Archive for category 「本」

Date: 8月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その24)

オーディオ雑誌において、スピーカーの傾向をあらわすのに、
音場型と音像型にわける人がいる。
この分け方はスピーカーだけとは限らなかったりするのだが、
音場(おんじょう)ということを考えていけば、これは奇妙な分け方であることにすぐ気づかなければならない。

音場がきちんと再現されているのであれば、音像も再現されている。
また音像がきちんと再現されているのであれば、音場も再現されている。

にも関わらず音場型・音像型という分け方をする人がいまだにいるし、
そのことに疑問を感じない人がいる。
そういう人が書いたのを読むと、音像に対しての捉え方にひどい異和感を感じてしまう。
この人が感じている音像とは、いったいどういう現象なのだろうか、と。

音場型・音像型という分け方、表現をしている人が聴いてるのは、
もしかすると音場(おんじょう)ではなく、音場(おんば)なのではないだろうか。
こうも感じてしまう。

さらにいえば、音場と音場感は似て非なるものだと私は考えている。
そんな私からみれば、音場型・音像型を使う人のいうところの音場型とは、音場感型なのではないのか。

音場型・音像型は、いっけんわかりやすく感じられる。
だが音場の定義、音像の定義をきちんと、その分け方をしている人は、どこかで書いているのだろうか。
音場と音場感の違いについても、書いているのだろうか。

音場(おんじょう)と音場(おんば)があるように、
音場感(おんじょうかん)と音場感(おんばかん)があるようにも思っている。

Date: 7月 17th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その23)

オーディオの「現場(げんじょう」は、どこなのかが、やっと見えてきたような気がする。

そして音場をおんじょう、と呼ぶのか、おんば、と呼ぶのか。
これについての私なりの答もはっきりとしてきた。

左右への拡がりも同じようにあり、
奥行きの深さも同じようにある、ふたつの再生音があったとする。
ひとつの再生音には、ステージの存在が感じられ(意識され)、
もうひとつの再生音にはステージが存在が感じられない(意識されない)、
としたら、ステージがある再生音の音場は(おんじょう)であり、
ステージがない再生音の音場は(おんば)と呼ぶべき、
これが私の考えである。

こう定義すると、意外にも音場(おんば)である再生音が多いことにも気がつく。

Date: 7月 16th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その22)

最近ではあまり使われることが少なくなった気もする言葉に、臨場感がある。
1970年代には、この臨場感はよく目にしていた。

臨場感は必ずしも音場感と完全に一致するものではないにも関わらず、
音場感という言葉が誰もが使うようになってきた1980年以降、
音場感と交代するかのように臨場感の登場回数は減ってきたのではなかろうか。

臨場感にも「場」がついている。
臨場感は、りんじょうかんと読む。
音場を、おんじょうではなく、おんばと読む人でも、臨場感はりんじょうかんである。

「場」をじょう、と読むわけだ。
つまり現場(げんじょう)と同じで、そこで何かが起っている「場」に臨む、
臨んでいるかのような感覚を、臨場感というわけだ。

では、いったい何に臨んでいるのか。どういう「場」に臨むのか。
ここで考えるのは、オーディオについてのことだから、
答は、ひとつしかない、といいきっていいだろう。

ステージ(stage)こそが、「場」(じょう)である。

そう考えていくと、オーディオにおける現場(げんじょう)とは、
ステージであり、ステージのあるところ、であるはずだ。

Date: 7月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その21)

映画館を、私がホームシアターにおける現場(げんばではなく、げんじょう)と考えるのは、
なにも映画館が劇場(げきじょう)と呼ぶからではない。

なぜ映画館は劇場と書いて、げきば、とは読まず、げきじょう、と呼ぶのか。

「現場」をどう読む(呼ぶ)か。
そういえばある映画のコマーシャルで「事件は現場で起っている」というのがあった。
このセリフでは、げんばだった。

だが事件が起っている、つまり現在進行形の場合、げんば、ではなく、げんじょう、と呼ぶときいている。
現場(げんば)は過去形となったときである。

火事でも、火災が発生しているのであれば現場(げんじょう)であり、
火事がおさまった後は現場(げんば)である。

となると録音が行われている場は、録音現場(ろくおんげんじょう)であり、
録音が済んでしまえば、そこは録音現場(ろくおんげんば)となる。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読者のこと・その2)

そのころのステレオサウンドに初心者用の記事があったわけではない。
そういう基礎的な知識に関しては、他の雑誌なり技術書を読めばいいわけで、
そういうことをステレオサウンドに求めようとは思っていなかった。

ステレオサウンド 41号の特集は「世界の一流品」である。
誌面に登場しているオーディオ機器は、いくつかは比較的安価なものもあったけれど、
多くは高価なものが占めていた。
マークレビンソンのLNP2もあった、JBLの4343も取り上げられていた(表紙でもあった)。
EMTの930st、ヴァイタヴォックスのCN191など、13歳の私にはまったく手の出ない価格のモノばかりであっても、
いつかはLNP2、4343……、そんなことを夢想しながら読んでいた。

これらのモノをいつ買えるようになるかなんて、
13歳の私には見当もつかなかった。
漠然と10年後くらいには買えるのかな……、とおもいながらステレオサウンドに夢中になっていた。

オーディオに関心をもち始めるときも人によって違う。
私と同じように10代前半で、という人もいれば、
もっと早い時期からという人も20代になってから、という人もいる。

私がそうだったからだけど、
ステレオサウンドに関係している人ならば、
編集者も筆者も、やはり10代のころからオーディオにのめり込んでいたのではないだろうか。

そうだとしよう。
そして、問いたいのは、いま10代の自分がいたとして、
果して、いまのステレオサウンドをわくわくしながら読んでいる、といえるのかということだ。

私は「五味オーディオ教室」からオーディオにはいってきた10代だったから、
いまのステレオサウンドには、あのころのステレオサウンドと同じような面白さは感じない、とおもう。

いま私はステレオサウンドとは関係のない人間だから、
それはそれでいい。
でもいまステレオサウンドに書いている筆者、編集者の人たちは、
オーディオに興味をもち始めた自分を振り返って読者として想定してみてほしい。

そのころの自分をわくわくさせる「本」をつくっているのか、と。

Date: 1月 12th, 2013
Cate: 「本」

オーディオの「本」(読者のこと・その1)

毎日ブログを書いている。
ある読み手を想定して書いている。
その読み手とは、10代の私である。

オーディオに興味をもち始めたころの私に対してのブログでもあるわけだ。
それ以外の読み手のことは想定していない。

読み手の想定など、ということは実際には無理である。
私は最初に手にしたステレオサウンドは41号だったのだが、
創刊号から読んでいる人もいれば、10号ぐらいからの人、20号ぐらいからの人、30号ぐらいからの人といたわけで、
創刊号から読んでいた人にしても、皆が同じ年齢というわけでもなく、
オーディオのキャリアも異る。

41号といえば創刊から10年、
いまステレオサウンドは創刊から46年が経過している。
いま書店に並んでいる185号が最初のステレオサウンドという人もいることだろう。
創刊号からずっと買い続けている人もいる。
つまりさまざまな読み手がいる。

そのすべての読み手を満足させる本をつくることができるのか、といえば、無理であろう。
だから、どうするのか。

同じことはブログについてもいえる。
テーマによって、想定する読者を変える、というのもひとつの手ではある。
けれど、私は、もういちど書くけれど、10代のころの、オーディオに興味をもち始めた私、
もうすこし具体的に書けば「五味オーディオ教室」を読んでオーディオの世界にはいってきた私に対して、
ブログを書き続けている。

13歳の私は、「五味オーディオ教室」を読んだ数ヵ月後にステレオサウンド 41号と、
別冊の「コンポーネントステレオの世界 ’77」を読んだ。
わくわくしながら読んだ。

そこに書いてあることすべてを理解できていたわけではないが、
読むのが楽しかったし、少しでも多くのことを理解しようとくり返し読んだ。

Date: 10月 24th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(iBooksとiBooks Author)

日付が変ってから、書きたいことがあったので、深夜ブログを更新していた。
気がついたら午前2時。ちょうどAppleのイベントのはじまる時間になっていた。
ちょっとだけ見てから寝よう、と思い、ライヴストリーミングを見始めた。

発表になったハードウェアの新製品は、
インターネットでウワサになっていたモノがほぼウワサのとおりに出てきたわけだが、
私が個人的にうれしい驚きだったのは、iBooksが縦書きに対応にしていたことだった。

いつかは縦書きに対応してくれるものだと思っていた。
でも、それは早くて来年くらいかな、と漠然と思っていただけに、
こんなに早く!? という感じを受けた。

縦書きも横書きも、どちらでもいいじゃないか、と思われるかもしれない。
でも入力作業をやっている者としては、縦書きなのか横書きなのかは、
どちらを前提としなければすすめられないところがる。

おもに数字の入力なのだが、横書き前提でいくのならばすべて半角文字だけですむ。
縦書きとなると、1桁の数字は全角文字、2桁の数字は半角文字、3桁以上となると全角文字となる。
アルファベットの入力も、横書きならば半角文字だが、
縦書きでは英文の文章を引用するときは半角文字、型番の場合には全角文字というふうになる。

こうやって入力した文章を横書きで表示させていると、
文字の表示がバラついていて美しくない。

だから、横書きを前提とした入力に切りかえるべきかも、と考えていたところに、
縦書き対応の発表だっただけに、縦書き前提の入力を続けてきてよかった、と、
ほっとした。

しかもiBooks AuthorではTex数式ができるようになっている。
数式の入力はわずかなのだが、まったくないわけではない。
いままでは数式を言葉に置き換えていた。これもうれしい。

iBooksとiBooks Authorのヴァージョンアップによって、つくりこめる、という感覚が出てきた。
もちろん、まだまだなところもあるのはわかっている。

とはいえ、電子書籍をつくることが、これによりすこし楽しくなってくる。

しかも、今日、amazonのKindleの日本語版の発表もあった。

いつが電子書籍元年なのか、そんなことはもう少し先になってみなければわからない。
それでも、確実に、そのための環境は整いつつあるのを、実感できた日である。

Date: 6月 28th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(Retinaディスプレイ)

facebookページ機能を利用して「オーディオ彷徨」となづけた岩崎先生のページを公開していることは、
ここで何度か書いているとおりで、その「オーディオ彷徨」では岩崎先生の文章だけでなく写真も公開している。

主にスイングジャーナルでの試聴風景の写真で、カラー写真はほんのわずかでほぼすべてモノクロといっていい。
しかも紙質のよくないモノクロページに掲載された写真をスキャンして、というものだから、
最初からクォリティは期待できないことはわかっていた。

紙が薄いので裏側の写真や文字が透けてスキャンされることもあるし、粒子も粗い。
それでも写真が伝えてくれるものが、ある。
だから、公開している。

ステレオサウンド編集部にいたころは、実は試聴風景の写真は、
私が担当しているページには、あまり載せたくない、というのが本音だった。
正直、試聴風景の写真の必要性をほとんど感じていなかった。

それがいまではスイングジャーナルの試聴風景の写真が(それが粗い、クォリティの高くない写真であっても)、
伝えてくれるものに、試聴風景の写真の必要性を強く感じている次第である。

試聴風景の写真も形だけでは面白くない。
ほんとうに試聴中のワンショットであれば、そこから読み取れることは意外にも多い。
だからせっせとスイングジャーナルに掲載された写真をスキャンしているところである。

とはいえ、やはり写真が粗い。お世辞にも美しい写真とはいえない。
せめて元の紙焼き写真をスキャンできればずっとクォリティは高くなるけれど、それは無理。
それにスキャンすれば、どんなに注意深く、その作業を行っても、
スイングジャーナルに載っている写真のクォリティよりも良くなることはない、と思っていた。

そう思い込んでいたから、パソコンのディスプレイで「オーディオ彷徨」の写真を見ていた。
iPhoneで見ることは、実はつい先日までしてこなかった。

iPhone 4SのディスプレイはAppleがRetinaディスプレイと呼ぶ、高い解像度をもつものだ。
「オーディオ彷徨」で公開している写真は、一応300dpiでスキャンし、そのまま公開している。
そうやって公開している写真をretinaディスプレイで見ると、
元の、スイングジャーナルに掲載された写真を見るよりも、美しく感じられる。
意外だったけれど、嬉しい驚きでもあった。

Retinaディスプレイの解像度の高さと、液晶ディスプレイのバックライトの存在によるものだろう。
iPhoneだからディスプレイそのものは大きくない、けれどRetimaディスプレイによって、
「オーディオ彷徨」の写真を見るのが楽しくなった。

いま発売されているiPadもRetinaディスプレイになっている。
まだ、新しいiPadで「オーディオ彷徨」の写真を見てはいない。
けれど期待通りの美しさだ、と思っている。

新しいiPadのディスプレイ品質でもう充分というわけではないが、
やっとここまで液晶ディスプレイが来た、という感じがしている。
それも片手でもてるiPadで、この高解像度を実現している。

今年の暮までには、また電子書籍の形で公開を予定している本がある。
いままではePUB形式で公開してきたけれど、次からはiPadのみに、あえて絞っていく。

プラットホームを限定するなんて、時代に逆行している、と思われる人のほうが多いだろう。
でも、電子書籍をよりよいものにしていくには、プラットホームを限定していく必要性を、
私はいまのところ強く感じている。
(といいながらも、私自身、まだ新しいiPadにはしていない……)

Date: 3月 25th, 2012
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その20)

オーディオの「現場(げんじょう)」は、どこなのか。

映画館をホームシアターの「現場」として捉えるのであれば、
まず思いつくのは、オーディオの場合はオーディオ販売店の試聴室がある。

販売店の店主のポリシーによって、試聴室に並べられているオーディオ機器は、さまざまである。
すでに製造中止になっている、名器と呼ばれるものを中心に取り揃えたところもあれば、
最新のオーディオ機器、それもひじょうに高価なモノばかりをあつめたところもあるし、
このふたつの両極の間に、いくつものポリシーがあって、
それらの試聴室で聴ける音もひとつとして同じところはない。

たいていのオーディオ販売店では、CDなりLPを持参すれば、そのディスクを鳴らしてくれる。

ホームシアターでは映画館でも自宅でも、同じプログラムソース(同じ作品)を鑑賞できる。
その意味では同じプログラムソースを聴くことができるわけだから、
オーディオ販売店の試聴室は、オーディオの「現場」と呼べなくはないところがあるのは否定できない。

こんな書き方をしたくなるのは、オーディオ販売店の試聴室が、
ほんとうにオーディオの「現場」たり得るのか、と思っているからだ。

かりにオーディオ販売店の試聴室がオーディオの「現場」だとしても、
それは「げんば」であって、「げんじょう」ではない──、
こういう気持がどこかにひっかかっている。

Date: 12月 4th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その19)

音楽(オーディオ)も映画(ホームシアター)も、
送り手側が制作した作品を、専用のハードウェアで再生して家庭で楽しむものであることは共通しているし、
どちらにも制作という現場がある。

録音にはスタジオ、それにクラシックではホールが、それにライヴ録音ではいろんな場所が現場となる。
映画となると、撮影現場はシーンによって違ってくることが当り前のことだから、
一本の映画のなかではスタジオが現場だったり、ロケ地が現場だったりする。

音楽にも映画にも、だから現場はある。
けれどオーディオとホームシアターの再生側では、ひとつ違うところがある。
映画には、映画館が存在する。

映画館で観るものもホームシアターでDVD、Blu-Ray Discを再生して観るものも、
どちらも同じ映画であって、基本的には同一のものである。
最近ではディレクターズ・カットがあり、映画館で上映されたものよりも長尺になっていたりするけれど、
あくまでも一本の映画は、映画館で上映されるものとDVDなどのパッケージメディアになるものは同じものである。

ホームシアターで映画を楽しむとき、パッケージメディアによることが、いまでも圧倒的に多いと思う。
映画館での上映も、フィルム時代ではフィルムというパッケージメディアであったわけだ。
最近では、映画館のデジタル化が進みはじめている、ときいている。
2010年の段階で日本全国の約3割の映画館がデジタル化されていて、
そこに上映のために届くのは、特別な高速デジタル回線による配信だったり、
ときにはBlu-Ray Discによるものらしい。

ずっと昔は映画館のみでしか観られなかった映画を家庭で楽しめるようになってきた。
それも非常に高いクォリティで、
それも老朽化した映画館よりはずっと高いクォリティを家庭で実現することも可能になっていても、
映画の世界には、これからも映画館と家庭の両方で同じ作品を観て楽しめる。

この映画館の存在こそが、ホームシアターの「現場」ではなかろうか、と思っている。

そして「現場」をどう読むのか、にも、このことは深く関わってくる、とも感じている。
私はオーディオの「現場」、ホームシアターの「現場」は、
「げんば」ではなくあえて「げんじょう」ではないかと考えている。

Date: 12月 3rd, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その18)

1980年代はAV(Audio Visual)と呼ばれていたのが、いまではホームシアターになってしまった、
これはオーディオから派生したものではなくて、やはり別種の似たところのあるもの、と思う。

オーディオもホームシアターも家庭内で、プログラムソースを再生する。
オーディオは音のみ、ホームシアターはそこに映像もある。

AVとまだ呼ばれていたころは映画もだったけれど、
それと同等かときにはそれ以上に音楽もののプログラムソースが目立っていたように感じていた。
まだDVDなどはなく、ディスクのフォーマットとしてレーザーディスクとVHDがあり、
ビデオテープではVHSとβがあったころは、私の印象としてはそんなふうだった。

もっともテレビをずっと持たない生活を送っている私の、映像モノに対する記憶だから、
たまたま個人的に関心をもったのがそうであっただけで、全体としての印象は違うのかもしれないけれど、
それでも音楽もののがAV関係の雑誌で取り上げられることもいまよりも多かったのではないだろうか。

それがいつのまにかホームシアターと呼ばれるようになり、
映画ものの発売枚数は、AVの呼ばれていた時代よりも急速に増えていったような気がする。
音楽ものもけっこうリリースされているのは知っている。
でもAVと呼ばれていた時に観た作品を、もういちどDVDで出ていないか調べてみると、
不思議になかったり、
出ていたとしてもほんのわずかな期間だけでそれほど以前のことでもないのにすでに廃盤だったりするから、
よけいにそんなふうに感じているだけ、ともいえよう。

こんな私の印象はどうでもいいことで、いまはホームシアターということになっている。
いうまでもシアターはTheaterで、劇場、映画館であり、映画館は映画を上映するところであり、
劇場はここにコンサートホールも含まれるのかもしれないが、やはり劇場は演劇を上演するところである。

ということはホームシアターは、家庭内劇場、家庭内映画館ということになる。
ホームシアターという語感から、家庭内コンサートホールはイメージしにくい。

いま私はホームシアターをそういうふうに受け取っていて、
その受け取り方のなかで、ホームシアターにおける「現場」について考えると、こちらはすんなり浮んでくる。

Date: 12月 2nd, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その17)

オーディオの「現場」──、
それはオーディオ機器が開発されていく現場があるじゃないか、という声はあるだろう。
たしかに、これは現場ではある。
でも自転車の世界にも開発の現場は当然ある。
その現場の他に、自転車の魅力をもっとも身近に感じさせてくれる「現場」としてレースがある。

私が初めてロードレースを見に行ったのは、1995年、宇都宮の森林公園で毎年行われているジャパンカップだった。
ジャパンカップは、ツール・ド・フランスを走る自転車選手の参加することもある、
日本で開かれるロードレースのなかでは、レベルも高く、
きっとヨーロッパのレースはこんな感じなのだろうか、と思わせてくれる。

レース会場に足をはこべば、写真や動画からでは感じられない要素があることに、当然気がつく。
まず匂いがある。
ロードレーサーはレース前にマッサージを受けている。そのとき使われるオイルの匂いがする。
そして音。

音に関してはテレビでレースを見ていても、ある程度は聴くことはできても、
生のレースで耳にする音は、もっともっと多い。

ジャパンカップは小高い山を含む周回レースで、頂上で選手が来るのをまっていると、
下からざわめきと撮影のためのヘリコプターの音が大きくなってくる。
そして選手が頂上に達する、わずか手前ではいっせいにディレイラー(変速機)が切り替わる音がする。
選手は頂上は一息つくことなく加速して山を駆け降りていく。
そのため頂上で変速していては加速が遅くなる。だから手前で変速する。

このときの音の大きさには驚く。そして選手は少しでも最短距離を走ろうとするため、
観客の目の前をかなりのスピードで通過していく。
そのとき、風もおこる。

テレビや写真では感じとりにくい、感じられない、これらの要素がレースという現場を記憶に刻みつけてくれる。

Date: 11月 30th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その16)

秋はオーディオのショウが東京でも、各地でも開かれる。
冬になると、各オーディオ雑誌では賞が発表される号が出る。

賞をはやくから始めていたのはラジオ技術のコンポ・グランプリとステレオサウンドのState of the art賞だろう。
ステレオサウンドのほうは名称が変り、いまはステレオサウンド・グランプリとなっている。
どちらも、もう30年以上続いている。

30年前といまとではオーディオ界そのものが変化している。
その変化のなかで、各出版社がやっている賞は、どう対応しているのだろうか。
これについては、私自身、各オーディオ雑誌の賞にほとんど関心をもてなくなってしまっているから、
何かを語れるだけのものはもっていないのだが、
ただ感じるのは、すべてオーディオ機器というモノに賞が与えられている、ということだ。

人に賞が与えられたことは、ない(はずだ)。
10年ほど前からなんとなく思っていた、このことが、
この2、3年、各オーディオ雑誌の冬号が出るたびに、つよく思うようになっている。
なぜなのか。
結局、オーディオの「現場」がどこにあるのか。ここにたどりつく気がしてならない。

自転車の世界では、レースという「現場」がはっきりと存在している。
その「現場」は厳しく、だからこそ魅力的な「現場」でもある。

以前も書いたが、オーディオの「現場」となると、私はすぐに答えられない。
秋のオーディオショウが現場といえば、いえなくもないが、「現場」ではない、ともいいたくなる。

自転車の世界とオーディオの世界を一緒くたにはできないのはわかっていても、
オーディオの「現場」は、いったいどこにあるのか。

Date: 11月 30th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その15)

オーディオの雑誌が平積みでなくなっているのは、定期刊行物である。
その一方で、オーディオ関係のムックは以前よりも増えている。
ヘッドフォン、イヤフォン関連の本もみかけるし、PCオーディオ関係の本もいくつか出てきている。
だからオーディオ関連の本全体としてみれば、必ずしも減ってきているとは言い難いのかもしれないけれど、
それでも、いままでずっと平積みされてきた定期刊行物が棚置きになってしまうのは、
オーディオそのものに勢いがなくなりはじめていることを現しているのだ、と感じる。

本の勢いといえば、私の趣味である自転車の雑誌は、数年前から勢いに乗っている。
私が自転車に興味を持ちはじめたころから出版されていたサイクルスポーツは、
当時中綴だったのがページ数が増えてきて中綴では製本できないほどの厚さになってしまった。
数ヵ月前に出たサイクルスポーツは、月刊誌なのにステレオサウンドに近い厚さがあった。
雑誌も増えている。

自転車という趣味は、オーディオと似ているところもある。
自転車というメカニズムそのものの魅力に惹かれるところは、オーディオと同じといってよい。
だからなのか、自転車の雑誌はどうしても自転車というモノ中心になりがちである。
だが、自転車には、スポーツだからレースが行われている。
日本でも行われているし、ヨーロッパでは日本とは比較にならないほど頻繁に行われている。
いわば自転車の「現場」が、ここにある。
そして、この「現場」だけを取り扱う雑誌が自転車にはある。
CICLISSIMO(チクリッシモ)という本だ。
おもに、というかほとんどヨーロッパのレースを取材している。
ここでは、人が主役だ。

サイクルスポーツやバイシクルクラブといった、従来からある雑誌もレースはとりあげている。
ツール・ド・フランス、それにジロ・デ・イタリアはけっこうなページ数を割いているものの、
それ以外のクラシックレースとなると、ページ数という物理的な制約のため、
扱いはツール・ド・フランスに較べるとずっと小さくなる。
それはやむを得ないことだとわかっているし、だからサイクルスポーツを出している出版社からCICLISSIMOが出た。

Date: 11月 29th, 2011
Cate: 「本」

オーディオの「本」(その14)

この項の(その10)から(その12)で、
書店からオーディオ雑誌が消えつつ(少なくなりつつ)あることの寂しさを書いた。

つい先日も、発売になったばかりのオーディオ雑誌が前号までは平積みだったのが、
今号から棚に収まるようになっていた。
これは私がよく行く書店での話であって、ほかの書店ではまだ平積みになっていることだろう。

こうやって、また一冊、平積みでなくなった……と思ったわけだが、
そのとき、やっと気がついたことがある。
自分でも、いま気づくなんて……と思ったのは、
平積みでなくなっているのはなにもオーディオ雑誌だけではないということ。
レコード(CD)関係の雑誌も平積みでなくなりつつある、ということに、いまさらながら気がついた。

オーディオ雑誌とレコード雑誌は関係している。
片方だけがものすごく売れて、もう片方がまったく売れない、ということはないはずだ。
両方とも売れるか、両方とも売れないか(そこに少しの時期のズレはあるだろうが)。

いま手元に1970年代のスイングジャーナルがある。
見ていると、オーディオメーカーの広告もかなり載っている。
ステレオの1970年代のバックナンバーも少しあって、これにもレコード会社の広告がかなり載っている。
私が読みはじめたころのステレオサウンドも、そういえばレコード会社の広告が載っていた。

いまもオーディオ誌にレコード会社の広告が、レコード誌にオーディオメーカーの広告が、
それぞれ載っていても、その割合は以前と較べるとぐんと減っている。

オーディオ関係者の中には、オーディオ界はいまのままでいい、という人がいる。
本人から直接聞いたことだから、信じられないと思われる人もいるだろうが、事実である。
そういう人はごくごく少数だと、私は信じている。
多くのオーディオ関係者の人たちは、オーディオ界をよくしていきたいと思っている、と信じている。

それに、仮にいまのままでいい、という人にあえて言いたいのは、
現状維持でいいと、何もせずにいれば確実に悪くなっていくものだ。
現状維持をするためにも、よくしていこう、とやっていかなければならないのに、と。

よくしていくには、オーディオ業界とレコード業界が協力し合うことがこれまで以上に求められるのではないか。