二度目の「20年」(オーディオ少年よ、圧倒的であれ)
オーディオ少年だからこそ、生意気な目つきを忘れないようにしたい。
だからこそ、圧倒的であれ、とおもう。
約二年前に、
《オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。》と書いた。
2017年も残り少なくなって、いままで以上に強く思っている。
圧倒的であれ、と思っている。
オーディオ少年こそ、圧倒的であれ、とおもう。
オーディオ少年だからこそ、生意気な目つきを忘れないようにしたい。
だからこそ、圧倒的であれ、とおもう。
約二年前に、
《オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。》と書いた。
2017年も残り少なくなって、いままで以上に強く思っている。
圧倒的であれ、と思っている。
オーディオ少年こそ、圧倒的であれ、とおもう。
オーディオ少年としての生意気な目つきを忘れないようにしたいから、
MP649をひっぱり出してかけている。
いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ、と一年前に書いている。
オーディオ少年だからこそ、生意気な目つきを忘れないようにしたい。
新品のスピーカー、
それも封を切ったばかりのスピーカー、
特に中高域に金属の振動板を採用したスピーカーは、
耳障りな音を出す傾向が、ままある。
特にホーン型は、鳴らし込みが必要だ、といわれてきた。
鳴らし込みはエージングともいわれる。
エージングは、agingである。老化とも訳せる。
鳴らし込みには時間がかかる。
ある意味では、老化といえる。
スピーカーは振動によって音を発しているわけだから、
自らが発する振動によって、エージング(老化)が進むところもある。
スピーカーを構成するあらゆるところがヘタッてくる。
いつしか耳障りな音がしなくなり、音がこなれてくる。
鳴らし込みとは、たしかにそういうものなのだが、
力みを取り去っていくことでもあるように、10年ほど前から感じるようになった。
人と同じで、若いころほど力みがある。
力があり余っているから、ともいえる。
それが歳をとり、力も少しずつ衰えていく。
けれど、一方で力みも消えていくのではないだろうか。
すべての人がそうだとはいわないが、気がつけば力みが少なくなっている、
消えている、ということは、50を過ぎている人であれば、感じているのではないだろうか。
以前できなかったことが、いつのまにかすんなりできるようになっている。
特に練習したとか、そんなことはしていないのに……。
それはおそらく力みがなくなってきたからだ、と私は思っているし、
スピーカーの鳴らし込み(エージング)の肝要な点は、まさにここのはずだ。
あのころのイギリスのソフトドーム型ユニットをもつイギリスのスピーカーは、
音量をあげた際には、弱かった。
悲鳴をあげる──、とまでは少し大袈裟でも、それに近い弱さをもっていたからこそ、
音量に気をつけて鳴らした時の、うるおいのある音、力みを感じさせない音は、
私にとってほんとうに魅力的であった。
そして、それゆえに女性的と感じていたのだろう。
逆の見方をすれば、そういうスピーカーは、ほんとうの力の提示ができない、
もしくは苦手なスピーカーということもできる。
けれど、力の提示に優れているスピーカーの多くは、
どこかに力みが残っているような鳴り方をする。
それは結局のところ、こちらの鳴らし方次第なのだとはいうことに気づくのに、
私の場合、そこそこの時間がかかった。
40をこえてから、そのことに気づいた。
力をもっているスピーカーから、力みをなくしたときに、
そのスピーカーの力量がようやく発揮される。
力みが消え去っているからこそ、力の提示が可能になる。
大音量再生において、もっとも大事なことも、これである。
力みのある音、力みをどこかに残している音での大音量再生には、
真の大音量再生の快感はない。
オーディオマニアにはモノマニアの側面がある。
モノマニアとしてみたときに、イギリスのBBCモニター系列のスピーカーには、
ある種のものたりなさを感じてしまう。
JBLのユニットは、モノマニアを満足させてしまう。
そういうところはBBCモニターに使われているユニットには、まったくない。
あと少し本格的なユニットをだったら……、と思うことはしばしばあった。
本格的なユニットがつけば、その分コストにかかってくる。
ユーザーに負担をかけることにもなる。
これで充分だろう、という作り手側の主張なのかもしれない。
そう頭でわかっていても、モノマニアの心情はそうはいかない。
イギリスでもタンノイ、ヴァイタヴォックスのユニットは、本格的なつくりだった。
フェライトになってからのタンノイはそうではなくなったが、
ヴァイタヴォックスのウーファー、ドライバーは、それだけ見ても魅力的だった。
それでも音を聴くと惹かれるのは、
モノマニアとしてものたりなさを感じてしまうスピーカーばかりといってもよかった。
うるおいがあったから、と(その1)で書いた。
たしかにそうである。
ずっとそうだと思い込んでいた。
間違っていたわけではない。
けれど40をこえたころからだったか、
それだけで惹かれていたわけでもないことに気づきはじめた。
私が惹かれたスピーカーの音には、力みがなかったからだった。
別項「つきあいの長い音」について考えていると、
好きな音は、いつしか好きだった音になってしまっているのか、と考えてしまう。
10代のころ、BBCモニターとその系列の音が好きだった。
スペンドールのBCII、ハーベスのMonitor HL、
ロジャースのLS3/5A、それにPM510。
BBCモニター系の音とはいえないが、
セレッションのDitton 66、QUADのESL(ESL63は好きにはなれなかった)も好きだった。
JBLのスタジオモニターの存在に憧れながらも、
音を聴いて「あっ、いい音だな……」と呟きたくなるのは、
決ってイギリスの、それもダイアフラムが金属ではないスピーカーばかりだった。
どのスピーカーの音にも、うるおいがあった。
乾き切った音を出すことは決してなかった。
そういう音が好きな人からは、ボロクソにいわれがちでもあった。
音が湿っている、とか、鈍い、とか。
そんな評価を聞くことはけっこうあった。
けれどうるおいのない音に惹かれることはなかった。
人間のこころの機能を無視して、人間の機能を単に生理的・物理的な動物のようにとらえる過った態度からは、魅力どころかまともなオーディオ製品すら生まれない。
*
瀬川先生がステレオサウンド 31号の特集で書かれている文章からの引用だ。
31号は1974年夏号。
31号は、ステレオサウンド時代に読んでいる。
その時(ハタチぐらい)には、ここに出てくる「人間のこころの機能」の重さに気づかなかった。
いまやっと気づく。
「人間のこころの機能」、
このことを無視したところに、オーディオの科学も存在しない。
こうやって毎日書いているから、気づけた「人間のこころの機能」である。
オーディオ評論家(商売屋)は、どういう人たちなのか。
ひとつはっきりいえるのは、怒りを忘れてしまった人、持てなくなった人であること。
おそらく、オーディオ評論家(商売屋)が、怒る時は、
自分の仕事領域を誰かに侵されたり、自分のことをバカにされたときぐらいだろう。
けれど、それらは怒りとはいわない。
そんなことにも気づかなくなっているのが、オーディオ評論家(商売屋)だ。
この項の最初に、
心の中ではオーディオ少年だ、と書いた。
オーディオマニアは、みなオーディオ少年だった。
少年もいつしか大人になる。
オーディオを仕事としていれば、大人にならざるをえない。
どんな大人になるのか。
商売屋という大人になっていったオーディオ少年、
職能家をめざしていくオーディオ少年、
前者があふれ返っている。
名言・格言の類を積極的に調べることはないが、
なにかのきっかけで知ることは意外とある。
ウィンストン・チャーチルの言葉である。
The farther backward you can look, the farther forward you are likely to see.
(過去をより遠くまでふり返ることができれば、未来も同じくらいに遠くまでみることができよう)
そうだと思う。
そしてfartherをdeeperに置き換えても、そうだと思う。
The deeper backward you can look, the deeper forward you are likely to see.
過去をより深くふり返ることができれば、未来も同じくらいに深くみることができるのではないだろうか。
マンガ家の原画を見たことが数回ある。
すべてのマンガ家の原画を見たいとは思っていないし、
原画を見たいと思うのは、わずかなマンガ家である。
「3月のライオン」の原画も見たいと思う。
この原画という言葉に相当するのが、
オーディオの世界では原音になるわけだが、
画と音とでは、違う。
原音の「音」に相当するのは、原画ではなく「線」のはずだ。
つまり原音と原線であり、
原画に相当するのは原音ではないことに気づく。
となると原画に相当するのは、オーディオの世界ではなんといったらいいのか。
音ではなく響きか。
そうだとすれば原響なのか。
個々の楽器の音像なのだろうか。
だとすれば原像となるのか。
結局は「場」なのか、とも思う。
ならば原場になるのか。
どれもしっくりこない。
いったい何と呼べばいいのだろうか。
「3月のライオン」は単行本の一巻だけは読んでいた。
それからNHKで放送されているアニメをみた。
ていねいにつくられているアニメであり、すぐれたアニメである。
一話目冒頭のモノクロのシーンは原作のマンガにはない。
アニメで加えられたシーンであるが、このシーンが静かな迫力を生んでいる。
アニメの監督は新房昭之氏。
「3月のライオン」の作者・羽海野チカ氏が「この人に!」とおもっていた人だそうだ。
アニメ「3月のライオン」に登場する人たちは、みな表情豊かだ。
アニメが画が動くし、音声もつく。
アニメをみなれた後で、
それもすぐれた出来のアニメ(そう多くはないけれど)を見たあとで、原作のマンガ、
つまり音声もなし、動きもなし、色もなしの二次元の領域に留まっている表現に触れると、
その世界に慣れるまでに、わずかな寂しさのようなものを感じることがある。
けれど「3月のライオン」にはそれがない。
むしろ動きも、音声も、色もないマンガの表情の豊かさに気づかされる。
特に川本三姉妹の表情は、じつに豊かだ。
その表情を生み出しているのは線である。
その線をみていると、この人はいったいどれだけの線を描いてきたのか、
そして見てきたのか、ということを考える。
才能をどう定義するか。
そのひとつに、どれだけの圧倒的な量をこなしているかがある、と私は思っている。
いまは3月だから、という勝手な理由をつけて「3月のライオン」については、
遠慮することなく書こう、と思っている。
少なくとも私の中では、オーディオと無関係なことではないのだから。
「3月のライオン」を読んでいると、なぜ、こんなにもハマっているのか、と自問することがある。
「3月のライオン」の単行本の巻末には、いわゆるあとがきといえるページがある。
本編とは違うタッチで描かれた短いマンガが載っている。
筆者近況ともいえる内容のこともある。
十巻の、そんなあとがきを読んでいて、
やっぱりそうだったのか、と納得できた。
そのあとがきは入院・手術のことから始まる。
かなり大変だったのだろうと思う。
あとがきに、こんな独白がある。
*
身体はしんどかったのですが
素晴らしい事もありました
今年(2014年)5月に
朝日新聞社さんの
「手塚治虫文化賞マンガ大賞」
いただく事ができました
「こんなにも何かを欲しがっては
呪われてしまうのでは」と思う程
心を占めていた賞でした
受賞の報せを
きいた時
こんらんして どうようして
30分以上 立ったままで
大泣きしました
*
作者の羽海野チカは、初めて買ったマンガが「リボンの騎士」で、
小さかったころ夢中になってまねて描いていた、と。
羽海野チカは描き続けてきたのだろう。
私にもそんな時が、短かったけれどあった。
手塚治虫のキャラクターをまねてよく描いていた。
けれどそこで終っている。
そこで終った人間と描き続けている人間とでは、描いた線の数はものすごい差がある。
私に描けたのは、
手塚治虫のキャラクターを表面的にまねるためだけの線でしかない。
羽海野チカの描く線は、そんな域には留まっていない。
「五味オーディオ教室」と出逢ってから40年。
遠くに来た、という感覚がある。
年齢的にも遠くに来た。
他の意味でも遠くに来た。
遠くに来たからこそ、戻っていく感覚が強くなっている。
そのくらい「五味オーディオ教室」は40年前の私にとって遠くにあった。