Archive for category ジャーナリズム

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その18)

ステレオサウンドは、誰のためのものか。
そう問われれば、読者のためのもの、とも答えるし、
クライアント(オーディオメーカー、輸入商社)のためのもの、とも、
筆者のためのもの、とも答える。

けれど、ステレオサウンドは誰のもの。
そう問われれば、原田勲氏の本だと即座に答える。

私は、このオーディストの件も含めて、
ステレオサウンドに対して批判的なことを書いている。
私が書いているものを読んで、
遠慮も配慮もないやつだな、と思われる人がいても不思議ではない。

それでもあえていうが、侵してはならない領域があるのはわかっている。
「オーディスト」はその領域に入りこんでくる。

私はステレオサウンド(原田勲氏の本)には、感謝している。
ステレオサウンドが、原田勲氏以外の人によって創刊されていたら、
まったく別のオーディオ雑誌になっていたし、私のオーディオ人生も違ったものになっていたかもしれない。

原田勲氏の五味先生に対するおもいがあったからこそ、ステレオサウンドはステレオサウンドたりえていた。

今日町田秀夫氏は、こう書かれている。
     *
五味氏は補聴器を用いていたが、自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろうし、むしろ卓越した聴取能力を誇っていた。音を聴き取ることは、耳の能力だけでは語れないことは、以前から申し上げているとおりだ。
     *
これを読んで、がっかりした。
町田秀夫氏は五味先生の書かれたものを読まれていないのだ、とはっきりとわかったからだ。

こんなふうに書くと、読んでいると反論が来るだろう。
でも、ほんとうに読まれているのだろうか。
字面を追いかけただけの読むではなく、
五味先生の「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」をほんとうの意味で読まれたのか。

読んでいる人ならば、《自らを「聴覚障碍者」だとは考えていなかっただろう》とは間違っても書けない。
その後に続くことは、私も同感であるが、この部分に関しては、
町田秀夫氏にがっかりした、ひどくがっかりした。
なぜ、読まずにこんなことを書かれるのか、と。
読んでいなければ書かなければいいだけなのに……。

何度も出てくる。
オーディオマニアとして、音楽愛好家として、
そして女性を愛する男として、聴覚に障碍のあることを悩まれていた、苦しまれていたことを、
「西方の音」「天の聲」「オーディオ巡礼」を読んだ人ならば知っている。
五味先生が独白されているのを、知っている。

私は五味先生には会えなかった。
文章のうえだけで知っているだけだ。

原田勲氏は違う。
五味先生のそういう姿を、傍らで見ておられたはずだ。

だから、私はオーディストの件で、原田勲氏にメールしたのだ。
五味先生の文章に、何度もなみだをこぼした者として。
そして、ステレオサウンドの存在に感謝している者として。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その17)

オーディストに関する今回のことは、議論にはならないと私は思っているし、
町田秀夫氏は山口孝氏、私は五味先生のところから発言している。

私はニュートラルな立場から書いているわけではない。
そして私は町田秀夫氏が書かれていることも、
町田秀夫氏がニュートラルな立場から書かれているものとは思っていない。

私はこれでいいと思っている(町田秀夫氏がどう思われているのかわからないが)。

今日、町田秀夫氏は「幻聴日記」で、
私がオーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡した、と書かれている。
私はステレオサウンド編集部には、連絡していない。

町田秀夫氏は、こんな簡単な事実確認をなぜされないのだろうか。
ステレオサウンド編集部に問い合せられるか、私にメールされればきちんと答える。
なにひとつ確認されずに、そう書かれている。

オーディストの件で、ステレオサウンド編集部に連絡しても、私は無意味だと考えた。
オーディストが載ったのは、ステレオサウンド 179号。
2011年3月11日のあと、最初に出たステレオサウンドであり、
特集は、それまでの特集記事とは当然違う内容のものだった。

そこにオーディストはあらわれた。
なぜ、よりもよって、この号に「オーディスト」を、何の説明もなしに載せてしまったのか、
とオーディストの意味を知って、そう思った。

そういう編集部に対して、オーディストの件でメールしても、無視されるだけだと思った。
それに私はステレオサウンド編集部の方たちのメールアドレスをまったく知らない。
だから出しようもなかった。

私が、オーディストの件でメールを出したのは、ステレオサウンドの原田勲会長である。

この違いは、町田秀夫氏にとっては些細な違いかもしれないが、
私にとっては大きな違いであり、だから原田勲氏宛にメールを出した。

メールの内容は、オーディストの意味について書いただけの、ごく短いものである。
出したのは179号の約一年後の2012年8月である。

Date: 12月 23rd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その16)

結局、また書くことになってしまった。
(その12)に書いているようにしばらく、この件については黙っているつもりでいた。
けれど、町田秀夫氏が、ご自身の「幻聴日記」にまた書かれているので、また書くことにした。

おそらくこれから書くことを読まれて、町田秀夫氏はまだ明日、何か書かれるかもしれない。
そうなると私もまた明日書くことになるだろう。

そうなったらとことん書いていこうと思っているが、
これだけは町田秀夫氏にお願いして確認してほしいことがある。

それは山口孝氏は、こういうことになるのを望まれているのか、
それとももう書かないでほしい、と思われているのか、である。

私は山口孝氏とは面識がない。
だから町田秀夫氏にお願いするしかない。

それから、これも先に書いておくが、山口孝氏が私に直接、
この項で書いていることは私(山口孝氏)への人格攻撃だといわれれば、
直接お会いして謝罪しよう。

そして、その時に、山口孝氏から直にオーディストについての考えをききたい。
これはくり返すが、町田秀夫氏にお願いするしかない。

これもくり返しになるが、私自身は、山口孝氏を糾弾しているつもりはまったくない。
けれど、知らず知らずのうちに人を傷つけていることはある。

これは理屈ではなく、今回の件では山口孝氏がそう感じられていたら、謝罪するが、
それでも町田秀夫氏が書かれていることに納得したわけではない。
これだけははっきりしておく。

Date: 12月 22nd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その15)

オーディストという言葉に対して、(宮﨑は)過剰反応している──、
そう思う人がいる一方で、私がここで書いていることに全面的ではなくとも同意される人もいるし、
そんなことどうでもいいじゃないか、という人もいる。

それでいいと、私は思っている。
今回のことで改めて思ったのは、オーディストという言葉に対する、それぞれの反応が顕にするものである。

Date: 12月 22nd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(お知らせ)

この項のカテゴリーは、昨夜までジャーナリズム言葉だった。

今回のことがあったのでオーディストというカテゴリーを加えた。
それからタグにもオーディストを加えた。

Date: 12月 22nd, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その14)

その12)で、
200号に五味先生のことがまったく登場しないのであれば、
オーディスト(audist)のことについてもう書くのはやめようと考えている、と書いた。

にも関わらず(その13)を書いたのは、
誤解する人がきっといるからである。

私がオーディストについて書いてきたことを読み返していただければ、
「言葉狩りあるいは人格攻撃」するつもりはまったくないことがわかってもらえるはずだ。

けれど常に誤読、誤解はある。
それに遡って読んでくれる人は少ない。
それがわかっていたから、(その13)を書いた。

それでも、やはり誤読はある。
町田秀夫氏の「幻聴日記」に、
「言葉狩りあるいは人格攻撃」という文章がある。

山口孝氏のオーディストに対する私の行為は、「言葉狩りあるいは人格攻撃」とある。
町田氏は、こう書かれている。
     *
山口孝氏は当然ながら、そのような意図がないことは彼の経歴からみて明らかであり、シンプルに「オーディオ人」という意味合いだろう。audistを社名に入れたオーディオディーラーさえあるのを、宮﨑氏はご存じなのだろうか?
     *
山口孝氏に、そのような意図がないことは、私もそう思っているから、すでにそう書いている。
《シンプルに「オーディオ人」という意味合いだろう》と書かれているが、このことについてもすでに書いている。
audistを社名に入れたオーディオディーラーがあるのも知っている。

さらに町田氏は書かれている。
     *
このような言葉狩り転じて人格攻撃の様相は、まこと残念なことだ。今後、彼がaudistという言葉を使うことはないだろうが、忌まわしい差別用語を廃語にして、楽しいオーディオ用語に変身させることを応援するという手もあるのではないか。
     *
《このような言葉狩り転じて人格攻撃の様相》──、
なぜこう受け止められたのか、と思ってしまった。

どんな人の文章でも誤読、誤解はある。
五味先生、瀬川先生の文章でも誤読、誤解する人がいるのだから、
私の書いたものが誤読、誤解されることがあるのはわかっている。

予測される誤解については、極力そうならないように配慮しているが、なくなることはない。

でもくり返し書くが、オーディストに関することで山口孝氏を糾弾する気などまったくない。

町田氏は、ご自身のfacebookにも「幻聴日記」の文章をそっくり投稿されている。
facebookにコメントしようと思ったが、町田氏は友人以外のコメントを受けつけないように設定されているようで、
facebookでの関わりのない私はコメントができずにいた。

けれど、私が書いたものをきちんと読んでくださっているSさんが、丁寧なコメントをしてくださった。
私が書きたかったことを、ほぼすべて書いてくださった。感謝している。

Sさんのコメントのおかげで、私が山口孝氏を糾弾しているという誤解はなくなった。

最後に付け加えておくが、
町田氏はオーディスト(audist)を、audistという語は現在では聴覚障害者を卑しめる意味と書かれているが、
audistは聴覚障碍者を差別する人、団体を指す。

すでにここのところから、町田秀夫氏は誤読、誤解がある。

Date: 12月 21st, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その13)

言葉狩りをしたいわけではない。

山口孝氏はステレオサウンド 179号でオーディストを使われた。
山口孝氏はそのころ無線と実験での隔月での連載でも、よくオーディストを使われていた。
179号の後、二年ほど使われていたと記憶している。

でも無線と実験の編集部に、オーディストのことでメールをすることはしなかった。
無線と実験だから、というより、無線と実験はステレオサウンドではないからである。

Date: 12月 21st, 2015
Cate: オーディスト, ジャーナリズム, 言葉

「オーディスト」という言葉に対して(その12)

ステレオサウンド 197号が書店に並んでいる。
3月に198号、6月に199号が出る。

200号までにあと二冊出る。
どちらかのステレオサウンドに、オーディスト(audist)についてけじめをつけるのか、
それともこのままだんまりを続けるのか。

オーディスト(audist)はステレオサウンド 179号に登場した。
山口孝氏の造語である。

山口孝氏には、そういう意図はなかったのだろうが、
オーディスト(audist)は、聴覚障碍者を差別する人・団体という意味で、アメリカでは使われている言葉である。

おそらく200号には五味先生のことが誌面に登場すると思っている。
五味先生が補聴器を使われていたことは知られている。
そのことについて、何度か書かれている。

つまりは、ステレオサウンドの読者をオーディスト(audist)呼ぶのであれば、
ステレオサウンドは、ステレオサウンドの読者を五味先生を差別する人と呼ぶことになる。

ステレオサウンドにとって五味康祐の存在、
ステレオサウンドの読者にとって五味康祐の存在、
いまのステレオサウンド編集部はどう考えているのだろうか。

200号に五味先生のことがまったく登場しないのであれば、
オーディスト(audist)のことについてもう書くのはやめようと考えている。
そういう編集部なのだから……、と思えるからだ。

けれどオーディスト(audist)についてだんまりを決め込んだまま、
200号に五味先生のことが載るのであれば、ステレオサウンド編集部に対して遠慮することをやめる。

何も編集長が責任をとって辞めるべきとは考えていない。
誌面で、言葉でけじめをつけるべきである、と考えているだけだ。

なぜ、オーディスト(audist)という言葉が載ってしまったのか、
しかも179号だけでなく、姉妹紙のHiViでも使われたし、リンの広告でもう一度ステレオサウンドにあらわれている。
こんなことになったことをどう思っているのか、考えているのか。
きちんと説明をしたうえで、200号を送り出してほしいと思うだけだ。

Date: 12月 16th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その8)

オーディオ雑誌は出発物であって、それも紙を媒体とした出版物であるから、
紙に印刷できるのは、文字(言葉)と写真・図だけである。
視覚情報以外のものは、紙には印刷できない。

これは音を伝えたいオーディオ雑誌にとっては、大きな制約であり、不幸なこと、といえる。
だから1980年代にはCDマガジンという、CDを附録というよりもメインのメディアとした雑誌が登場した。

CDに続いてCD-ROM、DVDが登場し、
それらを附録とすれば、音だけでなく動画も収録でき、
静的な視覚情報だけだったころからすると、動的な視覚情報、聴覚情報も伝えられるようになった。

さらに紙の本は電子の本となって、
DVDにおさめていた動的情報を一体化できるようになった。

つまり紙の本からすれば、制約はかなり減ってきている。
これは喜ぶべきことなのか、
不幸なことがなくなってきた、といえるのだろうか。

電子書籍の機能を振るに活用すれば、紙の本では不可能だったことまで伝えられる。
けれど、それはオーディオについて語る上で、ほんとうにいいことなのだろうか。

オーディオ評論がある時期まで成り立っていたのは、紙の本しかなかったからだ。
視覚情報しか伝えられない紙の本で、いかにして聴覚情報の音を伝えていくか。
この制約があったからこそ、オーディオ評論は生れ、(ある時期までは)進歩していった。

附録をつけることに反対はしない。
ただ附録をつけることで、紙の本という制約から解放されると安易に考えないことだ。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(売れればいいのか)

附録をつければ、それで売上げが伸びるからこそ、
出版社はあれこれ附録をつけた雑誌を出すようになってしまっている。

出版界は厳しい状況にある、とよくいわれる。
そうだと思う。
だから、少しでも売上げが伸びるのであれば……、と思って附録をつける。

ステレオサウンド 197号の附録は、売上げにつながる附録とはいえないと私は思っているが、
私とは反対に、あの卓上カレンダーがついていたから買った、という人もいるであろう。

もしかしたらカレンダーによって、197号の売上げは伸びているのかもしれない。
けれど、読んでいる人はほんとうに増えているのだろうか。

本が売れればいい──、
そうやって附録をつけたりして売上げを伸ばしていく。
会社は利益をあげなければ継続していかないのだから、理解できないわけではない。

けれどそうやって伸びた売上げは、読まれることを増やしていることに必ずしもつながらない。
附録目当ての人は、附録が充実していればそれで満足する。

その7)に書いたように、
ステレオサウンドを毎号買ってはいるけれど、読んでいない、という人たちは確実にいる。

編集部としては、読まれていないステレオサウンドであっても一冊は一冊であり、
その一冊は毎号買われていくわけで、利益になっているわけだから、それでもいい──、
となるのだろうか。

何で読んだのかは忘れてしまったが、
ドイツ・グラモフォンのプロデューサーが、こんなことをいっていた。

いわゆる売れ筋の曲のカップリングに、マイナーな、あまり知られていない曲を選ぶのは、
あえてやっていることであり、我々(レコード制作者)は聴き手に認知させる、
いわば聴き手を教育するということが求められている──、
そんな趣旨のことを読んだことがある。

売れ筋の曲(録音)に、さらに売上げを伸ばすように、
同じくらい売れ筋の曲(録音)をカップリングすることだってできる。
目先の利益のみにとらわれているのであれば、そのほうがいい。

けれどレコード会社の使命というものがある。
そのことを承知している人たちは、あえてマイナーな曲をカップリングして、
その曲が少しでも世の中に広まっていくようにこころがけている。

出版社としての使命は……、どうなっているのだろうか。

Date: 12月 15th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その7)

その6)にコメントがあった。
コメントをくださったGravitychildさんは、私と同じだった。

カレンダーにつられて数年ぶりにステレオサウンドを購入しようと思い書店に行かれている。
けれど、カレンダーのチープさにがっかりされ、買わずに書店を後にされている。

まったく私と同じ人が、やはりいるんだ、と思いながら読んでいた。
Gravitychildさんと私、
ステレオサウンド 197号を買おうと思っていたのに買わなかった人が、ふたりはいるわけだ。
ということは、同じ人がもっといるとみていいだろう。

Gravitychildさんも私も、以前は熱心なステレオサウンドの愛読者だった。
けれどいつのころからか買わなくなってしまった。

私の周りにも買わなくなった人はいるし、
買ってはいるけれど、惰性で買っているんだけどほとんど読んでいない、という人も何人かいる。

買わなくなった人を、今回のカレンダーは買わせるきっかけだったはずだ。
けれど、編集部は何を考えてなのだろうか、あの程度のカレンダーをつけてしまった。

ステレオサウンド編集部の人たちは、あのカレンダーを組み立てて、
編集部内の自分の机の上に置いているのだろうか、
もしくは自宅に持ち帰り、自分のリスニングルームに飾っているのだろうか。

飾っていない・置いていないとしたら、
なぜその程度のカレンダーしかつけないのか、と問いたくなる。

飾っている・置いているとしたら、
ほんとうにあの程度のカレンダーで満足しているのか、と問いたくなる。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム
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附録について(その6)

雑誌が附録をつけるのは、売上げを伸ばすためである。
今回のステレオサウンドにしても、附録といえるような卓上カレンダーがついていたら、
私は買っていた。

附録につられて、講読をやめていたステレオサウンドを買っていたであろう。
けれどおまけ程度のカレンダーだったら、買わなかった。

こんなカレンダーをつけるくらいだったら……、と思い出したことがある。
これもずっと以前のステレオサウンドがやっていたことである。

私が毎号愉しみにしていたころのステレオサウンドには、
巻末にアンケートハガキが毎号ついていた。
毎回、びっしり書きこんで送っていた。

このアンケートハガキを返してきた読者に対して、
ステレオサウンドは発売間際になると、案内ハガキを送ってくれた。
発売になる号の表紙が印刷された、いわば絵ハガキである。

毎号、この案内ハガキが届いた。
時には、ステレオサウンド購入後に送られてくることもあった。
それでも、まだ10代の読者であった私は、これを楽しみにしていた。

ハガキ一枚であっても、嬉しい。
197号の、おそまつな卓上カレンダーよりも、あのころの案内ハガキのほうがよかったといえる。

いまではインターネットが普及しているから、新号の案内はウェブサイトでできる。
メールマガジンでもできる。
わざわざ、これらよりも経費のかかる案内ハガキを送る必要性はないという判断は、
会社経営としては間違っていないといえる。

でも間違っていないからといって、正しいわけでもないはずだ。
あのころのステレオサウンドを読んでいた私は、その嬉しさをいまも憶えている。
憶えているから、197号の卓上カレンダーによけいにがっかりした。

いまのステレオサウンド編集部には、そのころ読者だった人はいないのだろうか。

Date: 12月 14th, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その5)

ひさしぶりにステレオサウンドを購入しようと思っていた。
附録のカレンダーにつられて、である。

でも、ステレオサウンド 197号の目次をインターネットで確認すると、
「付録カレンダーの組み立て方」とある。
組み立てるカレンダーなのか、少しいやな予感がしていた。

書店に行き197号を手にした。
49号についていた卓上カレンダーのイメージで、197号を手にしたわけだが、
えっ、と思った。パラパラとページをめくっていくと、最後にカレンダーがついていた。

こういうことだったのか、とがっかりした。

49号の卓上カレンダーがどういうモノだったのかは、こまかなことは憶えていないが、
今回のようなモノではなかったことだけは確かだ。

安っぽさは、49号の附録であった卓上カレンダーにはなかった(はずだ)。
197号のカレンダーは附録なのだろうか、
おまけにしか思えなかった私は、買わずに書店を出た。

言葉の意味としては、附録もおまけも同じとしても、
言葉のニュアンスとして、微妙に違うところを感じる。

一年後の201号にも、卓上カレンダーの附録をつけてくるのだろうか。
それとも創刊50周年にむけての今回だけの附録(おまけ)だったのか。

もし201号にもつくのであれば、附録としての卓上カレンダーをつけてほしい。

Date: 12月 2nd, 2015
Cate: ジャーナリズム

附録について(その4)

その1)で、
以前のステレオサウンドにはカレンダーが附録としてついていたことを書いた。
またやってほしい、とも書いた。

あと一週間ほどで発売になるステレオサウンドの最新号には、カレンダーが附録となっているそうだ。

アンプやスピーカー、D/Aコンバーターといった附録よりも、
それにCDの附録よりも、私はこういう附録のほうが好ましいと思っている。

Date: 11月 27th, 2015
Cate: ジャーナリズム, 再生音

オーディオにおけるジャーナリズム(続・再生音とは……)

再生音とは……を徹底的に議論せずに、音を語るということは、
「群盲像を撫ず」に陥ってしまうのではないだろうか。