Archive for category ジャーナリズム

Date: 8月 17th, 2013
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(編集部とは・その1)

こんなことを書くと、
また古巣のステレオサウンド批判(叩き)をやっていると受けとめられる人がいるのはわかっていても、
見過せないことは、やはりあって、それについては何といわれようが書いていく。

誰が、とか、いつの号、とか、どの機種についてはあえて書かない。
個人攻撃をしたいわけではなく、こういう一見些細なことと思われがちなところまで、
編集部が手を抜くことなく、しっかりと本づくりをやってほしい、と思うから、である。

一年ほど前のステレオサウンドに、あるブランドの新製品のパワーアンプの記事が載っている。
出力の具体的な数値を書くと特定されやすくなるから書かないが、
現在のパワーアンプとしては一般的な値の、そのパワーアンプはA級ということらしい。

それにしてもヒートシンクがさほど大きくない。
このパワーアンプの紹介記事を書いた筆者は、そのことに疑問をもたれたのか、
発熱に関して、手で触れないような熱さにはならない、ということを書かれている。

その人は、なぜか、ということについては書かれていない。
これについては私は何かをいいたいわけではない。
おそらく、この筆者は、発熱の少なさに疑問をもたれたのだと思う。
でも、それがなぜなのかまではわからなかった。
だから、あえて発熱について、さらっと書かれている──、
そう私は理解した。

この記事が載った数号あとに出たステレオサウンドに、
別の筆者が、このパワーアンプの発熱について書かれている。

そこには、こんなことを書かれていた。

このパワーアンプの発熱がA級の、ある程度の出力をもったアンプとして多くないのは、
最大出力は大きくても、出力音圧レベルの高い、同じブランドのスピーカーシステムと組み合わせると、
その場合の出力は数W程度だから、発熱は皆無に等しい、とあった。

出力音圧レベルの高いスピーカーシステムと組み合わせれば、確かに出力は大きくとも数Wにおさまる。
だが、それで発熱が皆無に等しい、ということは技術的に間違った説明である。

B級アンプならば、出力の値と発熱量はある程度比例関係にある。
だが、このパワーアンプはA級動作を謳っている。

A級動作のパワーアンプの発熱量どういうものであるのかは、
オーディオの技術的な知識としては、ごく基本的なことである。
それを、正反対のことを、まるで正しいこととして書いている。

でも、この筆者を攻めたいわけではない。
誰だって不得手なことはある。勘違いもある。
オーディオ評論で喰っているのだから、プロとしての文章を書いてほしい、とは思うけれど、
もう、現場をみて、そこまでいまのオーディオ評論家といわれる人たちに要求するのは酷なのかもしれない。

でも編集者はそうであってはいけない。
編集者が、たったひとりならば……、そこまでいまの編集者に求めるのは酷だと思う。
けれど編集者はひとりではない。何人もの編集者がいて、誰もこのあきらかな間違いに気がついていない。

編集部というのは、本をつくっていく組織のはずだ。
そのことが稀薄になっているのではないのか。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その27)

頭をかすめることが多くなってきたことは、
オーディオについて、あれこれ思索することの楽しみを放棄している人が増えている気がする、ということだ。

これは世代には関係あるようで、実はないようにも思えてきた。
私と同じ時代、それよりも前の時代のステレオサウンドを読んできた人でも、
いつのまにか思索する楽しみから離れてきているのではないのか。

先日もそう感じたことがあった。
直接的なことではなかった。
あることについて訊ねられて、それについて答えた。
そして、なぜそうなのかについて説明しようとしたら、
それについてはまったく耳を貸そうとされない。

ただ答だけが、その人は欲しかったわけである。

なぜそうなるのかについては、多少とはいえ技術的なことを話さざるを得ない。
訊ねてきた人にとっては、そんな技術的な細かなことはどうでもよくて、
ただ答がわかれば、それで用事は済むわけだ。

それが効率的といえば効率的という考え方はできる。
とはいえ、答だけを知っていても……、と私は思う。

何がいいのか、何が正しいのか、
その答だけを知りたいから、お金を出して本を買う。
そういわれてしまうと、私が読みたいと思っているオーディオの本、
私がつくりたいと思っているオーディオの本は、面白くない、ということになっても不思議ではない。

答がすべて、答がすべてに優先する。
正しい、確実な答をはっきりと提示してほしい、という読者が多数になれば、
編集者はそういう本をつくっていくしかないのだろうか。

むしろ逆かもしれない。
そういう読者を増やしていく方が、本づくりは楽になる。

Date: 7月 26th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その26)

ステレオサウンド 43号の「私はベストバイをこう考える」から読みとれる菅野先生と井上先生の、
ベストバイ(Best Buy)、この誰にでも意味が理解できると思えることについて考え方の違い、
そして重なるところ、このへんについて書いていくと本題から外れていくので、このへんにしておくが、
とにかく、この時代のステレオサウンドは、読者に考えさせる編集だった。

それが意図していたものなのか、それともたまたまだったのかははっきりとはしない。
けれど読者にとっては、内部のそんな事情はどうでもいい、といえる。
面白く、そしてオーディオについて、オーディオに関係するさまざまなことについて、
考えさせてくれる、考えるきっかけ、機会を与えてくれる本であれば、なにも文句はいわない。

私は、そういう時代のステレオサウンドを最初に読んでいままで来た。
だから、いまもステレオサウンドに、そういうことを求めてしまう……。

けれどそういう時代のステレオサウンドを読んでこなかった読者にとっては、
ステレオサウンドに求めるものが、私とは大きく違ってきても当然である。

私は、いまのステレオサウンドを、そういう意味での面白い、とは思わないけれど、
私とは大きく違うものをステレオサウンドに求めている人にとっては、
いまのステレオサウンドは面白い、ということになり、
私がここで書いていることは、旧い人間がどうでもいいことを言っている、ということになろう。

編集者も旧い人間ばかりがいては……、ということになる。
組織を若返らせるためにも、血を入れ換えるように人を採用する。
その採用された人が、そういう時代のステレオサウンドではなく、
そういう時代の良さを失ってしまった時代のステレオサウンドを読んできた人であれば、
そういう時代のステレオサウンドの良さを読者に届けるのは、もう無理なことかもしれない。

Date: 5月 16th, 2013
Cate: ジャーナリズム, 岩崎千明, 瀬川冬樹

岩崎千明と瀬川冬樹がいた時代(はっきり書いておこう)

岩崎千明という「点」があった。
瀬川冬樹という「点」があった。

人を点として捉えれば、点の大きさ、重さは違ってくる。

岩崎千明という「点」が書き残してきたものも、やはり「点」である。
瀬川冬樹という「点」が書き残してきたものも、同じく「点」である。

他の人たちが書いてきたものも点であり、これまでにオーディオの世界には無数といえる点がある。

点はどれだけ無数にあろうともそのままでは点でしかない。
点と点がつながって線になる。

このときの点と点は、なにも自分が書いてきた、残してきた点でなくともよい。
誰かが残してきた点と自分の点とをつなげてもいい。

点を線にしていくことは、書き手だけに求められるのではない。
編集者にも強く求められることであり、むしろ編集者のほうに強く求められることでもある。

点を線にしていく作業、
その先には線を面へとしていく作業がある。
さらにその先には、面と面とを組み合わせていく。

面と面とをどう組み合わせていくのか。
ただ平面に並べていくだけなのか、それとも立体へと構築していくのか。

なにか、ある事柄(オーディオ、音楽)について継続して書いていくとは、
こういうことだと私はおもっている。
編集という仕事はこういうことだと私はおもっている。

Date: 4月 11th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その8)

どんな本にも誤植が完全になくなるということは、ないのかもしれない。
大出版社であろうと小出版社であろうと、誤植のある本を一度も出したことはない、ということはまずない。

どんなに細心の注意を払って、何人もの人が何度も校正したとしても、
不思議とすり抜けてしまう誤植がある。

しかも、そういう誤植は、これまた不思議と本に仕上ってしまうと、
いとも簡単に見つかってしまうことも多い。

初版で見つけた誤植は、次で直せればいいけれど、
雑誌はそういうわけにはいかない。第二版、第三版などは雑誌にはない。

ステレオサウンド 185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
いわゆる誤植ではない。
これはすり抜けさせてはいけない間違いである。

過去のステレオサウンドに、間違いがひとつもなかったかというと、そうではない。
私がいたときも間違いはあった。
それ以前もあったし、それ以降もある。

でもそういう間違いと、185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」とでは、
少々事情が異る。

技術的な事柄に関しては、
特に海外製品の場合、ほとんど資料がないこともあるし、
資料があったとしても抽象的な表現で、何が書いてあるのか(言いたいのか)はっきりしないこともある。
またそこに投入された技術が新しすぎて、理解が不充分なこともある。
それでも新製品の紹介記事では、少しでも情報を多く読者に伝えようとするあまり、
間違いが起きてしまうことだってある。

そういう間違いを見つけても、ことさら問題にしようとは思わない。
185号の「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」は、
本来なら間違えようのないことで、編集部はミスを犯してしまっている。

なぜ「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けて活字になってしまったのか。

新製品ページの担当編集者は、高津修氏から原稿を受けとる。
そこで当然もらった原稿を読み、朱入れが必要ならそうする。
その原稿を編集長がチェックする。それで問題がなければ次の段階に進む。

以前は、この段階を「写植にまわす」といっていたけれど、いまはなんというのだろうか。
写植があがってきたら、コピーにとり、そのコピーを編集部全員が読み校正する。
そして青焼きが、次の段階であがってくる。

ここでも私がいたときは文章のチェックをしていた。

本来ならば、青焼き以前で校正はしっかりと終えておかなければならないのだが、
写植の段階の校正ですり抜けてしまう誤植やミスがあるから、ここでも校正する。

時にはけっこう大きなミスがあって、
バックナンバーの版下を取り出してきて、活字を切貼りしたこともある。
常に締切りをこえて作業していたから、自分たちで最後は手直しということになってしまう。

いまはパソコンでの処理が大半だろうから、
細部では違いがあっても、原稿を届いて青焼きを含めて、
編集部全員によって複数回の校正がなされるわけだ。

にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」がすり抜けてしまったのは、
考えられないことである。

これがトーレンスのプレーヤーではなく、
新進メーカーの、新技術を投入したアンプであれば、
技術的なことは触っただけではわからないのだから、仕方ない面もあるのだが、
何度も書くけれど、トーレンスのプレーヤーについては触ればわかることだし、
オーディオ雑誌に携わっている者、オーディオを趣味としている者ならば、
トーレンスのプレーヤーがどういう構造なのかは、すくなくとも言葉の上ではわかっているのが当然である。

ここに編集部のシステムとしての問題がある。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その7)

現在のステレオサウンドの編集部のオーディオの知識がどれだけのレベルなのかはわからない。
けれど、トーレンスのプレーヤーがフローティング型かどうかは、
よほどの初心者でない限り間違えようがない。

仮に勘違いで高津修氏の原稿を編集部が
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書き換えたとしよう。
そうなると編集部は高津修氏に断りもなく書き換えたことになる。

高津修氏に事前に、ここがおかしいと思うので書き換えたい、という旨を伝えたのであれば、
高津修氏が「TD309はフローティング型だよ、資料を見てごらん」といったやりとりがあるはず。
それで編集部が資料にあたるなり、TD309の実機にふれるなりすれば、すぐにフローティング型ということはわかる。
にも関わらず「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字となって、
ステレオサウンド 185号に掲載されている。

私がいたころは、その記事の担当者が試聴に立ち合うし、試聴記の操作も行う。
このシステムが、いまのステレオサウンドでは違うのだろうか。
試聴室で試聴に立ち合う人と記事の担当者が別とでもいうのだろうか。
だとしても、トーレンスのプレーヤーがフローティング型であることは、あまりにも当り前すぎることであり、
仮にフローティング型でなかったとしたら、高津修氏の原稿も、
トーレンスがフローティング型ではなくなったことから書き始めるのではないだろうか。

この件は考えれば考えるほど、ほんとうに奇妙なことである。
私が考える真相は、もう少し違うところにあるのだが、それについてはここで書くことではないし、
書きたいのは、なぜ
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」が活字になってしまったかである。

Date: 4月 10th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その6)

ステレオサウンドのサイトに、昨年の12月10日、
季刊ステレオサウンド185号(2012年12月11日)に関するお詫びと訂正」が載った。

そこには、185号の新製品紹介のページに掲載されているトーレンスのTD309について、
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」という、
事実とは異る記述があるというもので、
「これは編集部の校正ミス」ということになっている。

185号発売日の前日に、これが載ったということは、
おそらく見本誌を見た輸入元から事実と異るというクレームがあったから、だと思う。

このお詫びと訂正に気づかれていた人も多いだろう。
でも、この「お詫びと訂正」はよく考えれば、実に奇妙なところがある。

校正ミスとある。
これをバカ正直に信じれば、TD309の試聴記事を書かれている高津修氏が書かれているわけだが、
高津修氏の原稿に「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあり、
そのことを編集部が見落していた、ということになろう。

でも、そういうことがあるだろうか。
トーレンスのプレーヤーはフローティング型で知られているし、
試聴で実際に触れれば、すぐにフローティング型がそうでないかとわかる。
資料がなくても、すぐにわかることであり、誰にでもわかることである。

つまり高津修氏の原稿に
「サスペンションの柔らかいフローティングシステムとちがって」と書いてあったとは考えにくい。
となると編集部が高津修氏の原稿を書き換えた(それも間違っているほうにへと)ということになる。
でも、これも考えにくいことである。

Date: 4月 9th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その5)

いくつかの呼称がある。
オーディオマニア(audio mania)という呼称が一般だったが、
maniaの意味は、熱狂的性癖、……狂だから、これを嫌う人たちもいて、
1980年代にはいってから、もっとスマートな呼称としてオーディオファイル(audio phile)が登場してきた。
(それにしても最近の「性癖」の使い方は間違っていて、性的嗜好の意味で使われることが目につく)

そして菅野先生によるレコード演奏家も生れてきた。

古くには音キチという呼び方もあった。
音キチガイの略であって、いまこれを使っている人は稀であろう。

オーディオに、一般的な人には理解不能なぐらい情熱をかたむけている人をどう呼ぶか(呼ばれたいか)。
人によって違う。
私などは、何者か? と問われれば「オーディオマニア」とためらうことなく答えるけれど、
オーディオファイル、オーディオ愛好家という人もいるし、
私はそう名乗ることはないけれど、レコード演奏家と口にされる人もいる。

どう呼ばれるかには、こだわりがあるのだろう。
だからいくつもの呼び方が登場しているわけだ。

山口孝氏による「オーディスト」が、そこに加わるかたちとなった。

雑誌の編集者の仕事は実に雑多で多岐であり、
その仕事の中には、新語・造語に対しての判断も含まれている。

ステレオサウンド編集者は、179号の時点で、
山口孝氏からの原稿を届いた時点で、「オーディスト」について調べ、
すでに存在している言葉であるのならば、その意味を確認する必要があったわけだ。

けれどステレオサウンド編集者は、それを怠った。
なぜ怠ったのか。

それは山口孝氏の熱心な読み手と同じだったからではないのだろうか。

Date: 4月 8th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その4)

ようするに、山口孝氏の熱心な読み手である、その人は、
山口孝氏による造語ともいえる「オーディスト」を、なんら疑うことなく賞讃していたともいえる。

そこには、その人がいままで読んできた山口孝氏の文章によってその人のなかにつくられていった、
ある種の知名度が関係しているのかもしれない。

これがもし他の人、
たとえば山口孝氏とは正反対のところでの書き手による造語としての「オーディスト」であったなら、
山口孝氏の熱心な読み手は同じように「オーディスト」を疑うことなく受け入れ賞讃したであろうか。

この態度は、はたして読み手として正しいといえるのだろうか。
特に造語として登場してきた「オーディスト」に対して、それでいい、といえるのだろうか。
山口孝氏の熱心な読み手は、
山口孝氏による「オーディスト」だからということで、考えることを放棄しているようにも見える。

私は山口孝氏による「オーディスト」になんら感心しなかったから、
その意味を調べるまでに一年以上経ってしまった。
ゆえにあまり人さまのことはいえないといえばそうなのだが、
だからといって、いわずにすませておける問題ではなく、
それは読み手以上に、送り手である編集者にとっては致命的ともいえることにつながっているはず。

Date: 4月 7th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その3)

山口孝氏による「オーディスト」を見て、私がまず連想したことは語感のいごこちの悪さと、
オーディストとカタカナ表記したときに、なんとなくヌーディストと似ているところも感じていて、
山口孝氏が「オーディスト」に込められているものは理解できていても、
素直に「オーディスト」を自分でも使いたいとは、そしてそう呼ばれたいとも、まったく思わなかった。
(念のため書いておくが、まだこのときはaudistの意味を調べていなかった)

私はそう思っていたし、そう感じていたわけだが、
「オーディスト」を積極的に評価されている人がいたことも知っている。
熱い口調で「オーディスト」について語られたことも、実はある。

その人の気持は分らないでもないが、
正直、その熱い口調で語られれば語られるほど、
「オーディスト」がそれほどいいことばとは思えなくなっていっていた。

つまり私は「オーディスト」に対してまったく感心するところがなかった。
だから無関心であり、自分でオーディストの意味を調べようと思うまでには、一年以上経っていた。

私はそうだったわけだが、
「オーディスト」への感心をつよく持っている人もいたのも事実。
感心すれば関心も出てこよう、と私はおもう。
その人たちは、オーディスト(audist)が、すでに存在しているかどうか、
存在しているとしたら、どういう意味を持つのか、
いまではインターネットのおかげで調べようと思えば、すぐにわかることを調べなかったのか、とも不思議に思う。

私に「オーディスト」について熱い口調で語った人は、
山口孝氏の熱心な読み手である。
私はというと、山口孝氏の熱心な読み手とは、とてもいえない読み手でしかない。

私の場合、熱の無さが調べるまでに一年以上かかることにつながっていったわけだが、
熱心な読み手である、その人は山口孝氏による造語だからと、そのまま受け入れたといえよう。

Date: 4月 6th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その2)

ピアノ(piano)を弾く人をピアニスト(pianist)という、
ヴァイオリン(violin)を弾く人をヴァイオリニスト(violinist)という、
チェロ(cello)を弾く人をチェリスト(cellist)という。

オーディスト(audist)は、だからオーディオを弾く人、というように理解できる。
ステレオサウンド 179号に掲載されている山口孝氏の文章で、
私はこの「オーディスト」という言葉を目にした。

目にして、山口孝氏による「レコード演奏家」の表現でもある、と思った。

「レコード演奏家」は菅野先生が提唱されている。
ステレオサウンドから「新レコード演奏家論」が出ている。

レコードを演奏する、ということについては、拒否反応を示される人、
反論される人がいることを知っている。
ここでは「レコード演奏家」についてはこれ以上ふれないけれど、
「レコードを演奏する」という表現は、何も菅野先生が最初に使われていたわけではない。
菅野先生が「レコード演奏家論」を書かれるずっと以前から、
瀬川先生も「レコードを演奏する」という表現を使われている。
それも、かなり以前から使われている。

ということは、そのころにオーディスト(audist)という言葉を思いついた人もいたのではないか、と思う。
でも山口孝氏が「オーディスト」を使われるまで、私は目にしたことがない。

なぜだろうか。
誰も思いつかなかった、という理由もあげられるだろう。
けれど、どうもそうとは思えない。
「レコードを演奏する」という表現が使われていながら、
ヴァイオリンによって音楽を演奏する人をヴァイオリニスト、
ピアノによって音楽を演奏する人をピアニスト、というのならば、
オーディオによって音楽を演奏する人をオーディストと呼称する人があらわれてもなんら不思議ではない。

オーディストという言葉は、audioにistをつけただけであり、
ひねりも工夫もそこには感じられない。

なぜ、誰も使わなかったのか。
それは、オーディスト(audist)が、
聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われているからである。
それもかなり以前から、である。

Date: 4月 5th, 2013
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その1)

昨年の8月13日に、
オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」というタイトルで書いている。
リンク先を読んでいただければわかるように、詳細についてはあえて書かなかった。
言葉狩りが目的ではなかったし、その言葉が使われなくなるのであれば、
それに私自身もその言葉を最初見た時に無関心であった──そのことへの反省もあった──、
そして、もうその言葉をそのオーディオ雑誌で見かけることは今後ないという保証に近いこともあったため、である。

他のオーディオ雑誌ではときどき使われていた(掲載されていた)、
その言葉は少なくともステレオサウンドの誌面には登場することはなかった。
だから、「オーディオにおけるジャーナリズム(無関心だったことの反省)」については、
もう書くこともないだろう、と思えていた。

けれど、いま書店に並んでいるステレオサウンド 186号に、その言葉が載っている。
「オーディスト」という、山口孝氏による、いわば造語としての「オーディスト」が、
編集部による記事ではなく、広告で何度も使われている。
リンジャパンの広告の文章は、今回山口孝氏が書かれている。

私が、この「オーディスト」をはじめて目にしたのは、
2011年6月発売のステレオサウンドだった。
この号は、2011年3月11日の三ヵ月後に出ている。
巻頭エッセイとして、「今こそオーディオを、音楽を」というタイトルで、
柳沢功力、菅原正二、山口孝、堀江敏幸の四氏が書かれていて、
山口孝氏の文章と見出しとしても、「オーディスト」は大きく誌面に登場している。

Date: 3月 12th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その25)

ステレオサウンド 43号のベストバイ・コンポーネントの特集では、
選者2人以上のモノについては、それぞれの選者によるコメントがついている。
140字程度のコメントである(twitterとほぼ同じ文字数)。

ひとつひとつはそれほど長くはなくとも、
その本数はけっこうな数にのぼり、読みごたえは充分にある。
それらのコメントをすべて読んだ後で、
もう一度特集冒頭の「私はベストバイをこう考える」を読み返せば、
そこに書かれていることを、最初に読んだ時よりも理解できたように感じたものだ。

ベストバイ・コンポーネントをどう考え、どう選んだか、
その具体的な答が、それぞれの選者によるベストバイ・コンポーネントとそのコメントであるからだ。

井上先生は「私はベストバイをこう考える」に書かれているように、
あえて高価なモノは選ばれていない。
井上先生と対照的にみえるのは菅野先生といえよう。

菅野先生は「私はベストバイをこう考える」の冒頭に書かれている。
     *
ベスト・バイは、一般的な邦訳ではお買得ということになる。言葉の意味はその通りなのだが、ニュアンスとしては、ここでの、この言葉の使われ方とは違いがある。日本語のお買得という言葉には、どこかいじましさがあって気に入らない。これは私だけだろうか。そこで、ベスト・バイを直訳に近い形で言ってみることにした。〝最上の買物〟である。これだと、意味は意図を伝えるようだ。つまり、ここでいうベスト・バイとは、その金額よりも、価値に重きをおいている。
     *
たしかに菅野先生は、そうとうに高価なモノも選ばれている。
スピーカーシステムでは、シーメンスのオイロダインがもっとも高価(1本140万円)なのだが、
菅野先生は、上杉先生、山中先生ともにオイロダインをベストバイ・コンポーネントとして選ばれている。

その意味で菅野先生と井上先生は、ベストバイ・コンポーネントの選び方は対照的といえようが、
じつのところ、対照的ではなく対称的である(もしくは対称的なところもある)のではないだろうか。

Date: 3月 10th, 2013
Cate: ジャーナリズム,

賞からの離脱(その24)

ステレオサウンド誌選定《’77ベストバイ・コンポーネント》は、
テープデッキを除く、スピーカーシステム、アンプ、プレーヤー関係では、
6人の選者(井上、上杉、岡、菅野、瀬川、山中)のうち5人が選出したものに与えられている。

たとえばスピーカーシステムでは、
セレッションのUL6(6人)、ダイヤトーン(DS25B(5人)、ビクターSX3III(5人)、B&W DM4/II(5人)、
テクニクスSB7000(5人)、ヤマハNS1000M(5人)、スペンドールBCII(5人)、QUAD ESL(5人)、
タンノイArden(5人)、アルテック620A(5人)が選ばれている(括弧内は選出した人数)。

プリメインアンプでは、
ヤマハCA2000(6人)、サンスイAU607(5人)、サンスイAU707(5人)、ラックスSQ38FD/II(5人)、
コントロールアンプでは、
ビクターP3030(5人)、ラックスCL32(5人)、ヤマハC2(5人)、
パワーアンプでは、
ダイヤトーンDA-A15(5人)、QUAD 405(5人)、パイオニアM25(5人)、パイオニアExclusive M4(5人)。

チューナーは、トリオのKT9700(5人)のみ。

プレーヤーシステムでは、
ビクターQL7R(6人)、テクニクスSL01(6人)、
カートリッジでは、
オルトフォンMC20(6人)、グレースF8L’10(5人)、デンオンDL103S(5人)、
エレクトロアクースティック(エラック)STS455E(5人)、フィデリティ・リサーチFR1MK3(5人)、
エンパイア4000D/III(5人)、
ターンテーブルはビクターのTT101(5人)、
トーンアームはビクターUA7045(6人)となっている。

これらステレオサウンド誌選定ベストバイコンポーネントに、
ひじょうに高価なモノはなにもない。

スピーカーシステムで620Aが最も高価だが、1本358500円するが、
評論家の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネント(つまり選者が4人以下のモノ)には、
もっと高価なモノがいくつも登場している。

アンプで高価なのはExclusive M4の350000円だが、
これも評論家の選ぶ’77ベストバイ・コンポーネントには、倍以上の価格のモノがいくつも選ばれている。

Date: 3月 9th, 2013
Cate: ジャーナリズム

あったもの、なくなったもの(その11)

この項を読まれている人のなかには、
「なんだ、結局、昔はよかった」といいたいだけなのか、と受けとめられている方もいるかもしれない。

はっきりいおう、たしかに「昔はよかった」。
「昔はよかった」といえば、相対的に「いまはだめ」「いまはあまりよくない」ということになる。
そのことを強調したいわけではない。

いまがいいところもあるにはある。
それでも……、とおもう。

昔があれだけよかったのだから、いまはもっとよくなってほしい、とおもう。

数年前に、こんなことをオーディオ関係者から聞いたことがある。
いま輸入商社につとめている若い世代の人たちは、
オーディオ全盛時代をまったく知らない。だから、オーディオ業界とはこういうものだと受けとめている。
一方、オーディオ全盛を体験してきた世代の人たちは「昔はよかった」というばかり……。

この話をしてくれた人は、そういうオーディオ全盛を体験してきた世代の人たちよりも、
若い世代のほうがまだいい、ということだった。

「昔はよかった」と懐かしんでいるばかりの、オーディオ全盛を体験してきた世代の人よりは、
たしかに現状をこういうものだと受けとめている若い世代の人たちがいいというのは、頷ける。

けれど、どこかそこに消極的な、熱量の少なさみたいなものを私は感じてしまう。
どこかに、最初から「こんなものだろう……」というあきらめがはいっているような気がしないでもない。