Archive for category 「ネットワーク」

Date: 6月 9th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その6)

先月末にステレオサウンドから瀬川先生の著作集が出た。
けっこう厚みのあるムックである。

この本が出ることが、事前にわかっていたら、
そしてもし依頼があれば、
私のところにしかない瀬川先生に関する貴重な資料を貸し出したのに……、とは思う。

私は部外者だから、こんなことをここで書いても、そこまでである。
それでも、もし瀬川先生の著作集の第二弾が出るのであれば……、
と思っている矢先だったことも関係している。

「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」から「audio sharing」への参加希望された人もまた、
ステレオサウンド関係者だった。
その人が「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」がまだ「オーディオ彷徨」だったころに
「いいね!」をしてくれていたことはわかっていた。

その人が非公開の、それも私が管理している「audio sharing」へ参加希望されたということは、
意外な気がするとともに、やはり、という気ももっていた。

audio sharingを2000年に公開するために作業していた時も、
いまthe Review (in the past)の入力作業をしている時も、
同じことを思う時がたびたびある、「元原(もとげん、元の原稿)を見たい、元原で確認したい」と。

これは同じ作業をしている人には共通していることであるはず。

Date: 6月 9th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その5)

このブログでステレオサウンドについて書いていることに対して、
「あいつはきついこと・批判的なことばかり書いている」と受けとめられている人もいよう。
そういう人の中には、私がステレオサウンドを敵対視している、と思われている方もいることだろう。

私は、オーディオ界が良くなってほしい、と思っている。
そのためにオーディオ雑誌が果す役割はずっと大きい。
だから、ついついあれこれ言いたく(書きたく)なる。

次の号が出るまでの三ヵ月がながく待ち遠しく感じられるような、
発売日に書店に行きたくなるようなオーディオ雑誌にステレオサウンドがなってくれることを望んでいる。

もっとも、いまのステレオサウンドをそういうふうに楽しみに待っている人がいることはわかっている。
でも、私を含め、もうそうでなくなった人たちが少なからずいることも、まだ事実である。

部外者が好き勝手なことをいっている、と思われていてもいい。
とにかくステレオサウンドが面白くなってくれれば、他のオーディオ雑誌も面白くなっていくはず。
そういうものである。

ステレオサウンドが良くなってほしい、と思っているから、
昨年春、一度あったことのある人から相談を受けた。
ステレオサウンド 182号(2012年春号)で、ステレオサウンド社が編集者を募集していた。
応募したい、ということだった。

ステレオサウンドを敵対視しているのであれば、
彼にステレオサウンドを受けることをやめさせるようにするものだろう。
彼がステレオサウンドに入ることで、
ステレオサウンドが良い方向に向くように作用する力にすこしでもなれるであろう、と感じたから、
電話でもけっこうな時間話し、そのあとに実際に会ってあれこれ話したことがある。
具体的にどうすればいいのかも話した。

彼が入社できたのはもちろん彼自身の力であるわけだが、
私のアドバイスも少なからず役に立っていたはずである。
そういう確信はある。

Date: 6月 9th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その4)

facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」は私が管理・公開しているから、
「いいね!」をクリックしてくれた人がいれば、すぐに通知がある。
誰が「いいね!」をしてくれたのか、わかる。

少し前に、あるオーディオ関係者の人が「いいね!」をしてくれた。
その人のちょっと前に別の人がしてくれていて、その人と友達の、そのオーディオ関係者がしてくれたわけである。

facebookには友達が、何かを「いいね!」をしたら知らせてくれる機能があるから、
間違いなく、そのオーディオ関係者の人も、
その通知を見て「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」のページを知っての「いいね!」なのだろう。

そのオーディオ関係者は、ステレオサウンド関係者ともいっていい人である。
だから、その「いいね!」の通知を見て、たぶん、この人は「いいね!」を取り消すだろうな、と思っていた。

facebookページには、管理人の情報を公開するか非公開にするか選択できる。
私は、公開する、にしている。
それに自分のサイト、ブログへのリンクもやっているわけだから、
すぐに私が、このfacebookページを管理していることはわかるようにしている。

案の定、数日後には「いいね!」を取り消されていた。
この人は、「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」の内容を評価するよりも、
私が管理・公開しているものに対して「いいね!」をしたくなかったわけであろう。

こういう人に対して、もう何の感情も湧かなくなった。
ただ「やはりね」だけである。

そんなことがあって、それほど経っていないからこそ、
岩崎先生の原稿を非公開のfacebbokグループ「audio sharing」で公開したと告知して、
最初に参加希望された人の名前を見た時は、驚いた。

Date: 6月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その3)

スイングジャーナルで、岩崎先生が亡くなった後の企画で、
岩崎先生の原稿が扉として使われていたことがあった。
どんなふうな原稿だったのかは、わずかな写真から推測するしかなかった。

一度でいいから、原稿そのものを見たい、と思っていた。
それが、いま、目の前にある!

これは、もう絶対お借りしてスキャンしたい。
そう思って片桐さんから掲載誌とともに岩崎先生の原稿をお借りしてきた。

それで翌日、さっそく岩崎先生の原稿をスキャンした。
伊東屋の400字詰め原稿用紙はA4サイズよりも大きい。
私が持っているスキャナーはA4まで、である。
A3対応のスキャナーが欲しかったのだが、価格よりもあの大きさは仕事用であり、
個人用の大きさではない。
それでも、こういうとき、やっぱりA対応にしておけばよかったかな、とおもわないでもないが、
手もとにあるのはA4までだから、400字詰め原稿用紙をスキャンするには二回にわけて、
あとは画像処理ソフトでくっつけるしかない。

めんどうな作業だな、とおもいつつ、すべの原稿(15枚)をスキャンして、
試しにと一枚目を、二枚の画像を重ねて一枚の画像にしてみた。
まぁ、うまくいったほうだと思い、これを使って……、と考えたわけだ。

いつもなら岩崎先生に関する写真はfacebookページ「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」で公開する。
岩崎先生の原稿を見たい、と思う人は、きっといるはず。
そういう人をfacebookグループ「audio sharing」に誘導するために、
リンク先とともに、告知した。

自分でも「ずるいかも」と思いながらも、
岩崎先生の原稿の画像とともに、読む人によっては辛口と思えることも書いたこともあって、
非公開の「audio sharing」を選んだわけである。

Date: 6月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その2)

facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」(以前は「オーディオ彷徨」という名称)は、
facebookのアカウントがなくても誰でも見れるようになっている。
だから「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」の更新情報はtwitterと連動するようにしている。

facebookグループの「audio sharing」はfacebookのアカウントが必要になるし、
さらにあえて非公開にしているから、グループへの参加希望をクリックしていただければ、
基本的にどなたでも承認している。

このふたつを始めたころはグループ「audio sharing」に参加してくれる人が、
「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に「いいね!」をしてくれる人よりも多かった。
それが昨年末ぐらいに逆転してしまった。

どちらが上でもいいといえばいいのだけれど、
心情的には「audio sharing」に参加されている方が多い方が嬉しい。

非公開にしているから、興味を持っても……という方もおられるかもしれない。
人を増やしたいのであれば、非公開をやめることがてっとりばやい、と思う。
でも、これからも非公開のままでいくつもりである。

何も好き勝手をことを書くための非公開ではない。
自由に書きこんでもらうための非公開である。

非公開にしておきながら参加してくださる方を増やしていきたい。
そんなことも少しは考えて、昨日「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」に「audio sharing」へ、
いわば誘導するための書き込みをした。

一昨日、四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記にて行った「岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代」、
ここにゲストとして来てくださった片桐さんが、ある本を持ってこられていた。
それだけでなく、岩崎先生の原稿そのものもいっしょにだった。

Date: 6月 7th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(facebookにて・その1)

まれにではあるけれど、「あれもそうなんですか」ときかれることがある。
なので、いま私がインターネットで公開しているものを挙げておく。

まず2000年8月に始めたのが、このブログやそのほかのことの母体となる「audio sharing」というウェブサイト。

2008年9月から、このブログ、audio identity (designing) を公開しはじめた。
2009年6月から、the Review (in the past) を公開している。

twitterを始めたのは2010年1月から、
facebookを始めたのは2011年2月から。

mixiをやっていたこともある。たしか2005年から約一年間ほどだった。
その他にもGoogle+、その他もアカウントはつくってはいるけども……、である。

twitterはfacebookに、facebookページとfacebookグループをつくったこともあって、
あまり書き込みはしなくなった。
かといってfacebookの自分のタイムラインも、ややほったらかしで、
facebookページの「岩崎千明/ジャズ・オーディオ」と
facebookグループの「audio sharing」に力をいれている。

そんなところである。

Date: 4月 4th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その2)

スピーカーケーブルも1mあたり数千円が高価だとおもえていた頃からすると、
いまどきの高価なケーブルの価格づけには、首を傾げたくなるものがある、といえばある。

高価すぎる、と私が思っていても、
別の人は妥当な価格だと思うことだってあるし、さらには安い、と感じている人だっているとは思う。
それでも1mあたり数十万円もするようなスピーカーケーブルともなると、
アンプの値段とあまり変らなくなってきているし、
価格の面だけからみれば、
スピーカーケーブルも、アンプやスピーカーと同じようなオーディオ・コンポーネントのひとつということになろう。

スピーカーケーブルもアンプやスピーカーと同じような扱いで捉えられている人も少なくない、ともきいている。
でも私はケーブルの類はアクセサリーであり、オーディオ・コンポーネントの「関節」でもあると考えている。

とにかくケーブルをオーディオ・コンポーネントのひとつとしてとらえるならば、
アンプやスピーカーと同じように常に目につくところに置きたい(這わせたい)と思うのが、
むしろ一般的なのかもしれない。

仮に私がそういう高価すぎると思えるスピーカーケーブルを使うことがあるとしても、
スピーカーケーブル、それに電源コードは極力目につかないように隠して這わせるようにする。

このへんは、人によって考え方の違いだろう、といってすませられることだとは思っていない。

Date: 3月 19th, 2013
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(おさなオーディオ・その1)

1980年代、菅野先生がステレオサウンドにおいて「きたなオーディオ」という表現を使われたことがある。

「きたなオーディオ」、つまり「汚いオーディオ」ということである。
音のため、音質最優先という名目で、見た目はまったく考慮しない。
とにかく音さえ良ければ、それで良し、とする一部の風潮に対してつけられてものである。

この「きたなオーディオ」には、
この時代になると、ただ見た目が悪い、ということだけにはとどまらない。
たとえば最新の、仕上げのよいオーディオ機器を、
高価なラックにきちんとおさめて、セッティングにも気を使っている。
どこにも1980年代のころの「きたなオーディオ」の要素は見当たらないように思える。

けれどスピーカーケーブルが部屋の真ん中を這っている。
スピーカーケーブルではなくとも、ラインケーブルが部屋の中央を這っている。

専用のオーディオルームに、比較的多く見られる、この状態も「きたなオーディオ」ともいえる。
しかも、部屋の真ん中にケーブルを這わせている人が使っているのは、
不思議なことに太く、高価なケーブルのことが多い。

私がいたころ、ステレオサウンドの試聴室ではスピーカーケーブルは、
試聴室の真ん中に這わせていた。
これは六本木という、外来ノイズのひどいところにおいて、きちんと試聴するための手段であったし、
試聴室という、いわば実験・テストの場でのケーブルの這わせ方でもある。

ケーブルを最短距離で這わせようとすれば、
たしかに部屋の真ん中を這わせることになる。
ケーブルを視覚的に目立たせないように部屋の隅を這わせていくと、
当然ながらケーブルは長くなる。
高価なケーブルがますます高価になっていくわけだ。

Date: 11月 25th, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その17)

編集部の人たちは、自分たちがつくっているのはオーディオ専門誌、と思っているのかもしれない。
オーディオ専門誌とまではいかなくても、オーディオ誌をつくっているのであり、
オーディオ雑誌と呼ばれることに抵抗や嫌悪感をもつ人もいることだと思う。

私だって、ステレオサウンドにいたころはオーディオ専門誌だとステレオサウンドのことを思っていたし、
オーディオ専門誌をつくっているつもりでいた。

でも、いまはよほどのことがなければ私はオーディオ専門誌という言葉は使わないし、
あえてオーディオ雑誌、と書くようにしている。
これは嫌味で、そう書くようにしているわけではない。

雑誌と書いてしまうと、雑という漢字が使われているため、
専門誌と表記されるよりも、一段低いレベルの本という印象になってしまいがちである。

けれど、雑誌とは別に雑につくられた本、という意味ではない。
雑誌だから、雑につくっていいわけでもない。

雑の異体字は、襍、旧字は雜(これは人名漢字としても使える)、
同じ系統の漢字として緝だ、と辞書には書いてある。

雑誌と書いてしまうから、なにか低いものとして捉えてしまいがちになるが、
異体字、旧字、同系統の漢字をあてはめてみると、雑誌という言葉が意味するところが見えてくる。

オーディオ襍誌、オーディオ雜誌である。
どちらも「おーでぃおざっし」と読む。

緝は、ザツと読むことはできないけれど、
この緝が、編集につながっていることがわかる。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その16)

なぜ、そう確信できるのか。
もうひとつ五味先生の文章を引用しておく。
     *
『レクィエム』は、むろん、こんなことばかりを私に語りかけてきはしない。私は自分のためでしかレコードは聴かない。私の轢いてしまった二人の霊をどうすれば弔うことができるのか。それを、私はモーツァルトに聴く。明らかに救われたいのは私自身だ。人間のこのエゴイズムをどうしたら私から払拭できるか、私はそれをモーツァルトに聴いてみる。何も答えてはくれない。カタルシスといった、いい音楽が果してくれる役割以上のことは『レクィエム』だってしてはくれない。しかし、カタルシスの時間を持てるという、このことは重大だ。間違いもなく私は音楽の恩恵に浴し、亡き人の四十九日をむかえ、百ヵ日をむかえ、裁判をうけた。
     *
できれば、もっともっとながく引用しておきたい。
すべてを引用しておかなければ、読む人に誤解を与えるのはわかっている。
だからといって、これ以上ながく引用すると、よけいに誤解をあたえそうな気がしてしまうのと、
結局、どこかで切るということが無理なことがわかってしまうから、
あえて、これだけの引用にしてしまった。

この文章は「西方の音」におさめられている。
「死と音楽」からの引用である。

このときなぜ五味先生はモーツァルトのレクィエムをくりかえしくりかえし聴かれたのかは、
「死と音楽」をお読みいただくしかない。

「何度、何十度私は聴いたろう」と書かれている。
それでもモーツァルトのレクィエムは、「何も答えてはくれない」。

五味先生がモーツァルトのレクィエムを「何度、何十度」聴かれたのは、
S氏邸で大晦日にトスカニーニのベートーヴェンの第九を聴かれたときから、10年近く経っている。

「何も答えてはくれない」は、だからそういうことだ。
これ以上書く必要はないだろう。読めばわかることなのだから。

誰も何も、答えてはくれない。
そのことに気づかぬ者が、誰かに何かに答を要求し、
そのことに気づかぬ者が、(気づかぬ者だけが答と思っているだけでしかない)答を語っている──、
それがなんになろう。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その15)

〝第九〟も同様だろう、あの優婉きわまりない、祈りの心をこめた、至福の恍惚境をさえしのばせるきわめて美しい緩徐楽章のあとに、ベートーヴェンは歓喜についての頌歌を加えるが、
 O Freunde, nicht diese Töne! ……
「おお、このような音ではなく、もっと心地よい、もっとよろこびに満ちたものを友よ、私たちは歌い出そうではないか」
 冒頭バリトン独唱によるこの歌詞をベートーヴェン自身で作っていることを、ここが歌われ出すたびに身のひきしまるおもいで私は想起する。音楽を聴いていて、居ずまいを正さずにはいられぬ作品はそう多くない。「襟を正す」という言葉を私はこの歓喜の章を聴くたびにおもうのだ。
 妻と別れようと考えた時期があった。〝二羽の鳩〟で結ばれた京都の人を失ったあと、〝ダフニスとクローエ〟に想いを托した女子大生へ、しだいに私がのめりこんでいた時だ。一度、佐藤春夫先生宅へ彼女を伴った。佐藤先生は素敵な乙女だと彼女を褒められた。そこへ佐藤夫人が外出先から帰ってこられた。夫人は、私の妻をよくご存じで、烈しい口調で私を叱られた。妻以外のそんな女性を佐藤邸につれてくるとは何事か、というわけだ。私はむっとした。叱るなら何故彼女のいない時に私を呼びつけて、叱られないのか。彼女の傷つくのが私には耐えられなかった。私はそういう人間だ。いつも自分のことは棚にあげて人さまを詰ろうとする。彼女の前で叱られればこちらは意地にでも彼女をかばう。つまり彼女サイドへかたむいてしまう。
 ところが、夫人が叱られると佐藤先生までが、口うらを合わせ、そうだ五味、きみはけしからん、とっとと帰れ。以後出入りはゆるさんぞ、と言われたときにはアッ気にとられ、一ぺんに肚がすわってしまった。私は彼女を見捨てるわけにはゆかぬ立場に自分がおかれたのをこの時感じた。あとからおもえば、彼女は傷ついて私の妻は傷つかないのか? そんな怒りをこめた夫人の叱声だったとわかる。だがいつも「あとから想えば」だ。この時は妻と別れねばなるまいと決めていた。といって彼女と結婚しようというのではない。とにかく、独りになって考えようと考えたのだ。私は妻を関西の実家へかえした。
 その年の暮、例によって大晦日にS氏邸で〝第九〟を聴いた。トスカニーニ盤だったとおもう。第四楽章合唱の部にはいったときだ、一斉に歌っている人々の姿が眼前に泛んできた。合唱のメンバーはすべて私の知っている人たちだった。当時神様のようにおもっていた高城重躬氏も、S氏も、私の老母も、佐藤夫妻も、知るかぎりの編集者、知人、心やすい映画スター……みな口をそろえ声を張りあげて歌っている。まさに歓喜の合唱である。その中に妻の顔もまじっていた。ところがどうしたことか、妻だけは、声が出ない。うなだれ涙ぐんでいる。どうしたのだ? 私は妻の名を呼びかけて励ました。妻が涙ぐんでいるのは私と別れるためなのはわかっていた。しかし、貴女はまだ若い、これからいい人が現われるにちがいない、元気を出すんだ、ぼくのような男でなく貴女にふさわしい人間がこの世にはいくらもいる、今にそんな一人が貴女を仕合わせにしてくれる……へこたれないで元気を出してくれ。……私は精いっぱい声をはりあげ、妻を激励した。だがついに、最後まで、妻は歌をうたえなかった。うなだれて泣いていた。それを見た時、彼女のためにハラハラと私は涙をこぼした。妻に同情した涙だ。どんなに私との別離で妻は苦しんでいるかを、その幻覚に私は見たのだ。
 おそらく、誰に意見されても人間の言うことなら私は肯かなかったろう。だがベートーヴェンの〝第九〟がまざまざみせてくれたこの場面は、私にはこたえた。おのれの非を私はさとった。
 私は妻を東京へ呼びもどすことにして、女子大生と別れた。彼女がのちに入水自殺をしたのは、私とは関係のない別の理由によることだと聞いている。真実はもう知りようがない。私たち夫婦には、その後、はじめて娘が生まれ、娘は今年十七歳になった。
     *
長い引用になってしまった。
五味先生の「ベートーヴェン《第九交響曲》」(オーディオ巡礼所収)からの引用である。

このとき、トスカニーニによるベートーヴェンの第九の第四楽章が、
五味先生にみせた幻覚は、答ではない。
五味先生も、ベートーヴェンの第九が与えてくれた答とは思われなかった、と思っている。

Date: 11月 22nd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その14)

ステレオサウンドへの批判で比較的多く目にするのは、
測定をやっていないから、そこでの評価は信用できない、というものがある。

こういうものを目にするたび、いつの時代も、こういう人がいるのか……、と気持になってしまう。
勝手に想像するに、こういう人は、ステレオサウンドに答を要求しているのではないだろうか。

スピーカーシステムにアンプにしろ、CDプレーヤーにしろ、
何がイチバンいいのか、それを示せ、と。
ここまで極端でなくても、この価格帯でイチバンいいのはどれか、という答を、
ステレオサウンドというオーディオ雑誌に要求している、としか思えない。

ステレオサウンドは一時期測定をよくやっていた。
やっていたから、答を誌面で提示していたわけではないし、
そのための測定ではなかった。

ステレオサウンドは、そんな答を提示するオーディオ雑誌ではない。
これはステレオサウンドを否定しているのではなく、だからこそステレオサウンドを昔私は熱心に読んでいた。

そのことは、おそらく当時ステレオサウンドに執筆されていた方たちの暗黙の了解でもあったのではないだろうか。

オーディオ評論家は、読者に答を提示する存在ではない。
私は、オーディオ評論家は、読者に問いかけをする存在だとする。
読者に、音楽をオーディオを介して聴くということについて、
もっと深く考えてほしい、感じてほしい、という気持からの問いかけであるからこそ、
評論なのだと思う。「論」がそこにはついていくる。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その13)

私の同じ世代、私より上の世代は、しっかりとした橋が架けられていた。
だから、その橋がかけられているところまで行き、その橋を渡ろうとおもった。
そして渡ってきた。

そのころの橋からすれば、いまの橋は……、とどうしても感じてしまう。
私や私より上の世代が知っていた、しっかりした橋を知らない世代にとっては、
いまどきの橋でも渡ろう、という気になるのだろうか。

そして、そのころは本というものがあいだにはいらなければ、
書き手と読み手のあいだに橋を架けることは、まず無理だった。

いまは違う。インターネットという環境がここまで整っているから、
書き手から読み手への直接の橋を架けようとおもえば、その手段はいくつも用意されていて、
書き手さえその気になれば、そのときから橋を架け始められる。

こんなことを書くと、
われわれはプロの書き手だから、無料で読めるところ(原稿料が発生しないところ)には書かない、
こんなふうな意見が返ってきそうである。

書くことで糧を得ているのだから、いちおうは理解できる。
それでも、あえて言いたい。

あなたには書きたいことがないのか、と。
書きたいことが、書き手にはきっとあるはず。
そうでなければ、ただ雑誌に文章を書いて原稿料をもらっていたとしても、それは「書き手」といえるのだろうか。

書きたいことを、つねに書かせてもらえるわけではない。
世の中はそういうものである。

だけど、いまは書く場所を自分でつくれば、書きたいことを書いていける。
書きたいことをもたない人にとっては、
わざわざそういう場をつくってまで書く必要性は感じないだろう。

オーディオ評論家と呼ばれている人たちの何人かは、
Twitter、facebookのアカウントをもち、書いている人がいるのは知っている。
でも、それは書きたいことを求めての行動とは感じられない。

書かない人は書かない。
書きたいことをもっていない人なんだろうから。

それよりも哀しいのは、書きたいことをもたないもそうだけれど、
書くべきことをもたないということである。

その人でなければ書けない、書くべきことをもっている人であれば、
きっと書く場をなんとかしてでも書いていくはず。

書くべきことをもたない書けない人は、橋を架けない人──。

Date: 11月 21st, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(編集について・その12)

自分の言葉を、自分が渡る橋だと思いなさい。しっかりとした橋でなければ、あなたは渡らないでしょうから。

ユダヤの格言、ということで、今朝、Twitterを眺めていたら、フォローしている方がリツイートされているのが、
目に留った。

この項の(その7)、別項の「オーディオにおけるジャーナリズム」の(その2)で、
編集という仕事を、橋を架けることだ、と書いた。

やっぱり、「橋」なんだ、と実感した。
編集という仕事に限らない。

不特定多数の人が読むメディア(本、インターネットを含めて)に、なにかを書いていくということは、
橋を架けていくことであり、
ユダヤの格言にあるとおり、しっかりした橋でなければ、自分自身が渡らないし、
書いた本人が渡らない橋を読んだ人が渡ってくれようはずがない。

Date: 10月 23rd, 2012
Cate: 「ネットワーク」

オーディオと「ネットワーク」(情報量・その4)

聴感上のS/N比をよくしていくことは、音楽の鳴っている場の空気を清浄していくようなものである。
澱んだ空気の中で音楽を聴きたい、とは私は思わないから、
聴感上のS/N比は高くしていきたい。

でも、たとえばジャズのライヴ。
いまでこそ禁煙のところが増えているから、
ジャズのライヴでも全面禁煙もしくは分煙というところが増えているのかもしれない。
とするとジャズのライヴにおいても、タバコの煙がもうもうとしている、
昔の、ずっと昔のジャズのライヴの、そういったイメージのところはもはやないのかもしれない。

現実にはなくなってしまったかもしれない、そういう場を、
オーディオは再現しようと思えば、再現できないことではない。
クラシックが演奏されるホールとは違い、天井の低い、人が集まりすぎて空気が澱んでいるうえに、
タバコの煙まで、だれも遠慮することなく吸っては吐き出している場の雰囲気は、
聴感上のS/N比は悪くすることで、近づけることはできる。

これは特殊な聴き方かもしれない。
でも、そういう時代のそういう場で演奏される音楽を聴きたい、のであれば、
そういう聴き方を否定はしない。

それは、あえてそういう選択をした結果の音として、誰も否定することはできないことだ。

このことと、聴感上のS/N比を悪くしていく手法をチューニングと称する、おかしなこととは、
まったく意味の違うことである。