Archive for category ジャーナリズム

Date: 12月 16th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その8)

オーディオ雑誌は出発物であって、それも紙を媒体とした出版物であるから、
紙に印刷できるのは、文字(言葉)と写真・図だけである。
視覚情報以外のものは、紙には印刷できない。

これは音を伝えたいオーディオ雑誌にとっては、大きな制約であり、不幸なこと、といえる。
だから1980年代にはCDマガジンという、CDを附録というよりもメインのメディアとした雑誌が登場した。

CDに続いてCD-ROM、DVDが登場し、
それらを附録とすれば、音だけでなく動画も収録でき、
静的な視覚情報だけだったころからすると、動的な視覚情報、聴覚情報も伝えられるようになった。

さらに紙の本は電子の本となって、
DVDにおさめていた動的情報を一体化できるようになった。

つまり紙の本からすれば、制約はかなり減ってきている。
これは喜ぶべきことなのか、
不幸なことがなくなってきた、といえるのだろうか。

電子書籍の機能を振るに活用すれば、紙の本では不可能だったことまで伝えられる。
けれど、それはオーディオについて語る上で、ほんとうにいいことなのだろうか。

オーディオ評論がある時期まで成り立っていたのは、紙の本しかなかったからだ。
視覚情報しか伝えられない紙の本で、いかにして聴覚情報の音を伝えていくか。
この制約があったからこそ、オーディオ評論は生れ、(ある時期までは)進歩していった。

附録をつけることに反対はしない。
ただ附録をつけることで、紙の本という制約から解放されると安易に考えないことだ。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(売れればいいのか)

附録をつければ、それで売上げが伸びるからこそ、
出版社はあれこれ附録をつけた雑誌を出すようになってしまっている。

出版界は厳しい状況にある、とよくいわれる。
そうだと思う。
だから、少しでも売上げが伸びるのであれば……、と思って附録をつける。

ステレオサウンド 197号の附録は、売上げにつながる附録とはいえないと私は思っているが、
私とは反対に、あの卓上カレンダーがついていたから買った、という人もいるであろう。

もしかしたらカレンダーによって、197号の売上げは伸びているのかもしれない。
けれど、読んでいる人はほんとうに増えているのだろうか。

本が売れればいい──、
そうやって附録をつけたりして売上げを伸ばしていく。
会社は利益をあげなければ継続していかないのだから、理解できないわけではない。

けれどそうやって伸びた売上げは、読まれることを増やしていることに必ずしもつながらない。
附録目当ての人は、附録が充実していればそれで満足する。

その7)に書いたように、
ステレオサウンドを毎号買ってはいるけれど、読んでいない、という人たちは確実にいる。

編集部としては、読まれていないステレオサウンドであっても一冊は一冊であり、
その一冊は毎号買われていくわけで、利益になっているわけだから、それでもいい──、
となるのだろうか。

何で読んだのかは忘れてしまったが、
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが、こんなことをいっていた。

いわゆる売れ筋の曲のカップリングに、マイナーな、あまり知られていない曲を選ぶのは、
あえてやっていることであり、我々(レコード制作者)は聴き手に認知させる、
いわば聴き手を教育するということが求められている──、
そんな趣旨のことを読んだことがある。

売れ筋の曲(録音)に、さらに売上げを伸ばすように、
同じくらい売れ筋の曲(録音)をカップリングすることだってできる。
目先の利益のみにとらわれているのであれば、そのほうがいい。

けれどレコード会社の使命というものがある。
そのことを承知している人たちは、あえてマイナーな曲をカップリングして、
その曲が少しでも世の中に広まっていくようにこころがけている。

出版社としての使命は……、どうなっているのだろうか。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その7)

その6)にコメントがあった。
コメントをくださったGravitychildさんは、私と同じだった。

カレンダーにつられて数年ぶりにステレオサウンドを購入しようと思い書店に行かれている。
けれど、カレンダーのチープさにがっかりされ、買わずに書店を後にされている。

まったく私と同じ人が、やはりいるんだ、と思いながら読んでいた。
Gravitychildさんと私、
ステレオサウンド 197号を買おうと思っていたのに買わなかった人が、ふたりはいるわけだ。
ということは、同じ人がもっといるとみていいだろう。

Gravitychildさんも私も、以前は熱心なステレオサウンドの愛読者だった。
けれどいつのころからか買わなくなってしまった。

私の周りにも買わなくなった人はいるし、
買ってはいるけれど、惰性で買っているんだけどほとんど読んでいない、という人も何人かいる。

買わなくなった人を、今回のカレンダーは買わせるきっかけだったはずだ。
けれど、編集部は何を考えてなのだろうか、あの程度のカレンダーをつけてしまった。

ステレオサウンド編集部の人たちは、あのカレンダーを組み立てて、
編集部内の自分の机の上に置いているのだろうか、
もしくは自宅に持ち帰り、自分のリスニングルームに飾っているのだろうか。

飾っていない・置いていないとしたら、
なぜその程度のカレンダーしかつけないのか、と問いたくなる。

飾っている・置いているとしたら、
ほんとうにあの程度のカレンダーで満足しているのか、と問いたくなる。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム
1 msg

附録について(その6)

雑誌が附録をつけるのは、売上げを伸ばすためである。
今回のステレオサウンドにしても、附録といえるような卓上カレンダーがついていたら、
私は買っていた。

附録につられて、講読をやめていたステレオサウンドを買っていたであろう。
けれどおまけ程度のカレンダーだったら、買わなかった。

こんなカレンダーをつけるくらいだったら……、と思い出したことがある。
これもずっと以前のステレオサウンドがやっていたことである。

私が毎号愉しみにしていたころのステレオサウンドには、
巻末にアンケートハガキが毎号ついていた。
毎回、びっしり書きこんで送っていた。

このアンケートハガキを返してきた読者に対して、
ステレオサウンドは発売間際になると、案内ハガキを送ってくれた。
発売になる号の表紙が印刷された、いわば絵ハガキである。

毎号、この案内ハガキが届いた。
時には、ステレオサウンド購入後に送られてくることもあった。
それでも、まだ10代の読者であった私は、これを楽しみにしていた。

ハガキ一枚であっても、嬉しい。
197号の、おそまつな卓上カレンダーよりも、あのころの案内ハガキのほうがよかったといえる。

いまではインターネットが普及しているから、新号の案内はウェブサイトでできる。
メールマガジンでもできる。
わざわざ、これらよりも経費のかかる案内ハガキを送る必要性はないという判断は、
会社経営としては間違っていないといえる。

でも間違っていないからといって、正しいわけでもないはずだ。
あのころのステレオサウンドを読んでいた私は、その嬉しさをいまも憶えている。
憶えているから、197号の卓上カレンダーによけいにがっかりした。

いまのステレオサウンド編集部には、そのころ読者だった人はいないのだろうか。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その5)

ひさしぶりにステレオサウンドを購入しようと思っていた。
附録のカレンダーにつられて、である。

でも、ステレオサウンド 197号の目次をインターネットで確認すると、
「付録カレンダーの組み立て方」とある。
組み立てるカレンダーなのか、少しいやな予感がしていた。

書店に行き197号を手にした。
49号についていた卓上カレンダーのイメージで、197号を手にしたわけだが、
えっ、と思った。パラパラとページをめくっていくと、最後にカレンダーがついていた。

こういうことだったのか、とがっかりした。

49号の卓上カレンダーがどういうモノだったのかは、こまかなことは憶えていないが、
今回のようなモノではなかったことだけは確かだ。

安っぽさは、49号の附録であった卓上カレンダーにはなかった(はずだ)。
197号のカレンダーは附録なのだろうか、
おまけにしか思えなかった私は、買わずに書店を出た。

言葉の意味としては、附録もおまけも同じとしても、
言葉のニュアンスとして、微妙に違うところを感じる。

一年後の201号にも、卓上カレンダーの附録をつけてくるのだろうか。
それとも創刊50周年にむけての今回だけの附録(おまけ)だったのか。

もし201号にもつくのであれば、附録としての卓上カレンダーをつけてほしい。

Date: 12月 2nd, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その4)

その1)で、
以前のステレオサウンドにはカレンダーが附録としてついていたことを書いた。
またやってほしい、とも書いた。

あと一週間ほどで発売になるステレオサウンドの最新号には、カレンダーが附録となっているそうだ。

アンプやスピーカー、D/Aコンバーターといった附録よりも、
それにCDの附録よりも、私はこういう附録のほうが好ましいと思っている。

Date: 11月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 再生音

オーディオにおけるジャーナリズム(続・再生音とは……)

再生音とは……を徹底的に議論せずに、音を語るということは、
「群盲像を撫ず」に陥ってしまうのではないだろうか。

Date: 11月 26th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(再生音とは……)

別項で「再生音とは……」を書いている。
書きながら、再生音の正体について、以前よりも考えている時間が増えてきた。

生音と再生音はべつもの。
ずいぶん昔からいわれてきていることだし、
私も以前からそう思ってきていた。

だからといって、再生音について深く考えていたとはいえなかった。

オーディオとは、再生音の世界である。
なのに、その再生音について、これまでしっかりと語られてきたことがあっただろうか。
少なくとも私が読んできた範囲ではなかった。

けれど、オーディオ機器の性能が向上していくのであれば、
再生音とは……、について深く考えていく必要はある。

私はそう考えているけれど、いまあるオーディオ雑誌はそうではないようだ。

Date: 11月 5th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ステレオサウンド 24号より・その2)

Lo-DのHS500の変更点は、他にもある。
HS500はホーン型トゥイーターをもつ。
このトゥイーターの前面にはディフューザーがついている。
最初のころは金属製だったのが、いつのころからか樹脂製へと変更されている。

材質の変更は、形状が同じであれば特性上の変化としては表れない。
だが材質の変更は音には、はっきりと表れる。

吸音材の材質に関しても同じだ。
特性的にはなんら変化はなくとも、音にははっりきとした変化がある。
グラスウールから粗毛フェルトに変更になっているのだから、まったく同じ音になると考えることに無理がある。

ユニットの端子位置の変更に関してもそうだ。
これくらいで音は変らないと思う人もいるかもしれない。
けれど端子位置はかなり音に影響する。

別項で書いている喫茶茶会記のスピーカーの調整に関しても、
807-8Aドライバーの端子が、通常では上にある。
これを下側にもってくるようにホーンごと反転させた。
807-8Aの後にある銘板が逆さまになってしまうけれど、これによる音の変化は決して小さくない。

そんなことで音が変るわけはない、という人はホーン型のシステムに取り組んだことのない人であろう。
ホーン型だけでなく、どんな方式のユニットであれ、端子位置は音に影響してくる。

優秀なユニットであれば、その音の変化ははっきりと聴き取れる。

なのに日立製作所の人たちは、音もなんら変わることがないことを確認した、と回答している。
いまから40年ほど前にしても、この回答はおかしい、と言わざるを得ないし。
Lo-Dというブランド名が、この会社をよく表しているともいえよう。

Date: 11月 4th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(ステレオサウンド 24号より・その1)

別項を書くためにステレオサウンド 24号をすぐ手が届くところに置いている。
24号の巻末に、一ページだけの記事がある。
354ページに、その記事はある。
けれど、これは記事なのか、とも思うところがある。

そう思って目次を見ても、この記事は載っていない。
となると、この記事は広告となるのか。

この記事のことは、ステレオサウンドで働いていたころから知っていた。
それを、いま改めて読むと、この記事について何かを書きたくなった。

この記事のタイトルは、「本誌23号の質問に対する(株)日立製作所の回答」とある。
本誌23号の特集は「最新ブックシェルフスピーカー総まくり」、
ここでLo-D(日立製作所)のHS500が取り上げられている。

この記事の冒頭に、こう書いてある。
     *
 本誌では23号のブックシェルフ・スピーカー特集の記事中に、日立HSー500に関するテストリポート(245頁)のなかで次のような一節を掲載しました。
 ──このHSー500は発売された当時にくらべて最近のものは明らかに音質が変わってきている。この辺をメーカーに質問したいですね。──
 このリポートの質問事項に対して、株式会社日立製作所からこのほど次のような回答が寄せられましたので以下に掲載いたします。
     *
23号の245ページには、確かにある。瀬川先生の発言だ。
これに対しての回答は次の通りだ。
     *
 当社がHSー500を開発したのは5年前ですが、当初のものと現在の製品に音質上のちがいはまったくないと確信しております。変えたことと言えば、市販はしていませんがプロトタイプの時にバッフルボード前面にベニア合板を張り合わせておりましたのを外したことと、吸音材にグラスウールを使っていたのを途中で粗毛フェルトにしたこと、スピーカーユニットの端子を普通のスピーカーのように片側に置いていたのを経年変化を防ぐ意味で両サイドにしたことぐらいです。これらの変更は特性上も聴感上もなんら変わることがないことを確認した上で行っております。
     *
プロトタイプと市販品との違い以外に、
市販品でも吸音材の変更とスピーカーユニットの端子位置が変更になっている。
これは日立製作所も認めている。

日立製作所のいうように、吸音材と端子位置の変更は特性上はなんら変わらない、であろう。
だが聴感上となると、そうではない。

Date: 11月 1st, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その3)

KK塾での濱口秀司氏の話を聞いていると、
世界は広い、という当り前のことを実感するし、
オーディオの世界は、目の前におかれたコップ一杯の水くらいであることも実感していた。

だから会場となったDNPホールに、オーディオ関係者がまったくいなくても不思議でもない。
もう七年以上の前のことだ。
川崎先生の講演をききたい、という人がいた(ひとりではない)。
オーディオの仕事をしている人だ。

二度ほど東京で川崎先生の講演があることを伝えた。
けれど来なかった。

人それぞれいろんな事情があるから……、ということはわからないわけではないが、
その程度なのか、と思い、それ以降伝えることはやらなくなった。

直接オーディオに関係する話が出てこないのならば、
オーディオ関係者として行く必要はないと考えているのかどうかは私にはなんともいえない。

それでも、なぜ来ないのか、とは川崎先生の講演の度に思うことだ。

二年前の三月、川崎先生の最終講義をききにいったことを書いている。
大阪大学に行われたにもかかわらず、オーディオ関係者がふたり来られていた。
今回のKK塾でも、このオーディオ関係者のふたりは来られていた。
(もしかすると他にも来られていたオーディオ関係者がおられたかもしれないが)

世界の広さからすれば、オーディオの世界はコップ一杯の水くらいなのだから、
KK塾にオーディオ関係者がまったくゼロであっても、対比からすればそうかもしれない。

でも来る人は来る。
来ない人は来ない。

そのことも実感していた。

Date: 10月 13th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その2)

オーディオの世界は、世界の大きさからすれば、まさしく目の前におかれたコップ一杯の水くらいである。
けれど、そのコップ一杯の水は、渇きをいやす水でもある。

だから、その水は濁っていてはいけない。
澄んでいなければならない。

なのに、その水は知らぬ間に濁っていく。
なぜ、その水はそうなっていくのか。

そうなっていく水をどうすれば、澄んだ水に、渇きをいやせる水に戻せるのか。
もう戻せないのだろうか、たったコップ一杯の水も戻せないのか。

過去は変えられないが、過去のもつ意味は変えられる。
そのためには検証していかなければならない。

Date: 10月 6th, 2015
Cate: ジャーナリズム

オーディオにおけるジャーナリズム(小さい世界だからこそ・その1)

ステレオサウンドで働くようになってすぐに編集部の先輩からいわれたことがある。

「ステレオサウンドという本はオーディオ界で誰もが知っていてメジャーな存在だけど、
 オーディオそのものがマイナーな存在だからね」

確かにそうだと思って聞いていた。
私が働くようになったのは1982年からだから、すでにオーディオブームというものは終熄していた。

10年以上前のことになるが、菅野先生からいわれたことがある。

「世の中で起っているさまざまなこと、世界の広さからすれば、
 オーディオは、このコップ一杯の水くらいのことなんだよ」

その通りだとは思って、このときも聞いていた。

編集部の先輩も菅野先生も、そういわれたあとに特に何もいわれなかった。
だからその先にあることを、いわんとされることを、聞いた者としては考えていく。

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

今月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

明日(9月2日)、ステレオサウンド 196号が書店に並ぶ。
ステレオサウンドのウェブサイトに196号の告知が公開されている。

特集1は《ハイエンド・デジタル》。
これよりも私が、おやっ、と思ったのは、特集2の方である。
タイトルは《DIG 聴いて解く「注目機の魅力」》。

「聴いて解く」とある。
ここに興味を持った。

いま別項で、ステレオサウンド編集部は間違っている、ということについて書いているところだ。
川崎先生がブログで書かれている「応答・回答・解答」、
それから川崎先生が以前からいわれている「機能・性能・効能」、
これらに受動的試聴、能動的試聴を加えれば、ステレオサウンド編集部について語れる。

私がステレオサウンドがつまらなくなったと感じている理由のひとつには、
記事の大半が応答記事になってしまったことにある。
そのことについて、これから書くつもりのところに、
今回の《DIG 聴いて解く「注目機の魅力」》というタイトルである。

編集部がどういう意図で、このタイトルにしたのか、
つまりタイトルに「解く」をいれたのか、
まだ記事を読んでいないし、読んでも伝わってくるのかどうかもなんともいえない。

だが、タイトルに「解く」とある。
この「解く」を編集部は理解しているのか、とも思う。
応答記事ばかりをつくってきて、いきなり「解く」である。

川崎先生は8月26日のブログ『デザインは解である』で、
話題=topicsに対する応答=reply
課題=questionに対する回答=answer
問題=problemに対する解答=solution
と書かれている。

196号の特集2のタイトルは、聴いて解くのあとに「注目機の魅力」と続いている。

注目機とは、いわば話題であり、そこにステレオサウンド編集部は「解」を当てている。
しかもDIGが頭についている。

仮に充分に理解しているとしよう。
特集2は、傅信幸氏、三浦孝仁氏、小野寺弘滋氏が書かれている。
この三人に、編集部の「聴いて解く」の意図は伝わっているのか、
書き手は「聴いて解く」をどう解釈しているのか。

これまでのような書き方であっては、「聴いて解く」には到底ならない。
「聴いて解く」とつけられた記事を書くのであれば、
かなりの覚悟が書き手には必要だし、いうまでもなく能力も求められる。

ほんとうに「聴いて解く」なのか、
読み手は「読んで解く」ことができるわけだ。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。

第56回audio sharing例会のお知らせ(ステレオサウンド 200号まで一年)

9月のaudio sharing例会は、2日(水曜日)です。

ステレオサウンドの「第一世紀」の始まりとなった創刊号。
「第二世紀」の始まりとなった101号。

この二冊のステレオサウンドは、そこから始まる「次の世紀」の100冊を見据えての存在だったのか。

創刊号は、日本ではじめてのオーディオ専門誌としての登場ということもあって、
原田勲編集長の方針は、かなりはっきりしていたように感じる。

このことはステレオサウンド 50号の巻頭座談会で岡先生も述べられている。
     *
 いま創刊号を見直してみると、原田編集長は初めからかなりはっきりした方針をたてて、この雑誌を創刊されたように思います。それは、コンポーネント志向ということですね。もちろん創刊号では、当時の主力製品だった、いわゆるセパレートステレオみたいなものを、総括的に紹介するなど、かなり雑然としたところは見受けられるけれども、中心的な性格としてはコンポーネントを主力としている。こういう打ち出し方をした雑誌は、当時はほとんどなかったといってもいいわけで、だからほくはひじょうに新鮮な印象を受けたのです。
     *
101号はどうだろうか。
101号は24年前(1991年12月)に出ている。
特集はコンポーネンツ・オブ・ザ・イヤー(現在のステレオサウンド・グランプリの前身)とベストバイ。
残念だが、101号に「第二世紀」の始まりとなる内容は見受けられない。

ならば来年冬に出る201号も、101号同様でいいのではないか。
なぜ201号に、「第三世紀」の始まりにふさわしい内容を求めるのか。

101号のころはバブル期真っ只中だった。
インターネットも普及していなかった。
雑誌はそれまでの時代と違うモノへと変っていた時代でもある。
広告収入と本が売れることによる利益との差が拡大していった。

いまはどうだろう。
インターネットが驚くほどのスピードで普及していった。
10年前までは、インターネットは自宅か会社でパソコンの前に坐り利用するものだった。
それがいまではスマートフォンの登場で、いつでもどこでも快適に利用できる。

ウェブサイトの数も大きく増え、SNSの登場と普及、
それに雑誌の売行きの変化、書店数の減少、広告の減少(101号と最新号を比較してみれば一目瞭然だ)など、
雑誌の周囲は、「第一世紀」と「第二世紀」との違いとは比較ならないほど、
「第二世紀」と「第三世紀」と違ってきている。

だからこそ201号はステレオサウンド「第三世紀」の始まりであることを、
創刊号、101号よりももっともっと深く考えていかなければならない、と思うのだ。

場所もいつものとおり四谷三丁目のジャズ喫茶・喫茶茶会記のスペースをお借りして行いますので、
1000円、喫茶茶会記にお支払いいただくことになります。ワンドリンク付きです。