二度目の「20年」(初期衝動)
「五味オーディオ教室」を最初に読んだ時の初期衝動を、
いま強引におもい出している。
「五味オーディオ教室」を最初に読んだ時の初期衝動を、
いま強引におもい出している。
(その8)で引用した黒田先生の表現。
25号に載っていることを見つけ、書き写してみれば、
ほぼ正確に記憶していたことも確認できた。
ならば25号を見つけ出さなくとも書けたのではないか。
書けた。
書けたけれど、黒田先生の書かれたものという記憶がこちらにある以上、
それに手元にステレオサウンドのバックナンバーがある以上、
やっぱり正確に引用しておきたい。
それに黒田先生の文章ということを黙ったまま、
さも自分で考えたかのように、少しだけ変えて書くのは絶対にやりたくない。
オーディオ雑誌には、そういう例がけっこうある。
書いている本人は、自分で思いついたと思っているだけなのだろうが、
パクリといわれてもしかたない、という表現もある。
ほんとうに知らないのか、それとも過去に読んだことを忘れてしまっているのか、
そのへんは定かではない。本人にしてもそうなのかもしれない。
こんなことをあえて書いているのは、ステレオサウンド 207号でも、
気になるところがあったからだ。
傅信幸氏のタンノイのKensington/GRの試聴記に、タンノイ劇場、とある。
これが、菅野先生が以前よく使われていたウェストミンスターホールと、
私の中では、どうしてもかぶってくる。
念のため書いておくが、ウェストミンスター劇場のウェストミンスターとは、
タンノイのスピーカーのことである。
ウェストミンスターホールを、菅野先生が使われていたのは、それほど昔のことではない。
傅信幸氏が読んでいないわけがないし、読んだことを忘れていないはずだ。
忘れていた可能性をまったく否定するわけではない。
仮に忘れてしまっていての、今回のタンノイ劇場なのかもしれない。
だとしても、ステレオサウンド編集部の人たちは、何も思わなかったのか、
何も感じなかったのか、何も思い出さなかったのか。
菅野先生のウェストミンスターホールと傅信幸氏のタンノイ劇場。
何の問題もないとする人がいるのはわかっている。
そんなこと、わざわざ書くことか、と言われるであろうこともわかっている。
それでも、何かひっかかるものを感じている。
私だけなのか。
その黒田先生が書かれていた表現を、正確に思い出せずにいた。
その黒田先生の表現は、別項「スペンドールのBCIIIとアルゲリッチ」にも関係してくる。
気合いいれて一冊一冊、一ページ一ページ開いていけば必ず見つかるのだが、
そうそういつも気合いがみなぎっているわけではない。
結局、自分で見つけるしかないわけで、重い腰をあげる。
ステレオサウンド 25号(1972年12月発売)に、それはあった。
音楽欄のところにあった。
グレン・グールドのモーツァルトピアノソナタ集についての文章だった。
*
今は、ちがう。誰よりも正しくこの演奏をうけとめているなどとはいわぬが、ぼくは今、この演奏に夢中だ。たとえばイ短調のアレグロは、どうにでもなれとでもいいたげなスピードでひきながら、いいたいことをすべていいつくし、しなければならないことはなにひとつしのこしていない。狂気をよそおった尋常ならざる冷静さというべきか──いや、そのいい方、少し悪意がある、こういいなおそう──狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ、と。
*
《狂気と見まごうばかりの尋常ならざる冷静さ》
これを思い出そうとしていた。
だからこそ、あの時代の音は、あれほどスリリングだったのか。
BBCモニターの音が、10代のころ好きだった。
ハタチをすぎても好きだった。
けれど、そのころからBBCモニターはLS5/9以降登場しなくなった。
そこから少し離れてしまって、ずいぶん経った。
いまでもBBCモニターの音を求めているところがあるのを自覚している。
けれど10代のころ、BBCモニターの音だけではなかった。
JBLの4343、さらには4350A、マークレビンソンのLNP2、ML6、ML2、
これらの組合せが聴かせる音も好きな音だった。
以前、別項で少し触れたが、この時代の音は、狂気を感じさせていた、
古くからの友人(私よりも少し年上で10代のころからのオーディオマニア)も、
同じことを感じていた、といっている。
狂気といえば狂気なのだが、
たとえば同時代の録音で思い浮ぶアバドとポリーニのバルトークのピアノ協奏曲。
この演奏がぬるく感じられたら、その再生装置はどこかおかしい、とまで言い切れる。
絶対にぬるい演奏ではないけれど、
聴き手に対してどうだ、といわんばかりの熱演とも感じない。
尋常ならざる演奏である。
だから狂気ということばをつい使いたくなる。
けれど、狂気のひとことだけではないものも感じる。
アバドとポリーニのバルトークだけに、そういうことを感じるのではなく、
1970年代後半、私にとって聴くものすべてが新しかった時代の音も、
狂気のひとことだけでは、決定的になにかが足りないのだ。
4343はスタジオモニターである。
モニタースピーカーとしての性格上、そこには冷静さがある、ともいえる。
BBCモニターの、そういえばモニタースピーカーである。
LNP2が登場したころ、冷たい音という評価もあった、ときいている。
そう狂気と冷静。このふたつで語る必要があるのではないか。
そのことに気づいてから、ステレオサウンドのバックナンバーを開いていた。
黒田先生が、そんなふうなことを書かれていた、という記憶があったからだ。
オーディオの才能をもっている、と自負している。
けれど、そのオーディオの才能は、実のところ、
オーディオに興味をもちはじめた13歳のころから、
なにひとつ変っていないのではないか……、
最近,そう考えるようになってきた。
オーディオの才能はあっても、それを活かすことができなかった。
生かすために必要な知識も知恵も、経験も技倆もなかった。
永いことオーディオをやってきて、それらのことを身につけた。
ただそれだけのような気がしてならない。
この項のカテゴリーは「戻っていく感覚」である。
カテゴリーについては、はっきりと最初から決って書き始めることもあれば、
書いている途中でカテゴリーを決めることもあるし、
書き終ってから、ということもある。
そうやって決めるわけだが、スパッと決められるときもあれば、
どれにしようと迷うこともある。
新しいカテゴリーは、これ以上増やしたくない、とも思っているから、
できるだけこれまでのカテゴリーからあてはまりそうなものを選びもする。
この項のカテゴリーは、あえて選ぶならば、これかな、ぐらいの気持だった。
でも書いていくうちに、「戻っていく感覚」にしておいてよかった、と感じはじめている。
その感は強くなっていくとともに、
五味先生の「五味オーディオ巡礼」の一回目を思い出す。
ステレオサウンド 15号に掲載されている。
野口晴哉氏と岡鹿之介氏が登場されている。
「ふるさとの音」とつけられている。
「音のふるさと」とも書かれている。
最初に好きになった音は、そうなのか。
好きだった音は、そうなのか。
そんなことを反芻している。
別項「日本の歌、日本語の歌(アルテックで聴く・その6)」で引用した内田光子のインタヴュー。
手元にそのレコード芸術がないので正確な引用ではないが、
そこで語られた言葉で印象に残っているのが、もうひとつある。
「人は歳をとればとるほど自由になる」
そう内田光子は語っていた。
この言葉を、内田光子は、
ベートーヴェンのピアノ協奏曲の録音で協演したザンデルリングにも言った、とあった。
ザンデルリングも同意した、と記事にはあった。
(確か2010年ごろのレコード芸術のはずだ)
歳をとるということは老化する、ということ。
体力的には衰えるし、身体も硬くなってくる。
けれど自由になっていく。
自由になっていくことを自覚していない人は、
つまりは大人になっていない、ということなのかもしれない。
この「自由」になっていくことで、はじめて鳴らせる音の領域がある、と、
ここ数年思うようになった。
内田光子のインタヴューを読んだときは、私はまだ40代だった。
いまは50なかば。
内田光子のことばを実感しつつある。
エミール・ギレリスの名を私が知ったころはまだ、
鋼鉄のタッチと呼ばれていた時だった。
ギレリスの演奏を聴くまえに、鋼鉄のタッチというバイアスがすでに、
聴き手であるこちら側には、いわば植え付けられていた。
ギレリスの演奏(録音)を聴いたのは、ベートーヴェンだった、と記憶している。
何番だったかは、なぜか思い出せない。
それきりギレリスの演奏を積極的に聴くことはなかった。
そんな私でも、
ギレリスがドイツグラモフォンでベートーヴェンのピアノソナタ全集に取りかかったことは知っていた。
後期のピアノソナタの録音が出た。
ジャケット写真を見て、もう一度聴いてみよう、と思った。
何番だったのか思い出せない記憶との比較なんて当てにならないのだが、
なんとギレリスはこれほど変ったのか、と驚いた。
この時も鋼鉄のタッチというバイアスは充分残っていたにも関らず、だ。
そのみずみずしい演奏に驚いた。
ギレリス晩年の演奏なわけだが、枯れた演奏とか表現とは思えない。
ほんとうにみずみずしい。
昨晩書いたクラウディオ・アラウも、そうだ。
晩年のフィリップス録音での演奏の、なんとみずみずしいこと。
このふたりの境地になって、ほんとうにみずみずしいといえる表現が可能になるのか。
若々しいとみずみずしいは違うことを、あらためて思う。
みずみずしいは、水々しいとは書かない、瑞々しい、である。
ギレリスの演奏もアラウの演奏も、瑞々しい。
オーディオ少年だからこそ、生意気な目つきを忘れないようにしたい。
だからこそ、圧倒的であれ、とおもう。
約二年前に、
《オーディオマニアを自認するのであれば、圧倒的であれ、とおもう。》と書いた。
2017年も残り少なくなって、いままで以上に強く思っている。
圧倒的であれ、と思っている。
オーディオ少年こそ、圧倒的であれ、とおもう。
オーディオ少年としての生意気な目つきを忘れないようにしたいから、
MP649をひっぱり出してかけている。
いまはオーディオマニアと口では言っているが、
心の中ではオーディオ少年だ、と一年前に書いている。
オーディオ少年だからこそ、生意気な目つきを忘れないようにしたい。
新品のスピーカー、
それも封を切ったばかりのスピーカー、
特に中高域に金属の振動板を採用したスピーカーは、
耳障りな音を出す傾向が、ままある。
特にホーン型は、鳴らし込みが必要だ、といわれてきた。
鳴らし込みはエージングともいわれる。
エージングは、agingである。老化とも訳せる。
鳴らし込みには時間がかかる。
ある意味では、老化といえる。
スピーカーは振動によって音を発しているわけだから、
自らが発する振動によって、エージング(老化)が進むところもある。
スピーカーを構成するあらゆるところがヘタッてくる。
いつしか耳障りな音がしなくなり、音がこなれてくる。
鳴らし込みとは、たしかにそういうものなのだが、
力みを取り去っていくことでもあるように、10年ほど前から感じるようになった。
人と同じで、若いころほど力みがある。
力があり余っているから、ともいえる。
それが歳をとり、力も少しずつ衰えていく。
けれど、一方で力みも消えていくのではないだろうか。
すべての人がそうだとはいわないが、気がつけば力みが少なくなっている、
消えている、ということは、50を過ぎている人であれば、感じているのではないだろうか。
以前できなかったことが、いつのまにかすんなりできるようになっている。
特に練習したとか、そんなことはしていないのに……。
それはおそらく力みがなくなってきたからだ、と私は思っているし、
スピーカーの鳴らし込み(エージング)の肝要な点は、まさにここのはずだ。
あのころのイギリスのソフトドーム型ユニットをもつイギリスのスピーカーは、
音量をあげた際には、弱かった。
悲鳴をあげる──、とまでは少し大袈裟でも、それに近い弱さをもっていたからこそ、
音量に気をつけて鳴らした時の、うるおいのある音、力みを感じさせない音は、
私にとってほんとうに魅力的であった。
そして、それゆえに女性的と感じていたのだろう。
逆の見方をすれば、そういうスピーカーは、ほんとうの力の提示ができない、
もしくは苦手なスピーカーということもできる。
けれど、力の提示に優れているスピーカーの多くは、
どこかに力みが残っているような鳴り方をする。
それは結局のところ、こちらの鳴らし方次第なのだとはいうことに気づくのに、
私の場合、そこそこの時間がかかった。
40をこえてから、そのことに気づいた。
力をもっているスピーカーから、力みをなくしたときに、
そのスピーカーの力量がようやく発揮される。
力みが消え去っているからこそ、力の提示が可能になる。
大音量再生において、もっとも大事なことも、これである。
力みのある音、力みをどこかに残している音での大音量再生には、
真の大音量再生の快感はない。
オーディオマニアにはモノマニアの側面がある。
モノマニアとしてみたときに、イギリスのBBCモニター系列のスピーカーには、
ある種のものたりなさを感じてしまう。
JBLのユニットは、モノマニアを満足させてしまう。
そういうところはBBCモニターに使われているユニットには、まったくない。
あと少し本格的なユニットをだったら……、と思うことはしばしばあった。
本格的なユニットがつけば、その分コストにかかってくる。
ユーザーに負担をかけることにもなる。
これで充分だろう、という作り手側の主張なのかもしれない。
そう頭でわかっていても、モノマニアの心情はそうはいかない。
イギリスでもタンノイ、ヴァイタヴォックスのユニットは、本格的なつくりだった。
フェライトになってからのタンノイはそうではなくなったが、
ヴァイタヴォックスのウーファー、ドライバーは、それだけ見ても魅力的だった。
それでも音を聴くと惹かれるのは、
モノマニアとしてものたりなさを感じてしまうスピーカーばかりといってもよかった。
うるおいがあったから、と(その1)で書いた。
たしかにそうである。
ずっとそうだと思い込んでいた。
間違っていたわけではない。
けれど40をこえたころからだったか、
それだけで惹かれていたわけでもないことに気づきはじめた。
私が惹かれたスピーカーの音には、力みがなかったからだった。
別項「つきあいの長い音」について考えていると、
好きな音は、いつしか好きだった音になってしまっているのか、と考えてしまう。
10代のころ、BBCモニターとその系列の音が好きだった。
スペンドールのBCII、ハーベスのMonitor HL、
ロジャースのLS3/5A、それにPM510。
BBCモニター系の音とはいえないが、
セレッションのDitton 66、QUADのESL(ESL63は好きにはなれなかった)も好きだった。
JBLのスタジオモニターの存在に憧れながらも、
音を聴いて「あっ、いい音だな……」と呟きたくなるのは、
決ってイギリスの、それもダイアフラムが金属ではないスピーカーばかりだった。
どのスピーカーの音にも、うるおいがあった。
乾き切った音を出すことは決してなかった。
そういう音が好きな人からは、ボロクソにいわれがちでもあった。
音が湿っている、とか、鈍い、とか。
そんな評価を聞くことはけっこうあった。
けれどうるおいのない音に惹かれることはなかった。