Archive for category 瀬川冬樹

Date: 12月 22nd, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 組合せ

妄想組合せの楽しみ(その21)

アルテックの604-8Gが来てから、あれこれ考えるのが楽しい。
エンクロージュアをどうするか、ネットワークは、あれを試してみたい、
それにユニットの取り付け方でも試してみたいことがあって、
時間が空くと、とにかく妄想をふくらませている。

パワーアンプについても、妄想している。
やはりいちどは真空管アンプで鳴らしてみたい、とも思っている。

604-8Gは、型番が示すように604Eまでの16Ω仕様から、
トランジスターアンプで鳴らすことを前提に8Ω仕様に変更されている。

最新のトランジスターアンプで鳴らすことも考えながら、真空管アンプまで自作しようかな、などと、
いったいいつ実現するのかわからないくらいに、妄想的計画は大きくなっていく。

出力管は何にしよう、と考えると、たしかにウェスターンの300Bに惹かれるものはあるが、
プッシュプルで20W弱。
604-8Gを鳴らすには、これでも十分といえるものの、最新のプログラムソースに対応するためには、
正直もうすこし出力の余裕がほしい、と思ってしまう。

トランジスターアンプも、真空管アンプにしても、
良質の大出力アンプのもつ余裕から生れる特有の魅力は、
オーディオにとって必然の条件ともいいたくなる。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その44)

バッファーアンプ用のモジュールLD2を抜きとれば、バッファーアンプなしの音が聴けるのであれば、
すぐにでも試してみるところだが、残念ながらそうはいかない。
バッファーアンプの有無により、どれだけ音が変化するのは、だから想像で語るしかない。

マークレビンソンのLNP2、JC2の音は、あきらかに硬水をイメージさせる。
ここが、ML7と大きく違うところでもある、と私は思っている。

パッファーアンプ仕様にするということは、LNP2を構成するLD2モジュールのもつ硬水的性格を、
より高めていくことになるのではなかろうか。
その意味では、単に音としての純度ではなく、LNP2としての純度、
マークレビンソンのアンプとしての純度を高めていくことでもあるように感じられる。

硬水をさらに硬水にすることで、細部に浸透させるミネラル分を濃くすることで、
音楽の細部の実体感を増し、音像のクリアネスを高めていくことにつながっていくようにも思う。

世田谷のリスニングルームに移られるまでは、音量を絞って聴くことの多かった瀬川先生にとって、
これらの音の変化は、大切なことであったのかもしれない。

Mark Levinsonというブランドの特異性(その43)

LNP2を構成するモジュールは、信号系に使われているLD2が、片チャンネルあたり3つ、
その他にVUメーター駆動用のモジュールの、両チャンネルで8つである。

モジュールが取付けられているプリント基板には、あと2つスペースがあり、
ここにコンデンサーマイクロフォン用のファントム電源用モジュールか、
LD2を、バッファーアンプとして、もう1組追加することができる。

瀬川先生は、何度か書かれたり語られているように、バッファーアンプつきのLNP2Lを愛用されていた。
理由は、音がいい、からである。
バッファーアンプを加えた場合、カートリッジからの信号は、計4つのLD2を通って出力されるわけだ。
信号経路を単純化して、音の純度を追求する方向とはいわば正反対の使い方にも関わらず、
瀬川先生は、このほうが、音楽の表現力の幅と深さが増してくる、と言われている。

ステレオサウンドに常備してあったLNP2Lも、このバッファーアンプ搭載仕様だった。

Date: 11月 7th, 2009
Cate: 瀬川冬樹

単なる偶然

1981年の11月7日は、土曜日だった。
今日、11月7日も、土曜日。

別に珍しいことではないことはわかっている。

今日、六本木の国際文化会館で行なわれた「新渡戸塾 公開シンポジウム」をきいてきた。
ここで、私のとなりに座っていた女性の方の名前が、瀬川さんだった。

「瀬川冬樹」はペンネームだから、瀬川先生とはまったく縁のない人とはわかっていても、
不思議な偶然があるものだ、と思った次第だ。

Date: 10月 16th, 2009
Cate: 川崎和男, 瀬川冬樹

スケッチ

今日から、Detour展が開催されている。
会場となるMoMA Design Storeには、建築家、映画監督、デザイナー、イラストレーター、
文筆家、音楽家らのノートブックが展示されている。
川崎先生のノートブックも展示されており、スケッチに間近で触れることができる(らしい)。

つまり、まだ行っていない。
夕方から人と会う約束があったからで、かわりというわけでもないのだが、
瀬川先生のスケッチとメモをいだたいてきた。

スケッチは、プリメインアンプを描かれていて、けっこうな枚数ある。
トレーシングペーパーに描かれているものもあり、昭和49年のものである。

メモは、ひとつは昭和39年に書かれたもので、はしり書きなので、正直かなり読みにくい。
スケッチや回路図も含まれている。
これを、瀬川先生は取って置かれたわけだ。だから、いま私に元にある。
読んでいくと、なぜなのかが感じられる。

そしてもうひとつのメモは、日付はどこにも書かれていないが、内容から判断するに、
1977年(昭和52年)ごろのものと思われる。

ステレオサウンドの原稿用紙に、横書き、はしり書き、箇条書きで、
メモというより、オーディオ誌はどうあるべきか、といった内容である。

私にとって、これらは宝である。

Date: 10月 13th, 2009
Cate: 境界線, 瀬川冬樹

境界線(その3)

「オーディオABC」に載っているオーディオ周波数の図は、
各音域の呼び方以外に、音の感じ方とその効果について、もふれられている。

重低音域は「鈍い 身体ぜんたいに圧迫感」、
重低音域と低音域の重なるところ、おおよそ40、50Hzのところはは「音というより風圧または振動に近い」、
低音域は「ブンブン、ウンウン唸る音、重い感じ」、
中低音域と重なるところ(160Hz前後)は「ボンボン、ドンドン腹にこたえるいわゆる低音」、
その上の音域、中低音域と中音域のところには「楽器や人の声の最も重要な基本音を含む」と
「カンカン、コンコン頭をたたかれる感じ」、
中音域と中高音域の重なるところ(2.5kHz近辺)は「キンキンと耳を刺す 最も耳につきやすい」、
高音域は「シンシン、シャンシャン浮き上るような軽い感じ」、
10数kHz以上の超高音域は「楽器のデリケートな性格を浮き彫りにする 音の感じにならない」とされている。

そして30Hz以下の音については「市販のオーディオ機器やふつうの放送、レコードでは再生されない」、
30Hzから160Hzぐらいは「ふくらみ、ゆたかさなどに影響」、
100Hzあたりから2.5kHzのわりとひろい帯域を「再生音全体の感じを支配する再生音の土台」とされ、
さらにこの音域の下の帯域は「力強さ、量感、暖かさなどに影響」、
上の方の帯域は「音が張り出す、またはひっこむなどの効果に影響」、
2.5kHzから10数kHzあたりの音域の、下の方の帯域は「はなやか、きらびやか、鋭い音」、
上の方の帯域は「繊細感、冷たさ」、
10数kHz以上の超高音域は「音がふわりとただようような雰囲気感」とされていて、
本文のなかで、各音域の呼び方よりも、各音域の音の効果のほうを重視してほしい、と書かれている。

Date: 9月 25th, 2009
Cate: 瀬川冬樹

瀬川冬樹を想う

月を見ていた。

8日もすれば満月になる月が、新宿駅のビルの上に浮んでいたのを、信号待ちをしていたとき、
ぼんやり眺めていた。まわりに星は見えず、月だけがあった。
そして想った。

昨年2月2日、瀬川先生の墓参のとき、位牌をみせていただいた。
戒名に「紫音」とはいっていた。

最初は「弧月」とはいっていた、ときいた。

だからというわけでもないが、ふと、あの月は、瀬川冬樹だと想った。

東京の夜は明るい。夜の闇は、表面的にはなくなってしまったかのようだ。
「闇」「暗」という文字には、「音」が含まれている。
だからというわけではないが、オーディオで音楽を聴くという行為、音と向き合う行為には、
どこか、暗闇に何かを求め、何かをさがし旅立つ感覚に通じるものがあるように思う。

どこかしら夜の闇にひとりで踏み出すようなところがあるといえないだろうか。
闇の中に、気配を感じとる行為にも似ているかもしれない。

完全な闇では、一歩を踏み出せない。
月明かりがあれば、踏み出せる。足をとめず歩いていける。
月が、往く道を、ほのかとはいえ照らしてくれれば、歩いていける。

夜の闇を歩いていく者には、昼間の太陽ではなく、月こそ頼りである。
夜の闇を歩かない者には、月は関係ない。

だから、あの月を、瀬川冬樹だと想った。
そして、ときに月は美しい。

Date: 9月 14th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その60)

量感というものは、あらためて考えてみると、ふしぎな面がある。

スピーカーならば、多少周波数特性のカーブと関係しているところがあるが、
それでも出しゃばった帯域において、量感が豊かというわけではない。

アンプやCDプレーヤーとなると、周波数特性的には、ほとんど差はない。
可聴帯域内は、いまやどんなローコストのアンプもフラットである。

低域の量感に富むアンプの周波数特性が、低域で盛り上がっていることはないし、
その逆の、量感に乏しいからといって、周波数特性のカーブに落ち込みがあるわけでもない。
にもかかわらず、量感の違いは、はっきりと聴きとれる。

スピーカーならば、エンクロージュアの響き(鳴り)が関係している、
アンプ関係ならば、電源の規模に関係している、という理由も、すべてではない。

電源部が充実しているアンプでも、マークレビンソンのML2Lのように、
引き締まった低域は、量感に富むという表現とは違う。
エネルギー感ともまた、量感は違うのだから。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: ショウ雑感, 瀬川冬樹

2008年ショウ雑感(その2・続×十五 補足)

いままで読んできたオーディオ評論のなかで、デザインに関して強烈に記憶に残っているのは、
ステレオサウンド 43号の、瀬川先生のトリオのコントロールアンプ、L07Cに対する記事だ。

43号では、L07Cについて、上杉先生、菅野先生も書かれているが、
デザインについてはひとことも触れられていない。

ひとり瀬川先生だけが、L07Cのデザインについて、「試作品かと思った」と書かれ、
「評価以前の論外」であり、さらに「目の前に置くだけで不愉快」とつづけられ、
あきらかに、ここからは瀬川先生の怒りが感じられる。

たしかに、中学2年だった私の目から見ても、試作品のような仕上りのように感じられたが、
なぜ、瀬川先生の怒りが、そこまでなのかについては、理解できなかった。

Date: 9月 9th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 瀬川冬樹氏のこと

瀬川冬樹氏のこと(その59)

低音の量感ということでは、ヨーロッパのほうが、アメリカよりも、
瀬川先生の求められていた、いい意味でのふくらみ、そして包みこまれるような量感は豊かであったし、
このことが、アナログプレーヤーにおいて、
フローティング型が、ヨーロッパから多くが登場したことにつながる気がする。

アナログディスク再生においてハウリングが発生していたら、
低音の量感を求めることはできない。
量感うんぬんは、ハウリングマージンが十分確保されていてこそ、の話だ。

ただトーレンスやリンのようなフローティング型プレーヤーは、日本家屋で、和室で使用する場合には、
床があまりしっかりしていないことと関係して、針飛びという問題が発生する。
あくまでフローティング型プレーヤーは、しっかりした床が条件として求められる。

そのせいか、1970年代、まだまだ和室で聴く人が多かったと思われる時代に、
フローティング型プレーヤーはなかなか受け入れられなかったのだろう、と考えている。

Date: 8月 31st, 2009
Cate: 境界線, 瀬川冬樹

境界線(その2)

人の声が中音域だとすれば、その上限は意外と低い値となる。

声楽の音域(基音=ファンダメンタル)は、バスがE〜c1(82.4〜261.6Hz)、
バリトンがG〜f1(97.9〜349.2Hz)、テノールはc〜g1(130.8〜391.9Hz)、
アルトはg〜d2(196.0〜587.3Hz)、メゾ・ソプラノはc’〜g2(261.6〜783.9Hz)、
ソプラノはg’〜c2(329.6〜1046.5Hz)と、約80Hzから1kHzちょっとまでの、ほぼ4オクターブ弱の範囲であり、
2ウェイ構成のスピーカーであれば、ウーファーの領域の音ということになる。

タンノイ、アルテックの同軸型ユニットのクロスオーバー周波数は、1kHzよりすこし上だから、
トゥイーター(ホーン型ユニット)が受け持つのは、人の声に関しては倍音(ハーモニクス)ということになり、
オーディオにおける高音域は、倍音領域ともいえるわけだ。

瀬川先生の区分けだと、人の声は、中低音域と中音域ということになり、
中高音域、高音域、超高音域と、「高」音域は、ほぼ倍音領域である。

瀬川先生の区分けは、音の感じ方を重視して、のものでもある。

Date: 8月 20th, 2009
Cate: ワイドレンジ, 瀬川冬樹

ワイドレンジ考(その46)

瀬川先生は、ヴァイタヴォックスCN191について、
「二台のスピーカーの置かれる壁面は少なくとも4・5メートル、できれば5メートル以上あって、左右の広がりが十分とれること」と、
「続コンポーネントのステレオのすすめ」のなか、22項で書かれている。

残念ながら、紙面の都合だろうが、その理由については書かれていないが、おそらくコーナーホーン型であること、
壁をホーンの延長として使うこと、そして実際に音を聴かれた経験から、そう書かれただろう。

「残念乍ら」は、1980年、81年の瀬川先生の文章に、なんども登場する。
与えられた枚数が、瀬川先生が書きたいと思われているもに対して少なすぎて、
十分な説明がかけないままのとき、「残念乍ら」を使われている。

当時、この「残念乍ら」の部分を、いつか読めるものだと思って、
毎号ステレオサウンドの発売日を楽しみに待っていた。

けれど、「残念乍ら」の部分を書かれることなく、亡くなられた。

どれだけの「残念乍ら」があったのだろうか。
もし、あの時代にインターネットが、いまの時代のように存在していたら、
ページ数という物理的な制約のせいで書けなかったことを、
ブログやウェブサイトで公開されていたかもしれない、そう思うのだが……。

Date: 8月 9th, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その21)

ステレオサウンドの60号の1年半前にも、スピーカーの試聴テストを行なっている。
54号(1980年3月発行)の特集は「いまいちばんいいスピーカーを選ぶ・最新の45機種テスト」で、
菅野沖彦、黒田恭一、瀬川冬樹の3氏が試聴、長島先生が測定を担当されている。
この記事の冒頭で、試聴テスター3氏による「スピーカーテストを振り返って」と題した座談会が行なわれている。

ここで、瀬川先生は、インターナショナルサウンドにつながる発言をされている。
     ※
海外のスピーカーはある時期までは、特性をとってもあまりよくない、ただ、音の聴き方のベテランが体験で仕上げた音の魅力で、海外のスピーカーをとる理由があるとされてきました。しかし現状は決してそうとばかかりは言えないでしょう。
私はこの正月にアメリカを回ってきまして、あるスピーカー設計のベテランから「アメリカでも数年前までは、スピーカーづくりは錬金術と同じだと言われていた。しかし今日では、アメリカにおいてもスピーカーはサイエンティフィックに、非常に細かな分析と計算と設計で、ある水準以上のスピーカーがつくれるようになってきた」と、彼ははっきり断言していました。
これはそのスピーカー設計者の発言にとどまらず、アメリカやヨーロッパの本当に力のあるメーカーは、ここ数年来、音はもちろんのこと物理特性も充分にコントロールする技術を本当の意味で身につけてきたという背景があると思う。そういう点からすると、いまや物理特性においてすらも、日本のスピーカーを上まわる海外製品が少なからず出てきているのではないかと思います。
かつては物理特性と聴感とはあまり関連がないと言われてきましたが、最近の新しい解析の方法によれば、かなりの部分まで物理特性で聴感のよしあしをコントロールできるところまできていると思うのです。
     ※
アメリカのベテランエンジニアがいうところの「数年前」とは、
どの程度、前のことなのかはっきりとはわからないが、10年前ということはまずないだろう、
長くて見積もって5年前、せいぜい2、3年前のことなのかもしれない。

Date: 8月 3rd, 2009
Cate: 瀬川冬樹, 現代スピーカー

現代スピーカー考(その20)

ステレオサウンド創刊15周年記念の60号の特集は、アメリカン・サウンドだった。
この号の取材の途中で瀬川先生は倒れられ、ふたたび入院された。
この号も手もとにないので、記憶に頼るしかないが、JBLの4345を評して、
「インターナショナルサウンド」という言葉を使われた。

残念なのは、この言葉の定義づけをする時間が瀬川先生には残されていなかったため、
このインターナショナルサウンドが、その後、使われたことはなかった(はずだ)。

インターナショナルサウンドという言葉は、すこし誤解をまねいたようで、
菅野先生も、瀬川先生の意図とは、すこし違うように受けとめられていたようで、
それに対して、病室でのインタビューで、瀬川先生は補足されていた。

「主観的要素がはいらず、物理特性の優秀なスピーカーシステムの、すぐれた音」──、
たしか、こう定義されていたと記憶している。

インターナショナルサウンド・イコール・現代スピーカー、と定義したい。

Date: 6月 17th, 2009
Cate: 4345, JBL, 瀬川冬樹

4345につながれていたのは(その2)

the Review (in the past) のための、この記事の入力をしながら思っていたのは、
この4343の組合せは、瀬川先生が目黒のマンションで、4345を鳴らされていた組合せと基本的に同じだということ。
その1に書いたように、4345を、アンプはアキュフェーズのC240とM100のペア、
アナログプレーヤーは、エクスクルーシヴP3。
4343にエレガントな雰囲気をもたせるための組合せが、そのままスケールアップして、
スピーカーもアンプも、それぞれのブランドの最新のモノになっている。

ステレオサウンドの50号台の後半あたから、瀬川先生の文章の中に、
「聴き惚れていた」ということばが、それまでよりも頻繁に出てくるような感じをもっている。

たとえばステレオサウンド 56号のトーレンス・リファレンスロジャースのPM510の記事。
それぞれに「ただぼかんと聴き惚れていた」「ぼんやり聴きふけってしまった」とるある。

手もとにはないからはっきりとは書けないが、アキュフェーズのM100の記事のなかにも、
同じことを書かれていたはずだ。