさみたいなものを感じないではいられない。

Date: 8月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その24)

オーディオ雑誌において、スピーカーの傾向をあらわすのに、
音場型と音像型にわける人がいる。
この分け方はスピーカーだけとは限らなかったりするのだが、
音場(おんじょう)ということを考えていけば、これは奇妙な分け方であることにすぐ気づかなければならない。

音場がきちんと再現されているのであれば、音像も再現されている。
また音像がきちんと再現されているのであれば、音場も再現されている。

にも関わらず音場型・音像型という分け方をする人がいまだにいるし、
そのことに疑問を感じない人がいる。
そういう人が書いたのを読むと、音像に対しての捉え方にひどい異和感を感じてしまう。
この人が感じている音像とは、いったいどういう現象なのだろうか、と。

音場型・音像型という分け方、表現をしている人が聴いてるのは、
もしかすると音場(おんじょう)ではなく、音場(おんば)なのではないだろうか。
こうも感じてしまう。

さらにいえば、音場と音場感は似て非なるものだと私は考えている。
そんな私からみれば、音場型・音像型を使う人のいうところの音場型とは、音場感型なのではないのか。

音場型・音像型は、いっけんわかりやすく感じられる。
だが音場の定義、音像の定義をきちんと、その分け方をしている人は、どこかで書いているのだろうか。
音場と音場感の違いについても、書いているのだろうか。

音場(おんじょう)と音場(おんば)があるように、
音場感(おんじょうかん)と音場感(おんばかん)があるようにも思っている。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その23)

オーディオの「現場(げんじょう」は、どこなのかが、やっと見えてきたような気がする。

そして音場をおんじょう、と呼ぶのか、おんば、と呼ぶのか。
これについての私なりの答もはっきりとしてきた。

左右への拡がりも同じようにあり、
奥行きの深さも同じようにある、ふたつの再生音があったとする。
ひとつの再生音には、ステージの存在が感じられ(意識され)、
もうひとつの再生音にはステージが存在が感じられない(意識されない)、
としたら、ステージがある再生音の音場は(おんじょう)であり、
ステージがない再生音の音場は(おんば)と呼ぶべき、
これが私の考えである。

こう定義すると、意外にも音場(おんば)である再生音が多いことにも気がつく。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その22)

最近ではあまり使われることが少なくなった気もする言葉に、臨場感がある。
1970年代には、この臨場感はよく目にしていた。

臨場感は必ずしも音場感と完全に一致するものではないにも関わらず、
音場感という言葉が誰もが使うようになってきた1980年以降、
音場感と交代するかのように臨場感の登場回数は減ってきたのではなかろうか。

臨場感にも「場」がついている。
臨場感は、りんじょうかんと読む。
音場を、おんじょうではなく、おんばと読む人でも、臨場感はりんじょうかんである。

「場」をじょう、と読むわけだ。
つまり現場(げんじょう)と同じで、そこで何かが起っている「場」に臨む、
臨んでいるかのような感覚を、臨場感というわけだ。

では、いったい何に臨んでいるのか。どういう「場」に臨むのか。
ここで考えるのは、オーディオについてのことだから、
答は、ひとつしかない、といいきっていいだろう。

ステージ(stage)こそが、「場」(じょう)である。

そう考えていくと、オーディオにおける現場(げんじょう)とは、
ステージであり、ステージのあるところ、であるはずだ。

Date: 7月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その21)

映画館を、私がホームシアターにおける現場(げんばではなく、げんじょう)と考えるのは、
なにも映画館が劇場(げきじょう)と呼ぶからではない。

なぜ映画館は劇場と書いて、げきば、とは読まず、げきじょう、と呼ぶのか。

「現場」をどう読む(呼ぶ)か。
そういえばある映画のコマーシャルで「事件は現場で起っている」というのがあった。
このセリフでは、げんばだった。

だが事件が起っている、つまり現在進行形の場合、げんば、ではなく、げんじょう、と呼ぶときいている。
現場(げんば)は過去形となったときである。

火事でも、火災が発生しているのであれば現場(げんじょう)であり、
火事がおさまった後は現場(げんば)である。

となると録音が行われている場は、録音現場(ろくおんげんじょう)であり、
録音が済んでしまえば、そこは録音現場(ろくおんげんば)となる。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読者のこと・その2)

そのころのステレオサウンドに初心者用の記事があったわけではない。
そういう基礎的な知識に関しては、他の雑誌なり技術書を読めばいいわけで、
そういうことをステレオサウンドに求めようとは思っていなかった。

ステレオサウンド 41号の特集は「世界の一流品」である。
誌面に登場しているオーディオ機器は、いくつかは比較的安価なものもあったけれど、
多くは高価なものが占めていた。
マークレビンソンのLNP2もあった、JBLの4343も取り上げられていた(表紙でもあった)。
EMTの930st、ヴァイタヴォックスのCN191など、13歳の私にはまったく手の出ない価格のモノばかりであっても、
いつかはLNP2、4343……、そんなことを夢想しながら読んでいた。

これらのモノをいつ買えるようになるかなんて、
13歳の私には見当もつかなかった。
漠然と10年後くらいには買えるのかな……、とおもいながらステレオサウンドに夢中になっていた。

オーディオに関心をもち始めるときも人によって違う。
私と同じように10代前半で、という人もいれば、
もっと早い時期からという人も20代になってから、という人もいる。

私がそうだったからだけど、
ステレオサウンドに関係している人ならば、
編集者も筆者も、やはり10代のころからオーディオにのめり込んでいたのではないだろうか。

そうだとしよう。
そして、問いたいのは、いま10代の自分がいたとして、
果して、いまのステレオサウンドをわくわくしながら読んでいる、といえるのかということだ。

私は「五味オーディオ教室」からオーディオにはいってきた10代だったから、
いまのステレオサウンドには、あのころのステレオサウンドと同じような面白さは感じない、とおもう。

いま私はステレオサウンドとは関係のない人間だから、
それはそれでいい。
でもいまステレオサウンドに書いている筆者、編集者の人たちは、
オーディオに興味をもち始めた自分を振り返って読者として想定してみてほしい。

そのころの自分をわくわくさせる「本」をつくっているのか、と。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読者のこと・その1)

毎日ブログを書いている。
ある読み手を想定して書いている。
その読み手とは、10代の私である。

オーディオに興味をもち始めたころの私に対してのブログでもあるわけだ。
それ以外の読み手のことは想定していない。

読み手の想定など、ということは実際には無理である。
私は最初に手にしたステレオサウンドは41号だったのだが、
創刊号から読んでいる人もいれば、10号ぐらいからの人、20号ぐらいからの人、30号ぐらいからの人といたわけで、
創刊号から読んでいた人にしても、皆が同じ年齢というわけでもなく、
オーディオのキャリアも異る。

41号といえば創刊から10年、
いまステレオサウンドは創刊から46年が経過している。
いま書店に並んでいる185号が最初のステレオサウンドという人もいることだろう。
創刊号からずっと買い続けている人もいる。
つまりさまざまな読み手がいる。

そのすべての読み手を満足させる本をつくることができるのか、といえば、無理であろう。
だから、どうするのか。

同じことはブログについてもいえる。
テーマによって、想定する読者を変える、というのもひとつの手ではある。
けれど、私は、もういちど書くけれど、10代のころの、オーディオに興味をもち始めた私、
もうすこし具体的に書けば「五味オーディオ教室」を読んでオーディオの世界にはいってきた私に対して、
ブログを書き続けている。

13歳の私は、「五味オーディオ教室」を読んだ数ヵ月後にステレオサウンド 41号と、
別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ。
わくわくしながら読んだ。

そこに書いてあることすべてを理解できていたわけではないが、
読むのが楽しかったし、少しでも多くのことを理解しようとくり返し読んだ。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(iBooksとiBooks Author)

日付が変ってから、書きたいことがあったので、深夜ブログを更新していた。
気がついたら午前2時。ちょうどAppleのイベントのはじまる時間になっていた。
ちょっとだけ見てから寝よう、と思い、ライヴストリーミングを見始めた。

発表になったハードウェアの新製品は、
インターネットでウワサになっていたモノがほぼウワサのとおりに出てきたわけだが、
私が個人的にうれしい驚きだったのは、iBooksが縦書きに対応にしていたことだった。

いつかは縦書きに対応してくれるものだと思っていた。
でも、それは早くて来年くらいかな、と漠然と思っていただけに、
こんなに早く!? という感じを受けた。

縦書きも横書きも、どちらでもいいじゃないか、と思われるかもしれない。
でも入力作業をやっている者としては、縦書きなのか横書きなのかは、
どちらを前提としなければすすめられないところがる。

おもに数字の入力なのだが、横書き前提でいくのならばすべて半角文字だけですむ。
縦書きとなると、1桁の数字は全角文字、2桁の数字は半角文字、3桁以上となると全角文字となる。
アルファベットの入力も、横書きならば半角文字だが、
縦書きでは英文の文章を引用するときは半角文字、型番の場合には全角文字というふうになる。

こうやって入力した文章を横書きで表示させていると、
文字の表示がバラついていて美しくない。

だから、横書きを前提とした入力に切りかえるべきかも、と考えていたところに、
縦書き対応の発表だっただけに、縦書き前提の入力を続けてきてよかった、と、
ほっとした。

しかもiBooks AuthorではTex数式ができるようになっている。
数式の入力はわずかなのだが、まったくないわけではない。
いままでは数式を言葉に置き換えていた。これもうれしい。

iBooksとiBooks Authorのヴァージョンアップによって、つくりこめる、という感覚が出てきた。
もちろん、まだまだなところもあるのはわかっている。

とはいえ、電子書籍をつくることが、これによりすこし楽しくなってくる。

しかも、今日、amazonのKindleの日本語版の発表もあった。

いつが電子書籍元年なのか、そんなことはもう少し先になってみなければわからない。
それでも、確実に、そのための環境は整いつつあるのを、実感できた日である。

Date: 6月 28th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(Retinaディスプレイ)

facebookページ機能を利用して「オーディオ彷徨」となづけた岩崎先生のページを公開していることは、
ここで何度か書いているとおりで、その「オーディオ彷徨」では岩崎先生の文章だけでなく写真も公開している。

主にスイングジャーナルでの試聴風景の写真で、カラー写真はほんのわずかでほぼすべてモノクロといっていい。
しかも紙質のよくないモノクロページに掲載された写真をスキャンして、というものだから、
最初からクォリティは期待できないことはわかっていた。

紙が薄いので裏側の写真や文字が透けてスキャンされることもあるし、粒子も粗い。
それでも写真が伝えてくれるものが、ある。
だから、公開している。

ステレオサウンド編集部にいたころは、実は試聴風景の写真は、
私が担当しているページには、あまり載せたくない、というのが本音だった。
正直、試聴風景の写真の必要性をほとんど感じていなかった。

それがいまではスイングジャーナルの試聴風景の写真が(それが粗い、クォリティの高くない写真であっても)、
伝えてくれるものに、試聴風景の写真の必要性を強く感じている次第である。

試聴風景の写真も形だけでは面白くない。
ほんとうに試聴中のワンショットであれば、そこから読み取れることは意外にも多い。
だからせっせとスイングジャーナルに掲載された写真をスキャンしているところである。

とはいえ、やはり写真が粗い。お世辞にも美しい写真とはいえない。
せめて元の紙焼き写真をスキャンできればずっとクォリティは高くなるけれど、それは無理。
それにスキャンすれば、どんなに注意深く、その作業を行っても、
スイングジャーナルに載っている写真のクォリティよりも良くなることはない、と思っていた。

そう思い込んでいたから、パソコンのディスプレイで「オーディオ彷徨」の写真を見ていた。
iPhoneで見ることは、実はつい先日までしてこなかった。

iPhone 4SのディスプレイはAppleがRetinaディスプレイと呼ぶ、高い解像度をもつものだ。
「オーディオ彷徨」で公開している写真は、一応300dpiでスキャンし、そのまま公開している。
そうやって公開している写真をretinaディスプレイで見ると、
元の、スイングジャーナルに掲載された写真を見るよりも、美しく感じられる。
意外だったけれど、嬉しい驚きでもあった。

Retinaディスプレイの解像度の高さと、液晶ディスプレイのバックライトの存在によるものだろう。
iPhoneだからディスプレイそのものは大きくない、けれどRetimaディスプレイによって、
「オーディオ彷徨」の写真を見るのが楽しくなった。

いま発売されているiPadもRetinaディスプレイになっている。
まだ、新しいiPadで「オーディオ彷徨」の写真を見てはいない。
けれど期待通りの美しさだ、と思っている。

新しいiPadのディスプレイ品質でもう充分というわけではないが、
やっとここまで液晶ディスプレイが来た、という感じがしている。
それも片手でもてるiPadで、この高解像度を実現している。

今年の暮までには、また電子書籍の形で公開を予定している本がある。
いままではePUB形式で公開してきたけれど、次からはiPadのみに、あえて絞っていく。

プラットホームを限定するなんて、時代に逆行している、と思われる人のほうが多いだろう。
でも、電子書籍をよりよいものにしていくには、プラットホームを限定していく必要性を、
私はいまのところ強く感じている。
(といいながらも、私自身、まだ新しいiPadにはしていない……)

Date: 3月 25th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その20)

オーディオの「現場(げんじょう)」は、どこなのか。

映画館をホームシアターの「現場」として捉えるのであれば、
まず思いつくのは、オーディオの場合はオーディオ販売店の試聴室がある。

販売店の店主のポリシーによって、試聴室に並べられているオーディオ機器は、さまざまである。
すでに製造中止になっている、名器と呼ばれるものを中心に取り揃えたところもあれば、
最新のオーディオ機器、それもひじょうに高価なモノばかりをあつめたところもあるし、
このふたつの両極の間に、いくつものポリシーがあって、
それらの試聴室で聴ける音もひとつとして同じところはない。

たいていのオーディオ販売店では、CDなりLPを持参すれば、そのディスクを鳴らしてくれる。

ホームシアターでは映画館でも自宅でも、同じプログラムソース(同じ作品)を鑑賞できる。
その意味では同じプログラムソースを聴くことができるわけだから、
オーディオ販売店の試聴室は、オーディオの「現場」と呼べなくはないところがあるのは否定できない。

こんな書き方をしたくなるのは、オーディオ販売店の試聴室が、
ほんとうにオーディオの「現場」たり得るのか、と思っているからだ。

かりにオーディオ販売店の試聴室がオーディオの「現場」だとしても、
それは「げんば」であって、「げんじょう」ではない──、
こういう気持がどこかにひっかかっている。

Date: 12月 4th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その19)

音楽(オーディオ)も映画(ホームシアター)も、
送り手側が制作した作品を、専用のハードウェアで再生して家庭で楽しむものであることは共通しているし、
どちらにも制作という現場がある。

録音にはスタジオ、それにクラシックではホールが、それにライヴ録音ではいろんな場所が現場となる。
映画となると、撮影現場はシーンによって違ってくることが当り前のことだから、
一本の映画のなかではスタジオが現場だったり、ロケ地が現場だったりする。

音楽にも映画にも、だから現場はある。
けれどオーディオとホームシアターの再生側では、ひとつ違うところがある。
映画には、映画館が存在する。

映画館で観るものもホームシアターでDVD、Blu-Ray Discを再生して観るものも、
どちらも同じ映画であって、基本的には同一のものである。
最近ではディレクターズ・カットがあり、映画館で上映されたものよりも長尺になっていたりするけれど、
あくまでも一本の映画は、映画館で上映されるものとDVDなどのパッケージメディアになるものは同じものである。

ホームシアターで映画を楽しむとき、パッケージメディアによることが、いまでも圧倒的に多いと思う。
映画館での上映も、フィルム時代ではフィルムというパッケージメディアであったわけだ。
最近では、映画館のデジタル化が進みはじめている、ときいている。
2010年の段階で日本全国の約3割の映画館がデジタル化されていて、
そこに上映のために届くのは、特別な高速デジタル回線による配信だったり、
ときにはBlu-Ray Discによるものらしい。

ずっと昔は映画館のみでしか観られなかった映画を家庭で楽しめるようになってきた。
それも非常に高いクォリティで、
それも老朽化した映画館よりはずっと高いクォリティを家庭で実現することも可能になっていても、
映画の世界には、これからも映画館と家庭の両方で同じ作品を観て楽しめる。

この映画館の存在こそが、ホームシアターの「現場」ではなかろうか、と思っている。

そして「現場」をどう読むのか、にも、このことは深く関わってくる、とも感じている。
私はオーディオの「現場」、ホームシアターの「現場」は、
「げんば」ではなくあえて「げんじょう」ではないかと考えている。

Date: 12月 3rd, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その18)

1980年代はAV(Audio Visual)と呼ばれていたのが、いまではホームシアターになってしまった、
これはオーディオから派生したものではなくて、やはり別種の似たところのあるもの、と思う。

オーディオもホームシアターも家庭内で、プログラムソースを再生する。
オーディオは音のみ、ホームシアターはそこに映像もある。

AVとまだ呼ばれていたころは映画もだったけれど、
それと同等かときにはそれ以上に音楽もののプログラムソースが目立っていたように感じていた。
まだDVDなどはなく、ディスクのフォーマットとしてレーザーディスクとVHDがあり、
ビデオテープではVHSとβがあったころは、私の印象としてはそんなふうだった。

もっともテレビをずっと持たない生活を送っている私の、映像モノに対する記憶だから、
たまたま個人的に関心をもったのがそうであっただけで、全体としての印象は違うのかもしれないけれど、
それでも音楽もののがAV関係の雑誌で取り上げられることもいまよりも多かったのではないだろうか。

それがいつのまにかホームシアターと呼ばれるようになり、
映画ものの発売枚数は、AVの呼ばれていた時代よりも急速に増えていったような気がする。
音楽ものもけっこうリリースされているのは知っている。
でもAVと呼ばれていた時に観た作品を、もういちどDVDで出ていないか調べてみると、
不思議になかったり、
出ていたとしてもほんのわずかな期間だけでそれほど以前のことでもないのにすでに廃盤だったりするから、
よけいにそんなふうに感じているだけ、ともいえよう。

こんな私の印象はどうでもいいことで、いまはホームシアターということになっている。
いうまでもシアターはTheaterで、劇場、映画館であり、映画館は映画を上映するところであり、
劇場はここにコンサートホールも含まれるのかもしれないが、やはり劇場は演劇を上演するところである。

ということはホームシアターは、家庭内劇場、家庭内映画館ということになる。
ホームシアターという語感から、家庭内コンサートホールはイメージしにくい。

いま私はホームシアターをそういうふうに受け取っていて、
その受け取り方のなかで、ホームシアターにおける「現場」について考えると、こちらはすんなり浮んでくる。